第80期 #31

真夜中の踊り場でキスをした

今まで君が、
あたしにくれた言葉は、本当は、
「全部、あの子に言いたかった言葉なんでしょう?」
スチールの残響。
3階と4階の間で、あたしと彼は対峙していた。

彼は何も言わない。
一瞬だけあたしを睨んで、
すぐに右斜め下に顔を背けた。
狼狽と、怒り。
それは彼が初めて見せた顔だった。
いつも、穏やかな表情で、
本当は、自分自身を一番守っている、彼が。
「あたしは君のことが…」
「ごめ」
上の方で、ドアの音がして、
あたしの言葉も、彼の言葉も、遮られた。
仰ぎ見る。
足音は遠ざかる。
ほっとして肩を落とすと、
彼のため息が聞こえた。
あぁ、
君と同じ動作をしたことが嬉しい。
ささいなことなのに。
もう、叶う季節は過ぎてしまったのに。

「あたしのスケッチなんて、本当は見たくなかったんでしょう」
「……」
「あの子は絵、上手いもんね」
あたしはクロッキー帳をそっとなでた。
彼はあたしを睨んだ。
「コンサートだって」
チケットを渡したのはあたしなのに、
「来てくれたの、あの子のソロの日だったよね」
彼は睨んでいた。
そうやって、そうやって、
いつも本音を見せてくれればいいのに。
時々見せる影が大好きで、
どうしようもなくその君が知りたくて、
その存在になりたかったけど、
あたしじゃないらしい。
でもどうして、
未だにこんなに、
愛おしすぎて、胸が詰まって苦しくて、息が出来なくて、
クロッキー帳を胸に抱えた。

「ごめん」
右斜め下の暗闇に向かってつぶやいた後、彼はあたしを真っ直ぐに見た。
あたしはクロッキー帳をゆっくり下ろした。
「俺は、君とは、付き合えない」
クロッキー帳を下ろし終わって、
右手は軽く震えていた。

「もう、来ないでくれるかな」
その、優しい語尾に、
それがあたしのためではないと分かっていても、
あたしは泣いてしまいそうだった。
ゆるく舌をかんで、右手にある窓の外を覗いた。
タワーマンションのシルエットと、幹線道路の柔らかい街灯。
彼が階段を上る。
目も合わさない。
いや、
あたしがいないかのようだ。

彼が横を通るとき、
ぐ、とその右腕をつかんだ。
柔らかな衣服。
引き締まった身体。
あたたかな匂い。
眠りたくなるような。
その腕の中で。
でもそれは叶わない。
それはあたしではないのだ。

さよなら、
と心の中でぶつけて、
あたしは彼にキスをした。
驚く彼を突き放して、あたしは階段を駆け下りた。
真夜中の非常階段に、足音が静かに響いた。




あたしの4年間が終わった。



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