第80期 #33

夢見たい

雨が降っている。4月と言うのに冷たい雨が圧から降り出した。駅への道はさほど遠くないのに今日は気持ちが滅入っている。昨日から胸の奥に詰まってしまった様に、少しも落ち着かない。こんな気持ちがもう何ヶ月も続いている。新しいスーツを着たサラリーマンが擦れ違う。僕ときたら何年前に買ったかわからないスーツを着込んでいる。もともと洒落にもならない格好って思っているのだから相手も敬遠すると感じるのにどうしたいのだろうと感じる。

突然肩を叩かれた。
「定男じゃない」と後ろから声がする。
「えっ」と振り向いた私は一瞬で暗くなった。
早芝一獄がそこに立っていた。早芝は、こちらの雰囲気を察したのか「なにビックリしているの」と言った。
僕の不運。
「スーツに合ってるねぇ」とにやついて定男を引き止めた。
「まあね」曖昧に答えて「急いでるんで悪いな」と歩き出した。
と同時に右腕を引っ張られた。早芝が右手で引き止める。これはヤバイかも。
「なに」ととっさに声が出た。
「ちょっと待てよ。定男面接するのか」と早芝が訊く。勘のいい奴。「まあ、そんなところ」とまた曖昧に答える。時計を見ると電車の時間が迫っていた。後悔先に立たず。あと数分早かったら、あと数分遅かったら会わなかった。
「へぇ、カタギになったつもりかよ」右腕は話さないで早芝は不満そうに定男に言う。
「俺は、初めからカタギでいるつもりさ」右手を払おうと腕を動かしたけど離れない。
「はぁ、なに言ってるの」早芝一獄は声を荒立てた。
「今更、カタギになれやしないじゃない。ねぇサ・ダ・オ・く・ん」挑発してきた。昔から早芝一獄の言葉は挑発的なんだ。
「そんな言い方止めてくれないか。僕は昔とは違うんだからからかわないでくれ。」早芝の顔が少し歪んでいく。
何言っているんだ僕。マズイかな。息苦しくなった。
早芝は「迷惑か」ってまっすぐ見た。黙って頷く。
僕の顔が紅潮していくのが解った。気まずい沈黙が続き。もう無理だ。何か言おうと思ったが言葉にならない。

早芝の右手が力なく僕の手を離した。僕の右腕は自由になった。
「頑張れよ」早芝一獄は言う。左手をゆっくりと揚げる。唖然とした。
だけど、僕はそんな早芝を見ずに駅へ走り出した。電車がゆっくりホームに入ってきた。僕の心臓は飛び出しそうだった。
なぜか悔しかった。なぜか寂しかった。なぜか涙が出てきた。


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