第80期 #28

先生が生きている

 語り部はニュートラルであるべきだ、と教えてくれたのは先生だ。
 個性や思想なんて必要ない。誇張せず、矮小化もせず、ただ状況をありのままに描写できればいい。

 もともと高齢だった先生は、十年がたち更に年を取った。先生にとっての十年は、これまで経てきた時間からすればそうたいしたものではないが、これから先に残された時間のことを考えると、とてつもなく貴重だ。

 その十年で、先生は万引きを覚えた。
 これまでの達成がすべてフイになってしまう、と僕は何度も止めたが、先生は聞く耳を持たなかった。
 絶対に捕まることはない、との言葉どおり、先生は十年間やりぬいた。初めのうちは、醤油のパックだとか、牛脂だとか、そんなもので慣らした。それから駄菓子の類になり、スパイスの小瓶になって、少しずつ値段とサイズを上げていき、十年目の最後に盗ったのは小さなウィスキーのボトルだった。酒も飲めないのにそんなものを盗み、まるでトロフィーみたいに部屋に飾っている。
 万引きも小説もコツは同じだ、と先生は言った。すなわち、ニュートラルであるべし。

「書きますよ」
 僕もそろそろ何かを書きたかった。それが何なのかは十年かかっても分からなかったけど、先生のことなら、少なくとも何かは書けるんじゃないかと思った。
「好きにしてくれ、死んでからな」
 先生は、死後のことなどまったく興味がないらしい。死んでしまえば百年だって一万年だってあっという間に過ぎるんだ、と先生は言った。人類なんてすぐに滅びる。評価する人間のいない世界で、評価なんて気にしたところで何の意味もない。
 僕はまだそこまでは割り切れない。だから万引きなんてしない。いや、割り切れたって、しないとは思うけど。

 先生はまた小説を書き始めた。万引きの経験はいっさい生かさないらしい。それは何かの糧にすべき経験ではなく、ただの汚点であるべきだから、だそうだ。

 先生は死ぬのが怖いという。時間に守られなくなってしまうのが。永遠の枠組みに放り込まれてしまうのが。だから死後の世の中なんてどうだっていいし、それを気にかけることができれば、もっとまともに死と向き合えるかもしれない、と残念がった。
 これからの十年が先生にあるのかどうかは分からない。けど先生は死から目を背け、しっかりと生きて、小説を書いている。もう万引きはする気配もない。

 先生が生きている。生きて書いている。僕はまだ書けずにいる。



Copyright © 2009 川島ケイ / 編集: 短編