第77期 #26

 卒業論文に使いたい資料が近場の図書館にはないので、国会図書館に通うようになって二週間が経った。
 通勤ラッシュも後半で、中央線ではすぐに座れた。文庫本を読みながら揺られていると、視線に気づいて顔を上げた。一目見てダウン症とわかる少年が目の前に立って俺を見ていた。そんなに弱者面するなよ、俺と違って徹夜明けじゃないんだろう。俺はまた本に視線を落とした。隣に座っていた女性が非難がましい視線をこちらに送って少年に席を譲った。
 半蔵門線では座れなかった。暗いガラス窓に映った自分の顔がひどくやつれていて、憂鬱な気分になった。おまけに四方からポマードの臭いが容赦なく襲ってくる。下を向けば脂ぎった禿頭。目のやり場に困っていると創価学会絡みの中刷り広告が目に入ったので、どこかの外人と握手する会長さんを睨みつけてみた。せいぜい俺にできる抗議はこれくらいだ。反対側の広告は青年誌のグラビアアイドルだった。そちらを見ていたら首が痛くなったので正面を向くと、やはり疲れた顔の俺がいた。
 駅を出て信号を待っていると、自民党会館から黒塗りの高級車が出てきた。子供の頃大事にしていたカブトムシくらい光を弾いていた。後部座席にカーテンをしたカブトムシ高級車は、国会議事堂の方に消えた。この距離で高級車を使うのか。まあ徒歩で襲われたら大変だから仕方ない。だが公明党と連立している自民党は許せないので、二台目のカブトムシを睨みつけてみた。せいぜい俺にできる抗議は……。気が滅入ってきたので、踵を返して青山通りの方へ向かい、マクドナルドに入った。
 店員は耳障りな片言で注文を聞いてきた。韓国人だった。思わず顔を顰めた。差別。人格に欠陥。別に構わない。在日特権は許せないし嫌いなものは嫌いだ。と胸の中で問答しながら階段を登り、喫煙席で煙草に火をつけた。JRが四月からホーム全面禁煙にするらしい。冗談じゃない。
 一服しても席を立たず、文庫本を開いた。午後まで本を読んでいようと思った。
 論文はどうする。まだ一月あるよ。とまた自問自答。
 小説の筋が頭に入っていなかった。ページを逆に繰る。今朝読み始めた文庫本は、丁度真ん中のページを開いていた。
 帰りに読むものがなくなってしまう。そう心で呟いて、席を立った。
 抜けるような青空は徹夜明けには眩しすぎて、舌打ちを漏らした。理由をうまく言えないが、何よりも自分という男が心底腹立たしかった。



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