第77期 #25
左頬が熱を帯びている。確かに痛い筈なのだが、今の僕にとっては快楽でしかない。彼が僕を睨みつける。「気は済みましたか?」そう僕は尋ねたが、彼は何も言わなかった。一応確認しておこうと思って発言したのだが、愚問だったようだ。彼は明らかに戸惑っている。何が起こっているのか、自分が何をしたのかが理解できていない筈だ。
僕は彼に歩み寄りながら言葉を続ける。「僕はこうなる事はわかっていました。ここで君に殴られる事までも。僕はこの道を自ら選んだんだよ。もちろん後悔していない」それは予め僕に用意されていた台詞だった。彼の表情が更に歪む。「分からない」小さな言葉だったが僕にははっきりと聞き取る事ができた。彼の目には涙が溜まっている。理由のわからない涙が。「すぐに分かる」努めて明るい表情で言ってはみたものの、その行動は彼を更に不安にさせた。
お互いの身体が震えていた。僕は一旦落ち着こうと煙草を一本取り出だし咥える。火を点けながらも流し目で彼を観察し続けた。横に大きな身体、長く黒い髪、強く鋭い瞳、すべてが僕の持っていない物だ。正直羨ましかった。僕も泣きたくなったが必死に堪える。僕は火の点かなかった煙草を灰皿に捻じ込んだ。彼は動かない。
「これだけは君に伝えておこうかな。僕は明日、デートの約束があるんです。デートと言っても僕の部屋に彼女が来るだけですが。僕は水族館にでも行こうって言ったんだけどね、彼女がいつもと一緒で良いってさ。僕はそれに従った。結局そんなもんなんだよ。人生なんてものは」僕は格好をつけて言った。彼は瞬きすらしない。
兎にも角にも、僕の仕事はこれで終わった。僕はその場に座し、もう一度煙草に火を点けようと試みるが、やはり煙草は湿気ってしまっていた。煙草はすべて投げ捨てた。
季節は夏。空は一面灰色に染まっていた。雨が強さを増す。両脇のビルは今にも朽ち果てそうだ。何度も夢に見た景色。遠くで響く電車の音も懐かしく感じる。臀部が冷えてきたが気にしないでいいだろう。僕は彼女の事を思った。今思えば、彼女はすべてを悟っていたのかもしれない。昨日も変わらぬ様子ではあったが、それもきっと彼女の強がりだったのだろう。いや、彼女は本当に強いのだ。彼女は悲しみ、泣くのだろうか。誰かに縋りつく事があるのだろうか。
僕は静かに涙を流す。彼の手には、いつの間にかナイフが握られていた。