第76期 #16

押入れの独楽

うかりける 人を初瀬の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを


 百人一首の歌である。好きな相手に「こっちむけ!」と初瀬観音に祈ったのに、まさか初瀬の山嵐のようにもっと激しく嫌われるなんて……という意味である、と鳥飼は解釈している。

 鳥飼は子供のころ、ボーイスカウトの正月合宿で百人一首をやらされた。この歌が嫌いであった。周りのみんなが、この首をウカハゲとよぶからである。

ウカとくればハゲ!
ウカイのハゲ!

 鳥飼は顔を蛸にして怒ったので、ウカといえばタコ、ウカタコ! とあだ名までついてしまった。その結果ウカリケルでタコを探す混乱が生れたのも今は昔である。

 会社の昼休みに公園で弁当をつかいながら、鳥飼はときどきウカハゲの歌を心で詠んでみることがある。のみならず、百人一首そのものが今は好きであった。

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 
衣かたしきひとりかもねむ

「虫が鳴く寒い夜に着物に片袖を通してひとりかあ、と思った」という歌など、鳥飼はなんとなくいいなあと思うのである。

鳥飼は年始を独りで迎え、仕事が始まると次の三連休を待つことがせいぜいの楽しみと期待であった。休みには日本民藝館に行こうと一人計画をたてた。こういう時間が好きであった。

 連休を迎え、手帳通りに渋谷の喫茶「猿」へ寄る。この薄暗がりの店に昔の思い出がある。いつもの珈琲を飲んでいたら、隣に芸能人らしい男が座った。詳しく名前を知らないが「ラーメンひやむぎボクいけめん」というキメ台詞を使う芸能人であるらしい。深刻に「ラーメン…」と呟いていた。病人のようであった。鳥飼は自分の肘や膝を眺め(ぼくGメンは?)と書いて手帳を破ったが渡しそびれて店をでて、駒場へ歩いた。

 計画は裏切られるものである。鳥飼はそのまま民藝館によるつもりが、つい近代文学館にふらふらと向かった。このひきしまった建物がみたくなって、引き寄せられたのだ。庭の玉砂利を子供のように手でその感触を楽しんでいると、驚いた声で呼び止められた。

「あ鳥飼さん? どうしてこんな所に」
「ええまあ」
「しかも石触って何してんですか」
「いやまあ」
「文学好きなんですか」

 突然の、後輩の女子を前にして鳥飼は覚束なかった。僕は文学そのものになりたかった……と鳥飼は思ったが彼氏が待っているらしい彼女はお辞儀をして足早に行ってしまった。

 鳥飼はこんなとき、亡き妻のことをどういうわけか思い出すのである。



Copyright © 2009 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編