第76期 #15
戸が開くと、ひらかれた田圃の先に見える山のふもとに、発生している白く濁った霧が中腹からの上部を覆い隠しそのまま灰色の空に溶けつながっていた。空は重く塗られ、風の音ひとつ男の耳には入ってこない。濃い霧があたりを浮遊しながら、ものを見えにくくしている、男は思いながら、歩みを進めていく。
どこになにがあるのかさえ男にははっきりとせず、道路わきに生える雑草に目をやると束ねた髪のような細い草先がうっすらと白くぼやけて、男の持っている青々としたイメージは半透明のビニールがかぶさったように曖昧になる。早朝人通りのないまっすぐに伸びた道路の、その幅が一点に収束していくであろう風景の先は男には見えない。記憶を頼りにしていけば、霧の奥に連なっていく民家や十字路や信号機が一瞬現れもするのだが、いまやその日常のなかで出来あがった地図さえも朧にもろく端のほうからかすみ、次ぎ次ぎに崩れはじめている。
犬の鳴き声が聞こえた。
取りまく霧を貫くような声は不自然に生々しく、男は一息をついて辺りを神妙な顔つきで眺めたものの現前するぼやけた風景と霧以外にはなにもみつからなかった。霧は濃く、犬の、鳴き声を発した地点は分厚い霧に隠れて判別がつかない。それでも名も知らない犬が外部から一足飛びに駆け寄ってきたような印象が男にはあった。
いくら歩いてもいっこうに晴れることのない霧を、しだいに男は興味深く思い、その霧を注視しようと努めていた。空中に溶けた白は、待っていても純粋な色を男に与えず、薄まって見える屋根のペンキやコンクリートに混じっており、男は首をかしげる。ふと、振りかえった男はそれまで歩いてきた道がすでに、数秒前の固いアスファルトとはちがったやわらかい色を発していることに気がついた。
四方から強く押さえつけられているように感じた霧は、歩くたびすこし前方に晴れてはまた後方に立ち込めるのだろうと男は納得し、もしかするとこのまま歩いていれば霧のなか誰かと出くわすのではないかという期待の感覚が虚しさで詰まった身体に溜まりはじめる。
「おうい」男は誰に向かって言うともなく言葉を投げかけてみる。
声はまたたく間に霧に吸い取られ、しばらくの後、音のない霧の向こうから呼応するように犬の鳴き声が周囲を裂きながら響いてきた。男は身体に霧をまとっているような気持がして、思わず走り出し、足音と共に深い霧のなかに紛れ込んでいった。