第76期 #1
「テレビが壊れた」
同僚の友人が笑顔で自分の頭を指差しながら彼にそう呟いて、翌日蝶のように姿を消した。
遊星が大地に挨拶を交わして光り輝く三日前。
彼は会社の近所の踏切の前に立っていた。
人の心はどす黒いのに、夕刻の鳥はみなに名残惜しく別れを告げて飛び立ち、空と建物は穏やかな黄昏色で染まっている。
人の生気のない閑散とした平和を謳歌している踏切。内と外を境界線で切り結ぶその外側で、男はズボンにあるポケットの中の希望をまさぐった。
ポケットの中にあったのは、五十円玉硬貨一枚。
彼はその銀色を見つめると、真ん中にある秘密の穴から世界を覗き見た。
胸に抱いた一抹の希望は完全に砕け散り、泡沫となって飛散すると、視界がぐりんと暗く歪む。
彼には鮮明に見えた。闇の帳に隠された、世にも恐ろしく醜い真実の世界が。
絶望が、壊れたリモコンをこちらに向けて、しつこくボタンを何度も押しながら「やあ、こんにちは」と醜悪に笑う。
カンカンカン――。
警報機が叫んで、黒と黄色の遮断かんが泣きながら男の行く手を遮った。
彼は遮断かんの感触を手のひらで愛でるように撫でて味わうと、素早く下に潜って、未来に向けて足を踏み出した。
「人生は糞だ」
線路の中央で、生涯最高の台詞を過去と一緒に吐き捨てる。
手の中で握り締めていた銀色の希望を、天高く投げ捨てた。
そして五秒ほどしたのち、高速で動く鉄の塊が脆い命を横殴りにして、光よりも速く、彼を未来へと導いた。
遡ること、僅か一秒前。
彼の脳内の電気信号が止まる、その直前。
対面の遮断かんの向こう側に、黒い羊が立っているのが視野に入った。
渦巻く漆黒の鎧を身に纏い、突如として現れたその羊は、微動だにせずそこに立ち尽くし彼を凝視していた。
そして、彼は見た。
黒い羊のその眼を。
青黒く濁った瞳の奥にある、絶望と、全ての真理を。
人の死の意味と、それに呼応する何か。生命の終わりの真実を知っても、それは誰にも話すことが出来ない。人がそれを知ることは、永遠にない。
満足感と後悔の中で、彼は友人を思い出した。秘められた恐怖と狂気を共有出来た。友人も同じものを見たはずだと、彼は感じた。
一瞬にして長大な体感時間に、まどろみながら漂った。しかしこの世界に、永遠は存在しない。
黒い羊の深く澱んだ宇宙は、彼の恐怖に歪んだ魂を捉えると、そのままぐにゃりと引きずり込んだ。