第74期 #3
マッチ箱より少し大きい象が瞼の下を逆さに歩いていった。それは日の入り直後のうす明るい暗闇の中で僕は疲労困憊して幻を見た。二次関数を「より速く」解くことに僕が意味を見出すはずもなく、何よりも徒労な受験勉強に没頭するのもある意味才能だった。何もしていないのが嫌いだった。何もしていないと死にたくなる。何の意味もない作業より、充実したやりがいのある仕事のほうが比較的いいけれどもそれよりも大切なことは、大変だってことだった。それ以外は割とどうでもいいんだ、どうでもいいんだよ。と象に言うと、象がつぶらな瞳でで語ることは、「そろそろ夕御飯が食べたいわ。」というようなことで、やはり無言のまま、彼女は左睫毛の茂みに消えていった。
「僕が生きていくのは君ほど簡単じゃないんだ。泳ぐのをやめると死んでしまう魚みたいなものなんだ。」と言おうとしたけれど、僕はタイミングを逃した。
僕らの自習室には僕の他にもう一人緑色のロングコートを羽織った女の子が残っていて、僕は彼女が廊下で一人でスキップしているのを見たことがあった。それで僕は少し彼女のことが好きになった。あれは春だったか、窓の外は新緑であふれていた。
「西堀はまだ帰らないの?」
「うん…まだ、もう少し。西村さんは?」
「お腹減ったから帰る。西堀もお腹減らないの?」
「僕もお腹減ってるけど、お腹が減った状態を維持するのが嫌いじゃないからもう少し我慢するよ。」と言いたかったけど変だからやめた。
「ダイエット中なんだよ」
「いやみだったらコロス」
「いやみじゃない」
彼女は帰って行き、僕はひとり残される。単純作業が僕を死への渇望から救ってくれるはずなのにさっきからうまく集中できない。左睫毛の茂みをさっきから象が鼻でつかみ寄せては食い、寄せては食い。している。「おなか一杯になると死にたくなるよね、何もしたくなくなるからね。」
彼女の忘れていった社会科の参考書にはこの目が可愛い象が載っている。アフリカゾウだった。一時は乱獲により絶滅が心配されていたが、保護活動の成功で現在では個体数が増加しているのである。