第73期 #3
「キミ、前世は犬だったんじゃない?」
俺がそう言うと、ミクは顔を上げ「じゃあポチって呼んでいいよ」と言った。そこで会話が止まってしまったので、俺は困った。
「キミの目の前にある、それはなんだい?」
俺が問うと、ミクは依然変わらぬ仕草をしながら「マサラチャイ」と言った。
「で、キミは今なにしてる?」
ミクは俺を見た。なぜわざわざそんなことを聞くのか、といった顔だ。「匂いを嗅いでる」ミクはそう言うと、また、マサラチャイの匂いを嗅いだ。俺は
「だから犬だったんじゃないかって言ったんだ」
と言った。ミクは顔を上げてニマっと笑うと
「だから、ポチって呼んでいいって言ったんっだってば」
と言った。
ミクは何でも匂いを嗅ぐ。道端の草、季節の風、喫茶店の紅茶。俺が個人塾で教師をしていたとき、テストを終えて答案用紙を回収していくと、彼女は言った。
「ねえ、うちとおんなじシャンプー使ってるでしょ」
俺は、意味が解らず、はあ?と聞き返した。ミクはクンクンと俺を匂いながら
「若い男の人が、そんな匂い…ねえ」
ふううん、と納得しながらビシっと俺を指差し
「同棲中の彼女がいる」
と言った。冷や汗をかいた。確かに、俺は同棲していた。
「なんであのとき解った?シャンプーの匂いで、俺が同棲してるって」
喫茶店を出ながら、俺はミクに尋ねた。
「香水の匂いもしたもん。それから、除光液の匂い。朝ご飯の目玉焼き、観葉植物」
俺の問いにミクは答え、フンフン、と空に向かって鼻をひくつかせている。俺は黙って歩き出した。ミクは俺の匂いを嗅ぎながら、スキップで着いてくる。
「先生、駅前のデパートの匂いがする」
ミクはそう言って先回りをし、両手でとおせんぼをする。あっという間にカバンを奪われる。
「おい、コラ!!」
俺が止めるのも構わず、ミクはデパートの包みを解いた。そして息を飲み「ごめんなさい」と言った。
ミクの手からそれを受け取った。婚約指輪だった。俺は、今日同棲中の彼女に、婚約を申し込む。
「ミク…お前のいちばん好きな匂い、なに?」
俺は話題を変えようと笑って聞いた。
「先生の匂い」
ミクは満面の笑みで答えた。
「同棲中の先生の彼女が作った、先生の匂い!!」
ミクはそのまま脇をすり抜けて走った。俺は振り返って叫んだ。
「ミク!!」
ミクは振り向いて、手をメガホンのようにすると、叫んだ。
「しあわせにねっっ!それから、そら、あめのにおい!」
ミクは走り去った。
ポツン。雨が降ってきた。