第73期 #4

気がかりなこと

 ぼくは自殺をするためにビルの屋上へのぼった。屋上の錆ついた扉を開けると空が青かった。なぜかビキニ姿の女が屋上で日光浴をしている。女はぼくに気付くと体を起こして、サングラスを外した。
「あなた自殺するの?」
「まあね」
「あいにくだけど、自殺を止めるのがわたしの仕事なの」
「仕事? ぼくには関係ないね」
 ぼくは女にかまわずビルの屋上から飛び降りた…。
 それからしばらくの間、ぼくはクラゲのようにどこかを漂っていたような気がする。でもふいに風を感じて目を覚ますと、そこには白い砂浜と青い海が広がっていた…。
「残念だったわね」
 さっき屋上にいたビキニの女が、砂浜に寝そべってぼくを見ていた。
「こっちに来て、一緒にビールでも飲まない?」

 ぼくは女と結婚して浜辺に小さなホテルを建てた。週末や夏休みになると客で賑わった。ある年、客も少なくなったシーズンの終わりに一組の老夫婦がホテルに訪れた。夕食後、老紳士から酒に付き合ってくれないかと誘われた。ぼくはいいですよと答え、老紳士を浜辺の見えるテラスに案内した。
 老紳士とぼくはウイスキーを飲みながらありふれた世間話をした。それからだいぶ酔いがまわってきたところで、老紳士がある話を切り出した。
「実はね、知ってるんだよ。私も君と同じなんだ。つまり失敗したのさ。自殺を」
 ぼくは耳を疑ったが老紳士はかまわず話を続けた。
「私の妻はあの時の女さ。あのビキニ姿の。まさかこんなことがあるとは夢にも思わなかったよ。君もそう思っただろう? あれはいい女さ…。実はね、世間には君や私の同類がたくさんいる。でもお互い相手に気付いても声を掛けることはほとんどない。みんな過去を思い出したくないんだね。本当は私も、君にこんな話をするつもりはなかったんだが…、歳をとったせいかな、つい話したくなったんだよ」
 老紳士はしばらく黙り込んで遠く眺めていた。ぼくには彼が、泣いているように見えた。
「私と妻の間には娘が一人いてね。妻に似たかわいい子だったんだが…、大学生のとき、夜道で男にレイプされて、そのあとノイローゼになって自殺してしまったんだ…。私はいつも考えるんだがね…、娘も君や私と同じように、白い砂浜でいい相手と出会えたんだろうか? そのことが気がかりでならないよ…」



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