第71期 #10
青年が電子オルガンを運びながら(それはひきずっているようにもみえた)、路地を歩いている。すれちがった住民は「なにゆえにオルガン?」と少し疑問をもつ。声はかけないが、皆が一度青年を振り返る。
長屋から「いってきまうす!」と飛び出した子供が、青年をみて「あ、拾い乞食!」と悪びれない様子ではっきりと言った。不審に思っていた住人達にも子供の声が聞こえると納得することがあったのか、何も見なかったかのように足早に姿を消した。
入り組んだ小路から大通りへ出た青年は、ひたすらオルガンを運びながら、駅へと向う。ちょうど夕暮れどきで、帰宅中の何人かが青年をみるけれども、路地裏の人達のようには関心をもたないようだった。
さて青年は何をしたかったのでしょうか?
と作者の俺はこう書いて終わらせたい衝動に駆られる。この話を読んでくれている諸君には大変申し訳ない。「つまらんものを読まされたわやい」と憤られるかもしれない。俺もこの青年は何なんだわやい? と思ってる。俺は乞食ではないつもりだしさ。
しかし、諸君や俺の思惑とは別に、駅へ着いた青年が、コードを差しこんで思いのままに即興演奏をはじめたとき、黒く塗りつぶされていた青年の表情に赤みがさして、音を通して、彼と世界がはじめて握手したかのような強いグルーヴ感が醸し出されていた。俺、これは悪くないと思うんだよ。
ちらほらと集まってくる通行人の中には一匹の猿がいて、俺がみつめると、この想像の猿は、まるで俺の方が猿の創造した生き物なんだよ、とでもいわんばかりにニヤリと視線をぶつけてくる。
青年に目を向けると、なんと群衆の一人が、おもむろに靴をぬぎ、素足で踊りはじめていた。それは諸君、とても足が、締まっている、指先の一本一本が、それぞれ床のあちらこちらを感じとっているかのように鋭敏な足の持ち主の、女だった。気持ち良さそうにのっていた。
いつのまにか猿が横にいた。猿のやつ、べっぴんさんと腕を組んで、コーヒーをすすっている。
「このコーヒー半分凍ってるわ」
「だめかい」
「冷たくて、おいしい」
「そうかい」
猿とお嬢さんは楽しそうに会話し、青年の手と踊り子の足はビートを刻んでいる。なんだか実に、妬ましい!
と思った途端「そうだ、洋子が待っている」と我にかえった。青年やダンサーや猿やお嬢さん、それに空想の諸君に一礼して、失礼する!
……だが、洋子はその日帰ってこなかった。