第71期 #9

夏の日

 二年かそこらぶりに帰省した。
 私の実家はかつて森だったくさい小高い丘の中に立っていて周囲には未だに緑が多い。夏っぽい抜けるような青さを持った緑じゃなくて、ぬるっとした湿度を年中保持し続ける仄暗い緑。たぶん空から眺めれば木々が民家を呑むようにして茂ってる様が観えるだろう。そういう立地だから久方ぶりに見る私の生家はあちこちひどく痛んでいた。
 二年で色々なことが変わっていた。右隣の家ではご主人が交通事故で死んだらしい。左隣の家の奥さんは更年期障害で物凄く疑りぶかい人格になっていて、おまけに娘さんは統合失調症になっているとか聞いた。どちらも伝聞。確かめる気はない。あと物置にしまっといた本がもう読めないくらい湿気っていて地味にショックだった。
 緑が増えている気がする。
 丘の家の多くが庭の木々を刈り取ることをやめていた。私がいたときには、なかったことだ。
 
 じかに日差しが差し込む昼はとうてい家に居れたものじゃないので、近くの図書館に本を読みにいく。
 図書館はそこそこ冷房が効いてて涼しかったけど、毎日見かける妙に小さなおじさん(たぶん障害)がしょっちゅう鼻をすすっているのが気になる。それを除けばほぼ快適。日が暮れてから家に帰る。自転車のチェーンがひどく緩んでいる。点検しないと危ないかもしれない。

 帰るとき気付いたのだけど、坂の下のお家が飼ってた矢鱈吠える犬が、いなくなっていた。
 食事時に母親に「あの犬どうしたの」と聞いた。母の話によると、あまりに吠えすぎて近所迷惑になるとかで、犬は車庫に閉じ込められたらしい。この二年間一度も、犬が車庫から出てる所を母は見たことがないと言う。かわりに声は聞こえた。母が近くを通りかかるたび、シャッターの中で犬は吠え続けた。あるとき庭木に水をやっていた家の奥さんが「すみませんねぇ、私も困ってるんです。ちゃんと出しませんから」と済まなさそうに言い訳したとか。私はその場面を想像した。けたたましい犬の吠え声と、家の奥さんのヌルい笑みとのギャップに、少しぞっとした。
 私が帰る二週間前くらいから、ぱったりと犬は吠えなくなったらしい。
 多分死んだのだろうと母は言った。

 もうすぐこの家を手放して母は丘を離れる。それがいいと私は思った。ただ三代住んでいた家を手放すのは割と重いことで、親族にいろいろ言われているらしい。
 その許しを請いに、お盆には祖父の墓を参りに行く。



Copyright © 2008 サカヅキイヅミ / 編集: 短編