第70期 #3

恋の花

最初は苦手な人、としか印象がなかった。
百合子は新宿のラブホテルでフロントをしている。系列店がすぐ近くにある。
早番の仕事に慣れ、仕事にもやりがいを感じ始めた頃、遅番の異動辞令が来た。
30歳とはいえ、独身の百合子は遅番への異動をためらった。体力的にも酔っ払い相手にもどうなのか不安だった。
系列店の遅番のフロントは、古株男性社員だが、これもまたくせ者だ。皆がつけてる陰のニックネームは「独裁者・細谷」。
百合子より2つ年上だが、更にずっと年上の40代50代の清掃員にすら細谷はキツい発言をする。何々をする!あれをする!言われたことはさっさとやる!…といった言い方で、それを真面目に仕事をしている者にまでキツい口調を変えず、一事が万事、俺様流といったイメージだ。細谷にとって世界は自分が中心のようだ。更に、仕事が出来るからややこしい。
百合子は異動をする時、真っ先に細谷に挨拶をしに行った。
「遅番はキツいからね。頑張ってね」
と、言われ、(あなたがキツいのでしょう)と内心言い返した。案の定、異動初日から細谷の鬼のしごきが始まった。
何でも「ハイ、ハイ」と素直に返事をし、言われたことを必死でこなす。たまにミスなどしたら独裁者の言葉のパンチが飛ぶ。
心の中で泣いて顔は笑顔で日々をこなす。
遅番明けの朝は売上を合算するため、独裁者のいるホテル行く。
言葉のパンチが少なくなった頃、百合子は細谷の動きに心が惹かれた。ふと見た時に気づいた。
細谷の、茶道の動きを思わせるような、小指にまで神経の行き届いた所作に美しさを感じた。
細谷に袱紗や指揮棒を持たせたら相当似合うに違いない。
百合子は細谷の動作を毎日観察するようになった。美しい動きに彼の世界観が現れてるように思えてきた。
彼は自分の仕事と職場を愛していると思う。愛が美しい動作をさせている。
百合子はいつしか、仕事中にかかった電話を取ると、それが細谷の声だと心が明るくなった。美しい動きの細谷に、恋に落ちた。
職場は社内恋愛が禁止であり、ましてや百合子の片思いだ。
百合子の思いは報われないかもしれない。
恋の花がいつまでも美しく咲いていることを願って、百合子は今日も仕事に打ち込む。



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