第70期 #2

世界平和

 M子は久しぶりに実家に帰り、一泊して翌日朝、もうすぐ定年の父と一緒に家を出て、仕事に向かった。駅までおよそ15分の道のり。35歳独身で仕事しかしてこなかった娘と父の間に、今更会話も何もない。でも、不仲でもない。そんな父が口を開いた。
「あ、いつもの女の人がいる。今日もいるな。」
うれしそうにいう。みると、40代くらいで細身の、髪の短い女性がバスを待っていた。特に目立つ様子もなく、スーツ姿で、見たところ通勤でバスを待っているようだ。
「何、お父さん、そんなこといちいちチェックしてるの?ストーカーっぽいよ。」
「そんなんじゃないさ。ただ、毎日同じ時間、同じ道だろ?同じ風景や同じ人がいることは安心感があるんだよ。」
父はさらに照れくさそうに付け加えた。
「これが世界平和のひとつ?ってな・・・・。」
父は自分の言ったことに少し気まずくなったらしく、黙った。M子は気にもせず、電車に乗った。だが、電車に揺られながら、はっと気づいた。
昨日、同僚のT男が言った言葉だ。
「俺と結婚するつもりで付き合わないか?」
飲み会での言葉に多少驚いたが、酔った戯言と思っていた。だって、T男は入社以来の同期で仕事も一緒。小さな出版社で、仕事量もハンパじゃない。辛くて苦しいときをさんざんノーメイクで過し、みっともないところを見せている。助け合いもしたが、罵り合いもした。だが、一緒に仕事してやりやすい。遠慮もいらない、性格もよく知っている。それはお互い様だ。もはや異性でも、色恋沙汰というより、日常だ。
「安心感か・・・。T男もそれ?」
社内恋愛は仕事のじゃまだ、と思いつつ、そのことについてどうしようと迷ってる自分に気がついた。
「世界平和ねぇー。お父さん大げさよ。」
 今日T男はどんな様子だろう、いつもと同じ挨拶してくるのだろうか?
 M子は心が躍るのを感じていた。でも、冷静を装い、職場に向かった。



Copyright © 2008 藤澤マイコ / 編集: 短編