第70期 #17

熱海と現実

 誰もがみな理想の自分にしばしの別れを告げる月曜日の朝、電車に揺られたはずみで頭の中身を混ぜられた私は、「つい熱海」が「網タイツ」のアナグラムであることに気付いた。無意識の内を装って熱海を訪れることで日常の諸問題がすべてびりびりと音を立てて解けていくという仮説に辿り着くまでには、一駅の間を要しなかった。
 熱海はどこにあるのか? どうすれば行けるのか? それまで熱海の無い人生を送ってきた私には、わからないことばかりだった。とりあえず西日暮里に着いてしまったから、と乗り換えることにしたのは勤め人の悲しい性だった。
 しかし、世紀の発見の直後で脳が著しく活性化していた私は、一目見て汚ないというほどではないがどう考えても綺麗とはいえないその駅が網タイツに通ずる控え目な淫靡さを備えていることを、黄色がかった照明の下でたちまちに見抜いた。毎日のように利用していた駅が既に大いなる網の一端であったという事実は、私の胸を高鳴らせた。
 そこで新宿のことを思い出した。新宿といえば東京でも有数の利便性を誇る駅なのであって、熱海と接続されている可能性も極めて高い。西日暮里から伸びた糸を新宿まで辿れば、熱海は目前であり、タイツもまた然り、というわけだった。
 緑の電車がホームに入ってきた。緑はその日も爽やかな色だった。タイツにしたらさすがに気持ち悪かろうが……と思いながら開いた扉に身体をねじ込むと、牟田さんがいた。
 牟田さんは私と二ヶ月違いで同じ会社に入った人で、わりと気軽に声をかけられる相手としてお互いに重宝しているところがあったのだが、彼女は三鷹の方に住んでいたはずなので、この時間にこの場所で会ってしまうと、気まずい相手でしかなかった。
「おはようございます」
「あっ、どうも」
「混んでますね」
「そうですね」
 舌打ちが聞こえたのをきっかけに、私たちは口を閉ざした。舌打ちをした男は、その後ずっと、チッ、混んでるなー、クソッ。チッ、混んでるなー、クソッ。と繁殖期の鳥のように繰り返していた。
 クソッ、のタイミングに合わせて「コンドルか!」と男の頭をはたく妄想をリピート再生していると、池袋に着いた。牟田さんが私を押し出すような格好で、二人ほぼ同時に降りた。
 つい降りてしまった。仰いだ天に糸はなく、見下ろした腿に網はない。
「池袋はリアルですね」
 視線を上げて、パンツスーツ姿の牟田さんに声をかけた。



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