第70期 #12
私の母はここ最近、死んだ魚のような目で夜中に帰ってきていた。そのわけは、父のいないこの家を支えるためパートに明け暮れ、出来の悪い娘を高校にいかせているからではない。一年前から祖父が認知症を患ったからだ。
元来、鳶職一筋で生きてきた祖父にとって、作業中の事故で寝たきり生活を強いられたことは相当ショックだったのだろう。その後、母へのやつ当りが毎日といっていいほど続いたが、それでも母は辛抱強く世話をしてた。私はそんな母の気持がわからなかった。
祖父が娘である母の顔をみて「あんた誰や」と言い始めた頃から母は変わった。心の柱が折れた様な、心ここにあらずの様な目をしているのだ。しかし母は、以前にも増して口数は多くなり、表情も豊かになった。私はそんな母が余計にわからなくなっていたが、傷物にさわるような目で見ていたことは確かだ。
「なんでそんなにがんばるの?」そう母に尋ねたことが一度ある。今思い返すと、なんと軽率な質問をしたのだろう、と後悔している。その時母は、流しにたまっていた食器を洗っていたのだが、ふと手をとめて何かを考える時のいつもの癖で天井を仰いだ。しばらく蛇口からでる水の音だけがその場の空気を一層重たいものにしていたと覚えている。母は少し口元を緩めて「さぁ?なんでやろぉね。お母さんにもわからへんわ」と返答した。食器を洗い始めたときに、母の頬から流れ落ちた涙が、流しから飛び散る水しぶきに落ちていく様子を、私は今でもはっきりと思い返すことができる。
母がいなくなってから一週間が過ぎた。疲れとストレスが限界にきていたらしい。葬儀は私一人で行った。その時のことは何一つ覚えていない。今私は、先に娘に逝かれた祖父の傍らに座っている。窓の外をボーと眺めている祖父を見ていると母の気持がわかったような気がした。いや、わかるはずがない。今まで母が娘の私に、相談したり、愚痴をこぼしたことなど一度もなかったのだ。祖父の額を濡れタオルで拭ってやると、視点が定まらない目で私を見つめ「・・・恵子」と呟いた。母の名前だ。「なぁに?お父さん」と私が言うと、祖父はまた窓の外を眺め始めた。私も窓の外を眺めたが電線が二、三本垂れ下がっていて、どんよりと曇った空が遠くにあるだけだった。私は結局最後まで母の気持がわからなかったが、こうして祖父の傍らに座っていると、なぜか母のような強い女性になりたいと思えてくる。