第7期 #8

厠へ

 気がつくと寮のトイレに立っていた。十畳ほどの広さで左側に小用の便器が三つと洗面台、右側に大用の個室がやはり三つ並んでいる。
 その中央に僕は立っていた。
 右手には包丁が握られ、床は赤い血に染まっていた。その血の池のなかに、ひとりの女が倒れていた。窓が開いていて、そこからススキの穂と夜空に浮かぶまるい月が見えていた。


「……つまり人間は僅かに異なる連続した瞬間における差異を運動としてとらえてしまうということなのです。前にも述べましたが運動とは時間であり、結局、時間とは現実に存在するものではなく、我々の心が生み出した幻想なのです」
 教授は黒板に書かれた「時間」という言葉につづけて「=心理現象」と書き、すこし表情を弛めて話をつづけた。
「こんな話があります。パズル好きの悪魔の話です。この悪魔は世界を原子ひとつひとつまでバラバラにし、それをパズルとして、もう一度世界を組み立てる。再び組みあがった世界は元の世界とほんの少しだけ異なっている。悪魔はまたそれをバラバラにし、またほんの少し違う世界を組み立てる。それが凄まじい速さで行われるので、世界は動いて見える……」


『「つぎの瞬間」と信じたのは漱石のみである。「つぎの瞬間」まで実は三十分の時間が経過し、その三十分のあいだ漱石はたしかに死んでいたのだった。彼は約ひと月後に妻からそのことを知らされ、唖然とした。
「強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた」
 そのとき漱石は、眠りから覚めたとすら思わなかった。』
(関川夏央・谷口ジロー「不機嫌亭漱石」より)


「どうしたの? マルコフ」
「あ、マクスウェルくん。パズルのピースが見つからないんだよ」
「コレじゃないの?」
「それがちがうんだよ。それだとうまくはまらないんだ」
「いいじゃん、こうやって押し込んじゃえば」
「あ、だめだよ。ムリヤリじゃないか」
「いいって、いいって、大丈夫」


 気がつくと隣で寝ている女がさめざめと泣いている。「そんなに泣くな。そのうち慣れる」と私はなぐさめる。私は布団から出、着物を身につけ、障子を開ける。庭にはススキが揺れ、まるい月が出ている。
「どちらへまいられるのです?」女が訊く。
「ああ、ちょっと厠へ」私は云う。「ちょっと厠へ、いってくる」



Copyright © 2003 逢澤透明 / 編集: 短編