第66期 #11

小あじの南蛮漬け

 冷戦は三日目に突入した。今朝のメニューは舌がしびれるほど辛い塩鮭と、皮付きナスの味噌汁(味噌汁の色が変わるから嫌だとの夫の言い分)、甘いホウレン草は嫌いという声にお答えし、あえて胡麻和え。どうだと言わんばかしに並べた朝食を、夫は顔色変えずに粛々と平らげ、「ごちそうさま」と言うと食器をシンクに置き、鏡の前でネクタイの結び目を確認し、スーツを着込みカバンを提げて「いってきます」といつものように出かけていった。面白くない。嫌味が嫌味として通じず、元凶である犬は自分のクッションの上で朝寝ときている。私はむやみに腹が立ってクッションをだるま落としのように横から引き抜いた。体重3キロ満たない犬は転がり、恨めしそうに私を見たが、すぐソファへ移動してすやすやと眠り始める。飼い主に似て嫌な性格だ。大体夫の性格は細かすぎる。洗濯ばさみが床に落ちていようなら、やれコテツが踏んだらどうする、コテツが間違って食べたらどうするとコテツコテツ。洗濯ばさみくらい落とす時だってあるし、気がつかない時もあるのだ。

 冷蔵庫から小鰺のパックを取り出す。ばらばらとまな板へ並べて、無造作に一匹を選び出すと、がりがりとぜいごを取る。むき出しの血合いや身の奥でうっすらと骨が透ける。無遠慮に指を突っ込み、深紅のえらを引きずり出す。包丁の刃先で柔らかい腹をすっとなで、桜色の心臓や血だまりのような内臓をかきだす。一度命を奪われたのに、またこうして殺されるとは難儀なものだ。内臓はやがて小高い山になる。窓からの日差しにきらきらと、まな板で滲む血はまだ生きているようだ。
 10匹目の腹にぶすりと刃を立てたとき、インターホンが鳴った。私は舌打ちすると指についた血をぬぐい、玄関へ向かう。荷物は私がかねてから欲しかったイングリッシュローズの鉢植えだった。贈り主は夫で、何をこんなもので機嫌をとろうとは私も軽くみられたものだと思いつつ、ご機嫌伺いにしてはやけに包装が華やかで、不意にカレンダーの今日の日付を見れば、その数字の下に小さく几帳面な夫の文字で「プロポーズした日」と書かれてあった。
 放り投げたコテツのクッションを彼の元に返し、私はキッチンへ戻る。ペーパータオルで内臓をきれいに包み、ビニール袋へ入れて硬く口を縛った。血でくすんだ小鰺の体へ水を流すと、空っぽの腹が銀色に光る。その目はまだ、波の狭間の太陽を見ている。



Copyright © 2008 長月夕子 / 編集: 短編