第66期 #10
気付くのが遅かった。当たり前だけれども、私には見えない世界があって、私に構わず日々変化している。私だけがそれに気付かずに、ぽつんと残されていた。もっと早くに消えていれば、傷付かなくていいこともあったのかもしれないし、何も知らないままで良かったのかもしれない。
私が「死にたい」と伝えた時、彼は表面上では引き止めはしたものの、表情は明るかった。そこで、私は決心した。
「その睡眠薬は効くのかな? 苦しまないといいけど……」
彼はのんびりした声で言う。
私は少し焦りながら、手のひらに持てるだけ白い錠剤を。彼は時計をちらりと気にしながら、グラスに冷たい水を。そのきれいな指を見て、ふと思う。もし、この人を本当に好きになれていたなら、何かが変わっていたかもしれない、と有り得ないことを今更。
彼は水がたっぷりと入ったそのグラスの片方を私のほうへ丁寧に差し出した。
「慌てて飲まなくていいよ。ゆっくりでいいから。とは言っても、俺には約束があるから、10分内で済ませてほしいのだけれど」
「彼女と会うの?」
「まあ……ね」
心の中で何かが渦巻く。彼は私と3年以上も関係を持ちながら、やはり彼女を選んだ。その結果として、こうやって私に死を急かす。もう何もかも取り返しがつかないのだと気付く。人の愛情なんて永久には続かない。
私は一気に錠剤を喉の奥に流し込む。思ったよりも緩やかに胃に沈んでゆく。冷たいミネラルウォーターが透明に喉を潤す。
私は彼の目を真っ直ぐ見つめて言う。
「お願い。最後にキスして……」
彼はゆっくりと顔を近付けて来た。目を瞑って。唇に柔らかい気配が。
「……ありがとう」
私は最後の余韻に浸っていたかったが、彼は自分のグラスの水で唇を濡らし、すぐに私の気配を消し去ろうとしていた。そして、すっと立ち上がり部屋から出て行こうとする。
その瞬間、彼の体が崩れ出す。喉の辺りを掻き毟り、物凄い勢いでのた打ち回る。何か言っているようだが、それはもう呻き声にしか聞こえなかった。
私はその様子を傍らで見下ろしていた。私はキスの際に只、グラスに薬を注いだだけ。
私が死ぬのは、彼がいなくなった後でも遅くはない。私はさっき飲んだ白い錠剤の瓶をいつものサプリメントが並んだ棚に戻す。愛情は永久に続かなくとも、憎しみは絶っておかないときっと永久に続くんだ。
さて、眠ろうか。