第66期 #9

ひつじ雲

 お手洗いのパパを待つうちにアイスが溶けて、べしゃって地面に落ちた。パパは泣きじゃくるあたしに「新しいの買って帰ろう」と言って頭を撫でた。あたしのパパは世界一だ。
 遊園地の帰り道、あたしとパパは手をつないで他愛のない話をする。また行こうねって。そう言うとパパは笑うけど、傍目には悲しそうに見えてて、でもそんなことないって知ってる。前に長く伸びた影や夕暮れの永遠みたいな時間がパパをそんな風に見せるのだ。あたしとパパをつなぐ手が、歩くリズムでぶらぶらと揺れる、そんな気怠さがいい。
 パパの無口さは男らしくて素敵だ。歩きながらあたしが話すのは、例えば友達が面白いって言ってたアトラクションがそうでもなかったことや、パレードが子供っぽくて冷めたこと(でも楽しかった、って言う。本当のことだから)。パパはあたしの話に相槌を打ち微笑んでくれる。夕陽はいつまでも沈まなくて、路地も果てしなく続いてて、でも永遠じゃないからあたしは時間を惜しんで夢中で話をする。
 だからあたしは影が増えたことに気付かなかった。パパを挟んだ反対側に、あたしより大きくてパパより小さい影が一つ。ショックだったのは、その影がパパと手をつないでいたこと。
 パパを見上げると、パパは隣の誰かと話をしていた。パパの向こうにピンク色のフレアスカートの裾がちらつく。パパの薬指の銀の指輪が、夕陽に反射して目ざとくぎらぎら光っていた。ねえパパ! と声を上げて腕を引っ張ってもパパはこちらを振り向かない。それどころかパパは、信じられないくらい明るい声で笑ったり拗ねたような声を出したりと、あたしの嫌いな軟弱な男に成り下がってて、もう腹が煮え繰り返って、パパッ、と怒鳴る。するとパパは悲しそうな顔でこちらを見てあたしの手を振りほどく。そして女と、この愛娘のあたしを置いて歩いていってしまう。走ってもあたしはパパに追いつけない。やがてパパと女は地平線の彼方にすとんと落ちてしまった。それと同時に日が暮れる。
 取り残されたあたしは涙と鼻水で顔中べとべとになり、さっきパパが買ってくれたアイスがすっかり溶けていた。コーンはすっかりふやけ、あたしの後ろには溶けたアイスが点々と続いていた。アイスさえ溶けなければパパは帰ってくるかもしれない、なんて非論理的な考えがだんだんわたしの中で絶対になって、ああ、私は明日もこの馬鹿げた妄想を再現するのだろうなと絶望する。



Copyright © 2008 白縫 / 編集: 短編