第66期 #8
乗馬の扶助に舌鼓(ぜっこ)というものがある。
舌を上顎に付けながら息を出し、チッチッチという音をさせて馬を誘導する。
21歳の春。
煙草を吸わず自動車の運転もしない僕は、大学に入ってからの3年間のバイト代が通帳に貯まっていた。
友人たちの間では就職活動が始まっていた。僕は進路を決めなくてはならないことにためらいがあった。
それより今しかできないことをしておきたかった。
皆が会社説明会に行き始めた頃、僕は乗馬クラブの会員になった。
昔から動物が好きだった。家にはチビという名の柴犬がいる。
乗馬クラブには乗馬用に調教された、引退した競走馬たちがいた。乗馬専用に開発された馬は日本には少ない。
成績を残せず種牡馬になれなかった牡馬や、買い手のいなかった牝馬たちが集まってくる。牡馬の多くは乗馬になる時、気勢を抑えるために去勢される。競馬会での行き場を失い、乗馬になる馬たちは少なくない。
乗馬クラブの朝は早い。インストラクターの人たちは馬の管理に忙しく、人手が足りないのが現状だった。
ここで働いてみないかと僕も誘われた。
クラブには馬が百頭以上いた。管理費がとても掛かるため、会員の月会費は高かった。
しかし馬と触れ合う時間は、時間がある今しかできないことであり、僕にとって馬と接することはとても楽しかった。
馬たちはとても優しい目をしていた。大きく無駄のない体をした彼らは、とても音に敏感で臆病だった。
こちらが優しく接すれば相手も優しく返してくれる。そして非常に賢く、一度覚えた顔は忘れなかった。
馬上の人になった僕は、馬と一緒になって気持ちの良い小春日の風を切っていた。
馬の駆けるリズムに合わせるように、僕は舌鼓を鳴らしていた。
まだ小さかった頃、公園でおじさんと大きな犬が歩いていた。
犬に恐怖感を持たなかった僕は、目の高さよりもある犬をじっと見ていた。
坊主、怖くないのか? 背中に乗せてやろうか?
おじさんは僕を抱き上げて、犬の背中に乗せてくれた。それがとても嬉しかったのを覚えている。
半年が過ぎ秋口になった。
夏の間は日照りをさけてクラブを休会していた僕に、クラブから倒産の知らせが届いた。
クラブにいた馬たちがどこに行ったのかは、分からないままだった。
今また春が来た。僕は大学院へ進学することが決まった。
今もチビと散歩をしていると、地面に鼻を付けて動こうとしないチビに、チッチッチと、知らぬ間に舌鼓をして呼んでいることがある。