第65期 #20

猿の証明「2+2=5」

その女性の恋人は猿だった。これはアナロジーでも童話でもない。彼は本物の猿だった。

誰も不思議に思わなかったのか?

思ったに違いない。不思議なことにマスコミが報じなかった(人体実験の失敗を隠すための圧力という黒い噂もあった)ので、いつしか市民も「歩く猿」を気にしなくなった。無害なサルよりたちの悪い人間がたくさんいるのである。

猿を恋人にした女性は古田さんといって、かつては才気煥発なオテンバ娘だった。勉強も議論も芸術も音楽も、面白そうなものには何だって飛びつき、誰彼かまわずやりこめていた彼女は、今は知性を内側に隠す淑女となって、東京の真ん中で毎日遅くまで働いている。

初めて猿が東京に姿を現したとき、彼は古田さんを一目見るや、彼女がかつて咲かせた知性の花の匂いを鼻の裏側でくんくんと嗅いだのだった。お嬢さん、君は前世で俺の先生だったかもしれないよ。

猿に唐突に話しかけられたとき、古田さんも猿が右手に持っているペーパーナイフが美しかったので魅入ってしまった。

「私、人間が好き」
「一匹の猿はサルのような人間と等しいよ」
「証明できる?」

猿は証明を始めた。猿とサル人間が等しいと仮定する。上が人間で下がサルなのを2+2、一匹の猿を5とおくと、2+2=5。

「待って。5? 1多いじゃない」
「ああ。俺は心に冷蔵庫がついてるんだ」

猿は続ける。2+2=5ならば、4=5。両辺から3を引くと1=2(冷蔵庫込)。よってサルのような人間と冷蔵庫を持った猿が等しいのは自明。猿の恋人も人間と変わらないのは明らか。終わり。

猿の証明を聞いていると、それは古田さんが昔所属していた「天才ゼミ」を思い出させた。心を数学で語ろうという不思議な自主ゼミで、型破りの数学教授と彼の弟子たちが集まっていた。その教授は昨年本当に天才になったのかNASAの秘密計画に加わって姿を消した。多くの弟子たちも世界中で活躍していると聞いている。

(私だけ、か)

古田さんはしょんぼりした。マイナス思考を変えるために風を感じてみようとしたが、吹いているのは北風だった。それでも猿の証明はハーディが不確実性について語った逸話じゃないかしら? と思ってそれを口にしようと口を開けると、口の中に固いものが入ってきた。

「チョコレートだよ」

猿はニヤニヤと笑ってしゃがみこみ「肩車だよ。乗りねえ乗りねえ」と言った。古田さんは猿に乗って、2=1となった一匹は東京を歩いていった。



Copyright © 2008 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編