第65期 #19

桜の樹の上には

 なにも見えなかった。それで、音がした、それは曾祖父の声で、顔はもう忘れた。幼い私は、夜の闇にいた、電気の通っていない町の、月のでない町の、何も見せてくれない暗がり、音だけが知らせてくれるせかいのひろがり、その矮小さの中にいた。曾祖父が、目の見えない体で近づいてくるのがわかる、のっぺりとした闇の中を、私から垂れた紐を辿るみたいに、まっすぐ来るのを。私の手をしっかりと掴む手、かさかさの手、冷たい肌の奥の温度、草履が土を擦る、その音、熱、感触、そこにせかいが集中した、せかいはひろかったのだ! だが、そこ以外のせかいのような何かのほうが、ずっとどこまでもひろく、せかいって孤独だな、と思ったのを覚えている。


 私が町を出たその日に死んだ曾祖父。あれから二十数年たち、この町に戻ってきた。目がほとんど見えない。医者は、私の症状と治療不能である理由をとくとくと説明する、が、私は理屈を知りたいのではない、体に不具合があれば医者に診てもらう、その慣習に動かされたのだ、その時、実に二十年ぶりに曾祖父のことがよぎった。
 生家の縁側で、庭と呼ぶには殺風景なものを眺めるのが好きになった。庭には太くて立派な桜の樹が一株植わっているだけ、家政婦の話ではもう少し暖かくなれば咲きはじめる、ひとつひとつが滲んで広がるこの眼界に、もうじき桜色が大きく加わる。
 桜は咲いた。私は昼ではなく夜の桜を楽しんだ、桜色ではない青い桜を、私は曾祖父とともに眺める。曾祖父が現れたのは一昨日の夜、定かでないが空から落ちてきて、花をつけた枝をひとつへし折ったのをこの目で見ていた。曾祖父は頻りに言うのだった、おい、動いてるぞ、鳴ってるぞ、虚空の闇をあちこち指して、鳴動だ、大鳴動だ、そう言うのだ。


「となりの家に塀ができたんだな」
「……へえ」
「ん」
「あ、いいえ、その、どうなんでしょう」
「できてるよ」
「塀、あるんですか」
「へえ」
「……」
「鳴動だ! 大鳴動だ!!」
「(聞いてなかったのか、ああ、びっくりした)」


 曾祖父、かんかんのうを踊る。すると、私にも鳴動が知れてきた、闇夜が、せかい以外が、私の肌をじりじり触る、触れようとするとしかし、そこは虚空になる、だからじっとする、そうする、と虚空が消える、闇夜が鳴動をはじめる、ひろい、とてもひろい、とてもひろいものが私に触れる、私もかんかんのうを踊ろう、どうやら目が潰れたから。



Copyright © 2008 三浦 / 編集: 短編