第65期 #21

子犬のワルツ

 思ったより雪は積もるようだ。
 人気の無くなった廊下を歩きながら、3階の窓から見える校庭に雪が付されていくのを見ていた。大方の生徒は下校したようだが、数人の男子が歓声を上げて校庭を走っている。
 私は音楽室のドアの前に立つ。掃除当番がいるはずだけれど期待はしない。こんな雪の日はサボるよね、私だって早く帰りたいもの。ふれるだけで凍りそうに冷たいドアへ手をかけた。
 「なんだ、先生か」
 グランドピアノの蓋の向こうから、白い鶏冠頭が顔を出した。髪が白くなるほど脱色し、逆立てているのは戸川君。
 「他の当番は?」
 「誰も来ないよ、俺だってもう帰るし」
 私は聞こえるように溜息をつく。気持ちはわかるがここは怒っていることにする。
 「それで、あなたは何をしているの?掃除もしないで」
 そう問うと、いきなりピアノの音が音楽室に響いた。耳慣れたその曲はショパンの短いワルツ。戸川君の髪が子犬のように揺れる。窓の外を降りしきる、雪の速さに良くあっていた。指輪を幾つもはめた無骨な戸川君の手を思い浮かべる。授業中はいつだって枕の替わりになっているその手が、こんなに繊細な音を奏でる。
 曲が終わると、余韻も残さず彼はさっさと立ち上がる。ピアノは蓋を閉められ、見慣れた置物に姿を変える。
 「戸川君ってピアノ弾けるのね、びっくりした」
 私の横をすり抜けて、音楽室を出ようとする背に声をかける。
 「音大狙ってるの?」
 アクササリーをジャラジャラいわせて、彼は振り向いた。
 「この程度じゃどうかな、専門行って調律師とかなら考えてるけど」
 意外にしっかりとした考えを持っていることに驚く。進路は早く決めたほうが良いに越したことはない。先の見通しは大切だ。漠然と大学へ行って、それで立ちすくむ友人を多く見てきた。私だってそう。なんとなくここに立っている自分。彼が立っている、そこには5年の歳月がある。
 でも、たかだか5年前の話じゃないか。17歳。
 「無責任なようだけど、やれるとこまでやってみてもいいと思うよ、ピアノのことはよくわからないけど、戸川君のピアノはとてもうまいと思うし」
そう言うと、踵を返し、私との間合いをつめてじっとこちらを覗き込むように視線を合わせた。
 「あきらめてるわけじゃないから」
 答える彼の唇は思っていたよりずっと大人びている。
 どさりと、窓から見える杉の木の、枝に積もった重そうな雪が音をたてて落ちた。



Copyright © 2008 長月夕子 / 編集: 短編