第64期 #14
地下鉄の改札を抜け、長いエスカレーターを3本乗継ぎ、地上へ昇る。すっかり工業製品の心持ちである。振り向けば、自分そっくりの人間がずらり並び、不安げな面でこちらを見返しそうだ。灰の通路の終わりには、うす曇りの春の空が、小さい四角に切り取られている。
できるだけのろのろと、帝国ホテルに向かう。鈍い陽光、肌寒い。正午の待ち合わせに、ずっと早く着きそうだ。今朝は、緊張して目覚ましの鳴る前に眼が覚めた。整備された広い道には、美しい硝子のオフィス・ビルディングが建ち並ぶ。日差しを集め、かちりと光る。そのうちの一つは、父の勤める保険会社である。彼の昼休みに会い、かねてから約束の届け物をする。道々に、感じのいい白い花を無数につけた街路樹を見る。木蓮だ。枝に付いたひとつを撫でると、きめ細かい花弁が指に吸い付く。
i)父は、その母親(私の祖母)、その二人の姉妹(私の叔母)と断絶した。
ii)父は、その妻(私の母)を嫌い、ついに家を出た。
強引に帰納すれば、彼は『すべての近しい女との絆を切る』性質を持つ。演繹すれば、私ともそろそろ切れる。
エントランスホール、スーツの男たちに倣い、モスグリーンのソファに、深く腰掛ける。文庫本を広げるが、ムーミン谷の情景は全く頭に入ってこない。ひどく喉が乾く。大きな回転ドアーと腕時計を交互に眺める。結局彼は約束に10分遅れて来た。
一年ぶりの父は、一年分老いていた。3000円のランチを差し向かいでとりながら、ぽつりぽつりと私の合格した大学の話などする。頼まれていた保険証を手渡す。父は、聞いたことに丁寧に答え、時に冗談も言った。ただ、その性の、鈍い刃物のようなのを、私は度々首筋に感じた。急に動くと、血が滲みそうだ。彼のコーティングは、着実にはがれる。『かくあるべき』自分を少しずつ失うのが、歳を取ることだ。私は愛想よく頷きながら、かつて好きだった人を思った。
父と別れ、鼻歌まじりに歩く。胸に社員証を下げた、華やかなOL達とすれ違う。お昼ごはんの入ったビニール袋を下げ、ごく健康的に笑っている。晴れて暖かいし、ヒールの低い新品の白い靴はとても歩き良い。小さなリボンのついたその靴は強く、ゆっくりと、踏みつけた。あの楚々とした木から落ちた花を。優しい茶に変色して、諦めたように緩やかな花弁を。
スプリング・コートのポケットには、別れ際に頂いた二万円が入っている。