第63期 #7

ライオン宰相

 「……そういうわけで浜口内閣は海軍が最低条件として掲げた対英米軍艦保有比率七割を満たせず、軍縮の意向もあって、六割九分七厘五毛の保有比率で条約に調印しました。ところがこれが猛批判を浴び、浜口首相は東京駅で狙撃され、それが元で亡くなってしまいます。その後に組閣したのが政友会の犬養毅で……」
 「せんせー、犬養の“かい”の字が違いまーす」
 「ああごめん」
 指でチョークの跡を払う。後ろでは溜息交じりに、修正液を取り出す音。すまん。

 歴史という学問を構成しているのものは一体何か。二年目になって、そんなことを考えるようになった。実を言うとそんな難しいことを考えているわけではなく、ただ私は、仮にも日本史を伝える身として、たとえ「受験歴史」というセオリーに沿って言葉を連ねるとしても、なにか、“私の”セオリーとなりうるなにかを私は探しているのだ。今春、卒業式の最中、私はそれを自らに問いかけ、そして頭痛を催した。驚くことに、私は一年間の授業で自分が何を喋っていたのか、ほとんど覚えていなかったのである。

 休日、東京駅にやってきた。浜口雄幸遭難現場、その碑前に一人立ってみる。七割と六割九分七厘五毛、等しいも同然だ。その違いが原因で殺された彼は、いったい何を思ったか。「男子の本懐である」と言ったそうだが、本当にそう思っていたのか。「なんで殺されにゃならんのだ畜生」とは感じなかったか。いや、そういうことが問題ではない。情けなくも私なら心からそう思う、哭泣するやもしれない。しかし彼は違うことを言った。その違いだ。でもそれはある程度しかたないことで、私は虚勢を張ることも策士になることもせず、小難しいことも画期的なことも考えられない。少しずつ、ノミで削るように日々を連ねる。そういうわけで、私の名前が将来日本史に残るようなことは、まずないだろう。
 まあ、それでもいい。
 合掌。さようなら、浜口雄幸。

 「この間浜口首相の話をしたけど、雄幸って変な名前だと思わないか。これ、本当は“幸雄”って名前になるはずだったらしい。でも父親が酔っ払ったまま役所に届け出たもんだから、幸と雄を逆にしたんだと。ひでえ親だよなあ。試しに自分の名前を逆にしてみ。なんかこう、腰の力が抜けるような気がしないか」
 一同、きょとんとした顔。なにかが違う気もするが、まあ、たまにはこんな話もいいだろう。



Copyright © 2007 壱倉柊 / 編集: 短編