第63期 #6

駆け落ちの振りが都合が良い。

 ―逃亡には成功。駆け落ちの振りが都合が良い。
 真暗な山中の展望台に、他の客は居ないらしかった。殊に今日程に寒さが占める様だと、一層である。
「ねえ、」
貞子は呼んだ。その顔の向く先には夜闇に煌煌とさンざめく灯(アカシ)が大きな凹み(クボミ)の中に点在するのだった。成金の食い溢した金剛石やら水晶硝子(スイショウガラス)やらみたいなそれらの鏤むる(チリバムル)のに、女の類は良く悦ぶ。修平にはどうもそれが不可思議だった。然しだ、貞子はその類とは何様違う心持ちで今時(イマ)は立っていた。
「此れから如何しようか。」
修平を見もせず、貞子は深刻そうに唇を動かしたが、他の感情が含まれて(フフマレテ)有るのに、誰しろ気の付く調子であった。彼女の横顔、夜の外気の中、いつもは見えない浄衣(ジョウエ)の吐息が舞った。通った鼻筋が凛と見え、冬の夜に血色の引いた顔に、修平は少し限、震えを覚えた。
修平が返そうとした丁度だった。轟轟たる鐘聲が静寂(シジマ)を盗って、大人しく居た彼等ごと呑んだ。
「梵鐘、煩悩を諭す…か。」
差し替えに呟いた修平の片言には、落胆に似た抵抗が秘められていた。それも知らぬ儘に、貞子は惟惟じっくりと、夜に落っことされた街街を瞰臨していた。口角は、何かを得たらしく撓んで在った。
 いつからだったのか。眞個の眷戀の互いとは否と信ずる貞子の曲がらない背中が、修平には仄かな愛しみを映し出だしていたのだが…。



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