第63期 #10

パリの紅茶

毎朝工場へ働きに出る前に一杯の紅茶を飲むのが男の休息だった。9時に仕事が始まり、午前様で寮に戻るとへトヘトですぐに眠る。だから朝だけは6時に起きて、2時間ぼんやりと何もせずに休む。

ある時、男は携帯電話から更新できるというブログをやってみようと思った。冬が近づいて寒くなり、少し寂しかったのである。ブログが何かもよくわかってなかったが、思いつきのまま始めてみることにした。

でも男は特に書き残すようなことがない。一日中作っている部品のことを書く気にはなれない。それで<朝、紅茶を飲む。俺紅茶好きだ>と書いた。書いてみるとスッキリした。それまで漠然としていたが男は自分が朝の時間が楽しみなのに気づいたのだ。

翌朝は5分早起きして紅茶を飲んでぼんやりし、5分ブログを書いた。

<風が冷たい。今日も紅茶がうまい>

男のブログはこの調子で続いていった。毎日同じことの繰り返しのようでいて溜ってみるとブログ内には男の朝の紅茶を飲んだ時間が残っている気がした。時々読み返してみて男は満足した。

ある日、ブログにコメントが寄せられた。それまで自分以外に読まれることを考えてなかったので男は喜んだ。

<私も紅茶好きです。いつもマリアージュで買います>

男はどう返信すればいいか困ったので何も返さなかったが、次の休日にはよそ行きの服に着替えて、久しぶりにデパートへ出かけた。生れて初めて紅茶売場へ行って驚いた。なんと種類が多く、おまけに値が張るんだろうと思った。男は工場の売店にあるリプトンのイエローバッグを飲んでいたが十分に満足していたのだ。

だが例のマリアージュフレールの缶をみつけると、それが美しかった。男にとって3千円は高級であったが夕食のビールを抜くことにして買って帰った。翌朝まで待てず、風呂あがりの晩、缶をあけてみて戸惑った……硬いフタを十円玉であけると茶葉がとびだしたのだ。紅茶はティーバックしか知らなかった。おまけに緊張して闇雲に選んだのだが、EROSというブレンドティーらしかった。

しかし一瞬の戸惑いの後、茶葉から花畑の匂いが立ちのぼってきた。

<マリアージュの紅茶買った。茶葉だったので俺の部屋では飲めない。けどいい匂いだ>

ブログに書いた。缶を冷凍庫にしまい、中から明治の板チョコレートをだして半分に割った。そのチョコレートをかじりながら、いつもの紅茶を飲んだ。窓を開けるとゆるりと風が吹いていて、いい気分になった。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編