第63期 #11

金剛

 彼は天才だった。偉人だった。狂人であったかもしれない。だが誰もが彼を聖人と認めた。
 争いのやまぬ苦痛に満ちた末世に彼の魂は降り立った。家禽は人々の飢えを満たすだけでなく快楽のために殺され、その血肉は富める人々だけの喉を潤し、多くの者たちが彼らの富のために隷従を迫られ、大地に干からびた者たちが溢れた。その耐え難い業に満ちた世界が、肉体である彼を金剛にまで高め上げた。金剛石は奈落の灼熱で鍛え上げられ結晶し、輝きを放つのである。
 人々は彼を敬い、救世主と讃えた。発明された物は彼の理想を誠実に表現してみせ、言葉は神託となり、聖書として記述され、後の世にいたるまでその意思は感銘を保ち続けるだろう。
 彼は世界を巡り、一世紀近く生きて亡くなった。冥福を祈る際、誰もが彼が天国へ行けると信じた。彼でなくて誰が天国へ行くのか。彼こそが神の再来であり、彼の待っている天国へむかえるようにと、人々は生前の善行に励むのだ。
 多くのものが彼の教えに従い、徳を積み重ねていった。やがて彼の存在した世代の人間がすべて生前での役目を終えた。
 果たせるかな、人々はみな天国へとむかうことができた。富める者も貧しきものも生前に罪を犯した者でさえ、万人が楽園の門をくぐることを許された。


 人々は探した。煌く救世主の魂を。

 けれども誰も、かの上人を見つけることができなかった。彼を目指し、彼にまた会うために魂を磨き上げた人々はおおいに落胆することとなった。そして極楽浄土は根本尊を欠いたままとなる。

 鮮烈に世を駆け抜けた巨星の行方を辿る――涅槃の折、彼は願った。一世紀にもわたり人々の営みを垣間見た彼は人類の巨大さをまざまざと知った。巨人は大地を耕し人という種を肥やしていったが、果てしない欲の循環は人を、大地を、海を大気を汚していたのだ。

 累々と積み上げられたる人の罪。すべての者が死後、アビスの世界から招かれるだろう――彼は宥恕を終生願い続けた。

 そして望みは叶えられた。

 九界の最果て、この世でもっとも悪しき、救いがたい魂を持つ者が堕ちるという地獄の中の地獄。人々が免罪される前、かつて地獄へ堕ちた者たちが次々と懲役を終え転生を果たす中で、人の感覚ならば無限ともいえる刑期を宣告されたかつての聖人は、償いとして今も責苦にさらされている。
 金剛の魂魄は産声を上げた業火の中に還っていくこととなったのである。



Copyright © 2007 430 / 編集: 短編