第6期 #11

橋本のお婆さん

 小学校から帰って母の作ったチーズケーキを食べてまた遊びに出掛けて帰ってテレビを見た。すると夜になった。夕食はまだかと思って台所に行くと誰もいなかった。居間を覗くと橋本さんのところのお婆さんが来ていて母と話をしていた。
 お婆さんは今年九十歳になるのだそうだ。落ち窪んだ眼窩の奥にビー玉みたいにまんまるな目が光っていた。黄色く乾いた皮膚には火星の運河みたいに碁盤目状の皺が入っていた。学校の友達が言っていた。長生きした猫は妖怪になるし年取った女の人は魔法が使えるようになるそうだ。
 お婆さんの口がもごもご動いて「そろそろ帰る」と言ったようだった。母は傍らをうろちょろする妹を抱き寄せて窓の外を見た。外はすっかり暗くなっていた。母がそのことを独り言みたいに言うと、お婆さんが、ひえい、ひえい、と笑った。暗くなると笑うのかなとぼくは思った。部屋に入るとぼくに気付いた母がお婆さんを家まで送るよう頼んだ。
「うん……」
 橋本さんの家まではほぼ一本道で一キロ程だった。ただし途中道の舗装されていないところがあってそこで転んだりしたら大変だと母は言った。道の舗装されていないところというのは、墓地の脇を通る細い抜け道のことだった。
「怖いの?」と妹が聞いた。
 ぼくは妹を睨み付けたが言い返さなかった。そしてお婆さんを送っていった。月も星も出ていない夜だった。曇空だからに違いなかった。風の妙に生暖かい理由はわからなかった。街路灯が途切れて墓地に入った。しばらく行くと、手を繋いで後ろを歩くお婆さんが、うう、うう、と低く唸った。ぼくは振り返らず歯を食いしばって歩いた。橋本さんの家に着いたら元のお婆さんに戻っていた。お婆さんは総入れ歯のきれいな歯並びを見せてにっと笑った。出迎えた橋本さんのおばさんに「ありがとう」と言われた。それから後半一キロ走った。家に着いて、はあ、はあ、と息をした。父が帰ってきて、夕食が始まった。
「今日は鍋だぞ」
 父は自分が作ったみたいに自慢そうに言った。妹は母に付きまとって食事を始めようとする母の膝に座ろうとした。母は椅子に座るよう言った。
「お兄ちゃんを見習いなさい」
「おい、見習われるぞ」と父がぼくに小声で連絡した。
「いいよ」
「お兄ちゃんは偉いね」と母が言った。
「おい、偉いそうだぞ」と父がまた耳打ちした。
 妹はぼくを睨んだ。ぼくは平然としていた。
「もう子供じゃないのさ」とぼくは言った。



Copyright © 2003 朝野十字 / 編集: 短編