第6期 #10
張り付けにされたあの男を、俺は好きだった。
他に好きになれるような物も無かったし、他に美しい物も無かったから、俺はいつもあの男を眺めていたよ。
周りの大人達もそんな俺を誉めた。ただ一人、姉だけが、俺を冷たく笑っていた。普段は優しい姉だったが、その時だけは俺をまるで裏切り者を見るような目で見るのだ。
姉は長くは生きなかった。生まれつき身体が弱かった。姉は美しく頭が良かったが、何も出来無いまま死んだ。
俺はそれでもあの男を嫌いになれなかった。あの男を嫌いになる前に、俺はあの男を可哀想だと思うようになった。
ある春の夜、俺はあの男に会いに行った。
暗闇の中に、あの男は一人だった。
俺はあの男によじ登り、助けてやろうとした。解き放ってやろうとした。
どきどきしながらあの男の身体に触った。それが初めてだった。あいつの身体は冷たかった。硬かった。掴めなかった。俺は無理に引っ張った。するとあの男は、支えていた台ごと崩れてしまった。
がしゃ。
地面に叩きつけられたあの男を、俺は助け起こそうとした。
かしゃり。かちゃり。
それはただの砕けた石膏だった。
それで俺はやっと、あの男は何処にも居ないということを理解したんだ。
何処にも居ない。何処にも居なかったんだあいつは。
「おい」
僕は慌てて振り返った。
考え事のせいでついぼうっとしてしまった。
「すいません」
「そろそろ出るぞ」
男は僕にそう言うと車に乗り込んだ。
僕も乗り込み、車を出す。
僕の雇い主は無口だった。そしてその無口な彼が一回だけ熱心に語ってくれたのが「あの男」の話だった。
僕には解らない話だった。彼の子供時代と今じゃ大分違う。「あの男」なんて僕には誰のことなのか見当もつかない。
「今日はこの辺りにしよう」
「はい」
僕は車を停めた。
彼の芸は人気があった。柱を二本組み合わせた物にただ縛り付けられているだけなのに、人々はどんどん集まってきてお捻りを放った。
「そろそろ出るか」
「はい」
夜になり、僕らはまた移動を始める。
夜空が美しかった。その空を、何本かの軌跡が通り過ぎていく。
「ねえ」
僕は声を掛けた。
落下音が聞こえ始める。戦闘機の爆弾だ。
「なんだ」
「戦争、早く終わると良いですね」
僕はハンドルを滅茶苦茶に切って爆発を避ける。
「関係無い」
彼は小さく答えた。
「そんなことは関係無いよ」
爆発音が木霊する中、彼はゆっくりと目を閉じた。