第59期 #2

硝子の虫

 目医者に行った。ひどく怯えながら。複数の透明な虫が、青い空、白い紙を、なめらかに這う。それは目で追うと、ついと逃げる。
 私は断じてココロの病気ではない。薬づけの廃人でもない。知っているのだ―――硝子体のかけらが、網膜に映るため起こる、飛蚊症なる症状である。『家庭の医学』に載っていた。極度の近視に多いが、急に増えた時、稀には網膜剥離の前触れであるという。
 途端に、私は恐怖した。ああ、きっと明日にも光を失う!この虫のせいで―――虫を数える日々。
 つまり自分は、あと半分しかないコーラを嘆く、悲劇的な方の人間である。

『コンタクトは、医療器具です。医師の指導のもと、正しく使用しましょう』
 ひどく充血した、あるいは白濁した、数々の目。いずれも日焼けして色あせ、壁から私を恨めしげに見つめる。
 視力検査の後、無愛想な四十がらみの女医に、褐色の目薬を差される。
「瞳孔開いて、検査しますから」
 瞳孔を―――生体反応を見れば、私は今死にゆくところである。きっちり九分、緑色の合皮のソファで待つ。待合室は、次第に輪郭を失う。幼児と母親、女性セブンも、虫も、失う。子供の嬌声に、徐々に泣きそうな気分になる。ついに目の前は、どこまでもピントの合わない失敗写真である。

「そちらに。あごと額は、そこへ付けて」
 グロテスクな医療器具。部屋は暗幕で薄暗い。異常に座高の低い丸椅子に座り、白いプラスチックに顔を押し付ける。プレパラートの上の、あの日のオオカナダモの気分である。レンズに目をつけるのに、針が飛び出すドアスコープを連想し、束の間怯む。
「まばたき、少し我慢してね」
 彼女と私は今、四枚の硝子を通し向かい合っている。私と彼女の硝子体、器具の硝子に、彼女の時計職人のような装着型硝子。難なくキスできる距離だが、気進まないので止める。小刻みに震えるペンライトに、私の網膜が晒される。
「写真とりますからね」
 写真?

 一対の白黒写真には、もやもやとした巣のようなものが映っていた。私の、網膜。何か淫猥な感じがする。返せ、その写真を。
「もしひどく増えたりしたら、またいらして下さい」
 分かりきった結果に多いに安堵し、少しだけ落胆する。

 下り坂の並木道を、引力にまかせて歩く。ギシ、ギシと膝が小さく軋む。見上げれば、冬の梢の、騙し絵のような立体感である。きっちりと三重に重なり、迫り―――繊細な黒は、私に毛細血管の模型を思わせた。



Copyright © 2007 森 綾乃 / 編集: 短編