第59期 #17
明かりが消えてる。
街灯を頼りに、アパートの玄関を開ける。
「ただいま……?」
ヒールを脱ぎながら、部屋を覗き込む。
彼は足を投げ出して座っていた。眠ってるのかも、と思ったけど、目が開いてる。無表情。
薄暗いまま、そっと近づく。
しゃがんで、顔をのぞきこんで、少し明るく言ってみる。
「ただいまっ」
バッグの紐が床に落ちて、乾いた音を立てた。
私の声以外、音は、それだけ。
ううん、違う。彼の呼吸が。ほんの、かすかに。音。
迷ったけど、そっと手を伸ばしてみた。床にだらりと置かれた、彼の左手に、触れる。
彼の頭が、動いた。左に、わずかに。
大丈夫。
そっと、そのまま、肘のほうへ、手のひらを這わせる。
彼が少しだけ、顔を上げた。さっきよりも、うん、大丈夫。
無表情な目は、私を通過して、床を見てる。
肘のあたりを、軽く掴んでみる。
焦点の合ってない彼の目は、忘れた頃に、やっとまばたきをする。それでも、わずかに顔をあげてくれたことで、私が見えてるのは、確かだから。
足がしびれてくる。座り直して、彼の二の腕を掴んだ。
その拍子に、ビー球がくぼみにコツンとはまるように、彼の目が私を見た。
「──ただいま」
かすかに、頷く。
よかった。
彼が、やがて言葉を取り戻す。
「またダメ出しされた」
テクニカルライターとしてそれなりに評価を得ていた彼が、小説を書きたいと頼むと、編集者は苦笑いをしながらも文芸部門の担当を紹介してくれた。
「そう」
「僕が笑われるのはかまわない」
彼の表情は、まだ戻らない。
「君の優しさを伝えられないことがもどかしい」
そっと、彼の頬に触れると、思いがけない早さで、彼の手が私の手を包み込んだ。
そのまま、頬から私の手を吸い込んでしまうかのように、目を閉じ、私に体を預ける。
「……無理しないで」
「どうしてわからない」
再び開いた彼の目が、痛ましかった。
「……ごはん、食べよ?」
彼の目が、わずかに見開かれ、そして──微笑んだ。
私も、つられてしまう。
あなたがもっともっと器用だったら、きっと私のところになんか、居ない。
もしかしたら、私があなたをダメにしてるのかもしれないけれど。
こんな、砂利に混じった一粒の輝きのような彼の愛しさを。
他に、わかる人がいるなら、私よりわかる人がこの世にいてくれるなら、喜んで見送る。
けれど、今は。
「ね。ごはん、食べよ。ね」
コク、と頷く彼を、今は。