第59期 #18

美術館でのすごしかた

 長い坂。美術館に行くにはここを下らなければならなかった。
「閉館に間に合いますかね」
 連れが言った。彼は大学の後輩で、お互い社会人になってからは数ヶ月に一度は会い、酒を呑む間柄だ。
 坂の向こうで陽が傾き始めている。そもそも彼の遅刻で閉館時間を気にしなくてはならない訳なのだが、後輩は平然と言う。俺は答えなかった。些か腹が立っていた。
「いい加減におまえ、髪を切れよ」
「そんなに長い?」
 美術館は坂の底の横道を抜けた所にあった。間に合った。入館する。天井は遥か高く人は疎ら。目当ては独逸人素描画家の館蔵品展示だ。俺は脇目もふらず受付へ向かった。後輩は途中で立ち止まり、ほかの客の一人と話していた。背の高い女だった。
「この人は会社関係の知り合いです」
 後輩が言った。
「どうも」
 俺と女は互いに会釈して名乗った。
 俺よりやや年上か。三十手前に見えた。露西亜人が被る毛皮の帽子にタータン格子のスカートを合わせている。
 俺はひと目で恋をしたに違いなかった。美人だった。言わずにはいられない。
「どうせですから一緒に観ましょう」

 俺は作品をキャプションの順序通りに観る。後輩はあろうことか順番とは逆から観る。女は気紛れにあの絵この絵と跳ぶ。
 俺は展示室の端から、もう一方の端に居る女を眺めた。外套をクロークに預けた女は黒いちょうちん袖のブラウスだった。その上に白い肌のうりざね顔がある。俺と女が自然と横に並び、同じ絵を鑑賞し、そうして話し掛ける機会が巡ってこないものかとじれた。
 待望の機会は一度だけあった。好機だと直感した。しかしあまりに女が真剣な面持ちで絵の前に立っているので諦めた。背筋が竹の如く伸びていた。
 詮無く素描の奔放な線の一本一本を目で追うと没頭した。女と後輩の姿が見当たらなくなっていた。

「おまえ此処でなんか喰ったろ」
 女と後輩は受付横のギャラリーショップに居た。女はショウケースを机代わりにして、恐らく今買ったのであろう絵葉書に文を綴っていた。蒼色インクのボールペン。絵は真剣に見つめていたあの作品だった。
 後輩は画集を物色していたが唇の端にパン屑が付いていた。
「なんで分かるんですか?」
 屑の色と形状からしてカレーパンだ。
「待たせたね」
 女がインクを乾かす為、絵葉書をひらひらとさせながら此方を向いた。そして後輩の口元の異変に気付くと何も言わずに親指と人差指で後輩の唇を拭った。
 羨ましかった。



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