第58期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 葬列 藤田揺転 826
2 ねがいごと チョコボール2001 1000
3 枕の下にある枕 鏡 もち 431
4 スペース・リビドー 灰人 859
5 贖罪 TM 1000
6 仙棠青 1000
7 宝の部屋 1000
8 4minutes silence 公文力 1000
9 とある日常 fengshuang 720
10 例えば千字で刹那を 黒田皐月 1000
11 男たちのヤマト 大股 リード 781
12 ジョー淀川 vs 峰よしお 頭をわしづかみされるハンニャ 999
13 チュベローズ 宇加谷 研一郎 1000
14 晴雨 白雪 770
15 わくわく 野川アキラ 634
16 僕と猫 たけやん 490
17 松の木のおじさん bear's Son 1000
18 きれいな円が描きたい 三浦 992
19 メフィストフェレス qbc 1000
20 Dreamer 群青 1000
21 美空ひばり評 わたなべ かおる 920
22 部活動生22 壱倉柊 1000
23 くろぐろとうろこを るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
24 線的虚構の解体(おためし版) 曠野反次郎 1000

#1

葬列

「この分だと明日は雨ですかねえ」
 振り返ったがスーツ姿の男は地面を向いていた。棺は前方で斜めに傾いでいる。
「墓地までは遠いんですか?」
 だらだらと葬列は続いていた。大抵の人は飽きることを恐れるように、手近な人や物に向かって話し掛けている。
「遠くもなく、近くもなく。ただあることはあるんでしょうね。皆さん向かってるようだから」
 横を歩いていた太った男が喋り出した。なんとなく気の利いたことを言われた気がして、私は彼をぶん殴った。
「雨が降ればいいのになあ」
 再び振り返ると、スーツの男はバイク用のジェットヘルメットを着けているところだった。私は靴を履き忘れてきたことに気付いた。しかしもう自分の家がどこにあるのか思い出せなかった。メキシコの夏をこさいだような風が地面の塵を巻き上げる。ミミズがちぎれて黒くなっていて、蟻が集っていた。
「ノアの大洪水のハナシ知ってます? 人間に絶望したはずなのに人間を残すなんて、神様も大分キちゃってましたね。後悔を後悔で洗うとは、ひでー話だ。でもま、とにかく何もかも流しちゃうってのは、コレ、気持ちいーんだろうなあ」
 彼は喋りながら浮き輪を広げて、空気を入れ始めた。輪型が途中でちぎれて、数字の3の形になってぶらんとしていた。
 前を行く痩せた婦人に追いついた。ハンカチで瞼を拭っている。零れ出ているのは灰だった。
 道がけっこうな坂になり、息切れがしてきた。棺はさらに傾いだ。胸の中では紙風船がぺこひゅこと動いて、私の五臓に○| ̄|_←こういう形の血球を送っている。
「まだ遠いんですかね」
 婦人は写真を取り出して眺めていた。
「息子が死んだんですよ。可愛い子でした」
 写真の中では少年が死んでいた。
 先頭の集団はどうやら墓地に到着したようだ。棺は傾いでもうほとんど垂直になっていた。彼らは墓穴に入って行った。葬列はにわかに活気付いた。押し合いへし合い、私も墓穴に入るのに夢中になった。背後で忘れられた誰かの棺が音を立てて倒れた。


#2

ねがいごと

「狐は油あげが好きなのよ。だからお供えするの。」
帰り道、近道をして神社を通ったら、ふとそんな会話が聞こえてきた。買い物帰りだろうか。茶色い紙袋から結構大量の油あげを取り出しながら、母親らしい人が幼稚園位の子供に説明している。今時着物を着た女性というのも珍しい。子供も、紫陽花のような色の着物を着ている。
「ねえねえ、お母さん、そうすればお願いきいてくれる?」
「そうよ。沢山お供えしたら、必ず願い事をきいてくれるの。ほら、ヨウコもお供えしなさい。はい、これ。」
どうやら親子らしい。油あげをもらった少女は、不思議そうな顔をしている。何気無い会話を聞きながら、僕は親子の後ろを通り過ぎようとした。夕日が差し込む境内には、僕の影と親子の影が石畳に映しだされて…ん?そこで僕は違和感を感じた。影がない…。親子の影がない…。確かに僕の影は地面に映っているのだ。じゃあこの親子は一体…。そんなことを考えているうちに、後ろを通り過ぎた僕は立ち止まり、恐る恐る振り返った。親子は急に消えるわけでもなく、母親は熱心に稲荷さんに手を合わせている。が、やはり影はない。
「ヨウコの病気が少しでも良くなりますように。」
「えっと、ヨウコは、自分の子供に逢いたいなぁ。お母さん、帰ろうよ。もういいよ。お腹すいたよう。」
はいはい、わかりましたよ。母親は袖を引っ張る娘にそう答え、名残惜しそうに社を見て、不思議な顔をしている僕の横を、軽く会釈をして通り過ぎた。お兄ちゃんさようなら。ヨウコも可愛い笑顔で僕に挨拶をした。ごくごく普通の風景だ。考えすぎなのだろう。第一、影にこだわる僕がおかしい。昨日見た漫画の影響かな。そんなことを考えながら行き先を目で追っていたら、「ヨウコ」が何かを落とした。気付く様子もなく、僕も声をかけるタイミングをのがしてしまい、親子は角を曲がってしまった。なんだろう。幽霊の落し物かな。なんてことを考えながら拾った僕は、思わず驚嘆の声をあげてしまった。それは母の形見のかんざしそっくり…いや、同じものだ。そういえば、僕の母は葉子である。病弱で、僕を産んで他界した。あれは、母だったのだろうか。ふと、子供の頃の記憶が蘇った。母親に逢いたいと、だだをこねた僕を見かねて、祖母が大量の油あげを買い込み、僕とここに来た。
「そうよ。沢山お供えしたら、必ず願い事をきいてくれるの。ほら、ヨウイチもお供えしなさい。はい、これ。」


#3

枕の下にある枕

 夕暮れどき、猛烈な睡魔に襲われ、私は身体を横たえた。目を閉じれば立ったままでも寝てしまいそうだったが、自宅で立って寝るほどの変態ではなかった。
 布団を敷くのは面倒だったので枕だけ取り出し、その柔らかいボディに頭を沈めた。
「コラッ」
 突然、きつい調子の声が鼓膜を打った。私は身を起こした。
「なんだよ〜、一体…」
「僕は今が睡眠時間なんだ。君とはまったく逆なんだよ。わかるだろそれくらい?」
 つまり彼の言い分はこうだった。自分は夜から朝まで重たい頭に圧し掛かられて、微動だにしてはいけないという拷問にも似た仕事を全うしている。それなのにまだ日が沈む前から働かせるつもりか、このおたんこなす。時間外労働もいいところだ、ぼけやろう。いいんだぜこっちは、出るとこ出たってよぅ。
 なるほど、もっともな言い分である。私はこっくりと頷くと、お腹の上に彼を乗せ、首の下には自分の腕を差し入れた。
 彼は満足そうに呟いた。
「一度でいいから枕を使ってみたかったんだ」


#4

スペース・リビドー

 ぼくはきのうぼくのちんこを切り取りました。空に向かってちからいっぱい投げたらキランと光ったので星になったのでしょうたぶん。

 エレベーターガールのかわいいおねえさんはかわいくて、ぼくはむしろエレベーターガールになりたいとさえ思いましたが、そんなかわいいエレベーターガールのおねえさんでも、やっぱり若いおんなのひとでやっぱりかわいいので、彼氏とかいて晩にはセックスしたりするのでしょう。
 かわいいおねえさんのえたいもしれぬ穴に、どこかのくっきょうな男のちんこがでたりはいったりして、おねえさんはああいいとかいいながら、こころの中ではああやっぱりこいつへたくそとかおもったり、そんなすったもんだのあげく疲れて眠って、朝にはベッドの上で、だらしないマラソンランナーみたいなねぞうで、くたっとなっていたりするのでしょう。(ぼくのいもうとは、ちいさい頃よくそんなマラソンランナーみたいなねぞうで寝ていたものでした。今はしりません。比較的おとなしくなってしまっているのでしょうか。棒高跳び選手のようなねぞうでいてくれたらと言うのは、おろかな兄の願望でしょうか)
 でもぼくのちんこは、ゆうだいなうちゅうに独り漂っているので、そんなぼくの、かわいいおねえさんにたいするリビドーのことなど、知ろうはずもありません。
 いまごろきっとあおいちきゅうを眺めて、アンドロメダをめざして、流れ星。


――ちんこへ

 げんきですか? ぼくはげんきです。うちゅうはとても寒いと聞きました。あったかくしていますか。きみはいつもぼくのからだの中でもとくべつにあったかくて、ふゆなどねるときに掴んでねるととてもぐあいが良かったので、その点ではあんまり心配していません。今日はゆうひがオレンジできれいでした。きみの所からはゆうひはみえないだろうけど、うちゅうはきれいですか? またおたよりします。かしこ。


 ぼくはもうちんこがなくてまっとうな男ではないので、手紙のおしりに「かしこ」と書くことができるようになってよかったなあ。

 宵空に瞬いたのは、一番星ではなかった。


#5

贖罪

「どうせ毎日なんの味気もない仕事を繰り返してやがるんだろうよ。そんな連中に何がわかるっていうんだ。脳内の電気信号が一方向にしか流れない、それが本当の病気なんだ。君は病気じゃない、大丈夫だ。バカどものことなんか考えなくていい。でないとミイラ取りがミイラになってしまう。いいかい?」僕は病院のベッドに横たわっている男の子に向かって優しく言った。男の子はまぶたを半開きにしたままだが、ものすごいはやさで目が動いていることがわかる。「いいかだと? 貴様がやってきたことを思い出すがいい。卑しく、汚い心を持った人間、それが貴様だ。よく憶えておけ、貴様のしたことはみんなばれちまってるんだよ。見ているやつなんか居ないとでも思っているのか? いい所なんかこれっぽっちもありゃしない。貴様は悪なんだ。わかったらとっとと消えろ。ここは貴様の来るところではない、去れ!」男の子は体は動かさないが、語気を荒げて言った。僕は少し焦っていた。なぜなら、男の子の言ったことは十中八九当たっていたからだ。僕は今まで一体何をしてきたっていうんだ。真面目に人生を過ごしてきた。真面目に? そうだ、真面目に過ごしてきた。そうじゃない思い出が仮にあったとしても、脳が自動的に消しているはずだ。僕は真面目なんだ。入院してしまった生徒の男の子に担任として何も言わないわけにはいかないんだ。「大丈夫だから、ね、連中のことなんかほうっておこうよ」男の子は少しにやついたように見えた。「連中を恐れているのは貴様のほうだろうが。まったく、どうしようもないいかれ野郎だ。自分の責任を他人に押し付けようとしていやがる。貴様は罪深い悪なんだ。連中にはそれが手に取るようにわかっている。毎日どんなに単調な行動を繰り返しているとしてもな」僕は体中に石のような冷汗を感じた。「そんなことはないよ。みんな自分のことしか考えてないんだ。君のことなんかまったく気にもとめてないんだから。大丈夫さ」男の子の目の動きは一層はやくなったように見えた。そして言う。「いつまで知らないふりをするつもりなんだ。どんな罪を犯そうが逃げきることなんか絶対にできない。貴様がここにのこのこやって来たようにな。貴様の腐りきった脳が憶えていないと言うのなら、何度でも教えてやる。貴様は悪だ」「違う! 君は悪じゃない、闘うんだ!」「は! 贖罪は貴様が悪である限り成し遂げられない、永遠にな!」


#6

 世は空前の爪ブームだった。きっかけは一人の女優が始めたことだったが、それはメディアとそれに追従することを是とする民衆の間で進化を遂げつつ瞬く間に列島中へ広がった。一昔前に流行った生易しい美爪術の類ではない。爪ピアス、スプリット爪は言うに及ばず、人体の生理代謝機能を極限まで放置し蝸牛のような指先を形作る者、伸ばした爪の先を薄く叩いて楕円形にカットし蟇のように加工する者。今や時代の美の基準は須らく爪だった。A子は常々この潮流を憂いていた。A子は元々深爪だったが、流行の流れの中に先陣を切って飛び込む女子高の級友たちの間で入学時からその一際巨大なつけ爪を外したことはなく、そのため彼女のつけ爪の事実は家族以外誰も知らないことだった。悲劇は昼食時のカフェテリアで起きた。友人が差し出すカップを受けようとした際に何の弾みか爪の先が友人の袖口に引っ掛かりつけ爪が外れてしまった。のみならず、主の手から離れたそれは落下した先に待機していたその友人のカレーライスの中心部に墓標のように深々と突き立ってしまったのである。そうして彼女はクラスで孤立した。肩身の狭い数日間を経た後に彼女は父親の書斎の引き出しから小型のペンチを抜き取って自らの指先に押し当てた。多少の恐怖はあったが既に逡巡も痛痒も感じない。ただプチンプチンというその音が脳裏に心地よく響き反響するばかりである。こうしてA子は全ての爪を失った。翌朝のA子は常ならず誇らしい思いで胸が一杯だった。私は日本国民の誰一人として成し得ないことを成し遂げたのだ。道行く人が皆私の手元を見る。教室に入ると皆が一斉にどよめき羨望と賞賛の入り混じった視線を投げ掛ける。休み時間になると級友たちが一斉に私の周りに集まってくる。教師たちの眼差しもどこか今までとは違う。翌日には噂を聞きつけたファッション誌の記者までもが学校にやってきた。何と心持の良いことだろう。しかし栄光の時は長くは続かなかった。七日と経ぬ内にクラス内に爪を持つ者はいなくなった。町の人々も然りだ。もう誰もA子を見ない。褒め称えない。一人家に帰りドレッサーの奥に封印したつけ爪を手に取って見る。それは何故か懐かしく有難い。ああ。明日はもう一度これを付けて学校に行ってみよう。皆は私を裏切り者と罵るかしら。それとも無視するだけかしら。たとえそうなったっていい。実際爪が無いと不自由なことだって多いのだから。


#7

宝の部屋

 僕は飢えていた。
 一人暮らしをはじめてから大学に行かなくなるのも必然的に無駄遣いが増えるのにもあまり時間は掛からなかった。
 原因は、自由な暮らしの中で何一つ不満のない世界の中で感じる圧倒的なこの飢えだ。
 兎に角にも、空腹感とも虚無感とも取れない何かが僕の内側を満たしていて僕はまるで砂時計の中の砂時計を満たそうとするみたいに不毛な行為を続けた。
 次第に学校に行く時間は少なくなり僕の部屋の中は空容器と本と玩具と服とその残りカスで構成されていった。
 幸い害虫の存在は未だ確認されてはいないものの僕の1LDKの部屋は散々な状況で一言で言うなら酷い有様だ。
 ソレは全ては思いのまま何もかもが僕の為に僕が形成した僕の世界。
 でもまだ足りないのだ。
 いくら部屋の中を趣味で満たしてもいくら怠惰な日々を貪っても僕は満足が出来ない。
 それでも、僕は買い、食べ、求め続ける。
 砂時計の中の砂時計を満たす為に何度も何度も。
 足りないまだ足りない。
 ほしいもっとほしい。
 空虚な欲望は果てしなく一人では寂しかった僕の部屋に僕の置き場は少ない。
 気が付いたらホラ。
 僕は、積み上げられた宝の山を踏まないように避けながら一畳足らず万年床を目指している。
 気付いている。でも止まらない。運送屋は毎日のように僕の部屋に本と玩具を運び僕は5分もせずに使うのを止める。
 宝の山がまた一つ積みあがる。
 足りない。
 もっともっともっと……。
 
 そしてある日、某国のミサイルか又は隕石かが原因で僕の部屋はあっさり倒壊した。
 当然、ヒキコモリの様な僕は部屋にいて数年かけて築き上げた僕の世界の下敷きになった。
 それはとても重く身動きとれず角ばっていて肌に刺る。
 ついに僕は自分の世界から出れなくなった。
 コレが僕の最後だ。
 でも空っぽだ、ただ漠然と僕は僕の葬式について考えている。
 そんな時、宝の瓦礫の中で慣れない振動を感じた。
 ソレはここ数ヶ月くらい放置していた携帯だった。
 とりあえず、喧しいので僕はポケットからやっとソレを取り出して開いた。
 眩しい画面に
『元気ですか?私のこと憶えてますか? 景子』
 と書かれいる誰だろう。
 その景子という人が誰なのか僕は知らない。
 間違いか或いはスパムだろうか。
 どちらにしろもうどうでも良い。
 なんだか心が軽いので僕はとりあえず瞼を閉じる。
 相変わらずガラクタの中だけど今日は安らかに眠れそうだ。


#8

4minutes silence

「それで義理の父親から薬を飲まされていたと?」
「ええそうです。引き取られてからすぐにそうするように言われました」
「どうしてそんな得体の知れない薬を断らなかったのですか?」
「当時の私には若干自閉症的な傾向があったようです。9歳でしたが当時の事を思い出しても言葉を発したという記憶がありません。そんな私を迎え入れてくれた義父はとても優しく接してくれました。私は口数こそ少なかったのですが義父に悪い印象は持っていませんでしたし私のような人間に適した薬だから毎日飲むように言われて特に断る理由もありませんでした」
「その薬を飲んで貴方自身何か感じることはありましたか?」
「特に何も感じませんでした。私は言われるままにその薬を15歳まで飲み続けました」
「15歳の時に飲むのを止めたと?」
「ええ。義父がもう飲まなくていいと言ったからです。それで私は飲むのを止めました。その頃にはもう私も人並みに冗談なんかを友達と言い合うようになっていました。ある日のことです。鞄の底にその錠剤が一粒残っているのを見つけました。義父から毎朝薬を貰っていたので何かの拍子で私が昼間に学校で飲むのを忘れてしまっていたのでしょう。そこで何か私の中に好奇心が芽生えました。ちょうど友達が頭痛を訴えていましたので私は保健室で貰ってきたと嘘を付いて彼にその錠剤を飲ませました。私は授業中ずっと彼の様子を伺っていましたが何ら変わったこともなく昼休みに彼から頭痛が治まったと礼を言われました」
精神科医はじっと私の話に耳を傾けている。人の話を聞き続けるというのは大変な労働だ。
「午後の数学の時間でした。気持ちの良い風が開いた窓から教室に入ってきて私はうつらうつらしていました。突然の悲鳴に目を覚ますと先程薬を飲ませた友達が教壇にいて傍らに倒れて痙攣している教師の右目にはシャープペンシルが突き刺さっていました」
「つまり貴方はその薬が友達の狂気を喚起させるトリガーとなったと?」
「私には何とも言えません。でもあの時の友達の顔がまるで彼自身ではなかったということが先日の私ではない私自身の姿に符号しているようで奇妙なのです」
煙草を吸っても良いかと訊ねるとちょうど私も吸いたかった所ですよと精神科医は銀製の鷲を模した重厚な灰皿をすすめる。4分間の沈黙。まるで何かの荘厳な儀式のようだ。
精神科医が長い溜息を付く。それは性交の後の心地よい柔らかな風に似ている。


#9

とある日常

 僕のもとに、その一報が訪れたのは、朝出勤しようとする6時45分のことだった。秒針は、僕の腕時計で50秒。
 鳴り始めた固定電話に、出る時間があるか確認した、そのときの映像がなぜか頭の中に残っている。6時45分50秒。
 何てことはない。ただ、ふと短針長針秒針とも左半分にあるなと思ったからだ。
「もしもし」
 普段あまり鳴ることのない固定電話。そして出勤する間際の電話に、不審な気持ちになりながら、受話器を取った。
「俺だ」
「ああ・・・・・・おはようございます」
 上司からだった。
 気を抜いていいのか張り詰めるべきか判断できず、気の抜けた返事になってしまった。
「何かあったんですか?」
「おぅ。しかし、天野、固定電話にかけるなんてとか思わないのか?」
 クレームや失敗の叱責ではないと声から判断できたが・・・・・・。
 上司・鷹山はキレ者だが、頭の線が一本切れているのでは、といわれることも多々ある人物だ。
 この人の行動だったらしかたがないと、いつも思っていた。でも、まさか、そんなこと言えるわけがない。
「確かに携帯電話にかけないのかと思うのですが・・・・・・。すみません、もう出ないと遅刻するのですが・・・」
「大丈夫だ。遅刻しねーよ。天野、早く出て来いよ。玄関前にいるから」
 え、という間もなく通話口から・・・ではなく、外からクラクションが聞こえてきた。
 外に出ると、車が一台。そして上司・鷹山。
「乗れよ」
「あ、はい。・・・・・・どこに行くんですか?」
「会社に決まっているだろう? 何言ってるいるんだ?」
 当たり前のように言うが、
「何故迎えに来てくれたんですか?」
「ん? 車変えてな。乗せてやろうと思って」

 この人の脳内を一度見てみたいと思った。


#10

例えば千字で刹那を

 振り返ってみると、俺が子供の頃に思っていたことは、もっと速くということだった。通学に要する時間をどこまで縮められるか、足腰を鍛えたし、通り道を検討したし、そこでの走り方も工夫した。それは朝に弱くて遅刻しそうだったからではなく、学校が嫌いで少しでも早く逃げたかったのでもなく、もっと速くと、ただそう思っていたからだった。
 同じ距離に対してより速くということの結果は、時間となって表れる。速度など計りようもなかったし、距離も調べたことはないのだが、今でも俺はその最短の時間を忘れずにいる。だから俺が求めていたのは、より高い速度ではなく、実はより短い時間だったのだろう。短い時間、いつしか俺はそれを追い求めるようになっていた。
 人間の目は十分の一秒程度のことしか見分けられないと言う。だから、ミルククラウンを観察するためには、時間分解能の高いビデオカメラで撮影してそれをスロー再生させなければならない。その映像は、訳もなく否応もなく俺を魅了した。この瞬間が、俺が純粋に短い時間に興味を持つようになった分岐点だっただろうと思う。ストップウォッチは百分の一秒単位の表示がされるし、陸上の短距離走の記録では千分の一秒単位まで計測されている。そんなことを俺は次々と調べていった。そしてもっと短い時間を、俺は探し続けた。
 今俺が研究しているのは、電磁波を用いての超短時間の計測である。電磁波はごく短い時間の周期で電磁場が変化する波であり、装置によって安定した信号を作ることができるものである。波であるのでその変化は連続であるのだが、これを仮にスイッチのONとOFFの繰り返しと見立てて、計測対象をONのタイミングごとに撮影したとすると、それは非常に時間分解能の高いビデオカメラとなる。必要なのはそのごく短い時間で撮影をし、記録する技術である。
 たったそれだけの間で何が起こるのか、と思うときもある。しかしたったそれだけの間で、例えば電気信号が世界中に情報を伝達していることは、起こっているのである。今俺が知っている時間よりももっと短い時間で起きている現象は確かにそこに存在しており、今俺の手が届かないもっと短い時間が、確かにそこに存在する。そのことが、堪らなくもどかしい。
 どれほど短い時間を、刹那と呼ぶのだろうか。どんな現象でも見ることのできるその刹那という時間に到達するまで、俺の研究が終わることはないだろう。


#11

男たちのヤマト

「弊社の採用面接にご参加いただきありがととうございました。慎重なる選考の結果、残念ながら今回は採用を見合わせていただきます。今後のご活躍を心より・・・」
 した手かつ高圧的な態度をとる紙切れを前に、私は無気力にひまを持て余していた。不採用になったことなど気にしてはいない。有能な逸材をみすみす逃したこの会社が不利益を被るのみだ。私は断固落ち込んでなどいない。いないのだが、それでもこの紙切れは、私の壮大なる人生の展望をジリジリと追い詰めるだけの力はもっていた。
 くそお。なみなみとみなぎった労働意欲!そして社会へのどす黒い妬み!一体こいつらをどこへもっていけばいいのか。フラストレーションの塊となった私は自然とその吐け口を探した。ふと、ごみ箱の中で一際異彩を放つカードサイズのチラシと目が合う。
「ラブコール倶楽部  090−×××−○○○ 
    40分   12000円〜      」
 なるほど。さまざまなタイプの女性と話すことで、それが私の人生におけるかけがいのない経験となることは言うまでもないことだし、少々の金銭で私の家まで訪ねてきてくれるというのだから、もはや迷う余地はないだろう。私は颯爽と懐から携帯電話を取り出し、記載の番号を軽やかにプッシュした。すると間もなく、敬語の中にも威圧感ありといった感じの男が応対する。事務的な質問をそつなくこなすと、私は最後にこう締めくくり、電話を切った。
「極上のを頼む。」
実に大胆かつスマートである。
 30分ほどでみほちゃんは到着した。彼女との会話の内容を言う気はもちろんないが、とても素晴らしい時間であったことは報告しておこう。それにしてもみほちゃんを待つ途中、実家からの荷物を届けてくれたクロネコヤマトの配達員の男性にチェンジと言おうか迷ってしまった私の優しさと許容範囲の広さには、全く自分でも驚くばかりである。


#12

ジョー淀川 vs 峰よしお

 夏、超人気作家・峰よしおが大手出版社に移籍した。待望の移籍後第一弾が発売予定の某出版社では、社員全員が『峰よしお最高』と書かれたTシャツを着ることが義務づけられていた。この夏は、褒められて伸びる男・峰よしおのちょうしを、どれだけのせることができるか、ここに社運がかかっている。失敗は許されない。そんな中、ただ一人流れに逆らう社員がいた。本物しか愛せない、やさぐれ編集者・ジョー淀川である。
「おいジョー。なぜ峰よしお最高Tシャツを着ない。きさま、社会をなめてるのか。」
 ジョー淀川は部長に襟首をつかまれた。締めつけられ、顔を真っ赤にしながら彼はこう言った。
「ど、どうもこんにちは。自分に正直でいたい男、ジョー淀川です。」
「なにをっ。こいつ!」
 部長はジョー淀川を突き飛ばし、机の上に転がした。書類が宙に舞って、峰よしお最高Tシャツを着た社員が思わず声をあげた。
「おい、ジョー。おまえ給料もらってるんだろうが。おまえの仕事はな、峰よしお最高Tシャツを着ることなんだよ。大人になれよ。」
 部長が肩に手を置く。
「ウソつき野郎がおれにさわるんじゃねえ!」
 部長の手は弾け飛ばされた。
「部長、あと5分ほどで峰よしおが、今後のアドバイスを求めてこっちへやってきます。早くジョー淀川くんに峰よしお最高Tシャツを着せないと……!」
「そんなことはわかってる、誰か手伝え!」
あっという間に、峰よしお最高Tシャツを着た男達にはさまれるジョー淀川。
「ジョー淀川、貴様に選ばせてやる。Mサイズか。それともLサイズか。」
「淀川くん、着ちゃいなよ。」
追いつめられたジョーは、後ろ手でデスクの引き出しを開けた。
「これは、社則だ!」
社則とは、会社の決まり事のことである。ファイルを部長に突きつけるジョー。
「それがどうした、あきらめろジョー。」
「ここを読んでみろ。」
「『服装は自由とする』だと。きさま社則を盾にする気か。」
「おいジョー。そんなもん、今回は峰よしお最高Tシャツが優先に決まってるだろ。」
「いいか、おれは真面目に社則を守っているに過ぎないんだよ。おれに峰よしお最高Tシャツを着せたかったらな、そっちが優先です、の文書を社長の署名入りでもってこい。今すぐもってこい。峰よしおがここに来る前に文書が到着したらおれの負け、間に合わなかったら、おれの勝ちだ。」
部長の判断は早かった。
「おい、バイトのクソ坊主、今すぐ社長室へ走れ!」


#13

チュベローズ

朝かと思えば昼どきになっていて、同僚が用意してくれたトンカツ弁当を急いで食べていたかと思えば、空気がいつのまにか夜へと移行している。

古田さんはヘトヘトになりながらもくもくと書類の整理を終わらせて社屋を出た。

(やっと人間に戻れた)

人間っていいナ、と彼女は思う。

と、同時に働くって好きだ、と古田さんは夜道のウィンドウに映るスーツ姿の自分をみて考える。色めきたつことなどないけれども、働いていると背筋がシャンと伸びてくる。それに給金を貰う月末もやっぱり嬉しいものだった。

(個人であるのと公人であるその合間の時間帯が私は好きよ!)

と、哲学調に思考する過程を古田さんは楽しむのである。

「死にに行く身の後ろ髪、弾く三味線はぎおん蝶ー」

後ろからおかしな節をつけて歌う人物がやってきて、古田さんの肩をポン! と叩いた。

「猿」

古田さんがそう呼ぶと猿と呼ばれた人物はにんまりと笑った。

「あら猿には珍しくジーンズじゃない?」

猿はよくぞ気がついてくれたとばかり、股間を開いて

「お嬢さん、ここ、みてくれるかい? 股のところ、いい感じだろ」
「あら、そうねえ」
「これヒゲっていうんだぜ」
「くたっとしてるー」
「お嬢さん今日はいつもより遅かったな」
「そうなの」
「そろそろ人間に戻れたかい」
「まだ8割しか戻ってないわ」
「じゃあいつものアレあげようか」

猿と呼ばれた男は胸ポケットをまさぐり、一枚の板チョコレートをとりだすと、真ん中からポキッと折って、その半分を古田さんに渡して自分もその半分を手に持って、二人でギンガミをはがした。

「アレ、夏なのに冷えてるわ」
「俺の胸ポケットには冷蔵庫があるのを忘れたかい?」
「ああ、そうだったわ。猿の胸には冷蔵庫があるのね」

古田さんはそう言ってしばらく黙ってから再び口を開く。

「ねえ、私あなたに『ついていけない』っていう気持ちの一歩手前になることがあるわ。あなたが人間のぬいぐるみを着た猿っていうことだったり、胸に冷蔵庫があったり」
「無理があるかい」
「ううん。その危なさ加減がちょうどいいわ」
「じゃあいいさね」

猿は歩道に停めてあった自転車を指差して「今日はあれで来たんだ」と言った。古田さんは猿の乗ってきた自転車に乗り、猿は隣で走った。古田さんのアパートに着くと扉の前にオランダ水仙が置いてあった。

「今晩咲きそうだから」猿が言った。古田さんは鍵をさしこみ、猿は着ぐるみを脱いだ。猿の汗は古田さんがふいた。


#14

晴雨

 彼はこの世に生を受けたときから光というものに全く縁がなかったから、光が一体どのような形状をしているのかを知らない。
 光だけではない。彼はこの世のあらゆるものの形を知らず、また色というものの意味をも知らない。
 
 ところで彼は全盲であるが、白状を持てば一人で外出することができる。家族や友人は心配してくれるが、彼の日課は散歩である。
 今日もまたいつもどおり夕方の散歩に繰り出した。



 あまり人通りの多くない道を自分のペースで歩く。
 
 いつもの道を歩いていると、不意に身体ごと何かにぶつかった。
 
 勢いはそれほどでもなかったが、思いの外よろけてしまった。
 
 そのひょうしに白状を落とした。
 
 何にぶつかったのか把握できず、よろけたために方向感覚を失い
 
 戸惑っていると、声が聞こえた。
 
 ぶつかったのは通行人のようであった。
 
 声からしてまだ若い男のようだ。

 男の動く気配がし、詫びの言葉と共に両手に白状を握らせてくれた。
 
 そして男はどこへ行くのかを尋ね、道案内をさせてくれと申し出てきた。
 
 散歩なので大丈夫だと丁重に断ると、男は申し訳なさそうにそれならば、と言った。

 男は彼の向かっていた方向へ導くと、別れ際にこう聞いた。

「まだ雨は降りませんか。」

 私は人よりも湿度に敏感ですが、今のところその気配はありませんよ。

 そうですか、と言った男の声音は落胆にみちていた。

 男がぶつかったことに対する詫びを再び述べるとその場を去っていく足音がした。

 何かいけないことを口にしたかと考えながら、彼は再び歩き出した。

 家へ帰るころには、男のことなどすっかり忘れていた。


   狐は晴れた雨の日に嫁入りする
   狐たちは晴れの日に雨が降らないかと
   それはそれは気を揉む
   待ちきれないものなどは人に聞いてまわる

   雨降る晴れた日は 狐の嫁入りする日



#15

わくわく

6月も終わり、春の仕事を終えた大人たちが一斉に故郷に帰ってくる。
俺は久しぶりに兄貴に会えるのを楽しみにしていた。
最後に会ったのは正月以来だから、半年振りにもなる。
叔父さんも戻ってくると言っていた。
それでもみんながみんな帰ってくるわけではないらしい。
ある者は故郷にも帰らず、また地方で働くようなことも聞いた。
さらに凄いやつになると、故郷に来て、ゆっくりしないうちに海外に行くそうだ。
俺も来年からそんな働く大人になるのかと思うと、かなりげんなりする。
最近では大人になるための準備も着々と進んでいて、
仲間と遊ぶ時間もめっきり少なくなっている。
大人になるともっとそんな時間が減るんだろうと思ってげんなりしていたのだ。
ただわかっているのは、何年か働くと故郷に戻ってこられるということ。
俺の母さんや、友達の親もここで暮らしている。
それでもみんな働く年数はバラバラで、去年まで稼ぎ頭だった近所のやつは、3年で戻って来たそうだ。
「男は帰ってきてもまだ仕事がある。」
と言っていたが、割と暇そうにしているのは何故だろう。
俺の叔父さんはまだ働いているというのに・・・。
そんな事を考えながらボンヤリしていると、兄貴の姿が遠目に見えた。
正月に会ったときとは見違えるほど逞しく、締まった体をした兄貴はかっこよかった。
かつての友はライバルとなり、お互い凌ぎを削り、どちらが優れているかを競う。
兄貴を見ていると、早くそんな世界に飛び込みたくなった。
早く自分の名前がほしい。
立派な競走馬としての名前だ。


#16

僕と猫

 人語を解する猫を飼っている。
 さっきからさんざん僕の万年筆をこねくり回していたかと思えば、やけに低い声で「割れてしまえ、割れてしまえ、割れてしまえ、割れてしまえ」と呟いている。
 なあ、気が滅入るからやめてくれないか?と声をかけると、すぐに静かになった。
 振り向いて猫を見ると、黙ったまま僕の方をじっと見ている。
 何か嫌な事でもあったの?そう訊ねると、猫は無言のまま僕の方へ万年筆を転がしてみせる。
 後ろの部分が硝子でできていて、その中に小さな金魚がゆらゆら泳ぐ細工の施された万年筆で、もちろん金魚は生き物ではない。転がりながら、中では金魚がくるくるり。
 ねえこれはさ、本物の金魚じゃないんだよ。僕がそう言うと、猫はつまらなそうな顔で「知ってるよ」と返す。
「だってさ、イライラするんだもの。動かす度にふらふらゆらゆらしてさ」
 じゃあ、動かさなければいいじゃないかと思ったが、僕は黙って使っていた万年筆を彼に差し出す。ふらふらしたりゆらゆらしたりすることのない普通の万年筆だ。彼は満足げにひげをぴくぴくさせると、また熱心にこねくり回す。
 代わりに、金魚の万年筆で今これを書いている。


#17

松の木のおじさん

 田舎の小学生三人の内一人が少し離れた県道沿いに池を見つけた。いつも定年後のおじさん達が池を囲ってフナ釣りをしている。三人も夏休みに入り、池で糸を投げるようになった。「俺王子だから王子池」と池を見つけた子が言い、三人の中で王子池で通るようになった。
 夏休みのある一日も、三人の内二人は王子池で釣糸を垂らしていた。池の名付け親はスパーまでお茶を買いに行っていた。日差しが強く風も強い日だった。一人が仕掛けを投げた時風にあおられ県道との間に並ぶ松の木に釣糸が引っ掛かってしまった。少年は竿をあおったが糸は取れず、どこに先があるかも見当がつかなくなってしまった。
 おじさんが一人来た。何も持っていないので釣りに来た人ではないようだ。「引っ掛かっちまっただか」おじさんは優しく聞いてくれた。少年はうんと答えた。木は両手で丁度持てる太さだった。取れるだかなと、おじさんは両手で木をゆすり始めた。わさわさと葉が鳴った。二人でおじさんとゆれる木を見ていた。「ほれ手伝え」おじさんは二人に声をかけた。引っ掛けた少年はそれを見ながら、糸はその木から出てているが正直針先は隣の木にあるようだと思っていた。しかしおじさんが言うから自分もついその木をゆらそうと、リールから十分糸を出して離れた土の上に竿を置いた。しかし、さて振り返るとおじさんが松の木を抱いて転がっていた。何が起こったかと、おじさんはゆすり過ぎて木を折ってしまっていた。もう一人の子がおじさんの向こう側で腹を抱えて後ろを向き顔を隠して笑っていた。先に置いた竿を見ると糸が切れていた。「取れたか?取れたか?」おじさんは木をどけて立ちながら少年の顔をのぞいた。少年はおじさんの顔に飲まれてつい頷いた。おじさんはそうかと言うと足早に去っていった。角を曲がって見えなくなると二人は共に声を出して笑った。もう木の糸のことは忘れてしまっていた。
 おじさんが行ってすぐ池の名付け親が帰ってきた。二人は何があったのか教えてあげた。名付け親は俺も見たかったなぁと悔しがった。
 そこにふと道路を見ると、先のおじさんが知らない顔で左から歩いていた。二人は目配せして名付け親に教えてあげた。引っ掛けた子は事件の犯人は現場に戻るというのは本当だなと思った。おじさんはそのまま道路のつき当たりを左に折れた。見えなくなると名付け親が道路に出て「弟子にしてください!」と二人の笑いをとった。


#18

きれいな円が描きたい

 きれいな円が描きたい、と思っている。線の頭と尻がくっついて、線の内側と線の外側という区別ができあがったその瞬間に、はじめからそこにいたような自然さで立体的に感じられるような、そんな円が描きたいと思っている。
 画用紙を机の上に置いて、右手でペンを握り、上から反時計回りで線を滑らせてみる。下に行き着くまでは順調だ。けれど、半分を過ぎ、時計でいうと「4」の辺りにペン先が来る頃には、そこからどうやって「12」のところまで行こうかというイメージの形成に失敗して、不安になり、右手右腕に余計な緊張が走り、ペン先は結局はじまりよりも外側を通ってしまい円は完成しない。画用紙の真っ白いスペースにペン先を移動させ、今度は下から、つまり時計でいうところの「6」から時計回りで線を滑らせてみることにする。が、今度ははじまりから既にきれいな円をイメージできないことに気がつく。私は、ペンを上へ、正確には奥へ向かって走らせるのが苦手なのだ。

「佐和美さん。今年の円はどうですか」
 裏の守屋さんが訪ねてきた。手には紙袋を提げている。
「毎度のことです。都会の空気を吸ったものの手先は歪むのでしょう」
 今しがた描き終えたものを渡しながら、私は言い訳をした。
 守屋さんはほがらかに笑って、あんにぇい、あんにぇい、と言って闇夜に消えた。「考え込んだってしょうがない」というような意味の言葉だ。
 この土地には、住民に円を描かせるという風習がある。年度はじめに行われ、「守屋」姓の家が順番に円の回収役に就く。回収された円は夏まで地元の寺に預けられ、祭の時に一斉に燃やされるのである。
 この風習の起こりは、一揆の首謀者を判別するべく藩が、土地の者に円を描かせ、それによって罰する者を選定したという出来事に因るらしい。やがてそれは制度化し、守屋家に藩の仕事が委託された――。しかし現代では、そういった暗い歴史を感じさせない穏やかな風習として息づいている。
 私がこの土地に移ってきてまず、円の姿に好悪はないと教えられた。裏の守屋さんにである。私はその言葉を、堅苦しいものではないから、というような意味なのだと認識していた。けれど、年を経るにつれ、その言葉の芯とでもいうべきもの、円を描くということの難しさ、そういったものが感得されてきたように思え、この風習を続けてきたこの土地の人々の真実さを感じられずにはいられないのである。


#19

メフィストフェレス

(この作品は削除されました)


#20

Dreamer

天井の隅はまだ黒くくすんでいた。
その上は兄の部屋なのだが、兄はこの所、友人と旅行に出かけている。
兄の部屋への出入りは堅く禁じられていた。その禁を破ることは、谷底へ身を投げるに等しい。
さて、今日も僕は白い花に水をやる。家の周りにある2800の白い花に、一つ一つ丁寧に。

もちろんこの作業は1日かけて行われる。つまり、僕は白い花に水をあげるためだけに生きているといっても、過言ではない。
空には虹が架かっている。3本架かっている。
なんて平和で、緩和な生活だろう。と、僕は思いを馳せる。
隕石が落ちてきて、虹を2本、かき消した。なんて平和な生活だろうと、僕は思った。
1370、花に水をやったところで、僕は隕石の落ちたところへ向かうことにした。

隕石の落ちたところはクレーターになっていた。そこからはすでに湯気が立っている。温泉だと、すぐに僕は気がついた。指を温泉に浸す。
僕はその好奇心の所為で、大火傷を負った。なんて愚かなんだと、自分で自分を罵った。
家に帰って、大火傷した指を気にしながら1371本目から水をやり始める。
なんて平和な生活だろうと、僕は思った。

2650やり終えると、僕は家へ戻った。
そこには見知らぬ猫背の男がいたので、玄関に置いてあった金槌で殴った。男はいとも簡単に死んだ。老人だった。
男の死体を引きずって、庭に埋めた。少し臭気が漂うのは、男を殺したから出るものなのか、この男の元々の体臭なのかは判断できなかった。男の体臭だな、と、僕は男の断りなしに勝手に見当をつけた。

天井の隅は依然として黒ずんでいた。やはり気になる。僕に備わった天性の好奇心は、谷底へ身を投げることを選んだらしい。
僕は部屋に兄がいないことを知りながら、いないなら入るよ、と冗談めかした演技をしながら、扉を開いた。
部屋が、真っ黒だった。
そこには兄がいた。右手には包丁が握られている。左手の手首から上はなかった。と思っていたら、部屋の隅に転がっていた。
なるほど天井の黒ずみは、この所為だったのだ。兄は旅行など行っていない。この部屋で、死んでいたのだ。
僕はそう見当をつけると、兄の死体を引きずって、庭に埋めた。死体からは何の臭いもしない。流石兄。
2651本目の花に水をやるため、僕はじょうろに水を汲んだ。
男と、兄を埋めた場所にも、水をかけてやった。明後日には、鮮やかな、真っ白な花を咲かすだろう。

なんて平和な生活だろうと、僕は思った。


#21

美空ひばり評

「やっぱり、ひばりはすごい?」
 酔っ払ったうえに風呂上がりで気持ち良さそうな父は、私の突然の問いに怪訝な顔ひとつせず、ただゆっくりと大きく頷いた。
「何がすごい?」
 私は重ねて問う。さっきまで一緒にテレビを見ていた母は、美空ひばりの声の変化に感嘆していた。若い頃の、十代の頃の声から出るのよね、やっぱり天才よ、お墓参りに行くファンが絶えないって、わかるわあ。
 父の言葉を待ちながら、私は、家族でカラオケに行った日のことを自然と思い出していた。父は演歌、母は歌謡曲、私はJ-POPSと、それぞれ思い思いに違うジャンルの歌を歌って、最後にみんなで『川の流れのように』を歌った。美空ひばりの命日だった。
「じょうっかん、かな」
「情感、ですか」
 言葉少ない父の、いや、最近はわりと語ることも多いけれど、それでも余計なことは語らない父の、ちょっと弾むように発せられたその一言から、私は様々な想像を巡らせた。
 父の言葉は厚みがある。奥行きがある。歴史と雑学を楽しむ父の知識は、社会科の苦手な私には越えられない高い山のようだ。それも、挑むようにとがっていない。悠然と連なる山脈のように、父の向こうに見える。登れと挑発するでなく、立ち尽くせと阻むでなく。ただ、当たり前のものとしてそこに在る、山々。
「聴かせてしまう」
「ああ……きかせてしまう」
 私は、また父の言葉を繰り返した。情感。聴かせてしまう。確かに、美空ひばりという歌い手は、客でいて良いのだという安心感をくれる。
 そして父の語る声もまた、深く大きく優しく響く。詰問するような私の声は、言葉は、太陽に敗北する北風のように小さく消えるしかない。父の言葉に感嘆し、その言葉を繰り返すときだけ、わずかに父の温かさを継承しているように思える。

 父はそれだけで、ふらりと寝室に向かってしまった。私に言った言葉など、三日もすれば忘れてしまうだろう。いや、明日の朝には忘れているかもしれない。
 そんな日常のひとこまが、こんなにも豊かに私を揺さぶる。
 じょうかん。きかせてしまう。
 私の中の何かが、そんなふうに人を揺さぶることができるだろうか。
 一人残された夜の中で、私は、私という素材の活用について、考えて続けていた。


#22

部活動生22

 大学生の僕は今年で二十二歳になるが、部活に参加するため、今日も高校のグラウンドを目指す。既に新入生は集まっているだろう。やる気に満ち溢れているようで、こちらも嬉しい。
 学校に着き、部室に入る。すると、隅に部員が数人、体を寄せ合っていた。どうやら一枚の書類に群がっているらしい。
「あ、おはようございます」部員の一人が僕に気付いた。
「どうしたのそれ」
「高体連のプログラムですよ」
「ええ、ちょっと見せて」
部員の手から書類を受け取ると、そこにはずらずらと選手の名前や学校名が記されていた。ああ、ついに、と僕はいささか興奮しながらページを捲った。僕が出場するはずの種目を見つけ、目を走らせる。他校の強敵が嫌でも目に付く。しかし、なぜか僕の名前はどこにも無い。
「あれ? 俺の名前は?」
少し焦りながら振り返る。部員たちは、無表情で僕の顔を見据えていた。
 その時、扉の向こうに母の姿を見つけた。僕は部員を押しのけ、母の元へ走った。
「ねえ、俺の名前が無いんだけど」
「だって、あなたもう二十ニ歳じゃないの」
母はゆっくり、言った。
「高体連は、高校生の試合よ」
「じゃあ大学は? インターカレッジは?」
「とっくに退学になったじゃない」
母は急に語調を速め、そう言った。鋭く、耳にグサリと突き刺さるようだった。
 そうなのか? 
 地面に座りこむ。
 そんな、気が付かないほど、時間というものは凄まじいスピードで過ぎ去るものだったろうか。何かを考える暇もなく、感じる暇もなく。
 そうかもしれない、と思った。とにかく、ここは僕の居場所ではなく、もう昔に戻れはしない。
 泣きそうになる僕を、母は無表情で見下ろしていた。

 バチっと弾けるように、その瞬間、目が覚めた。心臓が冷たく脈打っている。
 大きく息を吐き、汗を拭いながら時計を見ると、八時を指していた。アラームをセットし忘れたらしい。もういちど時間を確認して、僕はベッドから跳ね起きた。今日の部活は隣町の競技場で行われるのだ。
 慌ててジャージに着替え、壁に掛けたスパイクを引っ掴み、転げ落ちそうになりながら階段を下る。途中、食パンを一斤ほど失敬する。その勢いで玄関を飛び出し、自転車に跨った。勢いよくペダルを踏み出し、猛スピードで隣の床屋の角を曲がる。このまま飛ばせば、ギリギリで間に合うだろうか。風に煽られながら、コンビニの角を曲がる。
 その時には既に、夢のことなど頭から消えていた。


#23

くろぐろとうろこを

 川だった川べりを男が歩いている。
 さかなが泳いでいく。
 二、三匹捕まえる。二十匹ほどが手の中に入った。すぐに逃がしてやる。さかな達は綺麗なうろこを持っていた。
 男は自分が自分になる、そのずっと昔、さかなだった頃の記憶がある。先ほど捕まえたさかな達よりずっと巨大で、全てを持っていて、ずっと綺麗な鱗も持っていた。そして目の見えない女と暮らし、海の真ん中で、緑色した、本当に綺麗で何も無い海は緑色なのだ、それを男は覚えている、そうそんな海の真ん中で、男は死ぬ。さかなだった男は、死ぬ。
 そのことを男は覚えている。
 川だった川べりを、男が歩いている。



「だから言いたいことは何だよ」
「金を返してくださいよ」
 男は黙る。
 目の前には色々なケーキやコーヒーやミニカーが並んでいる。男は手をつけない。
「昔のあなたと今のあなたは違うんだ」
「感動、ってなんだ」
「は?」
「感動、ってなんだ。愛する人がなんか、あれか、難病だかなんだかになって、あれか、それでなんかすると感動か」
「はあ」
「みんなであれか、何かを一生懸命作って、やって、失敗して裏切られて裏切って、でも友情で、そして成功で、それであれか、感動か」
「さあ」
「わからんな」
「はあ」


 鈴の音で、鈴の男の踊りを、トーマが踊る。
 心臓を沢山ぶら下げて。
 心臓には沢山の絵が描いてあった。どこかへ行けそうな、羽のような絵。
「心臓ならいつでもやるよ」
「ありがとう」
 鈴の音。ノイズ。オルガン。
 トーマは鈴の男の踊りを踊る。



 魚を捕まえすぎてしまった。
 くろいかいがんに、ずっと立っていたから。
 両手にさかなを抱えて帰る。
 両手に魚を抱えて、砂漠を通って家へ帰る。
 さかなが跳ねて何匹か逃げ出す。砂に落ちる。空へとぶ。道の途中にピアノが置いてあるのを見た。
 誰かが捨てたのだ。誰かが、これを弾いていた、ずっと弾いていた、ずっとずっとずっと弾いていた誰かが、捨ててしまったのだ。魚を捕まえすぎてしまった。くろいかいがんに、ずっと立っていたから。
 男は女の家へ帰る。
「おかえり」
 女は手探りで男に抱きつき言った。女はめくらであった。男がそうした。女をめくらにしたのだ。そして二人はずっと一緒に住んでいる。
「こんなに沢山」
 女は包丁でさかなをばらばらにする。
 男は目を閉じる。オルガンの音。ノイズ。
 黒い海岸にずっと立っていたから。
 黒い海岸でずっと、うそを聞き続けてきたから。


#24

線的虚構の解体(おためし版)

「……要するにやね、第56期にて語り手である「わたし」の虚構性を強調しておいたにもかかわらず、前期投稿作の語り手を作者と同一視してる人が多いらしいのが、僕はどうにも不満なわけだよ。三浦さんの評感想で多少救われた格好なわけで、虚実重ねて読んでこそ、虚構の階層の線的解体が為されるちゅうのに、それを皆わかってへんのとちゃうかな」

 虚構の階層の線的解体?

「わからんゆうんやったら説明しますけどね。要するにや、前回のような本当のことを語ったかのような虚構の読み方には作者側から見た虚構レベルの積み重ねと、読者側から見た虚構レベルの積み重ねの二通りがあって、作者自身は何が実であり、何が虚であるか知っているわけやけど、読者にとってはそれは判別出来んもんであって、そやから虚とも実ともつかず、ディレンマを陥るわけで、そうやってディレンマに陥ってもらわんことには、メタ短編であった前作に対するメタ・メタ短編である今作の効果が薄れてしまうちゅうことや」

 結局、線的解体というのは何なんでしょうか?

「つまるところやな、作者側から見た虚構と、読者側から見た虚構がパラレルに存在し得るということで、つまり小説の虚構性は作品固有のもんではなしに、作品を鑑賞する視点ごとに存在するんであって、メタメタしとっても、それは物理的な階層を為すわけでなく、双方向性があるわけやね。あっちゃからこっちゃへ。こっちゃからあっちゃへ」

 単に面白くなかったという話もあるのですが。

「率直に言ってくれるね。メタ化というのはある意味ネタ化でもあって、ネタが苦手なんは自分でもわかってるけど、そこはチャレンジちゅうことにしといてや。あれは何期やったかな。作品内でその期の虚構の感想を書くちゅうのがあってやね。あれは良かったね」

 ツチダさんの『第10期感想一番乗り』ですね。ところでこれで四期連続こういった傾向の作品が並ぶわけですが、これは意図的なものなのでしょうか?

「そりゃ君、もちろんやんか。メタ化していくことによって、前期作品を内包していくことにより、千字の限界を超える試みやっちゅうのは、<うんこ三部作>の時にもしたはずやけどな。ホントはもっとふざけたもんも考えてはいるんやけど、それが可能がどうかはいっぺん北村さんに聞いてみなあかん」



(インタビューの完全版は「短編」八月号に掲載中。次号はるるるぶ☆どっくちゃん先生の登場です。お楽しみに!)


編集: 短編