# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 白い部屋。 | 成多屋さとし | 681 |
2 | 硝子の虫 | 森 綾乃 | 1000 |
3 | ビーアグッドサン | バターウルフ | 997 |
4 | 忘れられた昼食 | 公文力 | 1000 |
5 | 吉右衛門と六甲おろしのおはようサンデー | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
6 | 八丁林の探索は | bear's Son | 1000 |
7 | 逢魔が時 | TM | 997 |
8 | 医者と死神の微妙な関係 | 佐々原 海 | 939 |
9 | シバタ坂のデンジャーゾーン | かんもり | 931 |
10 | 月はただ静かに | 黒田皐月 | 1000 |
11 | パッキン | 壱倉柊 | 999 |
12 | 三軒先の如月さん | 白雪 | 853 |
13 | バドミントン | 灰人 | 414 |
14 | 暑寒 | 川野佑己 | 1000 |
15 | ガラスの瞳 | fengshuang | 966 |
16 | 花の卵 | 朝野十字 | 1000 |
17 | 彼と私の話法 | わたなべ かおる | 1000 |
18 | 美術館でのすごしかた | qbc | 1000 |
19 | 水晶振動子 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
20 | ドライブ | たけやん | 506 |
21 | カメレオン | 仙棠青 | 998 |
22 | オチのない話が書きたい | 三浦 | 957 |
23 | ナガレ | 草歌仙米汰 | 909 |
24 | こわい話 | 長月夕子 | 1000 |
25 | ぷらなリズム | とむOK | 1000 |
26 | お別れのキスのことばかり考えていた | 最中 | 995 |
27 | にらめっこ開始 | モーレツハンニャシール15枚 | 993 |
私は真っ白な部屋に居た。
床も天井も白く、四方の壁も白い。
ドアも窓もない。
広さは4畳半くらいだろうか。狭い。
ただ目の前の壁に
濃い灰色のインターホンがポツリとある。
何故、私はこんな空間に居るのか。
そもそもどうやってここに来たのか。
何故、インターホンだけがあるのか。
少しの間考えてはみたものの
ともかく誰かと会話がしたくなったので
そぉとボタンを押した。
ピンポーン。
ありきたりな音が響く。
・・・・・。
返事はない。
もう一度ボタンを押す。
10数える間に返事がなければ
もう一度ボタンを押そうというルールを勝手に決めて
心の中でカウントし始めた。
1、2、3、4、5、6、7、
8、
9、
「はい。」
低い男の声が
すでにボタンの上にセットしてあった
私の人差し指を押し返した。
「あのぉ。ここから出たいのですが。」
私は単刀直入に尋ねた。
「無理です。」
ブッ。
・・・・・。
男は一方的に通信を終えた。
その男がどういう人間かは知らないが
その態度に私は瞬間的に腹が立った。
ピンポピンポンピンポピンポピンポン
これでもかとボタンを押してやった。
「・・・はい。」
「無理ってどういうことですか?」
私はなるべく怒りを抑えるようにして尋ねた。
インターホンの向こうの男はしばらくの沈黙の後、こう答えた。
「その部屋があなたの『才能』なんです。」
ブッ。
またしても一方的に通信は途絶えた。
ピンポピンポンピンポピンポピンポン
次の瞬間、
私の中で怒りとはまた違う別の感情が湧き上がり
夢中でボタンを押し続けた。
男の返事はもうないであろうと直感はしているが
このボタンを押すのを止めてしまうと
何もかもが終わってしまうような気がしたからだ。
目医者に行った。ひどく怯えながら。複数の透明な虫が、青い空、白い紙を、なめらかに這う。それは目で追うと、ついと逃げる。
私は断じてココロの病気ではない。薬づけの廃人でもない。知っているのだ―――硝子体のかけらが、網膜に映るため起こる、飛蚊症なる症状である。『家庭の医学』に載っていた。極度の近視に多いが、急に増えた時、稀には網膜剥離の前触れであるという。
途端に、私は恐怖した。ああ、きっと明日にも光を失う!この虫のせいで―――虫を数える日々。
つまり自分は、あと半分しかないコーラを嘆く、悲劇的な方の人間である。
『コンタクトは、医療器具です。医師の指導のもと、正しく使用しましょう』
ひどく充血した、あるいは白濁した、数々の目。いずれも日焼けして色あせ、壁から私を恨めしげに見つめる。
視力検査の後、無愛想な四十がらみの女医に、褐色の目薬を差される。
「瞳孔開いて、検査しますから」
瞳孔を―――生体反応を見れば、私は今死にゆくところである。きっちり九分、緑色の合皮のソファで待つ。待合室は、次第に輪郭を失う。幼児と母親、女性セブンも、虫も、失う。子供の嬌声に、徐々に泣きそうな気分になる。ついに目の前は、どこまでもピントの合わない失敗写真である。
「そちらに。あごと額は、そこへ付けて」
グロテスクな医療器具。部屋は暗幕で薄暗い。異常に座高の低い丸椅子に座り、白いプラスチックに顔を押し付ける。プレパラートの上の、あの日のオオカナダモの気分である。レンズに目をつけるのに、針が飛び出すドアスコープを連想し、束の間怯む。
「まばたき、少し我慢してね」
彼女と私は今、四枚の硝子を通し向かい合っている。私と彼女の硝子体、器具の硝子に、彼女の時計職人のような装着型硝子。難なくキスできる距離だが、気進まないので止める。小刻みに震えるペンライトに、私の網膜が晒される。
「写真とりますからね」
写真?
一対の白黒写真には、もやもやとした巣のようなものが映っていた。私の、網膜。何か淫猥な感じがする。返せ、その写真を。
「もしひどく増えたりしたら、またいらして下さい」
分かりきった結果に多いに安堵し、少しだけ落胆する。
下り坂の並木道を、引力にまかせて歩く。ギシ、ギシと膝が小さく軋む。見上げれば、冬の梢の、騙し絵のような立体感である。きっちりと三重に重なり、迫り―――繊細な黒は、私に毛細血管の模型を思わせた。
こんなにもじっくりと母の顔を見たことは今までなかったかもしれない。四日前、母が死んだ。
今日は母の葬式。親不孝ばかりしてきた俺も、さすがに感傷的になる。結局俺は母さんに恩返しひとつできなかった。本当にだめな息子だよ。
そんな反省モードの俺を嘲笑うかのごとく、おもむろに股間がうずき始める。おいおい、勘弁してくれよ。じっとしていてくれ。股間だけに届く程度の小声で懇願する。その時だった。「立派ね」突然声をかけられて少し取り乱した俺は、思わず股間に手をやった。声の主は従姉の真衣姉ちゃんだった。
「落ち着いて立派に喪主として振舞っていた健史はえらいよ。私には真似できないな」
なんだそっちか。赤面した俺を見て勘違いしたのか、真衣姉ちゃんが俺の頭を撫でながら冷やかし気味に言う。
「照れるなって。健史がこんだけ立派に成長したならおばさんも一安心だね。きっと天国でおじさんとのんびりデートを楽しみながら健史のこと見守ってくれるよ」
俺は無理やり笑顔を作る。優しい言葉をありがとう。でも天国で父さんに母さんが会うことはないと思うんだ。なぜなら、父さんは今、俺の身体に宿っているから。
父の葬式の日。泣きじゃくる母を支えながらお骨を拾って一段落ついた時だった。突然股間に違和感が生じた俺は戸惑いながらトイレにかけこんだ。そしてズボンのファスナーを下ろし、しょぼくれたペニスをつまみだした瞬間、「よぅ、健史」と父の声がしたのだ。
「ごめんな健史。父さんなのにムスコに宿っちゃって」
悪い夢なら覚めてくれ。何度思ったか分からない。でも、現実だった。現世に未練たらたらの父は、天国に行くことを拒み、とんでもない場所にしがみついたのだった。
火葬が終わり、訪れた母との別れの時間。母の最期の姿が気になるのか、ズボンを突き破りそうな勢いで伸び上がろうとする父をなだめながら、俺は不思議な感覚が身体に宿るのを感じた。何だか覚えのある感覚。
「お父さん」母の声が聞こえた。
「房江、お前」
股間の父が喜びの声をあげる。
母さん、あなたもか。軽い眩暈を覚えながらも、俺は親孝行のチャンスをもらったことを知った。わかったよ、父さん、母さん。俺はもううんざりするぐらい親孝行するよ。よし、今日から忙しくなるぞ。
「お前も健史の身体に?」
本当にうれしそうだね、父さん。
「ええ。お父さんに何度でも会えるようにね」
悪戯っぽく右手が笑った。
大きなノックの音に気付いて目を覚ましたのは午後の1時だった。昨夜は久しぶりに深酒をしてしまったせいで意識が朦朧として記憶が曖昧模糊としている。先程より威嚇的なノックが2回。溜息を付いてベッドから身を起こす。チャイムは鳴らないようにしている。強迫神経症のようなものであれを繰り返されると僕の頭は幾分混乱してしまうのだ。
扉を開けると同じように草臥れたジャケットを羽織った二人の男が立っていた。銀行員は銀行員的に見えるのと同じく僕はすぐに彼らが警察官だと認識した。僕はデニーズの店員と同じくらい警察官が嫌いだ。だがそれを声明したところで彼らがそそくさと帰ってくれる訳もない。
大柄な方の男(タイはしているが第一ボタンは外れている)が話しもう一人が記録係に徹した。以前一度調書を取られる機会があったが僕はあれも嫌いだ。デニーズの店員の注文の繰り返しと同じくらいに。
まず僕はこの一ヶ月の間彼らに身辺調査をされていた。彼らは僕が義父の死後銀行に多額の入金をしていることも僕の携帯の通話記録も僕の大体の生活サイクル(そこにはハル子が家に来た回数も含まれていた)も把握していた。そして僕は正直に答える。入金した記憶はないし通話履歴の中に一つだけ知らない番号があると。他の番号群を見て僕は唖然とする。まず素面では掛けられないような僕の過去がそこにはあった。
記憶にないという返事に意外な位彼らは冷静沈着に対応した。普通なら凄みを利かせるものだろうが。
精神科医を以前から受診していることも彼らは熟知していた。そして僕に幾分の障害があることも。
「貴方が記憶がないと仰るのならばまあ今の段階ではそう信じることにしましょう。貴方は勝新ではない。」そう言うと記録係がクスッと笑ったが僕には全然笑えなかった。
結局僕が入金した口座の名義人と知らない携帯番号の持ち主は共にホームレス達の名前で登録されており彼らの居場所は掴めていないし知ったところで核心に辿り着くには時間が必要だということだった。よくあることです。大柄な男が当たり前のように言う。
「それが私が義父の殺害を依頼した一つの仮説になるのは当たり前ですよね。」
「まるで他人事のように貴方は仰る。でもまあいいでしょう。我々は我々のやり方で掘り下げていくだけです。もしかしたら貴方もふいに思い出すかもしれない。」
「昨日の昼食も思い出せないのに?」何となく挑発的な発言をしてみる。
玲子が深い寝息をたてている。そんなことはおかまいなしのように剛は玲子の二の腕をつねった。
「玲ちゃん」
「ん」
「なあ」
「ん?」
「おもろい話あんねん」
「は?」
「だから面白い話」
「今?」
「今」
玲子は時計をみた。見えなかった。でも外は暗い。夜明け前であることは確かだった。「はよ話して」と玲子がつれなく返事をすると、剛は「あんな」と話し始めた。
「ほら外みてみ。おひさん真っ暗やろ。なんでか知ってる? あれ、おひさん哀しんでんやで。ゼツボーや。ゼツボーって何か知ってるか」
「仕事で毎日ゼツボーやわ」
「ほうかほうか。けど、ワシがあのゼツボーのおひさんをな、なんとかしたるねん」
剛は天井に向って両足をのばし歌いはじめた。
「ぬーしと朝寝がしてみたいー、いろはにほへとーちりぢりにー、ぬーしが食えなくなったらばーララ・ラしーんでしまいたーい」
からっと乾ききった剛の歌声と突拍子もない歌詞の内容が玲子には面白く思われた。玲子はさっきまで夢の中で歌舞伎座にいて、キセルをくゆらす吉右衛門をみていた。とてもいい気持ちのところを起こされたとき、自分が大阪で夫と暮らしていて、随分歌舞伎をみてないことを思い出して少し不機嫌になった。けれど、剛の変な唄を聞いているとそれはどうでもよくなってくるのだった。
「玲ちゃん、みてみ。空、白くなってきたで。おひさんのツラ、白うなってきたで。玲ちゃんのツラも白なってるわー。ほら……面白い、やろ?」
玲子は剛の洒落がよくわからなかった。まさかこれを言うために起こしたのだろうか? アホちゃうか、と玲子は思いつつ、自分がすっかり関西に溶け込んでいることを不思議に思った。外は朝日が昇りはじめていて、ベランダにスズメが集まってきていた。毎晩寝る前に、二人で米粒をまいているからだ。
「玲ちゃん、ワシの太陽も今、おはようサンやで!」
剛は玲子の胸部に馬のりする姿勢をとった。「なんやそれ……結局それかいな。あ、あかんわ、うち、昨日からアレやねんで」
「ほんなら俺のおはようサンどないすんねん!」と剛。しらんしらんと返事をして玲子は台所に立った。カレンダーをみた。
今日は阪神電車に乗って甲子園へ行く日だ。球場には剛のような玲子を面白くさせてくれる人たちがたくさんいる。最近はほろ酔い加減も手伝って、玲子も六甲おろしを熱唱するのが楽しみになった。
「はよ、球場行きたいな」
玲子は呟き、剛は相変わらず発情していた。
八丁林の探索は転校してきた小三の勇太の楽しみだった。
八丁林は小学校の裏にある山で近寄る子供達はいなかった。
放課後に友達のいない雄太が向かうのはいつも八丁林だった。拾った枯れ枝で草木をやっつけたり、いろいろ想像をたくましくしながら茂みを歩くのは楽しかった。
ある日の下校時間。勇太のカバンに二本のロープが入っていた。今日はそれを持って山に行くのが楽しみだった。
カバンを閉めると同じクラスの俊太が机の前に来た。
「お前八丁林で何してるんだよ。いつも一人で入っていくの俺知ってるんだぞ」
俊太は男子のリーダー格だった。
「別に、何にもしてないよ」
勇太はカバンを背負って教室から出ていった。
誰かに付いてこられたら嫌だと思い、急いで走った。俊太達に教室の窓から見られていないか心配になったのと、恥ずかしさが余計に足を早くした。
林の中へ、足の向かう先は決まっていた。太い枝が横に伸びている木。この枝は石を投げるとカンという心地いい音が響く。
勇太はここにブランコを作るのを楽しみにしていた。木の下に来るとカバンからロープを取り出しよじ登った。
太い枝だった。
ロープを一本ずつ結び、それぞれの端を地面に向けて垂らした。手頃な板を探し、縁にロープを結ぶ。
勇太のブランコが完成した。足をかけてこいでみた。
校庭、そして奥の夕日に染まる街を見た。
勇太の顔も赤色で染まっていた。
次の日は教室掃除の当番だった。勇太は早く終わらせて秘密の場所へ行きたかった。
林の中は早々と夕日に包まれていた。
林の乾いた空気も赤く染まっているように見える。勇太は茂みを踏みつけて駆け上がっていった。
ブランコの木が見えてきた。
しかしそこには俊太達がいた。友達を連れて昨日勇太が作ったブランコで遊んでいた。
それを見た勇太は悲しさでいっぱいになった。悔しさで頭が熱くなって震えた。俊太達に大切な八丁林を取られてしまった。
勇太は見つかる前にその場を立ち去ろうと思った。
「あ、勇太だ」
誰かが気づいて声を出した。今度は恥ずかしさでいっぱいになった。そしてその場から去ろうとした時、俊太の声が響いた。
「おい勇太これすごいな!お前が作ったのか?」
勇太は振り向き俊太の顔を見た。
夕日で赤くなった俊太の元気な顔が見えた。
「一緒に遊んでもいいか?」
俊太の声は林の中を響いていた。
勇太の顔も赤く染まっていた。胸中は嬉しさが広がっていた。
「うん!」
勇太は俊太達のところへ駆けていった。
「悪がどんなものか、知りたいのかね?」薄暗い路地裏の片隅で、僕のことをセールスマンだと思っている車椅子の老人のその質問に、僕は胸をときめかせた。「ぜひ、教えてください」老人はにやつきながら言う。「おまえさんにその資格はない、なぜなら、おまえさんはまだ悪ではないからだ」僕も口を横に開いて、その後縦に開いた。「悪ではないから知りたいんですよ」「いいや、世の中には知らないほうがいいことだってある。おまえさんが悪を知れば、世界から悪が一つでも消えると思うかね?」「思います、なぜなら、そうならないようにするからです」「はっは、それは無理だ。なぜなら、悪は繰り返すからだ。悪を知ること、それは最初の一回目なんだよ」「何もしてないのに、ですか?」「そうだ。だからテレビのニュース番組なんか見るんじゃないぞ。最近じゃ、凶悪な事件ばかりだからな」「そんなこと言ったって、毎日のように見ていますよ」「だったら、わしに訊くまでもなかろうが」「いいえ、あなたの悪が知りたいんですよ。あなたの思う悪が」「なんでそんなことを訊くんじゃ」老人はなにか恐ろしいものでも見るような表情で僕を見た。「あなたの思う悪、それはあなたが行った悪に他ならない。つまり、あなたは罪人なのです。罪を贖うにはあなたの魂が必要です」僕はビジネスライクにそこまで言って、つい鼻で笑ってしまった。「まさか、おまえは」「レギオン。人の罪を知ってる。あなたが最も恐れている存在。さあ、魂を」「やめろ、よせ! わしは何もしていない」「あなたがさっき言ったじゃないですか。悪を知ることが一回目であり、繰り返すと。あなたはいろんな悪を知り、行ってきた。そう、いろんな悪をね。秘密を棺桶に持って入ろうとする連中に目にもの見せてやるんですよ。そうしないと、ゴミはいつまでたっても減らない。あなたは今、罪を贖うことができるんですよ。こんなにすばらしいことが他にありますか?」「しかし、魂を取られる!」老人はもう正気ではなかった。車椅子の車輪はわだちにはまって動かなかった。僕はとうとう口で笑ってしまった。「はあはは! それが悪行の報いじゃないですか。往生際が悪いな。それに僕にとってこれは仕事なんです。たいていの人間が善人づらして働いてるのと一緒です」そう言い捨てて、僕はその老人の魂を取った。そうだ、みんな一緒なんだよ。特に悪が善人づらで行われる点において。
「先生、ぼく、『しゅじゅつ』すれば、助かるんだよね?」
真っ白な病室の中、無垢で大きな瞳の少年が私を見つめる。
「ああ。絶対に助かる、安心するんだ」
私は小さな頭を優しく撫で、病室を出た。
屋上への扉を開くと、白いシーツの海と、灰色の空が私を迎えてくれた。
8月の天候の割りにはすっきりと晴れていない……まるで私の心のようだ。
「絶対に助かる、か……私は嘘つきだな」
あの子の病気はかなり進行していて手術は、暗号を忘れた4桁のナンバーロックを外すくらいに難しい。
「でも、可能性はゼロじゃないんでしょ?」
白の海の向こうに、黒のゴシックロリータファッションの愛らしい少女が立っていた。
透き通るような白磁の肌と、風にサラリと流れる今時珍しい漆黒の長髪。
彼女は『自称』死神。
「お前が本当に死神なら、あの子が苦しまないように……」
「今日は曇り……か。誰かさんの心が沈んでるせいね」
少女はツンと、話を逸らす。
「あの子を死なせたいなら殺し屋にでも頼みなさいよ。そしたら、この灰色が青色に変わるわ」
少女は天を指差しながら文句を言う。
「天気が悪いのは私のせいじゃない」
「全部あなたが悪いのよ。分かるわよ、だってあたし神様だもの」
「無茶苦茶な」
「そう?」
少女は小さく笑ったあと、真顔を見せる。
「手術……あなたを信じてくれた人を裏切っちゃダメよ」
そう言って、ぽんと俺の背中を叩く。
「そうだな……」
不思議と心が落ち着いた。
途中、何度もダメだと思った。出血がひどく、手の震えが止まらなかった。
少年は私を信じて自分の命を託したのだ。私はその期待に応えなくてはいけない。
だから私は、最後まで諦めなかった。
そして……手術は無事終了した。
「屋上からの景色が眩しいわ」
「なんだ死神か」
「うんうん。死神さんだよ」
少女は嬉しそうに俺の傍に寄ってくる。
「本当に死神なのか?」
「そうよ。あたしが仕事しないから人が死なないの」
「職務怠慢だな」
「……でも、今回は誰かさんが頑張ってくれたお陰かな?」
いたずらな瞳に私が映る。
「なぜ、助けてくれた?」
死神なら人を殺すのが仕事だと思う。
「だって命って重いし、それに……」
私をじっと見つめ、黙り込む。
死神と医者ってのは案外相性がいいかもしれないと思った。
黒いランドセルが二つ並んで歩いている。
「どこそれ?」
片方のランドセルが横を向いた。
「シバタ坂のとこだよ」
「シバタ坂?」
「ほら、駄菓子屋のシバタ。そこの坂だよ」
もう一つが横を向く。
「あー、あそこ。が、何だっけ?」
「デンジャーゾーン」
「デンジャーゾーンー?」
語尾を上げながら、ミノルが聞いた。
「何それ?」
「デンジャーゾーンはヤバいんだ」
眉間にしわを寄せながら、アンドウ君は言った。
「ヤバいって何が?」
「それは言えないな。とりあえず近づくなよ」
「何だよ、教えてよ」
「駄目だって、ANUに入らないと」
「エーエヌユー?」
また語尾を上げながら、ミノルが聞いた。
「俺らの、まあ何て言うの? チームかな」
「チーム作ってんの? へぇー、僕も入れてよ」
「テスト受けないと駄目だ」
「えーいいじゃん、ところで何でエーエヌユーって言うの?」
「安藤、西野、宇田川のイニシャルだよ」
「だせー、もっとカッコいいのにしなよ」
「だせーって言うなよ」
太陽の光を黒い革の表面が鈍く反射させながら、しばらくの間、二つのランドセルは並んで歩いていた。
片方のランドセルの背が、もう一つのランドセルの方に向いていたときに、アンドウ君は聞いた。
「お前、もうデンジャーゾーンの話、聞きたくないの?」
片方のランドセルは振り返り、ミノルは答えた。
「えっ、だってチーム入らないと教えてくれないんでしょ? 入れてくれるの?」
「じゃあ、テスト受けないとな」
「何するの?」
両方のランドセルが横に向き、ミノルとアンドウ君は向き合った。
「じゃあ、今日から夏休みだろ。3時半に学校に集合な。宇田川と西野も来るから」
「わかった」
「テストに受かったら、色々教えてやるよ。うちの学校のこととかデンジャーゾーンとか、まだ全然知らないだろ」
「ありがとう、3時半ね。あっ、僕こっちだから」
「あ、そう。じゃな、佐倉」
二つのランドセルは別々の方向に歩いていった。
こうして僕は、小学4年生の夏、転校した先の小学校でANUというチーム加わることになり、10年以上経っても、この4人は時々顔を会わせてはくだらない話をする仲になったのだが、僕こと「佐倉稔」が「ANU」に加わったことにより誕生した、この下品なチーム名は今でも僕らを笑わせてくれている。
ようやく日が西の地平に沈み、月が東の海上に姿を現した。日の高いうちは海水浴場であり、水着姿が思い思いにシートを広げていた砂浜は、今度は花火大会会場となり、浴衣姿がやはり思い思いにシートを広げていた。開始時刻が近づいて日の残光が失せ、砂浜を彩っていた浴衣姿は色を失い、目に映るものはまだ海面からそれほど離れていない高さに浮かぶ月と砂浜のそこかしこに浮かぶ蛍のような光ばかりとなった。蛍のような光は、浴衣姿が友人との連絡などに使用している携帯電話のものだろう。
遠くから大会開始の放送が流れ、花火大会が開始した。漁港の先端で打ち上げられた花火が、色を失った浴衣姿に見せつけんばかりに海上に大輪の花を咲かせた。砂浜でそれを見る観客には、光と音だけでなく、破裂の衝撃や火薬の匂いさえも感じることができた。赤、青、黄、緑、桃色などのさまざまな色の光が、あるいはまっすぐ飛んで一瞬で消え、あるいは枝垂れ柳のように残り続けて海面に落ちていった。中心点から球状あるいは放射状に大きく飛ぶ光、二段階の破裂によって随所から不規則な方向に飛ばした光、あるいは魚やクラゲの絵などを描いた光などが、次々と舞った。また、笛が仕込まれているものや第二段の破裂を細かくすることで爆竹のような音をさせたものなどもあり、光だけでなく発せられる音までもが観客を楽しませていた。そして連続して放たれたそれらが織り成す総体が、夜空のキャンバスにひとつの作品を作り上げていった。観客は一様に、月よりも高いところで作り出されたその芸術を、首を上げて眺め、あるいは携帯電話などで撮影していた。
やがてすべての花火が打ち上げられ、大会終了の放送が流れた。広い砂浜にはどの程度に観客が散らばっていたのか、拍手の音はまばらだった。しかしそこにはどれほどの観客が詰めかけていたのか、駐車場へ向かう浴衣姿の列はがやがやと賑やかで、長く混雑していた。当然に駐車場から出る自動車の列も、いつまでも進めずに列を成した。道路を彩った自動車のランプは花火よりも明るかったが、その不整然さは花火のようには美しくなかった。そのランプに映し出された浴衣姿の雑然とした列の方がまだ美しかったが、それはいつしか駐車場に吸い込まれて消えてしまった。
月はそれを、花火よりもまだ低い場所から眺めていた。もう誰も見上げることのない空を悠然と、花火よりもずっと高く上がろうとしていた。
手にしたカップに口紅の痕。またか、と舌打ちを漏らしながら、僕は居候の姉の姿を思い浮かべる。だが、三日前に姉は忽然と姿を消したのだった。じゃあお前か? と足元でにゃうにゃう鳴く猫(本当はゲームのキャラからとった名がある)に視線を落とすが、不意に、そうか、これは昨日裕美が別れの言葉を口にした時つけたに違いないと気が付き、なんだが余計に悲しくなった。
風呂場の隅の黄ばんだ洗濯機をずらすと、白いはずのゴムパッキンはカビで黒く染まっていて、薬品を吹きつけると、次の瞬間、カビの一部がうごめいた。見るとそれは爪ほどの大きさの蜘蛛で、僕は思わず後ずさった。虫は苦手ではないが、なぜか蜘蛛だけは昔から体が拒否反応を示すのだ。ティッシュ越しに伝わる感触も、殺虫剤で暴れ回る姿も駄目なので、殺すこともままならない。だから僕はただ後ずさりながら、風呂場の奥へ移動する蜘蛛を見ていたのだが、そんな僕の足元を、するりと何かが通り抜けた。猫だった。彼は蜘蛛の存在を見つけると、じっと対峙した。僕はそこまで見届けると、スポンジで壁を擦り始めた。すぐに、擦ってもいいものか疑問に思ったが、何も考えまいと、ひたすら無心で擦り続けた。
相変わらず隣では猫と蜘蛛が対峙している。僕の目には、蜘蛛がまるで切羽詰ってるかのように映った。そうだ猫、お前は強い。主人の俺よりも、攻撃力、素早さ、何もかも上だ。
だがしばらくすると、猫は風呂場を後にした。戦意喪失? 僕は横目で蜘蛛を観察しながら、さらに壁を擦ろうとして、ふと、なぜ俺は蜘蛛が苦手なんだと疑問に思い、じきに昔の姉の言葉を思い出した。
「サキちゃんが部屋にいた蜘蛛を放っといたらね、次の日の朝、口の中に蜘蛛の子がうじゃうじゃいたらしいよォー」
まったく馬鹿げた作り話。でもそれにバッチリ影響されている人間がいるのだから、世話は無い。それにしても姉、恋人が来るから必死に片付けたけど、下着くらいは持っていけよ。なんだか恥ずかしいじゃないか。他に誰も見てないけど。でもあんたの布団が敷きっぱなしだから、まだ誰かいるみたいなんだ。そういうのは、なんというか、困る。
情けない、と呟いた瞬間、スポンジの泡が弾けて目じりに付いた。居間へ行ってティッシュを五枚毟り取り、目を拭う。そのまま風呂場へ戻り、壁にへばりついた蜘蛛を引っ掴み、窓の外へ放り投げる。そして、ただひたすらに壁を擦り続ける。
わたしは如月さんに恋をしている。
わたしは如月さんのことならたいてい何でも知っている。
如月さんはわたしの家から三軒先に住んでいて、朝晩の散歩が日課だ。
彼のストレートティーみたいな瞳がたまらなく好きなのだ。
まるで何もかもを見透かすような瞳に見つめられると、わたしはたまらなく彼に抱きつきたい衝動に駆られてしまうのだった。
如月さんは花とうどんをこよなく愛していて、だからわたしは花の名前をたくさん覚えたり、どこのうどんが美味いのかを日々研究している。
どうしてこんなに如月さんが好きなのかといえば。
出会いは2年も前になる。
わたしはまだ高校生で、漠然と将来について悩んでいる時期だった。
ある日、高校の帰り道に、わたしは堤防の緩やかな傾斜面に寝転んで空を眺めていた。
すると突然上から何かが転がってきて、わたしの頭を直撃した。
それが花を夢中で観察していた如月さんだった。
突然転がってきた如月さんはすまなそうにわたしを見つめた。その瞳があまりにも綺麗で、わたしは言葉もないまま如月さんを見つめ返した。
当時のわたしは漠然とし過ぎる不安に疲れていて、そんな時に彼のあの瞳に出逢ったのだった。きっとあぁいうのを恋というのだろう。
如月さんの家が三軒先であることは後から知った。
わたしは適当な用件を偽造しては彼に会いに行った。予想では、如月さんは喜んでくれている。
如月さんは日向ぼっこが好きで、わたしはというと、縁側で空を眺めながら居眠りする彼が好きなのだ。
そして今、わたしは如月さんの家にお邪魔している。
田舎から送られてきたすいかをおすそわけしに来たのだ。
風鈴の音を聞きながらすいかをうれしそうに食べる如月さんに、わたしは思い切って、
好きです
と言った。
すると彼は例のストレートティーの色をした瞳でじぃっとわたしを見つめ、そして微笑んだ。
わたしは思わず如月さんに抱きついた。
太陽のにおいがした。
そういえば大事なことを忘れていた。
如月さんはゴールデン・レトリバーという犬種だ。
南フランスのとある丘に、一人の影がいる。
絨毯のようなみどりの柔草が風に弄ばれている。丘の上には一本のざくろの木があって、枝先で赤い実を揺らしている。
昔から影はここでバドミントンをしている。影のラケットを持っていて、影の羽を叩く。
飛んで行く羽は彼から離れると見えなくなり、一陣の向かい風が吹く。すると影はラケットを構えて打ち返す。
そうして影は暗くなるまで風とバドミントンをしている。飛び上がったりしゃがんだり、風の強い日は影の動きも激しくなる。打ち込まれてしまうと両手を上げて、やれやれといったポーズなんかもする。
曇りや雨の日は影の姿は見えない。風のない晴れた日には、影は丘の上で一人で座っている。
丘の土の下には失望して死んだ人の白骨化した死体が埋まっているという。きっとうずくまったまま埋もれてしまったのだろう。
南フランスのとあるみどりの丘に影がいる。一体何者なのかと訊ねる人があっても、答える口を影は持たない。
自分のまわりの地名には先に音があり、文字はあとから当てられたに違いないと考えた。浦和はウラワ、戸田はトダ、与野はヨノの音を表す以外におそらく意味はなく、文字から土地の起源を探ろうと試みることには厳しさがある。この考えに至った理由というのは、多摩丘陵に多くみられる谷戸地名、または同様に谷あいの土地を意味する谷地や谷津が、湿地を表すアイヌ語のヤチに由来すると知ったためだ。無論、平仮名や片仮名で表記されるかぎりは、すべての地名は日本語に含まれる。但し考慮すべきは、日本語とは何かという点だろうか。他言語から孤立した存在として日本語が成り立つことはなく、発音の部分においては特に、他言語との行き来があるように思える。
たとえば熊本弁の「ばってん」と英語のbut thenが、ほぼ同音同義に用いられることは、反論の存在はあるものの興味深い事実である。埼玉弁においても×(バツ)のことをバッテンというときはあるが、そもそもバツとは何だろうか。○(マル)は漢字で書くなら丸となるが、一般的にバツは漢字表記をしない。焼き鳥のハツが英語のheartに由来するように、バツはbutが元ではないかと考えたが、意味が適合していないと気付いた。昔、秩父困民党が幟に「小○」と書いて「困る」と読ませていたことと同様の例が、或いはバツにもあったなら、その記号や音について解釈もできそうだが、目下のところは僕の知識が足りないために、ここでひとまずは終わる。
話を再び地名に戻すと、浦和については、縄文時代の海面上昇期に東京湾が埼玉南東部に浸入していたことと、浦の字とを関連付けて解釈もできる。一方、北海道の日高地方、静内町に同じく浦和の地名があり、単にウラワの音に浦和の字を当てただけとも考えられる。但し、北海道の地名は必ずしもアイヌ語起源とはかぎらない。内地から移住した人々が故郷の地名を付けた北広島のような例もある。地名や言葉は南北方向に、交互に行き来をしていたのかもしれない。話を飛躍させれば、北海道よりさらに北、たとえばシベリアのどこかにウラワやトダやヨノといった小さな町があるかも判らない。遠くのウラワが浦和からの移民による町なのか、発音の偶然の一致であるのかは不明だが、埼玉より遥かに涼しい気候にあることは判っていて、多分、少しは似通った言葉を話している。語彙を増やすためと避暑とを兼ねて、いつかはここを訪れたい。
物心がついたとき。記憶の始まりは額にキスされた瞬間からだ。それまでの記憶は断片的で、曖昧なままだ。額にキスをした彼女は、持ち物のほとんどを手放すときに、様々なものに生命を与えた。その瞬間こそが彼女の絶頂期だったのだろう。 今どうしているのか、噂の一欠けらさえ、私の元には入ってこない。それから後に見た景色は、彼女のところにいたときと比べると明るい。
太陽のにおいがする子供たちと、一緒に散歩へ行ったりもした。
子供の右手に私の・・・・・・人間流に言うと左手を繋ぎ、芝生の上を走った。青い空に、どこまでも広がる緑色。子供の笑い声を聞いた。あまりにも子供たちが私ばかりに懐くので、犬のライはやきもちを妬いたりしたものだ。しかし、ライと私の生はあまりにも違う。老いるのが人よりも早いライは、物事の悲哀というものを噛み締めるようになったと言い、それから私たちは良き友となった。
人を見上げてみる視点のライと、人と同じかそれより高い位置に置かれることの多い私の視点の違いは面白いものがある。子供たちが大きくなると遠く感じるようになるというライに対し、私は子供たちの表情が大人びていく様が、早いと感じる。
子供たちも大きくなり、ただの飾りと化したテディベアの私を
一番気にかけていたのは、3人の子供のうち、一番早くに生を受けた子供だった。彼の産まれたお祝いに、私はこの家に来た。そのせいもあるのだろう。年頃になった彼は誰もいないところで、私の額を小突き、何気ない一言をくれたりした。
彼がこの家を出た数年間も、私はこの家にいた。ただ、ひたすら何もなく、一度置かれる場所が変わったくらいで。
結婚することになった彼は、私を連れに戻ってきた。もっとも、私はついでだろうが、私を持っていくことを何気なく、しかし有無を言わせず家族に伝えた。
元々、私は彼のものだ。彼の祖父が彼の祝いにあげたものなのだから。
「子供ができたら、子供に渡すべきか迷っている」
車に目一杯荷物を積み、新居へ向かう道すがら彼は言った。私はその荷物の上にちょこんと座っている。
「ただ、昔から家族を自分が持ったときは連れて行くと決めていたんだ」
それきり、彼は喋らずカーラジオをつけた。
生命の終焉はお互いそう遠くないのかもしれない。ただ、許されるのであれば、私はまだ共に彼といたい。
サトシは小学校の担任の高田先生に母親と共に呼ばれた。高田先生はいつになく厳しい顔つきだった。
「学校のウサギ小屋でウサギが内臓をえぐられ殺されていました。サトシ君がウサギ小屋に入ったという目撃証言があります」
不審がる母親を高田先生は別室に連れて行った。しばらくして戻って来た母親は表情が一変していた。高田先生はサトシの犯行だと決め付けた。
「サトシ君を警察に引き渡す。どうしてもやったと認めないのか? 嘘つきをこのまま警察に引き渡すと本校の名誉に関わる」
「ぼく、やってません」
高田先生は母親に目配せした。
「サトシ、手を出しなさい」と母親が言った。
サトシが手を差し出すと母親がそれを掴んでテーブルの上に押し付けた。高田先生がカッターナイフを取り出し、サトシの手のひらに顔を近づけカッターナイフの刃の先でサトシの指をくすぐった。
「指が五本、だから五回質問しよう。君がウサギを殺したと認めない間、一本ずつこれを突き刺す。小指から始めるよ」
サトシは泣き出した。
「先生、もう少し良いやり方があるんじゃないかしら」と母親。「うちの息子が先生の役に立つことをして、先生がその見返りをしてくださるといったような……」
「なるほど、続けて」
「サトシは花の卵を見つけたんですよ。そうよね、サトシ」
「…………」
「それは大変興味深いねえ。どこで見つけたか教えてくれるかい?」
「それとウサギとどう関係するの?」とサトシ。
「サトシが先生に協力すれば、先生も悪いようにはしないわ、そうでしょう、先生?」
「そうだ。君が花の卵の在りかを教えてくれれば、君を警察に引き渡すのはやめてあげよう。どうだ?」
「ウサギと花の卵はどう関係があるの?」
「今、先生がおっしゃったでしょ。先生の言う通りにしなさい」
「これは取引だよ。サトシ君。君がコンビニでお菓子を買って金を払うのと同じことだよ。君はお菓子を手に入れ、コンビニは金を手に入れる。双方得をするんだ。それが取引だよ。この世界はみな取引で成り立ってる」
「ぼくはウサギを殺してない」
高田先生は立ち上がり、テーブルをバンと叩いて頭の上からサトシを怒鳴りつけた。
「花の卵はどこだ! 答えろ!」
サトシが花の卵を見つけたのは偶然だった。神社の境内の森を友だちと探検に来たら、大きな木の根っこの下に小さな丸いものが輝いていた。あれが、宇宙人の侵略から地球を救う鍵なんだ。サトシは歯を食いしばった。
明かりが消えてる。
街灯を頼りに、アパートの玄関を開ける。
「ただいま……?」
ヒールを脱ぎながら、部屋を覗き込む。
彼は足を投げ出して座っていた。眠ってるのかも、と思ったけど、目が開いてる。無表情。
薄暗いまま、そっと近づく。
しゃがんで、顔をのぞきこんで、少し明るく言ってみる。
「ただいまっ」
バッグの紐が床に落ちて、乾いた音を立てた。
私の声以外、音は、それだけ。
ううん、違う。彼の呼吸が。ほんの、かすかに。音。
迷ったけど、そっと手を伸ばしてみた。床にだらりと置かれた、彼の左手に、触れる。
彼の頭が、動いた。左に、わずかに。
大丈夫。
そっと、そのまま、肘のほうへ、手のひらを這わせる。
彼が少しだけ、顔を上げた。さっきよりも、うん、大丈夫。
無表情な目は、私を通過して、床を見てる。
肘のあたりを、軽く掴んでみる。
焦点の合ってない彼の目は、忘れた頃に、やっとまばたきをする。それでも、わずかに顔をあげてくれたことで、私が見えてるのは、確かだから。
足がしびれてくる。座り直して、彼の二の腕を掴んだ。
その拍子に、ビー球がくぼみにコツンとはまるように、彼の目が私を見た。
「──ただいま」
かすかに、頷く。
よかった。
彼が、やがて言葉を取り戻す。
「またダメ出しされた」
テクニカルライターとしてそれなりに評価を得ていた彼が、小説を書きたいと頼むと、編集者は苦笑いをしながらも文芸部門の担当を紹介してくれた。
「そう」
「僕が笑われるのはかまわない」
彼の表情は、まだ戻らない。
「君の優しさを伝えられないことがもどかしい」
そっと、彼の頬に触れると、思いがけない早さで、彼の手が私の手を包み込んだ。
そのまま、頬から私の手を吸い込んでしまうかのように、目を閉じ、私に体を預ける。
「……無理しないで」
「どうしてわからない」
再び開いた彼の目が、痛ましかった。
「……ごはん、食べよ?」
彼の目が、わずかに見開かれ、そして──微笑んだ。
私も、つられてしまう。
あなたがもっともっと器用だったら、きっと私のところになんか、居ない。
もしかしたら、私があなたをダメにしてるのかもしれないけれど。
こんな、砂利に混じった一粒の輝きのような彼の愛しさを。
他に、わかる人がいるなら、私よりわかる人がこの世にいてくれるなら、喜んで見送る。
けれど、今は。
「ね。ごはん、食べよ。ね」
コク、と頷く彼を、今は。
水晶振動子とは水晶の圧電効果を利用して高い精度の周波数の発振を起こす受動阻止の一つ。クォーツ時計、無線通信、コンピュータなどあらゆる現代エレクトロニクスには欠かせない部品である。
「有難うウィキさん」
「困った時はいつでも呼びな」
「キャー格好良い! つまり要するに! 水晶に電圧を加えると非常な精度の振動を発振してくれる! ってことなんだ! 解ったかなみんな。解んないか。まああたしも解んないけど、でもだから。そんな時は実験!」
「実験!」
「有難うみんな! そんな訳で、この完璧な、傷一つ無い、世界で一番神聖な聖堂に置かれた水晶のように、眩いくらいに美しい、17歳、思春期真っ只中、好きなバンドはヤーヤーヤーズのベルバーナ君で一つ! 実験しよう! しようよみんな!」
「実験! 実験!」
「さあベルバーナ君、あたしの作ったこの実験装置の中に入って」
「ち、ちょっとやめて下さいよ、やですよ」
「言うこときかないとこのカート・コバーンモデルのピック、あげないよ」
「いらないですよそんなもの」
「良いから良いから。あとで良いことしてあげるから。とぉっても良いこと」
「だからやですってば!」
「よし! 入った! 実験開始! 助手のピコピコマシーンのピコリン君、スイッチお願いね!」
「ぴこ、ぴこ」
「ああ、そこのスイッチじゃないよそっちそっち、そうじゃなくて、あ、それだ」
びびびびびびび!
「痺れる痺れる痺れる! 電気で痺れる! これ凄い痺れる! やめて!」
「震えてる! ベルバーナ君が震えてる! 実験は、成功だね!」
「成功! 成功!」
「ところで、この小説は水晶振動子なんて名前なのになんでそんな名前の子が出てこないのかしらねえ。振動子ちゃんなんて、かわいいじゃん」
「知らないです!」
びびびびびびび!
「ところであたしはこんなに可愛い、黒いレザーのミニドレス、黒巻き髪、もちろん下着も黒、黒いガーターベルトに黒いストッキング、黒いエナメルのヒールに黒いマニキュア、でもちょっとだけ唇は赤、そこがアクセント! って感じにすっごく可愛いのに、性別では女子ではありません、というのはなんで?」
「知りません知りません知りません!」
「ねえ、あなたを見ていると、いつもは別にあってもなくてもどうでも良い存在の股間のアレが熱くたぎるのは何故? すごくどくんどくんいってるのはどうして?」
「だから知りませんってば!」
「ねえ」
びびびびびびび!
何年か前の夏に、夜、友人の運転する車でドライブに行ったんだ。
広い田舎道でね、見えるものは、畑とか原っぱとか、そんなのばかりだった。
開けた土地で、空がとても高くてね、窓を全部開けてさ、気持ち良かったな。
月の明るい夜でね、のどかな風景にすっかり気を許していた。
他に走っている車もないし、もちろん誰かが歩いているはずもない。
聞こえてくるのは、車のエンジンの音と風の音、あとは虫の鳴き声くらいだった。
しばらくそうやって走っていた。道はまっすぐで、迷いようもない。
道が緩やかなカーブに差し掛かった頃、そろそろ引き返そうかなんて話をしていたら、急に運転していた友人が、驚いた顔をするんだ。
どうしたのかと思って、前を見ようとしたら友人がブレーキをかけた。
どうしたんだよと尋ねたら、友人はフロントガラスから目を逸らしながら、前を指差すんだ。
そちらを見たら、友人と同じように思わず目を逸らしたくなった。
たくさん顔があって、じっと立ち尽くしたままこっちを見ているように見えたんだ。怖いというか、ぞっとしたな。
よく見るとそこにはさ、何十本ものひまわりがみんなこっちを向いて咲いていた。
ひまわり畑だったんだ。
ある冬の午後、僕は一匹のカメレオンを拾った。そんな時期にカメレオンが残っているのは本当に珍しいのだが、そいつは電信柱の根元で地面と同化するように縮こまって震えていた。嬉しくなってすぐに下宿に連れ帰りその貧弱な身体を温めてやると、そいつは愛嬌のある顔でこちらを見つめつつ餌をねだる。
僕は中学時代に生物の授業で習ったカメレオンの飼育法を思い出しつつ書店に走り、ここ数ヶ月のベストセラーを買ってきて与えてみたが、いくらそれを鼻先に置いてみても、なかなか手をつけようとしない。
このままではせっかく拾ったカメレオンが死んでしまう。弱り果てて大学の友人に電話をかけてみると、馬鹿だなあ、まず芥川あたりから慣らすんだ、と教えてくれた。
薦めに従って、今度は図書館から芥川龍之介全集を借りてきてやると、初めは気が進まない様子だったカメレオンも次第にゆっくりと頁を繰り始めた。そしてそのペースは段々と速くなり、夜までには全集を全て読破してしまったカメレオンの身体は少し大きくなっていた。何しろ二つの眼が別々に動くので、ただでも常人の二倍の速度で読めるのである。
次の日は川端康成と村上春樹、その次の日は泉鏡花にドストエフスキー……ジャンルはばらばらでも、カメレオンは貪るように古今東西の名著を読み散らかしては成長していく。身体が大きくなるにつれて表情も豊かになり、スウィフトを与えたときには、読みながらさも面白そうにけらけらと笑っていた。
しかし、年が明けた頃からそいつの著しい成長はもはや膨張としか呼べないようなものになっていった。ただでさえ手狭な僕の下宿はカメレオンの身体で埋まりつつあったので、あるとき三日間ほど一切の本を与えることを止めてみた。
しかしこれが逆効果だった。カメレオンは、日頃の愚鈍な動きからは想像もつかないほどの勢いで暴れまわり、それに従ってさらにその腹は膨張していく。狂ったそいつは、部屋中の時刻表から歯医者の診察券までおよそありとあらゆる活字を眼で追っては飲み込んでいったが、不思議なことにすでに読み終わった書物には全く興味を示さないのだった。
僕は大家への言い訳を考えながら文字のないユニットバスの中に非難していたが、やがて一瞬の破裂音に続いて外に静寂が訪れた。恐る恐る出ていくと、そこには肥大したカメレオンの姿はなく、部屋の中央には手袋ほどの大きさのカメレオンの皮だけが残って風に揺れていた。
ついこのあいだ愛犬を亡くしたばかりの男。気になっていたエジリという女性からクリスマスプレゼントを渡された。箱の大きさから帽子かと思ったが、持ってみた感じはもっと重たいもののようだ。帰宅し、開けてみると、中には精巧な作りのぬいぐるみが入っていて、これが妙に重い。その重みが変に生々しく、気味悪くなった男は、結局箱から出さないまま床についてしまった。箱がかたかた鳴る。血が溢れる。蓋が飛び、中から血みどろのかつての愛犬の頭が……目が覚めた。汗をかいていた。酒をあおりに行くその途中、ふと箱の前で足が止まった。が、そのままやり過ごす。しかし、その帰りに箱がひっくり返って空になっているのを見てしまう。そして何かが床を掻いて走り去る音も聞いてしまう。男は、恐る恐る愛犬の名を口にしてみた。「ブードゥー!」するとあのぬいぐるみだと思っていた死体が男のもとへ飛んで来て、ブードゥーが得意とした死んだふりの芸を見せるのだ。
……これではいけない。
サゲアリスキィはここしばらくこれでいこうと思うアイデアを出せないでいた。週に三本、いわゆるショートショートを書き続けて来たサゲアリスキィだったが、いつまでもこのジャンルを書き続けてもいられない、と思い詰めていた。
煙草に火をつける。禁煙中だった。
散歩に出る。飛沫の曲線が砂に吸い込まれる。この波の音の騒々しさに驚き、けれどそれもいつしか気にならなくなっていった。昔はむせ返っていた異臭の中にいても、今ではこうして煙草の美味さに浸れるし、ブルーシートがめくれていても、直す気にもならない。人には絶えず刺激が必要なのだ。やはりショートショートなのか……。
ひさしぶりに図書館へ足が向く。一冊だけ出版された自著を探して、まるで汚れを知らないそのページを捲っていると、これは必然的にだろう、ある一節に目がとまった。むせていた。臭いだ。ここはきちんと片づけたはずなのに――外から入って来る臭いだけにやられているのだ。目で追っても内容が入って来ないので、むせながらでも朗読する。
「人類史……上っ、最後のひと……りが、ぼっ、玄関で靴紐を結びなおし……て……いだっ。するど……そ……こ……へチャイ……ムのお……おどがっ!」
書斎で今日二本目の煙草を吸いながら、サゲアリスキィは耳を傾けている。
環状の流れるプールが、市営プールの敷地をぐるりと一周している。彼は私に背を向けて、流れに沿って私から離れていった。
「君はそこを動くな。僕が一周したら、また会えるだろ?」
私は水底に根を下ろした。流されるわけにはいかなかった。
私の周囲をいろいろな人間が流れていった。彼らは半ば、何かを諦めたような顔で流れに身を任せている。そんな中、私は彼が戻ってくるはずの航路をしっかりと見据えていた。たくさんの目が私を捉えていた。時々、流れが速くなったりもした。私はよろめき、転びそうになり、そのたびに、無駄なのに、という意味の声が聞こえてきた。私は呼吸を肺にできるだけ溜め込んで、水の中に顔をうずめた。世界の雑音が平べったくなった。
水中で目を開ける。たくさんの脚が、規則正しい動作に専念している。男性の脚、女性の脚。集団を成してしまったせいで、たくましさとか、美しさといったものがまるで失われていた。ただ、進むためだけの道具に成り果てている。
具体的数値は分からないけれど、膨大な時間が流れたのだろう。彼は、未だここに戻ってこない。私は他の人と違ってちっとも動いていないというのに。彼の言いつけを忠実に守っているはずなのに。
息が続かなくなって、水面から顔を出した。まもなく太陽は晩夏の蝉のように力尽きて落ちた。この広いプールのどこかに、激しい水しぶきと共に溺死したのだろう。
そこにはもう小麦色の行列はなかった。夜の女王が追い払ったのだ。その代わりに、数十本の枯れ木が流れてきた。それらはみんな彼の顔をしていた。怒ったり、笑ったり、泣いたり、驚いたり、愛したり、愛されたり。それでも全部、つくりものなのである。彼は見事な腕の彫刻家で、いつも自分の顔で、心で練習していた。
私はふと自分の手の平に目をやった。長い間水につけていたせいで、すっかりしわしわになっていた。
朽ち果てるのね。なのに、私ったら、今まで一体?
月光に照らされた、彼の彫刻刀が流れて来て、長々と伸びた根を、ずたずたに引きちぎって去っていった。私は、それはもう思い切り四肢を伸ばして、仰向けになった。
このプールが環状であることなんか、もはや信じていない。
トイレの話をするわ。
私が東京へ出てきて最初に暮らした部屋は、阿佐ヶ谷で1K家賃3万のアパートだった。アパートといっても大家さんの敷地内に建てられた離れの2階、201と202しかないような小さな建物で、202は大家さんが物置に使っていたから実質住人は私だけだった。お風呂はついていなかったけれど、すぐ近くに銭湯があったし、東南角地で風通しも良く、大家さんもすごくいい人だったから私はその場で決めた。アパートの外階段からは新宿副都心が見えて、東京で暮らしているんだなあと実感したものよ。こうして私の東京暮らしは順調にすべりだしたように見えた。
このアパートのトイレは小さいながらもとても綺麗にしてあった。古いアパートにありがちな和式のトイレだったけれど、ちゃんと磨かれていてタイルもピカピカ。難を言えば少し狭かったけれど、そんなことは気にならなかった。実際に使ってみるまではね。
あなた、狭い和式トイレって想像つくかしら?便器を跨いで座ったとするわね、そうすると鼻先ギリギリにタンクがあるのよ、まさに目の前。うっかりしたら頭をいやと言うほどタンクにぶつける破目になる。だからどんなにあわてていても、自分がしゃがんだ時にタンクへ頭をぶつけないよう気をつけなければいけない。そうかと言って少しでも後ろへ行こうものなら、ひっくり返る事になる。足を後ろに下げるスペースは無いのよ。要するにすぐ後ろはドア。残念ながらドアノブは少し壊れていて、鍵がうまく掛からないからちょっと押すと開いてしまう。私の言っていることがわかるかしら。例えば、タンクをよけようとしてちょっと体を後ろに反らした瞬間、運悪くバランスを崩すと体ごとドアにぶつかってしまう。さらに運が悪いとドアは開き、私はその情けない格好のまま、玄関に投げ出されてしまう。というのも、トイレは玄関のすぐ脇にあったから。玄関は昔ながらのコンクリートのたたき。そのまま後頭部からたたきに落ちたとしたらどうなるかしら。打ち所が悪かったら私の意識がなくなるでしょうね。まさにかえるをひっくり返したような体勢のまま、私は誰かに発見されることになるわ。
どうしたの?これが怖い話かですって?そうね、あなたにはわからないかもしれない。
けれど恐怖って大概、他の人には取るに足らない、くだらないものだったりするの。そしてそういう恐怖に、人は簡単に捉えられてしまうものなのよ。
ネットに飽きて夜空を見上げると、満月がまるではんぺんみたいにふわふわ白かった。そのままふわふわ見ているうちにふわふわ体が沸き立つ心地がして俺は気づくと何かふわふわしたものに置き換えられていた。
腹が空いた気がしたので冷蔵庫を漁ったら凍った鶏肉が出てきた。切って焼こうと包丁を入れたら手が滑り、鶏肉は切れず自分の指がぽふんと転がった。特に痛みもなく切り口がふわふわと盛り上がってきた。どうやら再生の兆しらしい。指を拾ってみると同じようにふわふわ動いているのでちょっと気味が悪かった。切り口から指が三日ほどでふわふわ再生した。こんな生き物を俺は知っている。プラナリアだ。
ネットの掲示板に「プラナリアになりました」とスレを立ててみたら、三日で百ちょっとのレスがあった。大まかな傾向は「切って写真をうpしる」「氏ね」「俺は○○(その他の生き物)に鉈よ」そしてキャッチとかワンクリとか関係ないカキコでまあ四等分というところだった。「プラナリア」でググッてみたら、頭の尖った白いなめくじのようなプラナリアが、胴体の半ばまで唐竹割りにされて、双頭になって復活する前後の姿を写した二枚の画像を見つけた。俺が立てたスレでは「銀杏切り」だの「かつらむき」だのと無責任な書き込みが幾つも来ていたけど、やればできると言われたって、はいそうですかとやってみる気持ちになんてなれない。
一週間がたち、切った指の方もふわふわ俺になった。とろとろ眠たげな目もたぷたぷの腹も俺そのものだった。俺達はてれてれと夕方に起き出しては、夜じゅうネットやらテレビやらほけほけと過ごし、夜明け前に何かもそもそ腹に入れて、敷きっ放しの蒲団にへろへろ転がって眠った。消費者が二倍になって、僅かな蓄えはみるみる減っていく。仕事の人間関係で自分がコマ切れにされるのは嫌だけど、通帳の残高がとうとう三桁になって仕方なく俺達は働くことにした。月曜、じゃんけんで負けた相棒がバイト先への初出勤を飾った。一日交替だから明日は俺の番だ。仕事はコピーとか、書類の破棄とか、要するに雑用だった。
「シュレッダーが、無闇に元気なんだよ」
ひん曲がったネクタイ(俺が結んだ)をぎこぎこほどきながら奴はいう。俺は強力な回転で書類をばりばり噛み千切るシュレッダーの前で、ネクタイを絞めておどおどびくびく書類を裁断する明日の自分を思い浮かべた。今度の仕事も長続きしそうにない。
子供の頃に見た映画のワンシーンを今でも覚えている。暗い部屋で膝を抱えて、いや、そうだったろうか。題名はなんだったろうか。僕らはゆっくりと記憶を改竄していく。元々よくないんだ、記憶力は。そういって笑ったのは僕だったのか君だったのか。君は誰だったのか。
画面の向こう、白黒の子供達がそっとキスを。
お世辞にも満月とは言えない、中途半端な丸い月が浮かんでいる。駆け出そうとして止めた。立ち止まり、背負っていた彼女の身体を正しい位置に。表情は見えない。恐らく眠っている。酔いつぶれたんだ。そういうことにしておく。月の明かり街灯の明かりコンビニの明かり。すうすうと寝息。
彼女は前の前の前の前の、生涯二番目の彼女で、恋人の意としての彼女で、歳を重ねるたび広がり続ける人間関係ネットワークの果てに僕らは再び出会うことになった。世間は狭いね、なんて言いながら、十一桁の番号と暗号じみたメールアドレスが彼女の元に届いてしまった事実を僕は嘆くべきだろうか。背中からくしゅんという声。困った。彼女が起きなければ彼女の家がどこにあるのか分からない。僕は途方に暮れる。これがその状態なのだとしたら。
可愛いとか綺麗とか、頭がいいとか優しいとか、そういう言葉は聞き飽きちゃったんだ。グラスを傾け彼女は笑った。本当に彼女があの頃の彼女だったのか、僕は今でも判断できずにいる。重ならないんだ。よく分からない。思い起こせばあの頃の僕は二人の愛を深めるなんてことより、これからやってくる別離のことばかりに目を奪われるようなペシミストだった。公園の木々がざわめいている。象の遊具が鼻を揺らし、池に月の雫が零れる音が。思い出せないことばかりだ。
ねえ、僕らが別れた時って、どんな感じだったのかな。誰にともなくそう尋ねる。
「ウサギがいっぱい」
彼女が呟く。彼女の瞳に僕は映っていない。今、彼女は別の世界に旅立っている。僕は想像する。足下に群がる無数のウサギ。ドロドロの粘液に塗れ、ピルケースからサプリメントの餌を撒いたりして、戻れるものなら完璧な少女に。だが、完璧な少女は得てして少女とは呼べないのではないだろうか。そんな考えとは裏腹に、今の彼女となら幻想の中に閉じこめられていたあのお別れのキスが再現できるかもしれないとも思う。今の彼女の表情はあの時僕が愛した彼女の笑顔に限りなく近く、触れてしまいたくなるほど仄かには愛しい。
このたび、世界タイトルマッチという舞台で、宿命の日本人対決をむかえることになりました。岡山県出身、チャンピオンの蚊取り線香・諸星選手。そして栃木の秘密兵器、挑戦者の山中ザウルス選手。このお二人による対談をお送りします。夢の対談です。
山中「どうも初めまして。ボクシングひとすじ、山中ザウルス。今日も減量中。」
なにひとつ反応をしめさない蚊取り線香・諸星。
山中「諸星くん、試合本番は、正々堂々、ファイトしようよ!」
山中ザウルスが椅子から立ち上がり握手を求めるが、完全に無視する蚊取り線香・諸星。
山中「恐竜は絶滅してしまったけど、当日はリングで、山中ザウルスが火を吹くよ!」
諸星「火を吹く種類の恐竜なんていないさ。そいつは漫画かなにかの、世界だぜ。(カメラ目線)」
テレビの前のチビっ子(岡山県)「イェイ!」
山中ザウルスはあっとばかりに口を開き、手で声をおさえる。何事もなかったかのように目を細め、眠ったような表情でコーヒーに角砂糖を入れる蚊取り線香・諸星。※1粒
テレビの前のチビっ子(岡山県)「よし! 山中ザウルスもこれで終わりだな。とんだ甘ちゃんだぜ。もう勝負がはじまってることに気づかねえなんてな……。スポーツはビビったほうが負ける、心と心の戦い。所詮、より平常心を保てるやつが強い。言ってみりゃ、にらめっこみたいなもんよ。山中ザウルス、おまえはもう諸星のダンナに喰われちまってるのよ!」
おしぼりを広げて顔を拭き、一旦、さっぱりする山名ザウルス。何事もなかったかのように気さくに質問する。
山中「蚊取り線香・諸星くんこそ、このリングネームの由来を教えてよ。」
諸星はさらに角砂糖を入れながら興味なさそうに答える。※2粒
諸星「聞きたいかい?」
山中をじっとにらむ諸星。しばしの間、沈黙する2人。
テレビの前のチビっ子(岡山県)「カモン!」
諸星「おまえのパンチなんてそうさ、蚊トンボみたいなもんだ。何匹でてこようが、蚊取り線香の前にポトポトポトポト(3粒)……床に落ちてゆくだけさ。」
山中「甘党?」
驚いて顔をあげる蚊取り線香・諸星。
テレビの前のチビっ子(岡山県)「こいつ、人の話を聞いてねえのか!」
同(栃木県)「そうだ、山中。それで良い。飾らない、ありのままのピュアな自分でいること。これが逃げずに戦うということだ!」
山中「甘党?」
諸星の鼻の穴が広がり、ポーカーフェイスが破壊される。