# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 四十五円 | アサギ | 853 |
2 | 大きな三角定規 | 藤舟 | 1000 |
3 | ジンジャエール | otokichisupairaru | 1000 |
4 | 地図 | ワタナベ | 748 |
5 | 蜜柑 | 森 綾乃 | 995 |
6 | スラムダンク | ハンニャ | 955 |
7 | 金魚ガ笑ウ | 仲根琴 | 248 |
8 | ピアスの青年 | 八海宵一 | 1000 |
9 | カニャークマリの夜 | 公文力 | 1000 |
10 | 図書室の思い出 | TM | 997 |
11 | 短編59期参加作家へのオマージュ | ロチェスター | 1000 |
12 | 悪戯好きな彼女 | HYPER | 745 |
13 | 続 こわい話 | 長月夕子 | 992 |
14 | 擬装☆少女 千字一時物語14 | 黒田皐月 | 1000 |
15 | 赤いマリオネット | 藍沢颯太 | 549 |
16 | 少年たちは薔薇と百合を求めて | qbc | 1000 |
17 | 海を見ていた(1000文字版) | わたなべ かおる | 1000 |
18 | 公園の | Setsu | 879 |
19 | T・B | fengshuang | 822 |
20 | 天使の絵が描かれたカード | 佐々原 日日気 | 998 |
21 | 「人がゴミのようだ」と彼の人は云いました。 | 天音 | 756 |
22 | The perfect world | 灰人 | 992 |
23 | 保険金詐欺とばれて親指も保険金も失った春に | 咼 | 1000 |
24 | 女たちと古い本 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
25 | 旅、馬、東、そして西 | かんもり | 901 |
26 | ビルの狭間でかえる童心 | bear's Son | 1000 |
27 | 575 | 三浦 | 992 |
28 | ごっつぁんです | バターウルフ | 800 |
29 | 藻屑 | もぐら | 1000 |
30 | 彼方 | 壱倉柊 | 998 |
31 | さらさらの髪 | 雨夜 | 897 |
「ちょっとさ、五円もってない?あったら借してよ」
そう聞かれて、僕は後ろを振り向いた。
「あるけど…なんで?」わずらわしそうに答え、五円を取り出し、そいつに渡した。質問に答える事もなく、五円を受け取ると、サンキューといい、そいつは小銭を賽銭箱に投げ入れた。
僕と友達のミツオは、学問の神様を祀っているという、有名な神社にわざわざ願い事をしにきたのだ。あの高校に入れますようにと…。「やっぱさ、賽銭が肝心なわけよ。」帰り道、アイスを食べながら、ミツオは自慢げに語りだした。「オレは、四十五円いれたぜ。始終御縁がありますようにってな。」借りたお金でもいいのかな…そう思ったが、あまりに得意そうな顔をしているので、だまっておいた。境内の白い玉砂利は光輝き、空はどこまでも青く澄んでいた。
「ねえ、早くいこうよ。暑いって。」その声にふと我に返った僕は、振り返りせかすように僕をみるアキを眩しく見つめた。
「だいたいさ、なんでこんな暑い日に神社来るわけ。蝉がうるさいだけじゃん。」アキとは高校で知り合った。僕と同じ陸上部の短距離選手で、夏の合宿明けの今日、あの神社に無理やり誘ったのだ。今日じゃなきゃ駄目だった…。そう、今日はミツオの命日なのだ。あの日の帰り道、ミツオは交通事故に巻き込まれ、他界してしまった。四十五円について嬉しく話していたのに、バニラアイスが好きだったのに、あのミツオはもういない…。なあ、俺はあれから勉強、頑張ったんだぜ。お前が着たかった制服、陸上のユニフォーム着るために。いつも俺の前走ってたよな。勝ち逃げは卑怯だって。あの時より、俺、速くなったんだって…。お前が助けたあの子、元気だぜ。ほら、そこにいるだろ…。
「あ、ちようど四十五円ある。ラッキー。ずっと御縁があるってことかな。」アキは、甲高い声を出して喜んでいる。御縁か…。アキとの出会いも、ミツオとの別れも何かによって決められているのかな…。なんて難しいことを考えながら、財布をあけたら、ちょうど四十五円入っていた。アイツの声が聞こえた気がした。
絶対安全なものしかない座敷牢でそれを見つけました。畳の下に挟まっていたのです。なんで畳を引っぺがす気になったかなんて聞かないでください。それは何で自殺しようとしたのかと同じくらいくだらなくて疲弊する質問だからです。
それは錆びてもいず、私が手に取ると薄暗い部屋の中で唯一きらっと凝縮された光を放ちました。
さて私は今度は唯一壁紙がはがされたコンクリートの壁で、二つある鋭角のひとつをがりがり擦ってとがらせ始めました。なぜかと問うようなやつはまぬけです。私はよほどまともな公共放送のニュースでも言葉使いに虫唾が走るタイプの人間なので、そんなことは聞かないでいただきたい。
さてそれを弐万回ばかり擦りつけた頃、ようやっとその鋭角はだいぶ尖ってきて、こんなに同じことをずっとやったのが久しぶりだったからに違いないでしょうが、少し変な感慨が湧いたのです。
私は人間の皮膚を剥いできれいに開くと三角になるという話を思い出しました。人の皮をこの三角で剥いで三角にする。なかなか面白い冗談ではないかと思われました。剥ぐ人は誰でもいいのです。でも母親はいやだなと思ったのは母親の肌が汚かったからです。
しかし問題は、三角ですから正しいところを切らずに間違ったところで切り開いてしまうと、皮は三角にはならず、不細工な四角になり全く意味がなくなってしまうということでした。
私はさらに考えて、やがて腹を縦に裂くか背中を裂くかどちらかだというところで行き詰りました。いったいどちらにすべきなのか…。間違うと菱形のできそこないみたいなのができるだけです。
私は頭の中でポリゴンの人間の形を作り平面に展開してみました。しかしおかしなことにお腹で切っても背中で切っても三角になるのです。道理に合わないので、どこかで間違えたはずなのですがいったいどこで間違えたのか何度やり直しても見当もつかない。それどころか適当にでたらめなところで切り開いて展開してみても三角になるので、これはもう本当に訳がわからなくなりました。指の先から螺旋状に裂いても三角になるのです。
私は思いつくかぎりの方法で人間を展開してみましたがどれもこれも三角になるので、とうとう鋭角は之までにないほど尖り、むしろマンションの壁のほうが手抜き工事のせいで耐えられなくなり穴が開く始末。やがてやっと人が通れるくらいの穴があいたので私はそこから脱出して墜落し、つぶれて死んだのでした。
「マコちゃん、おはよう。」
「チヒロ、今日も遅くなるから、先に寝てなさいよ。」
ちぃちゃんのお母さんは、私達のランドセルをぽんと叩くと、あっという間に坂道を駆けていった。
ちぃちゃんは、私と同じクラスの男の子だ。
お母さんと二人暮し。
仕事で帰りが遅くなるので、私の家で宿題をし、夕飯を食べる。
隣町でちぃちゃんのお父さんが、ベトナム屋台というお店を開いている事は、町内で有名だった。
色キチガイ。
近所のおじさん、おばさんは口々に噂している。
ちぃちゃんは、自分が悪いことをしたように、いつも下を向いて歩いている。
ちぃちゃんのお母さんは、気にも留めていないようだ。
都会的でかっこいいと私のお母さんは言う。
ちぃちゃんは、頭が良くて、絵も上手、おとなしい、おまけに足も速いので、女子から密かに人気がある。
でも、お父さんに一度も会った事が無い。
こたつで算数の宿題をしていると、
ちぃちゃんが突然、
「今度、ベトナム屋台に行かない?」
私は言葉に詰まってしまった。
ちぃちゃんは続ける。
「前々から考えてたんだ。お金ならお年玉の貯金があるから、心配しなくていいよ。」
ちぃちゃんは、一度決めた事は必ず守る。
気持ちがぐるぐるしたまま、頷いていた。
ドアを開けると、ベトナムの民芸品やちょうちんが飾られている。
テーブルにランプが置かれていて、全体的に薄暗い。
「ガキの来る所じゃないぞ。」
マスターは、細い目をもっと細めてにっこり笑った。
ちぃちゃんに似ていて体も細くて、きゅうりみたいだ。
「ジンジャエール。」
怒っているみたいな大声でちぃちゃんが言った。
マスターは横目でちぃちゃんをみると少し笑い、威勢のいいガキだと呟いた。
スーパーや自動販売機では見た事がない、外国の文字で書かれたビンが出てきた。本物の生姜が入っているみたい。飲むと体がぽっぽっする。
しばらくすると、綺麗なお姉さんが、サラダを作ってくれた。
優しい笑顔で、くすぐったい気分になった。
ちぃちゃんは普段無口なのに、よりいっそう意思を持って口を閉ざしている。
レタス、蛸、ピクルスを頬張っている途中、変な感じがした。
ざらりとした感触。
口から取り出すと、お姉さんの長い長い髪の毛だった。
気付いているのかも知れない。
よく見ると目の奥が、凍りつくほど冷たい。
マスターは肉を切らしたので、買い物に行くと言っている。
ちぃちゃんは、あいかわらず黙ったままだ。
私はハラハラしながら、ジンジャエールを飲む。
地図はいつでも正確だ
何分の一という尺度から道がどのように走ってその脇にどんな建物があるのか
ことこまかに教えてくれる
ぼくはそこに自分の生活を書き込んでいく
家を基点にして、小林さんの勤めているジャズバー
小林さんは木曜日から土曜日まで顔を出し、たのめばいつでも
「煙が目にしみる」を体全部で弾いてくれる
ランチタイムには賑わうカフェ、ここのランチは絶品なのだ
「文」の文字で表された中学校、自転車で通るといつもサッカー部なり
野球部なりが練習している。
コンビニ、スーパー、薬局、いろいろな生活を書き込んでいく
さまざまに書き込まれたメモから
ぼくの目の前にそれらの場所で生活する人たちの息遣いが聞こえてくる
それらに囲まれたぼくの家だけがなんのメモもされずに、地図からとりのこされている
書くことはコップから溢れるほどある
しかし、いざ手で掬おうとすると、指と指の間からみるみるうちにこぼれてしまう
こぼれた欠片を拾い集め、ジグソーパズルのようにひとつひとつ当てはめていく
すると、ぼくの家のピースだけがどうしても見当たらないのだ
そこにこそ、ぼくの長い物語が書かれていたはずなのに
欠落した部分の周りを指でなぞってみる
ジャズバー、カフェ、中学校、コンビニ、スーパー、薬局
それぞれに触れるたびに、指先にかすかに電流がはしる
ぼくがメモしたよりも、ずっと長い物語がそこここに隠れている
それは暴風雨の中を行く一艘の帆船の話かもしれないし
朝の静謐な空気のなかから香る真新しいシャツの香りだったりするかもしれない
毎週金曜日の夜は小林さんのピアノを聴きにいくことにしている
その音階の隙間にも小林さんの物語はひそんでいるのだろうか
静かな調べがぼくの心を揺らし
高い音階がぼくの耳の奥で踊る
ぼくはぼくの物語を読むために
小林さんのピアノを聴きにいく
ひとりぼっちで、冷蔵庫のようなショッピングモールをうろつく。過剰な笑顔の店員が近寄ってきたので、そそくさと逃げる。
街の赤色が目の奥をちくちく刺す。頭に鈍痛を覚える。加えて、ひどい空腹だった。しかし、何を食べる?自問し、色々を思い浮かべるその途端、胃の奥から不快感が込み上がる。油でぎとりと光り、虫のように蠢く唇と舌を思う。嫌だ。
満ち足りた人々の、細波のような笑い声。もういい。帰ろう。いらいらとして、重い硝子の扉を押すと、吹き込む熱風に、くらりとなる。
深く傾いた夕方の日差しが、十分に鋭い、八月のおわりである。じりじりと焼かれながら、長い影と、家路を寂しく歩く。
突然の、ささやかな欲望。
蜜柑が食べたい。
あの香り、陽だまり色の果肉を思い浮かべたその途端、視界がじゅんと滲んだ。狼狽して、涙を拭う。だめである。止まらない。
私の蜜柑を思う。冬の、ごろごろと無骨なそれではない。こじんまりして、外皮の薄い、ハウス蜜柑だ。果肉に傷をつけないよう慎重に剥く―――刺繍糸のような白い筋は、すべてを丁寧に取る。大切に育てられたのだ。優しく、清潔な甘み。
何が、私をこんなに悲しませるのか少し考え、ようやく思いあたる。母が時々、蜜柑の好きな私の為に、買ってきてくれたのだ。季節はずれに、遠足や運動会のお弁当に、こっそり入っていた。
つまり、本当に欲しかったのは、ちっぽけな優しさだ。
小さな灯りを胸に、スーパーに行く。
あるにはあった。しかし、あの幸せの果実とは似ても似つかない。パック詰めされた6個の蜜柑は、いかにも貧相で、がたがたといびつだ。蛍光灯に、茶の斑点が目立つ。
それでも、欲しかった。甘い記憶が、とても欲しかったのだ。しばし呆然とする。手は伸びない。
私はすでに、醜い自分に、税込み980円を以って喜ばせる価値を認めなかった。
とぼとぼと向かったのは、『缶・瓶詰め』の棚である。105円、中国産の蜜柑缶。おまえには、これくらいが相応しい。ひっそり笑い、レジにごとり、重い缶を置く。
私は一人、私の為に買ってあげた蜜柑缶を開けた。きこ、きこと、小気味良い感触と音が、少しだけ楽しい。半分をタッパーに入れ、半分を硝子の皿に開ける。その色は、いささか鮮やか過ぎる。薄暗い台所に、シロップできらきら光り、浮かび上がる。
冷たい果肉を口に含む。人口の甘さは、とろり、思ったより透明だった。
僕(ハンニャ)は、地下牢へ続く短い階段をゆっくりと降りようとしたが、途中から2段飛ばしで駆け下りた。僕(ハンニャ)の怒りはもう、自分ではどうにもこうにも、言葉ではとても言い表せないような、自分の全”生まれてきてから死ぬまでに使う力”をもってして爆裂させんばかりだった。
そこには、ものすごい数の牢屋があった。100部屋くらいあった。1部屋に2人ずつくらいぶちこんでいる。
「おら!」
僕は、あっつあつに焼けた鉄の棒で、床を思いっきり叩いた。棒の持つところはちゃんと熱くないような工夫がなされている。
「よくもやってくれたな、おまえら、おれよりもおもしろいことをいっぱい考える人たちめが。」
僕はまず、ダウンタウンが閉じ込められている牢の横のほうについているスイッチのひとつめを押した。すると、鉄格子の内側に、水がもれないようにぴっちりと強化プラスチックの蓋が閉まった。
「おまえら、先週もいっぱいこのおれよりもおもしろいことを考えやがって。自身なくしちゃうだろうが。」
2つめのスイッチを押した。すると床から噴水か? これはもしや噴水か? と思わんばかりの噴出しっぷりで水責めがはじまった。
「おまえら、この世で一番おもしろいことを考えるのは誰だ? 言ってみろ!」
松っちゃん「ハンニャさんです」
浜ちゃん「ハンニャさんです」
「このくそド素人が!」
僕はダウンタウンに生ゴミを投げつけ、容赦なく3つめのスイッチを押した。すると天井にある隠し部屋の蓋が開き、空気が抜けたビニール製のシャチが降ってきた。僕はビニール製のシャチをパンパンに膨らませた。
「おい、よく見とけ!」
僕はシャチのおなかをパンチした。見事、シャチは破裂した。
「どうだ、おれは天才だ!」
おれはふと思い出し、100mほど向こうに閉じ込めてある人をこらしめるため、走った。いくつもの牢屋を通り過ぎた。通路を走るおれを、ぐるぐる巻きにされた鳥山明が見ていた。
おれは汗をかいていたので、エアコンの設定温度を2度下げ、リモコンを藤子・F・不二雄のおでこに手裏剣のように投げつけた。おれは前だけを見て走った。
「杉浦! ハア、ハア。杉浦茂このやろう!」
杉浦茂の牢屋にたどり着いたおれはそこに立ち尽くした。杉浦茂はいつのまにかいなくなっていた。
思い切り殴ってやると
彼女の鼻から一筋の鼻血が流れた。
赤い、赤い、
それは、やがて彼女の白い肌をつたって
床へと落ちると一匹のかわいらしい金魚に変わり、
ぴちぴち、跳ねた。
「君、それは金魚じゃないか」
『ええ、金魚ですよ。次はもっとうまく出して見せます。』
彼女は艶っぽく笑った。
ああ、この表情が私を狂わせるのだ。
なぜ殴らせるのか。
金魚は用意していた茶碗に水を貼ったものに入れておいた。
きっとこいつも1週間後くらいにはぷかぷか浮いているのだろう。
明日にはこの女を実家のある島根に連れて行く。
私たちは結婚する。
コンビニの前で、店から出てきた一樹と目が会った。看板の明かりにピアスを光らせ、彼は気まずそうに視線をそらした。
早紀は転校してきたばかりの一樹に、どう声をかけていいのかわからなかった。いつも机に突っ伏して、誰とも打ち解けようとしない彼は、教室で孤立することを選んでいたから。早紀は戸惑った。気づかないふりをしようかと思ったが、この距離では手遅れだった。
「今晩は、榊くん」
一樹がぎくりと体をこわばらせた。もしかしたら彼もやりすごそうと思っていたのかもしれない。観念したように顔を上げた。
「えっと…」
「小川、同じクラスの」
「…どうしたの、こんな時間に?」
いつもの制服姿と違い、一樹は黒のカットソーにデニムのパンツを穿いていた。ただそれだけなのに大人びて見えた。
「夏期講習の帰り。榊くんも塾の帰り?」
一樹は頭をふり、普段は見せない穏やかな顔つきで応えた。
「ここでバイトしてるんだ…親父の稼ぎだと、食えないから」
「ごめん、変なこと聞いた」
「別に」
一樹は短く呟き、歩き出した。後を追うつもりはなかったが、帰る方向が一緒なので少し間をあけてついて行く。お互いが意識する微妙な距離のままで。
耐え切れずに沈黙を破ったのは、早紀だった。
「バイトのこと知ったら、ナベの奴、残念がるかも。榊くんを勧誘しようとしてたから」
「ナベ? 勧誘?」
突然の言葉に、一樹が振りむく。
「うん、ナベっていうのは渡辺のこと。クラスで騒いでる奴いるでしょう? あいつ、陸上部の部長なの」
一樹が、思い出したように頷いた。
「で、ナベが言うには、榊くんの脚は、絶対、陸上向きなんだって。だから陸上部に誘うって言ってたの。でも、バイトしてるんなら、無理だよね」
早紀の言葉に、一樹はもう一度頷いた。
「でも、やってみたいな…短距離やってたし」
「本当に? 入部しなよ」
「けど、バイトあるし」
「相談したら? 聞いてあげるよ」
一樹は首を横にふった。
「それぐらい聞ける」
少しはにかみ、白い歯を初めてみせた。
翌日、一樹が教室に行くと、誰が見ていたのか、早紀と一樹が、夜、二人きりで歩いていたことがスキャンダルになっていた。早紀が反論し、火に油を注いでいた。
口笛を鳴らし、一際囃し立てている奴がいる――ナベだ。
一樹は一瞥しただけで、何も言わなかった。
ただ、まっすぐ自分の席につき、いつもどおり机に突っ伏したまま、一樹はなにも言わなかった。
ハル子の作ったインドカレーを食べた(実に美味かったがカルダモンの欠片が奥歯に挟まっている)。ソファの上で僕はハル子の足裏の角質を取る。薬局で購入した新商品の角質取りは見事にハル子の残骸を削ぎ落とした。
根掘り葉掘り聞かれたわよ。新堂さんとの関係はともかく私のことまで。そう言うとハル子は変形型かかと落としを僕に喰らわす仕草をして冗談よと笑った。
警官が来たのが?
キックに決まってるじゃない、警官の話は本当。
ハル子は僕を恋人だと警官に答える。失礼ですが単刀直入に言わせて頂きますと貴方は二股をおかけになられている訳ですか?と警官(勿論先日の二人組だ)。ハル子は特に狼狽しない。そのことは以前から僕には周知の事実だ。僕も特に狼狽はしない。
ハル子には恋人がいる。榊原君というその青年は今は主に両生類を専門にしたペット屋を細々と経営している。ハル子は榊原君とインド最南端のカニャークマリで出会った。ハル子は今の仕事に就くまでは趣味で海外を転々としていた。寂れた海沿いのレストランでキングフィッシャーを2本飲み(食べることには飽き飽きしていた)酒屋で名前も分からないウィスキーを買ってホテル(馬鹿広いがお湯は出ない。130ルピー)に戻る途中久しぶりの日本語を聞いた。
こんな遅くに日本人の女の子が一人で歩いているなんて何て僕はラッキーなんだろう。天井桟敷の人々という映画にもこんな軽薄な台詞があったなと思う。榊原君は丁寧に自己紹介した。自分は怪しいものではないと。確かにこんな夜中に酒屋からメイン通りに戻るまで散々男から声を掛けられた。都会とは違ってこっちの人間は英語が下手糞だ。向こうも流石にしつこく言い寄っては来ない。
榊原君はハル子のホテルの場所を聞くとじゃあすぐ自分と近くだと言う。薄闇の中で聞く榊原君の声に邪険なものはないような気がした。
今から見世物小屋に行くのだけれど良かったら一緒に見に行かない?
すっかり酔いは醒め始めていたの。それで見世物小屋って言葉を聞いて何だかピーンと来ちゃったのよね。それで一緒に行くことにした。まるで縁日に向かうみたく。
さぁかかともすっかり綺麗だ。ゆっくり続きを聞こう。
ハル子は子供みたく自分の足の裏を眺めると満足したようにありがとうと僕にキスをした。その拍子につっかえていたカルダモンの欠片は僕を離れてハル子の舌先を掻い潜り闇の中へ飲み込まれていった。
「よく映画なんかの批評で注文つけるやついるじゃない。俺はおまえなんかがって思うわけ。純粋に内容への感想だけを書けって言うと、注文を付けたがるんだよね。作品は作品としての人格があり、感想には感想としての人格がある。そういうことじゃないかな」居酒屋のカウンター席で僕の隣に座っているのは、まぎれもなく、あいつだった。あいつが今、僕の横に座って、なんだか訳のわからないことをのたまっていやがる。僕はそれだけでも十分幸せだった。旧友との会話が今の僕には必要だった。「そ、そうだよな」僕は答えた。「第一、一般人っていうのはそもそも賢いものなんだよ。なぜかって言うと、お釈迦様と衆生との関係を大切にしているからなんだ。なのに、神様気取りのバカが居るかと思えば、言葉の意味を自分で調べようともしない幼稚ごっこ、虫酸が走るね」僕はちょっと背伸びしたつもりだった。「言うねえ、おまえも。だいぶまわってきたか。要は誰も悪くない、最初から何もなかったんだよ。そこに山ができ、小川が流れ、海や空や白い雲まで作り上げた、それは誰ですかって話」「誰?」「俺様だよ」一瞬の沈黙の後、僕たちは腹の底から笑った。「ははは、おまえ昔っからそうだったよな。だからあだ名は先生だった。はは、憶えてる?」「憶えてるに決まってるだろ。あれはあれでつらかったんだぜ」「うそつけ、いつも七三分けだったくせに」「てめえ、それを言うなら、おまえにだって罪障はある」「え? なんだって」僕は急にわからない言葉が出てきて笑いが冷めてしまうところだった。「わからん言葉を使うな」「つまり、おまえの罪だよ」僕はその言葉で完全に冷めた。僕はぬるいビールを一息にぐいっとやった。「なんだよ。言ってみろよ」あいつもコップを口に持っていきかけたが、途中でやめた。「中学生のとき、あの図書室を憶えてるか?」「ああ、それがどうした」「おまえは本を読まずに、そこから外の風景を見るのが好きだった」「そうかもな」「あれは四階だったかな、最上階だから眺めは良かった」「ふん、それで」「おまえは握手が心底嫌いだった」あいつがそこまで言ったとき、いつものように僕はすべてを思い出した。そこまででシークエンスは真っ黒な闇の渦になって消え去った。僕があいつの手をとっていれば、あいつは助かっていたかもしれない。僕が老人施設のベッドで見る郷愁を帯びたシークエンスはいつも同じだった。
ブードゥー!
テディベアの目覚ましが朝になると女の声でブードゥーと叫ぶ。
「いい声よね」
隣室から姉が顔を出す。瓶のコーラを一気に半分飲んで、残りを俺にくれた。
「ね、ご飯たべよ?」
姉は気をつかってくれている。だけど俺、うまく反応できない。何も答えずテレビをつける。山中ザウルスの優勝会見のあと、教師が子供を閉じ込めて切り落とした指を犬に食わせるニュースがあった。世界も俺の人生も狂ってる。
ジャージのままアパートを出る。姉が何か言っているが聞えないふりをしていたら本当に聞えなくなった。階段を下りていると「やあ」と声がした。
「姉さんいるかい」
「ああ」
「おこづかいあげようか」
俺はカメレオン野郎から金をふんだくるように取って、走った。俺と同じくらいの歳なのに!
暑い。俺は公園にいた。ブルーシートのむせかえる臭いが落ち着く。ひまわりが俺のほうをみていた。死神が人間だったらこんな顔で近づいてくるだろう。
大きな犬を連れていた車椅子の老人をめがけて、子供が枝をなげつけているのを見た。俺は教師の気持ちがわかった。
グランドではおっさん4人がバドミントンをしている。羽根をたたくたびに「A」「U」と叫んでいる。あほだ。一人が俺の股間をみて「立派ネ」と言ってきた。やりきれない。でも俺も居場所がない。インターホンを押しまくりたい気分だが俺の押すべきインターホンが見つからない。
街を歩いた。佐賀の公立高校が甲子園で決勝に残った、とおばさんが喋ってる。関係ないのに嬉しくなってきた。ポケットの札たばを持って、駅へ。甲子園へ行くんだ。佐賀を応援するんだ。
球場は満員だった。俺はよく知らない奴らを全身で応援した。隣に座っていた女が「勝新太郎みたい」と俺に声をかけた。誰?
「携帯に水晶が宿ってるのよ、美しいでしょう?」
「知らねーよ」
「どうしてジャージ?」
「うるせえな。佐賀応援しろよ」
「佐賀なの?」
「埼玉だよ」
「頭おかしい?」
「おまえだろ」
「ねえ。梅田いかない?」
「なんで」
「ヤンセンの絵でもみようよ」
結局俺は試合も放って女と絵を観にいった。「哀切」という絵が気にいった。地獄に落ちていく俺のようだと思った。俺は一人ではなかった。女もなんかいい女だった。
花火の音が聴こえていたがビルが高くて見えなかった。そのかわり月がよくみえた。俺は女にキスしようとした。女はそれを制止して「こわい話をするわ」と言った。俺に怖いものなんてなかった。
勇一へ。
二百四十二ページ。ちょうど主人公の少年が、一年前に死んだはずの母親と再会するシーンにそれはあった。
やっと見つけてくれたみたいね。あなたはこの本大好きだったから、必ずもう一度読み返すだろうって思っていたの。この手紙はいつ読まれているのかな? ねぇ、今隣に私はいる? いるよね? 昨日あなたが言ってくれた言葉は私の宝物になったんだから。
端正な顔立ちとは裏腹に、子供っぽく悪戯な性格の仁美らしいやり方だなと思った。
今朝だってそう、テーブルに仕掛けられた手紙に心臓が止まりそうなほど驚いてしまった。
驚いた僕を見て、笑う仁美の姿が浮かんだ。
まったくなあ、あきれと愛しさを織り交ぜたため息がこぼれた。
緩んだ口元に指を添え、手紙の続きに目を向けた。
ずっと君に恋している。
愛しているって言われるより何倍も嬉しかった。不器用なあなたからの精一杯の気持ち。私はずっと大切にしているからね。大切に心の中にしまっておくから。もし、喧嘩したりしちゃっても、この言葉をあなたが言ってくれたら、私はあなたの隣で笑って全部許してあげられると思います。
大切な言葉をありがとう。私もあなたにずっと恋しています。
2002年 十月八日 悪戯好きな仁美より。
「五年越しの悪戯かぁ、返事はどうすれば良いんだ仁美」
僕は、テーブルの上に仕掛けられた手紙に声をかけた。
ごめんなさい。二ヶ月前からあなたの他に好きな人がいます。決してあなたに魅力を感じなくなったというわけではありません。ただ、今のわたしにとってはその人の方が必要になってしまっています。勝手なわがまま許してください。あなたにしてもらったことは忘れません。今日までありがとうございました。
荷物は処分してくれて構いません。 仁美
じゃあ、俺もトイレの話をしよう。
俺が東京へ出てきたときもやっぱり金がなくて、最初に住んだアパートは巣鴨で三万だった。もちろん風呂はないが六畳だし、三万のレベルじゃ上のほうだと思うね。二階建ての一階に俺は部屋を決めた。二階は家賃が四万だったんだ。なぜかというと二階にはトイレがあって、一階は共同トイレだったからさ。共同トイレというと忌避するかも知れないけど、よく考えたら個人的なトイレを持ったことは一度もない。実家だってじいちゃんやばあちゃん達と一緒に計八人で一つのトイレを使っていたんだから。それに一階には俺と、隣の笹本さんしか住んでいなかったから、純粋に二人で一個のトイレだ。申し分ない。それに、当時の一万円って結構重いものだろう?
笹本さんとはどういうわけか俺がそのアパートで暮らしている間、一度も顔をあわすことはなかった。挨拶に行っても大体留守だったし、ほとんど見かけたことがなかった。
さてさて。トイレは和式で狭くはなかった。むしろ広い方だと思う。きれいにしてあったし、特に不自由を感じなかった。君と同じように、鍵が壊れていた点を除けばね。
君は実家のトイレをノックすることってある?俺には残念ながらそういう習慣はなかった。それで困ることはなかったしね。笹本さんにもそういう習慣はなかった。つまりこういうことだ。
用足しに立つ。俺はトイレのドアを開ける。そこにはすでに笹本さんがいるわけだ。「あ、すみません……」と俺は言い、「あ……いいえ……」と笹本さんの背中が答える。逆も然りだ。「あ、すみません……」と笹本さんが言い、「あ……いいえ……」と俺はトイレのタンクを見つめながら答える。俺らは顔を合わせたこともないのに、お互いの排便シーンを見せ合い続ける結果となった。学習すればいい。ノックだ。だけどうっかり忘れちまう時に限って、笹本さんが入っているんだ。
危険なトイレは確かに個人的かつ内情的な恐怖だろうけど、使用中のトイレのドアを不意に開けられるのも、開けてしまうのも、なかなかの恐怖体験だったよ。
こうして話してみるとやっぱり君とは気が合いそうだ。この店のキールもなかなかいいけど、すごくおいしいワインを出すとこを知ってるんだ。これからどう?なんだ、時間を気にしているのかい?それなら心配要らないよ、君のマンションの近くなんだ。そこから君の部屋がよく見えるんだよ。
いい加減見慣れてきたけど、奴のその一言を耳にした瞬間、俺は絶望の底に叩きつけられ、しかし一瞬遅れて高揚感に包まれ、その差し引きで表情には何も浮かばなかった。無反応な俺に呆れた奴は俺のことを視界から外して、わざとらしく他の奴に声をかけた。
俺と奴とは、控えめに言っても古馴染みだ。俺としては親友という言葉ですらどこかもの足りないのだが、それを言うと奴が渋い顔をするので、どうにか今は古馴染みという言葉で妥協させている。そんな俺が今になって、見慣れた、などと言われることには、根の深い訳がある。
前々からのことだが、奴には悪い虫がつく。その都度俺があの手この手で駆除してやっていたのだが、最近は虫どもも進化してきて、しかも数が増えてきて、だんだん駆除が難しくなってきた。手強い虫になると、奴の正常な反応を悪用して奴が自ら自分の手中に納まるように仕向けてくる。こうなるとこれまで駆使してきた駆除方法のほとんどが使えず、しかもそういう虫に限って残された方法への耐性が強かったりする。しかし、奴を悪い虫の為すがままにする訳にはいかない。俺は新たな駆除方法を編み出さなければならなかった。
虫どもの戦略は、あの手この手で奴を惹きつけようとすることだ。分析結果をそう纏めたとき、俺に勝機が見えた。古馴染み、何度言っても虚しい言葉だが、その古馴染みの俺は、最近になってたかってきた虫どもよりもずっと奴のことを知っている。何が好きでどんなことに弱いのか、誰よりも俺が熟知している。適度に締まった中背の身体、流れる水のような立ち居振る舞い、淡白だが静かに寄り添うような接し方、それらを知っている俺が、誰よりも強く奴を篭絡してしまえば良い。
以来俺は、奴の偶像たるべく努めている。もちろん服装は奴好みの清楚な膝下丈のワンピースだし、シャンプーやリンスを替えて髪の量感を抑えたし、今日は化粧をそれとは見えない程度に淡めに変えてみた。そんな俺に、奴は最初の頃は露骨な嫌悪感を示した。それでも俺は諦めずに偶像たるべく研鑽を続け、その結果が、いい加減見慣れてきたけど、の一言だ。奴が俺のことを見ていることは、明白だと言って良い。
しかし依然、奴についた虫は駆除できていない。手強い虫を駆除してやるためには、俺が奴の完全な偶像にならなければならない。そして奴に二度と悪い虫がつかないよう、俺が奴を完全に篭絡しなければならないのだ。
労働を終え、購入したレモンティーとチョコレートミントを口にしながら夜道を歩いた。夜間用に切り替わって点滅する二台の信号機の赤い眸が俺を導いている。点る、滅する、点る、滅する、点る、赤い微笑が俺を捉える、滅する、赤い猫の眼が音もなく闇に溶ける、点る、赤い網が放たれ俺はその中に捕らわれる、滅する、赤い尾を引いて何か女性的な視線が翻される、点る、赤い蕾が口を開き濡れた糸を艶めかしく垂らす、滅する、赤い血管の浮き出た腕が誘惑を残して扉の奥へ消える、点る、滅する、点る、滅する。その下で煙草を吸う老人が頭部から北斎の描く雨に似て細く尖った血の針を何百本も垂らし俺に踊るように話しかけて来た。おおお俺は死ぬんだ知ってるかししし死ぬんだ死ぬんだよそそそんなこと当たり前だって皆は言うけど死ぬんだよ俺は死ぬ死ぬししし知ってるか俺は死ぬ。操り人形のように笑いながら忙しない足でアスファルトを舐めずり回す老人は腔腸動物に近い遺伝子を持っている気がした。おおお俺はししし死ぬんだ。赤い糸に吊り下げられて老人は踊る。煙草の煙が血霧になって闇に紛れる。甘い薄荷の香が奥歯の隙間から冷たく漏れて俺を愛撫する。それをレモンティーで促し再び歩き始める。信号機が点滅する毎に恍惚と表情を変える遊れ女の赤い指先が俺を迎え入れる。
海を見ていた。
穏やかな波が寄せて、さほど泡立つこともなく、ひっそりと引いてゆく。遥かに目をやれば、空の青とははっきりと色を分けて、青、蒼、藍などと知る限りの漢字を思い浮かべても、表現し得るものは何もない。ただ、海と、空。眺めて、その向こうにまで続く大きな水溜りを思えばそれでいい。くるりと、大地を包んでいるのだと。その先は滝になどなっていないのだと。
「どうしたの、写真なんか眺めて」
途端に、目の前の海はただの写真に変わる。潮の香りは消え、青は木製の写真立てに収まり、僕の手の上に乗っている。ここは自分の家で、僕は小学四年生で、母の言うことは現実的で、けれどさっきまで僕は浜辺にいたのに。浜辺には、誰かが待っていた。海を見て、海と空が溶け合っているのを見て、それから、僕は振り向いて声をかけようとしていたのに。
「海、行きたいの? 今度の土曜ならお父さんも──」
「ちがうよ」
それだけ言うのが精一杯。押入れから引っ張り出したふとんを抱えて、母は、それ以上何も言えずにベランダに出て行った。どんな顔をしているかなんて、見なくたってわかる。子供らしく、うん、海で泳ぎたい、とでも言えばいいのもわかってる。夏休みに家族で海に、なんて、いいじゃないか。
でも、さっきいた浜辺に戻れない。この、これを、どうしたらいい?
いくら写真を眺めても、もう、それはただの写真だった。僕はギュッと目をつぶって、浜辺を取り戻そうとした。潮風を思い出して、海を思い出して、空を思い出して、寄せては返す波を思い出して。でも、いくら思い出しても、海はもう、戻らなかった。できの悪いモザイク画のようにしかならなかった。僕は小学四年生のくせに大人びてるいけ好かないガキで、学校の先生が扱いに困って言ってくるイヤミ以上のものを母はきっと近所の奥様方に言われていて、そして今は夏休みで。そう、今は夏休みだ。
僕はベランダの母に、さっきよりは少し柔らかく言った。
「お母さん、何か手伝うことある?」
ふとんを干していた母は、ぱっと振り向いて、それから、なんとか笑顔になった。笑顔になるまで、数秒の間があった。僕が、浜辺にいた誰かを振り返る気持ちで、普段より穏やかだったからかもしれない。
いつか君が、僕を必要だと言ってくれたなら。ただ、その言葉だけで、僕は僕を埋もれさせようとする現実から、僕を切り離して、君のところへ行く。そう約束しよう。
角を曲がるとき、隅にあるブランコに誰かがいるのに気がついた。2つあるブランコの奥の方に座った制服姿の女の子が、下を見てじっとしている。
5歩くらい歩いている間に、向かいの家に住む幼なじみの彼女だと分かった。まだ夕食には少しだけ早いので、話でもしようと、彼は公園の入り口から中に入り、ブランコに向かった。
下を向いてじっとしていた彼女は、足音に気付き、顔を上げた。怪訝そうにしていた彼女だが、彼だと分かると、安心したような表情になり、あわてて両目をハンカチで拭った。
「よぉ、久しぶり」
彼の声にこくんとうなずいた彼女は、また下を向いてしまう。右手にはハンカチを握ったままだ。
「隣に座ってもいいか?」
再びうなずく彼女の隣のブランコに、彼は座る。
「うわぁ、ここのブランコってこんなに低かったっけ?」
それほど身長が高くない彼でも、両足を思いっきり曲げないと、うまく漕げないくらいだ。
「こんな時間に一人でメソメソしてると、怪しいやつに絡まれるぞ。俺でよければいつでも用心棒になってやるから、呼んでくれよな」
そう言う彼の言葉にまたうなずくと、一旦は収まった彼女の涙がまた溢れ出した。
肩をふるわせている彼女の隣で、彼は少しだけブランコを前後に揺らしながら真直ぐ前を見つめている。
そのまま5分ぐらいしていると、彼女の涙も収まって来たようだ。
ちらっと彼女の様子をうかがった彼は、立ち上がって彼女の前に来た。
「腹減ってきたから帰ろうぜ」
もうほとんど止まっている涙をもう一度ハンカチで拭い、彼女は口を開いた。
「何にも聞かないの?」
「俺はお前を泣かすようなくだらないやつのことなんか聞きたくないよ。さあ、帰るぞ」
そう言って差し出された右手に引かれ、彼女は立ち上がった。
2歩位先を行く彼に続いて、彼女も歩き出す。
「そういえば、幼稚園の頃あのブランコから落ちて泣いていたら、やっぱりあなたが来て、こうして家まで一緒に帰ってくれたよね?」
歩いたまま少し振り返って彼が言った。
「そんなことあったっけ?」
「うん、私覚えてる」
また前を向いて歩き出した彼に続きながら、彼女は何だか嬉しくなって微笑んだ。
詳しい年代は知らない。祖父が僕の誕生祝で買ってきたんだ。
荷物を整理しながら妻に話し始めた。わざわざ実家からテディベアを連れてきたのだ。何も言わないが不審に思わないとも言えない。家族になったばかりの妻を不安にさせる理由はない。だから話を始めた。
おじいさんは僕の祝いを買うために町を歩いていて、偶然目に入ったアンティークショップのショーウィンドウに飾られていたのを見て「これにしよう」と思ったらしい。
おばあさんは反対したみたいだ。新品のほうがいいってね。でも、おじいさんは譲らなかった。これより相応しいものはないってね。おじいさんが言い張るのは珍しいことでね。そこまでいうならってことで僕の元へ来ることになったんだ。
レイはもう死んでしまったけれど、ほら写真見せただろ? 犬のレイ。レイとテディベアT・Bは仲がよかった。信じられないかもしれないけど、レイとT・Bの結束力は見事だったよ。T・Bが五体満足なのはレイのおかげだって昔、母はよく言っていたくらいだ。一緒に写っている写真も何枚かあったと思う。仲よさそうだっただろう?
不思議なものでね、T・Bは確かにぬいぐるみなんだけど、ぬいぐるみだって気はあまりしなかったな。レイと一緒にいたからかもしれないし・・・・・・そうだ、まだ小さい頃僕の前の持ち主は魔女の血をひいた女性だって聞いたことが。嘘じゃない、作り話かもしれないけれど確かにそう聞いたんだ。怖がることはなかったな。T・Bが来て変なことが起こったっていうことはまったくなかったからね。・・・・・・だろ? 穏やかな瞳をしているんだ。
僕たちに子どもができたらT・Bをプレゼントしよう。以前からずっとそう思っていた。だから連れてきたんだ。でも、T・Bは僕らより年上だ。子どもの扱いにT・Bが五体満足でいられるかは難しい。
だから・・・・・・僕は新しいものを送るよ。そして子どもが大きくなったらT・Bの横に飾ろうと思う。
君はどう思う?
白い病室の中。
目の前には彼女がスヤスヤと眠っている。
白い治療着と、酸素ボンベを付けて、スヤスヤと穏やかに眠っていた。
こんなに長く彼女の寝顔を見つめたことはない。
「一ヶ月か……。いつまで待たせるんだ、この眠り姫」
マスクのように口元を覆う透明なガラスが憎々しい。
お目覚めのキスができない。
ベッドの隣の丸椅子に座り、白くて柔らかく、なめらかな彼女の手を握った。
真新しい指輪が薬指に光り輝いていた。
「戻ってこいよ。お前、立派な看護師になって……いっぱい人を助けるんだって言ってただろ」
彼女の手は温もりがあるだけだ。
「いつまで寝てるんだよっ……」
彼女の顔を見ていると、一緒にデートした日々を思い出す。
おいしかった食事、楽しかったアトラクション、そして語り合った夢と将来。
記憶が鮮明になると引き換えに、目の前の視界はぼやけてきた。
まだこんなに暖かいのにっ!
まだこんなに綺麗なのにっ!
まだこんなに元気なのにっ!
「認めない! 俺は絶対に認めないっ!」
── だ が 、 彼 女 は も う 目 覚 め な い
心の中の誰かがそう呟く。
だけど、今、
『 コ イ ツ は 俺 と 共 に あ る っ ! 』
違うか?
俺は強く叫び返した。
空しかった。
俺のサイフの中には彼女の意思が入っている。
顔も知らない他人を救うためにある、天使の絵が描かれたカード。
俺がこれを渡せば……もしかしたら救われる人がいるのだろう。
これを破れば、もっと共にいることができる。
しかし、それは永遠ではない。近い将来、確実に訪れる別れがあった。
<助かるかも知れない命と、助からない命……君ならどちらを救う?>
医者の言葉が脳裏をよぎる。
<そんなのは簡単だ>
けれど、今は違う。
最愛の人を失う選択を自ら選ぶなんて、俺にはできない。
俺はすやすやと眠る彼女の顔を見つめた。
「苦しんでいる人が1人でも減ればいいね」
不意に思い出された彼女の言葉。
その優しさは残酷だ。
空っぽになった病室で、俺は彼女を裏切れなかったことを後悔する。
俺の手には天使の絵が描かれたカード。
「お前さえいなければ、俺はもっとアイツと共にいれたんだ」
俺は、天使を引き裂いた。
微笑みを浮かべた天使は粉のように小さくなっていく。
それを窓からばらまくと、風に乗ってふわりと飛び散った。
ありがと──
ふと、彼女の声が聞こえた。
電車の中の密度が一気に減っていく。県庁前に電車が止まった証拠だ。
私の通う大学は家から電車を乗り継いで90分ほど行ったところにある。
世間から見たレベルとしてはかなり下のほうだろう。古い言い方なら下の中といったところか。
かたや私の受けた第一志望は家から自転車で10分。
落ちてよかったと最近私は考えている。
30・40代の男性や女性たちが、列を成して電車から降りようとする現場。
ある日この風景を見ていて、そう考え始めた。
もし私が家の近くの大学に行ってしまったなら、こんな光景を見るのはもっと先だっただろう。
いや、もしかしたら見る機会も無かったかもしれない。
社会人となって、いざ働き始めたときには自分はもうその列の中だからだ。
だから私はその列をじっと見つめている。
2列に整列してエスカレーターを降りる人たちの先、駅を出て県庁へと至る大きな横断歩道に100は容易に超えるスーツ姿がひしめいている。
そして信号が青に変わった途端、彼らは横断歩道を同じようなペースで渡り始める。
駅のホームが2階の高さにあるからこそ、よく見ることができる。
そうして彼らが歩いていく先には、他の建物よりもやや高く、広くそびえる県庁。
そんな姿を見て、私はふと思った。
まるで、蟻と獲物のようだと。
大きくそびえる県庁はケーキ、向かっていく人たちは兵隊蟻。
各人の女王の意思の下に、働き、稼ぐ。
ただ忠実に中で仕事をこなし、そして長い時間働いて巣へと帰っていく。
そんな風に見ると、人という生き物がどこか滑稽に思えた。
無論私がそんな想像をしているなんて露知らず、今日も兵隊蟻たちは群れを成して獲物へと進んでいく。
大学までは後3駅。しばらくは人であり続けるつもりの私は、いずれは自分もそうなるという事への思いもさして抱かずに、今日の講義に備えて仮眠をとることにした。
汚れた犬の死体。地肌の路面。砂に擦れた日光。この国ではどこにいってもカレーのスパイスの匂いがするようです。
別の犬が寄って、すん、すんと鼻を上げるのは、確かに悼んでいるのです。汚れて黄色じみた白犬は、手を出して死体の頭を撫ぜました。永遠に白磁のその指先。
白犬は不意に歯を剥き出して、首を曲げて震わしました。熱気を吐き出すように大きく口を開けると、その牙がそっくり、入れ歯のようになって地面に落ちました。
日光はじりじりと胸を焼きます。私は肩に掛けていた上着を手に持ち替え、帽子を被り直しました。
黒人の少年がやってきて、石を投げつけました。キャンと鳴いて犬は横様に飛びのき、逃げていきました。少年も直ぐにいなくなりました。
私は近寄って、白犬が噛みつけていった歯を死体から抜きました。ぐず、と傷口が鳴りました。私はびろうどのハンケチを取り出して、丁寧にそれを拭いました。
とても魅力的な歯でした。私はその牙を自分の口にはめてみました。彼らの憂いが、私もまた、死者を食らうべきなのだと答えたようでした。
しかしそのまま噛み付く事はできませんでした。犬の血に、私の喉はどう反応するでしょうか? 怖かったのです。
私は口から犬の歯を外して、死体の首筋に噛み付けました。力を込めると、ぶつっという弾力のある感触がして埋まりました。
二日後の午に同じ場所を通りました。死体は大層だらしがなくなっていて、あちこちに歯型が付いていました。腐臭もどこか砂を漉したようなのです。
膝まづいて犬の腹を撫でると、固まって黒くなった血が掌に障りました。
私は傷口のひとつに指を突き込み、熱を失った組織を掻き回しました。指先を鉤にして、腹の皮を裂き、赤黒い臓器を玩びました。
私はハンケチを取り出して手を拭いました。麻のハンケチです。犬は内腑までが晒されて、表面は乾び、蝿が次々と纏わりつき、どこを取っても汚く、それはやはり何度見ても、ひとつの死で、肉で、土で、私の生であり、私の犬でした。
雨が降ればいいのに、と私は思いました。太陽が照って、空気は黄色いようです。
私は立ち上がってまさぐり、犬の周囲に小便を掛けました。
遠くで車の騒音は止まず、近くで地面が小便を撥ねる音が途切れず、実際何一つとして、足りていない所はありませんでした。
黒く汚れて転がっていた白犬の歯を、私は二つに割って打ち捨てました。
全き素寒貧となったので、裏庭に放してある兎を売る事にした。片耳に切れ込みのある藁灰色と、全体が榛色で脚先だけ白いのと、黒くて長い毛がまだらに抜けているやつ。3羽。
駅前へ。
段ボール箱のふたを開いて兎をひとなでし、段ボールの切端に『かわいいうさぎ1羽6万円也』と書いて立て、段ボールを尻に敷いて座ろうとするや否や、誰に断わって商売しとんネやと呟きながら刺青人間およそ4匹が寄って来たので、慌てて兎を上着のポッケにねじ込み逃げ出すはめになった。
駅舎内を疾駆、自動改札を飛び越した刹那、背後で若い女性のものと思われる悲鳴があがった。おそらく奴等に捕まったのだろうが、振り返って確認する余裕無し。丁度ホームに入って来た列車に行先も確かめず飛び乗った。
刺青人間に捕まったら、然るべき届け出をし正当な手続きをふんで商売していようがいまいが仲間にされてしまう。誰に断わって商売しとんネやという呟きは、質問ではなく、単なる鳴き声なのだ。その場に押さえつけられ、僧帽筋の辺りから上腕三頭筋を通り、前腕屈筋群にかけて刺青を彫られる。無論、好きな絵柄は選べない。ああ。奴等は兎といえどもきっと容赦なく刺青を施すだろう。丸刈りにされてもひと声もあげずに、目を潤ませて非道な振る舞いに耐えるだろう。チクチク皮刺す針の動きの倍速で鼻をスピスピさせて耐えるのだろう。うう。耐え難い。俺の事はいくら馬鹿にしたって構わない、だがな、兎たちの事は…!
その後うまいことに、車内で兎が2羽売れた。
蒼白汗びしょのうえに何やらつぶつぶ言っていた私を訝しがりもせず、滑らかに近づいて兎を買ってくだすった自称金融業のお兄さんありがとう! お目が高い。貴公は沈思黙考、おもむろに榛色のやつを指差しましたね。
その様子を見ていてか、私にも1羽と毛抜けのをお買い上げあそばされた御婦人もありがとう! そいつぁ見場は悪いが情深い仕種のできる可愛いやつですぜ。あ、今晩のシチューになさるんで。確かに喰ってもうまいでしょうなあ。
といったようなやり取りを経て御足を頂戴し、空いていた座席に座ると、ようやっと人心地がついてそのまま微睡んでしまった。
結局体力が回復するまで4時間近くかかった。時計を見ると6時半になる所だ。窓外には見知らぬ世界。アナウンスが告げる次の駅も聞いた事がない。
懐に残った藁灰色がふるふると震え、震え続け、列車は停まった。
扇風機の羽根が勢いよくまわっている。電灯の光が一番届く真下に寝転んで、男は本を読んでいた。卓袱台にグラス。グラスに氷。そこに麦茶。カラカランと揺らしながら飲むのが男は好きだった。
ギーチョン、ギーチョン。
(キリギリスかな。夜なのに)
本を置いて、扇風機を切って耳をすます。鈴虫も鳴いているみたいだった。しおりを挟んで網戸を開けて、うちわをパタパタと使いながらしばらく窓辺で涼んでいた。壁にかかった時計をみるとちょうど9時で、男はそわそわしはじめた。
まもなく木のドアを叩く音。扉の先に、二人の女が立っていて「友達つれてきたよ」と背の高い方の声。「古田です、こんばんは」「木村です」「お見合いみたい。私。吉田です」
卓袱台を囲むように座ると吉田さんは開口一番「キムラーはお酒が入ると呪文みたいなの唱えるのよ。それで女の足と珈琲と古い本が好きなの」と言ってから「私たちおなかすいたわ」と付け足した。
キムラーが台所に立っている間、女二人は男が読みさしの文庫本を手にとった。「私も今朝、電車で読んでたわ。これ読むと半熟卵が食べたくなるよね」「漱石ってなんか包み込んでくれる感じ」「二百十日っていえば風の又三郎もそうじゃない?」
二人が喋っているところへキムラーが戻ってきた。細切りのじゃがいもとピーマンの豆腐炒め、砂肝と人参の煮物、それから半熟卵を持ってきて「俺も半熟卵、食いたかったんだ」と言った。
三人とも酒がいける口だったので、当然呑む。キムラーも弱くないのだが、二人に比べればいつしか目をとろんとさせて「どっどどどどう」と歌いはじめ「俺に読書の快楽を教えてくれた吉田、ありがとう!」と叫ぶと眠ってしまった。酔いがまわり始めた吉田さんも靴下を脱ぎ、あなたもどう? と古田さんを誘った。眠りこんだ男の顔を女二人の足がペタペタと踏みつける。「谷崎の小説、地でいっちゃってる」「こんなのどこがいいんだろ」「飲みながらしましょか」「そうしよう!」
酔っぱらい三人が戯れているあいだ、外は次第に風が強くなってきてどしゃぶりとなった。コオロギの一種で邯鄲と呼ばれる虫が部屋に入り込みリュウリュウと鳴いた。
夢の中でキムラーはなぜか猿だった。海辺でパズルの一片を拾うと宙に浮いた。雲のなかで徳川夢声に会った。「いつか猿となったお前は古田さんを愛する」と夢声は言った。
翌朝何事もなかったように女たちは起きて、男のために珈琲をいれた。
北に行けば、忘却。南に行けば、楽園。西に行けば、開拓。世界はそういうふうにできている。では東に行けば……。
地図を見ながら、男は考えていた。男が立っている荒野の十字路はどの道も先には何も見えない。太陽は真上にあり、じりじりと地図を覗き込む男の背中を静かに焦がしている。旅の目的もなく、どこに行くべきか男は悩んでいた。どこに行くのも自由、旅とは本来そういうものだ。
男が水を飲んでいるとき、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。車の姿がだんだんと大きくなり、男の近くでスピードを落とすと、通り過ぎることなく男の側で止まった。
車から馬が顔を出し、男に話しかけた。
「お困りかい?」
「どこに行こうかと思ってね。ここはどこなんだい?」
「ここはご覧の通り、何もない荒野さ」
車は男がこの十字路にたどり着いた道とは反対の道から来た。コンパスでは西になる。西から来た車に乗った馬。
「君はどこに行くんだ?」
男は馬に聞いた。
「東さ。家に帰るんだ」
男は来た道を振り返った。男は東から来たのだ。
「そうか、ところで、この先には何がある?」
「この先だって? お前さん、西に行くのかい?」
馬は少し笑って聞き返した。
「そうだ、何がおかしいんだ」
「いや、それを言っちまったら野暮かと思ってね」
「何がだ?」
男は少し眉間にしわを寄せて聞き返した。
「西に行くんだろ? だったら自分の目で見てくるといい。旅とはそういうもんだ。昔から言うだろ、北には酒場、南には女、西には宝……」
「そんな話あるのか?」
男は自分の考えを当てられた気がして驚き、馬の話を遮って聞くと、馬はまた少し笑ってから答えた。
「嘘さ。俺が勝手に作ったんだ」
馬は車のエンジンをかけた。
「まあ、そういうことだ。良い旅を」
車が走り出そうとしたとき、男が慌てて聞いた。
「待ってくれ。さっきの話、東は何だ?」
馬はニッと笑っただけで答えなかった。そのまま車は走りだした。
呆然として車を見送っているとき、男は気づいた。東は旅の始まり。男もそこから来た。そして旅の終わり。旅は東で終わる。男は馬が言ったことを思い出して、振り返った。
「東には……、故郷か」
男はそうつぶやくと、地図をしまった。
昔は歳相応に友人たちとふざけ合うのが楽しかった。チャンバラをしたり相撲をとったり。プロレスごっこではよく相手の手を噛んだこともあった。
今石原の隣にいる山井もその頃からの友人の一人だ。
この前の仕事帰り、同じ会社を経営している石原と山井は一緒に飲んでいた。小学生の頃のお前の必殺技は噛み付きだったな、今もその跡がうっすらと俺の手の甲に残っていると山井が話してきた。山井はその左手に残る跡を石原の眉間の前に持ってきた。石原は顔の前の手をのけながら、あの頃からスルメをよく食べていたからなと小皿に残ったゲソをひとつ取った。
酒飲みだった石原の父は、酔うとよく家族に手を上げた。そんな父親を見て育った石原の心には、家族をはじめ誰にも手を上げないと幼心に誓ったものが今も残っている。今思えばあの頃の山井たちとの遊びは、石原にとって家庭のストレスの発散だったのかもしれないと、石原はスルメを見つめながら当時を思い出した。
都内のある会社の会議室。今そこに仕事の大事な返事を聞きに来た石原と山井は相手方担当の野田と机をはさんで座っている。野田の背中には大きな窓がある。その窓から入った逆光が野田の表情の曇りをより暗くしているように見えた。
「キミ達の気持ちはよく分かるよ。うん。私だってキミ達と今まで付き合ってきた仲だ、ぜひキミ達の会社の製品を使いたいと思っているよ。しかし会社がそうは認めてくれないんだ。どうしてもA社の製品を使わなくては、うちの会社の立場が危うくなってしまうんだよ」
野田はそう言いながら石原たちの方に歩いてきた。石原の隣に座る視線を落とした山井の表情には血相と裏切りへの怒りが表れていた。石原の表情はいたって無であった。石原は山井に比べていつも沈着だった。
「今回は仕様がなかったと思って、あきらめてはくれないか」
野田は左手を座る石原の肩の上にぽんと置いた。
その時石原は首を横に向け、自分の左肩に置かれた野田の手をがぶりと噛んだ。野田はわっと大きな声を上げ手を引っ込めた。左手を右手でさすると甲に歯形がくっきり残っているのが分かった。
野田ははじめて見た得体の知れない物を見るように石原の側頭部を見た。しかし石原はまた無表情のまま窓の向こうを見つめている。
変な空気に包まれた。会議室の中で動くものはなかった。ただ奥で下を向いた山井の背中だけが小さく上下に動いていた。
その時の歯形は今も野田の手に残っている。
S・E・ザビエルの布教活動。六日目の朝に半島に漂着したザビエルは三人組の女に救われた。女たちが一句、
深呼吸 箪笥の中の 蛙の子
瞑想する御玉杓子。我思う故に我在り。迷走する名僧ザビエルは女たちを使って洪水を起こした。どんぶらこと川下り中の箱舟に一家族と動物たちがひしめいている。一家が一句、
揺り籠や 漕ぎ手不在の 日本海
断崖絶壁。コートの襟を立てながら歩き去る男。人生の荒波を思わせる揺れ方の揺り籠。ザビエルは故郷に残してきた妻を思う。息子は十七人の求婚者に言い寄られている母を残して彼を捜し回っている。びしょびしょになった女たちは姿を変え、大船と船員が陽炎のように立ち昇る。ザビエル、ラデツキー行進曲にのせて半島離脱。歌がきこえる。たぶん鳥の体をした美女。
尻ふく手 右か左か きょう左
右手にインド人、左手にカニが宿っていて、ジャンケンでどちらが拭くか決めているのだ、とヘビ。赤い実をくれた。ザビエルだけが猛烈に歌の方角へ行く事を望んだが船員たちが皆いつの間にかブタに変わっていたので大船は風の吹くまま進んでゆく。
大船に のったつもりで 大後悔
と口ずさみながら六杯のハーブティーをすするザビエルの横で六頭のテンシに六匹のブタがばっくりやられて大船が沈む。くぶくぶ。暗い森の中で、女たち臨終の一句、
猫かぶり まいまいつぶり がぶりより
北国ナンバーワンキャバ嬢とコートの襟を立てた男との不器用な接触。本心は相手を傷つけるだけだと言葉にするのが習慣になっているふたり。けれどふたりは知っていた、さよならを言うのは長いあいだお別れする事だと。冥界に迷い込んだザビエル、ギムレットをびちびちやっていると、
ひろうた実 すっぱい あまい すっぱい あまい
と聞こえ、それは三頭のウェルギリウスで、歌っていないふたつの頭が氷漬けのキリストとカエサルを甘噛みしてい、ザビエルが解放料にと赤い実を手渡すと途端にじゃうじゃう人が集まってきた。逃げ延びた先には海が横たわっていて向こう岸に見える自宅に妻のベアトリーチェがいた。思いの強さで海を割ると、ついてきていた人たちになぜだか感謝された。ひげもじゃに変わったザビエルが十七本の矢を求婚者たちの例の穴に通すと一件落着。ひさしぶりの同衾に妻は、
ニコールが 大事といってた F○○○!
といい、七日目の朝は仲良く寝坊した。
僕と加奈子ちゃんの前には史上最強の横綱が立っていた。一時期角界に吹き荒れた外国人力士旋風を食い止めた国民的英雄。横綱になってからは殆ど負けていないし、まだ一度も転がされて負けたことがない。王子様ブームに中途半端に乗っかった相撲協会が、仁王様というキャッチフレーズを浸透させたがっているようだけど、どうもイマイチ受け入れられていないみたいだ。
「加奈子ちゃん」
呼びかけて見つめる。顔をゆっくりと近づける。
「ダメ。横綱が見てるもの」
加奈子ちゃんがはずかしそうにうつむく。
「横綱が見てるとキスしちゃいけないというルールでもあるの」
僕は食い下がった。加奈子ちゃんは黙ったままだし、横綱はこっちを向いて相変わらずの仁王立ちだ。僕はなんだか横綱が憎らしくなって、遠慮がちに睨んでみる。
せっかくの初デート。映画を見てご飯を食べてカラオケに行き、川沿いをぶらぶら歩いた後、星空の下の児童公園でキスをするという段取りは、途中まで完璧だった。むしろシミュレーションを上回る好成績だったといってもいい。でも最後の最後でベンチの前に史上最強の横綱が立っているなんて全くの予想外。状況としては最悪だし、桁違いに高いハードルだった。
「僕だって横綱のことは尊敬してるし、できればキスしてるところを見られたくない。ファーストキスの思い出に横綱が介入することを避けたいのは山々だ。だけど今は加奈子」
不意打ちだった。猫だましのキスが僕の唇をチュッと奪う。その瞬間、横綱はどぅと倒れて仰向けになった。天を見上げて手足をバタバタさせている。ひとりじゃ起き上がれないのかなと思うとなんだかとてもおかしかった。加奈子ちゃん(技のデパート)もクスクス笑っている。
「ルールなんてないよね」
大金星。僕と加奈子ちゃんは、せーので横綱を立たせてあげた後、泥だらけの背中に手刀を切る。そして、さっきよりちょっぴり長めの、本日二度目のキスをした。
私は四角い部屋にいる。
壁沿いに一周してみると縦にも横にもちょうど七歩で、見たところ高さも同じくらいのようだから、この部屋は正方形ということになる。部屋には入り口も出口もなく、カーテンの引かれた窓がひとつあるだけで他には何もない。天井にもどこにも光源が見当たらないにも関わらず視界が保たれているのは、もしかしたら部屋自体が発光しているのかもしれない。
窓に近づきカーテンを捲り上げる。辺りは暗闇に包まれていて、ただこの部屋のほの白い光だけが外の狭い空間を照らしている。光の中には奇妙な生き物が浮かんでいた。先が分かれた触手を生やした流線型や、ひらひらと体を波打たせながら泳ぐ薄っぺら、ひしゃげた口を大きく開いた阿呆面、蛸のような吸盤で窓に貼りつく軟体、どちらが頭か見分けがつかないアルビノの蛇。さらに眼を凝らしてみると、何もないと思われた場所にも透き通った昆虫のような生き物が無数にひしめいていた。図鑑でしか見たことないような、あるいは図鑑にすら載っていないような深海の異形の魚たち。そうか、ここは海の底なのか。静寂と暗がりの世界だった。
そのまま見ていると魚たちはゆっくりと漆黒の向こうから光の領域へ集ってきて、何か言いたげな顔で部屋の中をぼんやり眺めていた。光が珍しいのかとも思ったが、その目線をひとつずつ辿ってみて私は背筋が凍りついた。魚たちが見ているのは私だった。私の瞳を見つめているのだった。
その事実に私が気付くと同時に魚たちは行動を開始した。はじめはそっと触れるように、しかしすぐに激しく叩くように窓を突付き始める。こつんこつん。見る間に視界を埋め尽くすほど窓に群れ、今にも窓を打ち破るほどにこつんこつんと、こつんこつこつごつごごつっごつごんっごんごんごんと。
堪らず私は一歩後ずさった。カーテンが手から滑り落ち、再び窓は覆われる。手がぬらぬらと光を照り返していて、てっきり私はひどく汗をかいているのかと思ったが、よく見るとそれは汗でなくまるで何かの粘液のようで、顔に近づけると生臭い潮の匂いがした。先ほどまで私が掴んでいたものはカーテンではなかった。風もないのに静かに揺れるそれはワカメだった。ワカメがぶらさがっていたのだ!
窓を突付く硬い音にぴきぴきと耳を掻く高い音が混じる。ああ、もうすぐ窓が割れるのだ。
私は力いっぱいワカメを引きちぎって食べた。むしゃむしゃ食べた。海の底で。
カメを殺したことがあります。小学三年の時のことです。そのカメとは縁日で手に入れた小さなミドリガメでしたが、僕は嬉しさのあまり、余計にも日が当たるよう窓際に水槽を置いてしまいました。
数時間後カメはカラカラに干からびて死んでいました。
思えば僕はシジュウカラも死なせ、オタマジャクシも共食いさせ、その他多くの生物も死なせてきました。友の骨を真っ二つに折ったこともあります。大きくなると、さすがに怖ろしくなったのか自ら生物には触れないようにしました。そのせいでしょうか、あり余っていた好奇心はいつの間にか萎んでいました。
そのまま年を重ね気付けば僕は二十五歳になり、地元への異動が決まりました。
僕は数年ぶりに祖母の家を訪ねました。両親は外国にいるので、親しい親戚は彼女だけでした。
「この金魚よく生きてるね」
祖母は金魚を飼っていました。橙色が綺麗な金魚です。もう十年以上は生きています。
「そうねえ。でもおじいちゃんより長生きするとは思わなかったわ」
奥の間に掛かった祖父の遺影はギョロっと出た目が特徴的でした。だからここにはデメキンがいないのでしょうか。
「あなたは、変わってないねえ」お茶を淹れながら、祖母は言いました。
「そう?」
「そうやって水槽を眺めてるとこなんかは、特にね」
「そう、かなあ」
そうやって生物を多く殺してきたのは、確かです。
「乱暴はもうしてないみたいね」
「やめてよ。俺がこっちに来たのも上司を殴ったせいなんだ」
「ええ、冗談でしょう」
「冗談だよ」
まあ、という祖母の声を背中で受け止めながら、とんとん、と水槽の縁を指で叩いてみました。金魚はつかのま興味を示して、すぐにソッポを向きました。危険な人物というのは、本能で分かるのでしょうか。
僕はごろりと仰向けに寝転びました。お茶を飲んだら少し眠ろう。目を瞑りながら、そう思いました。
祖母が病に倒れたのは、僅か三週間後のことでした。そのまま彼女は息を引き取り、僕は数日間、何もする気が起きませんでした。ひょっとしたら自分のせいかと思うと、涙が出てきました。
祖母の買っていた金魚は、処分されそうなところを奪ってくるような形で、今僕の部屋にいます。相変わらず愛想は悪いのですが、元気に泳いでいます。ドロップの空き缶に詰めた餌を撒いていると、水面に自分の顔が歪んで映りました。あれから僕は、生物に対して少しは優しくなれたのでしょうか。
これはぼくの体験した怖い話だ。
よくフィルムの劣化した映画を「フィルムに雨が降る」なんて言いまわしをするけれど、その日はまさにそんな感じの霧雨だった。
ぼくは傘をさして通りを歩いていた。時間は午後の昼時を過ぎて、おやつ時にはまだ早い頃。歩道を歩く人影はまばらで、車道を行き交う自動車が列をなす。
いつもなら大学の行き帰りにはバスを使うのだが、雨の日はいつも歩く。濡れた傘と服と髪の犇きあう乗車率二百パーセントオーバーの車内に閉じ込められて十分以上を過ごすというのは、もはや拷問だ。
だからぼくは、雨の日は通学時間が三倍に伸びても、かならず歩いていた。
けぶるような雨のなか、傘をさして歩いていると、車道を挟んだ反対側の歩道に奇妙な人影を見つけた。ぼくとおなじ方向を向いて歩いている髪の長い女性の後姿だ。傘はさしていなかったけれど、こういう雨では傘をささないひとも多い。だからそれは気にならなかった。
興味を惹いたのは、彼女の髪だった。
腰まである長い黒髪が風になびいてた。霧雨のけぶるなか、彼女の髪は春風に舞う枝垂桜のようにそよいでいた。
しかし奇妙なのはそれだけではない。
女性の髪はこれ見よがしに舞っていたのに、その奇異さに気づいておもわず足を止めたのは、ぼくだけだった。足早に彼女を追い越していくサラリーマンも、ぼくの対面から歩いてくる幼稚園児と母親も、彼女のことをまったく気に留めていなかった。
まるで雨なんか降っていないように髪をなびかせて歩く女性は、ぼくの目にしか映っていないのだ。あの女性はつまり、生身の人間ではなくて、霊の類なのだ。
わからないのは、どうしてぼくにだけ見えるのか――ぼくに霊感はないし、これまでにも金縛りひとつ経験したことがない。それがどうして、こんなにはっきりと霊が見えるのか。
ぼくが傘を片手に立ち止まって考えこんでいると、幼稚園児と母親の話し声がきこえてきた。
「ねえ、ママ。あのお兄ちゃん……」
「しっ、だめよユウくん。目を合わせちゃいけません」
「でもぉ……どうしてあのお兄ちゃん、雨が降ってないのに傘さしてるの?」
これはぼくの体験した、本当に怖い話だ。