第61期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 <叶う>の反意語は<破れる>ではなく 翻車魚 1000
2 あたしのすべて。 いずみ 628
3 この街からあの街へ 493
4 come together 公文力 699
5 とうめいにんげん Qua Adenauer 666
6 危険地帯 ヘコハム 614
7 そらいろ 藤城一 988
8 ジェンガ masashi 864
9 人形と人形遣い 西直 1000
10 白い壁 fengshuang 956
11 アダルトチルドレン qbc 1000
12 擬装☆少女 千字一時物語16 黒田皐月 1000
13 誰も知らない たけやん 297
14 空が見えない ろーにんあきひろ 999
15 甘え 佐々原 海 953
16 八巻無情 1000
17 エスカレータで指切断の事故 わたなべ かおる 369
18 虎ノ門 宇加谷 研一郎 1000
19 嘔吐 長月夕子 999
20 松の木 かんもり 984
21 ロンドンコーリング るるるぶ☆どっぐちゃん 1000

#1

<叶う>の反意語は<破れる>ではなく

 将来の夢について書きなさい。と教員は言った。Gは左の、曲がらない人差し指と中指の間に鉛筆を挟んで持ち、器用に整った字で「バレーボールのせんしゅ」と書いた。本文の脇には「せかい」の文字と日の丸が加えられている。
 Gは満足そうに作品を眺めた。そしておもむろに、手を胸に軽く置き、聞き覚えのある旋律を口ずさんだ……国歌だった。
 学校では教えられていないはずだ。知的障害も軽からずあり、下学年適応の学習をしている。一般の教科書を用いることは少ない。今ある能力を最大限に活かして、介助なしにできることを一つでも増やそうという試みが始まったばかり。「ばかり」と感じられる、小学校三年目。
 教員は耳を疑った。何秒間も、それが国歌だということに気がつかなかった。ようやく、
「それは『君が代』。国の歌だよ。よく知っているね」
と言うと、Gは自慢げに胸を張り、
「うん。今、テレビでやってる」
 ……世界バレーのことだ。教員はそこでやっと合点がいった。
「そうか……だから毎日、あんなに一生懸命、練習しているんだ」
 休み時間には、一人で余暇を愉しむことが難しい彼女たちに教員が寄り添い、ともに遊ぶ。時間ごとに希望を尋ねるが、Gだけは必ず「バレー」と答える。他の二人の級友も一日に一度つきあってくれるが、二度目からはGの誘いを断る。教員は体が三つ欲しいと思いながら、Gのバレーと、他の子の希望とを同時進行させていたのだった。
 「そぉーれっ!」の掛け声でサーブ。レシーブしっかり、トスお願い。アタック決めて。咽喉がかれるのも気にせず、狭い教室の床の上に転がり続け、汗を流してボールを追う。Gは級友にも容赦なく「今の取れるよ!」と檄を飛ばす。
 ところでボールとして彼女たちが使っているのは風船である。教員が息を吹きいれただけの小さなゴム風船。この学級の児童はみな電動車椅子に乗っている。それぞれの車椅子の背に永久ライセンスが光る。
「私は卓球で世界に行くんだ。愛ちゃんみたいに」
 級友たちに「世界」が広がった。Gの真摯さが伝染したらしい。彼女たちにとって「世界」は遠くない。
「私はサーフィン。お父さんが昔、オーストラリアでサーフィンしたんだって」
 四人で厳かに国歌斉唱。ただし歌詞を覚えていないのでハミングする。教員は目を閉じて声を合わせながら、「世界」を、この先もずっと輝かしいものにしなければならないと、決意を新たにするのだった。


#2

あたしのすべて。

今日は珍しく朝早くに目が覚めた。枕元に置いてあった携帯を開いてみると6時7分。
『2時間しか寝てないんだ・・・』
いつもなら昼過ぎくらいに目が覚めるのに。昨日飲み過ぎたせいかもしれないな。
あたしは何を思ったのか寝起きにしては軽い足取りで窓辺にむかった。カーテンを開ければ外は快晴。それでも何もする気が起きない。かえって不愉快だった。外の世界にうんざりしてあたしはまたベットへと戻った。どこに行こうとか、何をしよう、そんなことが考えられなくなってきている。二十歳を過ぎた頃からだったかあたしの毎日は灰色になった。それがもう2年も続いているんだ。
目標もなく生きる人生はつまらない。目標を見つけようにもみつからない。
だから毎日いい加減、そして適当に生きてるんだ。学校にはもちろんバイトにすら行きたくない。そこで目にする夢に向かって目標を持って生きている人間を見ると暑苦しいと感じるようになったから。でも、それはただ羨ましさの裏返しなのかもしれない。
どうしてあたしは夢を見れなくなったんだろう。
夢を見るだけ無駄だと思うようになったのはいつだったっけ。
いつもなら夢の中にいる時間に起きているからこんなことを思うんだろう。
あたしは体の力を抜き再び眠りにつこうとした。
現実の世界にいるのは辛すぎるから。
現実世界で夢を見れなくなったあたしには夢の世界こそが全て。
このまま夢の世界だけで生きていくことがあたしの夢。
誰にも理解されなくたっていい、これがあたしのすべてだから・・・。


#3

この街からあの街へ

また少し涼しくなった。

蝉の声も無くなり通りの並木も色合いを変えたようだ。

ここへ来て三回目の秋。

それは長くて短くて。
そしてあの人が去る。
この街からあの街へ次は誰かが去り僕の知らない空白の時間を創る。

そしていつか僕の姿を消すときがくるのだろう。。。
この街からあの街に変わったとき誰も知らない自分の空白を生めるように。
今はただただ誰かが居なくなるのを見つめて焦燥感に浸るだけ。

この街で初めてみた景色や今みるこの空間も懐かしさを通り越して儚く見えるだけ。
寂しさを紛らわし次に再開したときの布石として「立派になれよ」とか空白の時間は僕に色んな課題を与える。

時には強かに時には悲観的になることの繰り返し。
傍観者には関係ないこと、自分だけの妄想なのはわかってる。
だけども心の中でしか出来ないもどかしさいつか無くなればいいのにな。
仕事から家路に向かう時間も人混みが一層、自分と対照的な存在に見えてくるんだ。

桜の香り、新緑の力強さ、洗練された紅葉の色、冷たい風波。
一年は早いくらい彩を変えて・・・

形には出来ない無限のループ。

じわっと目からくる何かをこらえつつも大型のバスは忙しげに都市高速に去っていった。


#4

come together

 どう?何か感じる?
 ううん、どうだろ。
 榊原君の泊まっているゲストハウスで初めてマリファナを吸った。慣れた風に葉っぱを巻く彼はこれを手に入れるのにファックと22回は叫んだと笑った。
 これは上物のガンジャだ。僕も大分学んだ。最初なんて種ばっかりでパーンって破裂してなんじゃこりゃって感じ?うわっ、すげえ勃起してきた。
 どうして勃起してんの?まさか私を?
 既に変になってる。君の名前は何だったっけ?
 ハル子。失礼じゃない、名前の二度聞き。
 では僕の名前は?喉渇いたろと彼はぬるいコーク瓶を渡す。
 ウォークマン(ポカラの露天で買ったんだって)のイヤホンを私の耳の穴にねじ込む。
 この歌が俺には一番合うんだんなあぁ。
 the Beatles「come together」
 コークを飲みながら耳に入るアナログなサウンド。何せテープですから。
 シャカキビャラクン。
 何だか僕の名前がインドの神様の名前みたいに聞こえんね。
部屋の壁には日焼けした何かの神様のポスターが貼られてる。
 いかん!見世物小屋に行くはずだったのに何故?
 者下記びゃら訓がちょっと部屋見て粋な酔って誘ったからでは内科?
 〈ゴメン、チョウシニノリスギタ〉
 銚子はまだ乗り越してないし大丈夫でサアってなんじゃこりゃ。
って言ったかどうだか彼の勃起したはけ口なきアレをどうしたかどうだか意味も外聞も低い天井でブラブラ回ってる異常に巨大な扇風機にいっそ放り投げてしまえっちゅうて(放り投げれる位軽い、何もかも)思ってふとあれ見世物小屋へ行かなくちゃ行かなくちゃと我泣き叫ぶ。
 come together right now
「オーヴァミ!」二人叫ぶ。

 


#5

とうめいにんげん

ある所に、透明人間になりたい男の子が居ました。

まだ幼い少年が透明人間になりたいのは、不純な動機があるわけではありません。
ただ、なってみたかったのです。

ある日、一人っ子である少年が、自室でベッドに寝そべりながら、その上お菓子を頬張りながら、漫画を読んでおりますと何所からともなく声がします。

「おいおい君、両親が共働きだからって行儀が悪すぎやしないかい。」

少年は、驚いて辺りを見回しましたが、誰も居ません。
突然、電撃の如く少年は察し、口から驚きの声が溢れ出ました。

「透明人間さんだ!僕を透明人間にしてよ!」

返事はありませんでした。
しかし少年は、透明人間が居ると疑いませんでした。

数分の後、透明人間がベッドに座りました。

「行儀良くしたら、透明人間にしてあげるよ。」

実に急な展開でしたが、少年はすぐにベッドの上で正座しました。
まだかな、まだかな、とそわそわしていました。

ベッドの沈み込みが、少年の前まで移動してきました。
そして、両耳の辺りに、何者かの両手が押し当てられる感覚がありました。
何やら、耳の奥がムズ痒くなり、意識が薄れてきました。
しかし、そういった不快感はすぐに消え、透明人間の声がしました。

「わっ、もう体が薄くなってる!」
「これから段々、君は完全な透明人間になっていくよ。」
「まだ不完全なの。」
「そう。あと一時間ぐらいで完全になるよ。」
「今と完全な透明人間て、何が違うの。」
「眼が見えなくなるよ。」
「えっ!」

そう、完全な透明人間の眼は、光を捉えられないのです。
こうして少年は、文字通り誰も見ることができない存在になったのでした。


#6

危険地帯

「おい、新入り、ここからは危険地帯だ。注意してついて来い」
新入りはゴクリとツバを飲み、「ハイッ教官!」と答えた。薄暗く埃っぽい地下通路から出ると明るくだだっ広い空間が広がった。光の眩しさに思わず立ち止まる新入り。
「バカ野郎! 危険地帯で立ち止まるな! 奴らに見つかれば格好の餌食だぞ!」
教官が怒鳴る。新入りはハッとして後を追う。
「歩きながら聞け、奴らの攻撃方法だ。空中からの執拗な打撃、神経ガスの噴射、どちらもまともに受けたら確実に死ぬ」
 新入りと教官は物陰に身を潜めた。
「新入り、あの怪しげな家が見えるか。さて、お前ならどうする?」
新入りがはきはきと答える。
「迷わず踏み込みます!」
ニヤリと笑う教官。
「アウト。あれは奴らが仕掛けたワナだ。入ったら家ごと廃棄されちまう……それからそこにある団子は食べるなよ。毒入りのワナだ……」
新入りは掴んだ団子を慌てて投げ捨てた。

「見ろ! 奴だ! あれが我らが宿敵、人間だ」
「バカでかいですね! ん? 床に何か缶詰をセットしてま……」
『逃げろっ!』教官の叫びと“プシュー”缶詰の毒ガス噴霧はほぼ同時だった。たちまちのうちに毒ガスに包まれ、もだえる教官と新人り。薄れゆく意識の中で新人りは悔やんだ。
【どうせなら団子を食って死にたかった……】

 毒ガスが晴れた。部屋の隅の暗がりに2つの死骸が転がっている。部屋の中央に置かれた空の缶詰にはこう書かれていた。
〈ゴキブリに ゴキアース○ッド 霧タイプ〉


#7

そらいろ

 青かった。青くて広い空。
 いつも暇なときは屋上の貯水タンクに背をもたれながら見上げていた。
 もう誰も見てないと思う。
 高い建物が阻んでいるから。
 ただあるだけだと思っているから。
 でも、ほんとは違う。なんとなくわかる。
 そんな空を飛行機が飛んでいった。
 長い間空を見続けていたけど、飛行機なんてみたことはなかった。
 小さくて、黒色で、すごい速さで飛んでいった。
 でも誰も気づいていないと思う。
 だって、ただあるだけだと思っているから。
 後には、長くのびた飛行機雲が残された。

 白かった。白くて広い空。
 辺り一面雪景色。当然貯水タンクも雪まみれになっていた。
 誰もがみんな家の中にいて、暖房でもつけながらテレビを見ているんだろう。
 でも、窓から見える空はいつもと違う表情をしていた。
 曇る窓を、服の裾で拭きながらけなげにも見ていた。
 そんな窓の一枚に何か黒いものが見えた。群れをなして、こっちに飛んでくる。
 初めは鳥だと思っていたけど、近づいてくるごとに違うことに気づいた。
 それはこの前見た、あの小さくて、黒色で、すごい速さで飛んでいった飛行機と同じもの。でも、今度はたくさんだ。
 その不気味な群れは家の上を超えていった。
 そんなことはまるで最初から無かったかのように、静かに雪はこの街に降り続いていた。
 
 夜、ソファに横になってテレビを見ていた。
 さすがに眠くなってきた頃、テレビから何か叫び声が聞こえてきた。
 でも、気にせずに目を閉じた。

 何日か前から荷物を詰めていたバッグを持って、「いくわよ」とお母さんは家の外に出た。
 がらんとした家の中がどこか不気味で、早歩きのお母さんの後に駆け足でついていった。
 お母さんが向かったのはバス停だった。しばらくバスに揺られて、着いたのは病院だった。
 前に来たときよりも待合室にはたくさんの人がいて、でも、少しおかしいのは毛布を持った人がたくさんいることだ。
 同じような毛布をお母さんも持っていて、「今日はここに泊まるからね」とだけ言った。
 そとはもう真っ暗だった。
 
 目が覚めた。受付の明かりだけがついている。
 まわりの人の熱気で寝苦しかったから、気分転換に外に出ようと思った。
 でも、病院の中の暗さとは反対に、外は明るかった。
 空が燃えていた。
 ほんとにそう思った。
 頭上をあの小さくて、黒色で、すごい速さの飛行機が飛んでいた。


#8

ジェンガ

 白熱していくにつれ誰もが負けられないという様相を呈してきた。

「みんな疲れてるから、そろそろ自分が負けて終わりにしてあげよう」といった心にゆとりを持っているものは誰もおらず、真に「俺以外なら誰もいい、はやく崩せ!」という心の叫びだけがその空間を支配していた。

 時間は午前2時前。
前日からの睡眠時間も少なく、抜けない疲れをハイテンションで押さえこみ、酒が燃料代わりに注がれていった。
そこに展開されていたのは、友達という言葉を過去に変える敵対心むき出しのバトルロワイヤル6巡目。

 もう取れないだろうと誰もが思ってから10個ほどの牌が抜き取られた。
微笑に隠された殺意が、成功者の心からの安堵が、自分まで回ってくるのかという極限の緊張がこのゲームの最高のスパイスとなった。

 そんなとき今まで3回の失敗を犯している、某女性に順番が回った。

 誰もが祈った。
彼女が崩れ落ちる瞬間を。
この緊張から解き放たれる瞬間を。

 一つの牌の抜き取るのにどれだけの時間が費やされただろうか。
時間にして5分かそこら。
永遠とも思える5分だった。



………彼女は生還した。
彼女にはもはや、喜びはなくただ安堵の表情が浮かんでいるだけだった。

 ほどなく次のチャレンジャーが死刑台へと向かう。
彼にいつもの笑顔はない。
彼は動かせそうな牌を懸命に探す。
それを見守る、いや崩れるように祈るかつての友達、もといエゴイスト達。

 勝負は一瞬。
自分と心中する牌を彼は見抜き、指先に全身全霊を集中させた。
赤ん坊に触れるよりもやさしく、牌を撫でる。
乾いた時間だった。
牌をすこしづつずらし、牌の頭がタワーの外まで出た。



 その刹那時間は動き出した。



 無残に散らばる残骸。
敗者の声にならない叫び。
そして、見守っていた俺たちはこの上ない開放感に包まれたのであった。


 敗者が失ったものは何もない。
ただ、悔しさと人一倍の疲労感を得たに過ぎなかった。
勝者が得たものも何もない。
ただ、なんでこんなに必死なんだろうという疑問が沸いたに過ぎなかった。


#9

人形と人形遣い

 歯に当たって、かちっと鳴った。上目遣いで見つめると、彼はゆるやかに微笑む。彼の扱うスプーンが口から滑り出て、あたしはむぐむぐとオムレツを咀嚼する。ふわふわの卵。優しい味のデミグラスソース。
「美味しい。ありがとう」
 にっこり笑って彼に言った。彼は嬉しそうに頷く。
 食事が終わって一息ついて、冷ましたカフェオレをストローでちゅるちゅると吸う。彼も紅茶を飲んでいる。背中が痒くなってむずむずしていると、彼が「どこ?」と聞きながら立ち上がった。
「背中」
「……ここら辺?」
「もう少し上」
「ん」
「……うん」
「ここ?」
「うん、そこ。気持ちいい」
 手がないと背中も掻けなくて不便だ。ついでに言うと足もない。あたしはあたしの値段を知らない。彼は知っているはずだけれど、教えてはくれない。でもあたしは「小さくて綺麗で可愛い」そうなので、それなりに高かったんじゃないのかなと思う。
「ありがと」
「いや」
 手足がないのは彼の趣味だった。腕を切り落としたときも足を切り落としたときも熱を出した。麻酔で眠らされてから優しい顔をしたキチガイ医師に切り落とされたのだけれど、そのあとあたしはストレスか何かで吐いた。吐くものがなくなるまで吐いた。
 ふと、胃液の苦甘い味を思い出して顔をしかめる。
「うがいしたい」
 買われてからずっとびくびく脅えていたあたしの、最初の要求だった。口の中が気持ち悪くてたまらなかった。それから少しずつ必要なことを口にした。彼は下の世話も厭わなかった。むしろあたしが嫌がった。恥ずかしいに決まっている。
 あごに触れた彼の指で、すっと顔を上げさせられて、あたしは過去の記憶から抜け出した。軽く口を開けると唇が重なり、舌が入り込んでくる。少し抵抗しながらそのうちに受け入れて、ゆったりと静かにからめる。ぴちゃぴちゃといやらしい音がした。あたしの舌はカフェオレの味がするだろう。紅茶の渋味とほのかな甘味。息が苦しくなって小さく呻くと、するりと全てが離れていく。一瞬の寂しさに笑みを浮かべる。
 息を整えたあと、また唇が重なる。入り込んできた舌に軽く歯を立てると、すぐそばにある彼の目が嬉しそうに悲しそうに細められる。この人は本当に変態だなあと思いながら、あたしは調子に乗って彼の舌をきりきりと噛み締める。ぷつりとそれが破れ、中の生温かい液体が零れ出て、粘りつく唾液と混ざり合う。
 こくりと喉を鳴らした。少し美味しい。


#10

白い壁

 夜中の12時。白い壁に手を触れると異次元の世界。そういえば、そんな噂が小学生のときに流行ったよなーと、ふとユウリは思い出した。
 鏡の話や階段の数・・・…怖い話は色々あったけれど、ユウリは白い壁の話が一番リアルだった。
 理由は簡単。自分の部屋の壁も白いからだ。
 この白い壁に真夜中、0時ぴったりに両手をつけると、どこにいくんだろう。そう考えると怖くてたまらなかった。
 根も葉もない噂だってことは、誰に言われなくたってわかることだ。
(でも、信じてみたくなることだってあるんだよねー)
 時計を見ながらユウリは思う。
 宿題の山、受験。そんなものが近づいてくると本当に逃げ出したくなる。
 誰でも入れるわよと母さんは言うけれど、受験は未だにあるし、その先大学、就職――想像つかないけれど――受験や試験があることはわかる。
 とりあえずは、高校受験なわけだけれど……。
 普段のテストでだって緊張する。独特の雰囲気、何回テストを受けてもユウリはあの雰囲気には慣れない。あ、あのページに書いてあったということは思い出すけれど、そこから答えを書くのが大変だ。
 0時まであと少し。
 塾のテキストを閉じる。白い壁の話を思い出してしまい、他のことが頭に入らなくなったのだ。
 もし、両手で白い壁を触ったら……。そしてどこか異次元の世界へ紛れ込んだとしたら、いったいどこに行くのだろう。
 家族はもう寝てしまったのか、時々車の走る音が聞こえるだけで、しんとしている。
 ドキドキしてくるのをユウリは感じた。
 ありえないと思う。でも、もしかして……。そしてその先は? 答えのでないままイスから立ちあがり、ユウリは白い壁と向き合った。
 壁に変化はない。
 時計を見て、カウントする。……4,3,2,1。
 0時。
 同時にユウリは両手を白い壁にくっつけた。


 静寂。

 ユウリはそろそろと目をあけた。
 ……変わっていない。当たり前といえば当たり前で、どこか残念に思いながらもホッとしていた。
(今日はもう寝ようかな)
 まだ塾の宿題は残っているけれど。
 ベッドに入り、ああ、それでも私は白い壁の話を信じているんだなあと思った。家の壁は完璧な白い壁ではない。完璧な白い壁を見つけたら、また試すかもしれない。
 漠然とではあるがユウリは眠りに落ちる直前、そう思ったのだ。


#11

アダルトチルドレン

(この作品は削除されました)


#12

擬装☆少女 千字一時物語16

「僕、奈津美お姉ちゃんのこと、大好きだよ」
「ふふ、今ののりちゃんは女の子だから、『わたし』ね」
「じゃあわたし、奈津美お姉ちゃんのこと、大好きだよ」
「ありがと。私も大好きよ、のりちゃん」
 照れることを知らない無垢な子供の笑い声が、そこにあった。

 のりちゃんは二軒隣の家のふたつ年下の男の子で、物心ついた頃からいつも一緒だった。男の子なんだけど、小さい頃は異性だなんて考えもしなかったから、三人姉妹の末っ子の私にとってのりちゃんは妹みたいな存在だった。一緒に遊ぶことは当たり前。お姉ちゃんが私にしたように、私のお下がりをのりちゃんに着せることにも、何の疑問も持たなかった。私のお下がりを着たのりちゃんは本当に可愛くて、私はお姉さんぶって、これもお姉ちゃんが私にしたように、のりちゃんに女の子らしさをいろいろ教えてあげた。
 のりちゃんは聞き分けの良い妹で、私はそんなのりちゃんが何よりも大好きだった。そんなのりちゃんが私のことを大好きと言ってくれることが、何よりも幸せだった。

 しかし時が経つに従って、私の当たり前は当たり前でないことがわかってしまった。男の子に女の子の服を着せることも、男の子と女の子が一緒に遊ぶことも、当たり前のことではなかったのだった。
 そのことでのりちゃんはときどき苛められるらしい。そう聞くたびに、私の胸はしくりと痛む。

「そう、大変だったね」
 俯くのりちゃんの頭を、私は優しく撫でる。
「わたし、奈津美お姉ちゃんのことが大好きなの。それじゃ、ダメなのかな」
 こんなに私を好いてくれるのりちゃんを泣かせているのは、他の誰でもない、私なんだ。だけど、
「私ものりちゃんのことが好き。だから…」
「うん、…うん」
 こんなに私が好きなのりちゃんがいなくなってしまうなんて、考えられない。だから、
「だから、泣かないで。今日はのりちゃんにこれをあげたかったの」
 私はのりちゃんの左手を取って、昨日作ったビーズのブレスレットをつけてあげた。ピンクを基調として、ところどころにある大きめのハート型がアクセントになっているそれは、のりちゃんに着せたリボン飾りの可愛いシャツとフレアのティアードスカートに良く似合っていて、こんなときなのに私は会心の笑みを漏らしてしまった。それを知ってか知らずか、のりちゃんも笑顔を返してくれた。
 悪い姉でごめんね。言えない言葉は胸にしまい、私は今日も至福に浸ったのだった。


#13

誰も知らない

 ある日。
 坂の上の夕焼け空を、明滅する光が一筋ゆっくり移動していくのを目で追っているスガヤさんのことを、電柱の陰からこっそり見守っているササキさんのことを、少し不審そうに横目で眺めながら歩いている黒猫を、うっとりしながら見つめているシマネさんのことを、またかこの猫好きがと呆れた様子で見るハマダさんのことを、ちょっと顔が怖いお兄さんだなと通りすがりに考えたミカちゃんのことを、坂の上の家の前で待っているミカちゃんの母親であるナナコさんのことを、散歩はまだですかと見上げる飼い犬のタロのことを、あれは我々の天敵であると認識して名残惜しそうに地球から飛び去る宇宙船があった。
 誰も知らないけれど。


#14

空が見えない

 高架の鉄道は久しぶりに青空の中を走っているというのに、つり革の革の部分を左手で握る僕には、トーキョーに広がる灰色の住宅街しか見えなかった。蒸し暑さの中、僕は密閉型のイヤホンをつけ、こんな気分にあった曲をたった1Mの容量から探した。
ふと現れた虚無感を忘れさせてくれそうなその曲は、高校に上がって、初めて買ったアルバムというものの中に入っていた一曲だった。
 受験戦争やらで、塾とやらに行かなければならなくなった僕は、高2の冬辺りから都合上自転車を使うようなり、オレンジ色の電車とはお別れをした。大学へもまた自転車で通う予定だったので、空しか見えない退屈な電車を早くも今年の4月からまた使うようになったのは、皮肉にも僕が大学受験に失敗したからだった。
 高校になってから急に身長が伸びた僕は、高1あたりで頭打ちとなった周囲を尻目に準トップ級の背丈となり、それが話題となる度に苦慮した。その手の羨望のあとに僕はどう返せばよいのか困った。
 高3の身体測定では、前の年よりもさらに4センチ伸びていた。周りには縮んだ人もいるほどで、自分自身が話題であることには優越感があるものの、どこかで疎外感も感じていた。
 それ以来身長を測っていない。僕は何センチ伸びているのだろうか。大学で身体測定でもやれば、分かるのだろうけれど。
 頭の中で鳴り続ける音楽は、楽しい高校時代を思い出させる。あの頃は、バスケ部にいて、今頃は文化祭の準備で盛り上がって、だがしかし、今の僕にはそんなものは存在しなかった。
 電車の窓は、確実に低くなっていた。僕の目線はもはや下半分の世界しか見ることが出来なかった。灰色の住宅地がどこまで行っても無機質に広がる。
 タカオまで行けば、山が見える。小学生の頃、家族でハイキングに行ったのを思い出した。終着駅に行くのは、それ以来になる。それが僕にはひと時の幸福だった。軽快な音楽の中で僕は笑顔を浮かべ、おぼろげな思い出から幸福を紡ぎ出していた。
 しかし、僕はわざわざタカオまで行く気にはなれなかった。体全体から感覚を得れば、足は疲れていたし、トイレにも行きたかった。しかし何よりも、無機質な風景のせいだった。見ているのが耐えられなかった、タカオまでずっと続くのかと思うと。
 結局僕は途中で降りた。冷房の世界を出ぬまましてゲーセンがあるだろう。音楽はもはや諦観の響きでしかなかった。そして空は見えなかった。


#15

甘え

別れよう、なんて言葉は無かった。

「もうたくさんだ……」

 急に付き付けられた現実は、アタシの想像を超えていて、
一瞬何を言われたのか分からなかった。
 そして、失ったものに気付いた時、アタシは喉を枯らして崩折れた。



 暗い部屋の中、アタシは1人ベッドの上で、左の袖が伸びきった彼のYシャツを抱きしめる。

 アタシは一緒にいるだけで幸せだった。
 いつも一緒にいて、何をするのでもなく、共にいるだけで心が温かくなった。

 でも、彼は違った。
 行動的な性格で、色んな場所へ出かけるのが好きだった。
 優しくて、包容力があって、いつも笑顔で……アタシのワガママを何でも聞いてくれて……。

 なのにアタシは、2人きりでいたいから、どこにも行きたくないって言った。
 タバコは匂うからヤダって止めさせた、賭け事はよくないって言ってパチンコも行かせなくした。
 お酒はアタシに付き合わせるために、飲めるようにしてあげた。
 徐々に変わっていく彼を見て、アタシは芽吹く緑に姿を重ねていた。

 でも、アタシは何も変わっていなかった……。
 この伸び切ったこの袖が、アタシの全てを表していた。
 結局アタシは、彼を引っ張って、捕まえて、甘えて……それだけだったんだ。

 そのことに気付いて激しい後悔が湧き上がってきた。

 もう一度彼に会おう。会って、謝らなくちゃ……。
 私は恐る恐るリダイヤルボタンを押した。



 約束の30分前。彼は約束の場所に立っていた。
 律儀で、真面目で、とても優しくて……怒らせちゃったのに、こうして会ってくれる。
 でも彼の目の温度は明らかに違っていた。

 アタシは見つめられただけで、凍えてしまいそうで……。
 一歩踏み出すのも、辛かった。
 それでもアタシは一歩前へ踏み出す。
 だって、彼はアタシの数歩先にいるのだから……!

「あのね……ゴメンッ!」

 アタシは彼の数歩後ろで、頭を下げた。

「アタシ、貴方に甘えすぎてた! 貴方に甘えてばかりで、ちっとも成長してなかった」
「貴方はアタシのために色々変わってくれたのにっ」
「だから、アタシも変わる。貴方と同じ目線で、同じ世界が見たいから」

 彼は何も言わなかった。
 ただ、一言『頑張れよ』と言い残して、帰っていった。





 3ヵ月後……
 彼はアタシの隣で笑っていた。

 でも、彼の左袖は相変わらず伸びている。


#16

八巻無情

 いえへえ、いつだって上流階級と対決の意志有りと公言して憚らない男がそこな往来に横たわっているのが見えるでしょう。
 見えるはずだよ。
 頭、あれリボンみたいの、わかります?
 ありゃあオオミズアオって蛾を樹脂で固めて作ったんだ。いえへえ、あたしが。

 そう言うが早いか、八巻はその薄緑がかって白く光る蛾バレッタを男の頭から毟り取った。抜けた長い毛髪が絡まったままのそれを俺の手に押しつけようとするがこんなもの利息分にもならない。

 まあまあまあお納めんなって。
 今はこれっ位しか差し上げられなくて、へえ全くお恥ずかしい限りで。

 八巻と俺の掌中で、それなりの力で挟まれたバレッタが、みしと軋んだ。拍子、硬化された翅の縁で八巻が掌を切った。丁度生命線に沿って一寸程の傷が、パクリ深く口を開ける。
 や否や。傷口からオオミズアオの幼虫が沸き出し、ぶりぶりとこぼれ、こぼれ落ちた幼虫全てが地を這って、蛾バレッタを毟り取られても仰向いたままピクとも動かない男に集結していく。その数ざっと数千匹。 八巻はといえばさしてうろたえる様子も無く、傷を押さえて薄ら笑いを浮かべている。
 幼虫群は地べたの男をみるみる覆い隠し、今や半数程は蛹になろうと脱皮している。終齢幼虫だったのか。しかし俺、この蠢く立派な幼虫群、割合平気だな。ガキの時分は揚羽の幼虫なんか戯れに飼って近所の生垣の枳を無断で伐って叱られたりしたものの、大人になってからは虫の類いがすっかり苦手になってしまったのに。あまりの大群だからか知らん。微妙に夕陽を乱反射する明緑の体節が何やら美しくさえもあるなあ。むーん。
 
 と、気付けば蛾バレッタは俺の手に。

 何しゃあがる、八巻! と見回すもその姿すでに消え臍を噛む俺の肩を、簡単服の女が叩いた。

 其の髪留蛾はアナタの持物か。否。其処な仰臥する現蛹塊元男の頭部から盗むを見ていたは我。アナタ泥。して棒。我許さじ。恐らくは。

 唐突に気色ばんだ女が矢鱈につかみかかるのをいなし、一瞬の隙をついてくちづけ。更に肩口まで艶光る直毛のおぐしを蛾バレッタでアップスタイルに! しなりとくず折れる簡単服。
 頬を紅色に燃やす女の目尻には光るものが。熱視線。アナタ泥。してぼ

 その時一斉に羽化した千を超えるオオミズアオが俺と女を渦巻いて、飛び立った。
 無音。
 輝き舞う銀緑色の鱗粉に祝福され、俺は女と手を取り合ってここに結婚の誓いをたてる。


#17

エスカレータで指切断の事故

 いくら割れてたからって、エスカレータに足の指を切断された、ってのはさ、ようは、黄色い線の内側に乗りましょう、っていう、ガキの頃からさんざん聞いてるはずの注意事項を守ってなかったからだろ? しかもニュースのときの街の声とやらがまたおかしいんだ。
「安全だと思って乗ってますからねえ」
 アホか。安全なわけないだろ。機械が自動で動いてるもんに、身をゆだねることの危険を忘れるんじゃねーよ。どこまで平和ボケしてんだよ。
「子どもが楽しく乗ってるのに、恐いです」
 楽しく乗ってるだぁ? エスカレータで遊ばないように、ってのも、さんざん聞いてるはずだろうが。遊具じゃねーんだよ。何考えてるんだ? そういうやつに限って、ケガしたときにギャーギャー騒ぐんだ。


「でも、あなたの足の指が切れたら、私、泣いちゃうよ」


 ……お前にそう言われたら、返す言葉、ないや。


#18

虎ノ門

作家は小説を書いていた。

本物の猿が女と恋愛する話である。舞台は東京で、猿は女と会う時ぬいぐるみを着る。ときどき猿のまま町を走ったりするけれど、Tokyoはそれくらいのことじゃあ驚かない、そういう設定だった。

作家は東京に行ったことがなかったし、もちろん猿好きでもなかった。東京の女がどんな趣味かもわからなかった。しかし変わらないのはどこに住んでいても女は女である。作家は暮している女をつとに観察するようになって、女を深く知ろうとした。一人の女が万人の女に繋がることを願い、その肉体を眺め、あえて異なる服を着てもらったりした。

作家も猿のつもりになって暮した。展開上、猿は日本文学に詳しくなければいけなかった。新劇や電車の知識が豊富でなければならず、従って関心のなかった分野の本を読み始めた。これも成り行き上、登場人物の一人は女の足が好きであった。作家は足など興味がない。が物語は作家の手を離れはじめた。それで男はトリュフォーのビデオを借りてきて研究したりした。なるほど、女の太腿には男にはない肉の豊穣さと女の匂やかさがある。ふくらはぎからくるぶしは対照的にすっきりとキビキビしている。足首より爪先には女の無意識にみせる無垢そのものがある。作家は発見した。

或る日、作家はある天才音楽家が東京虎ノ門で公演することを知り、上京する。金がないので夜行バスの日帰りであった。初めての東京である。バスを降り立つと空気がおいしいので驚いた。街にはあちこち公園があるし、何よりもどこにも人がたくさんいて賑わいがあった。

作家は自身の小説の舞台を訪ねる。隅田川を渡り、向島にある幸田露伴の旧居公園を歩く。猿と女が散歩した鳩の街商店街も練り歩き、東京メトロで浅草へ。雷門の前で猿たちはキスをしたのだった。女が時々寄るダッチ珈琲の店やとんかつ屋で食べたりもした。最後に築地駅から万年橋、三原橋を渡って晴海通りを直進し、4丁目の交差点をまがって再度直進。新橋駅から虎ノ門へ向った。六本木も渋谷も行かなかったが作家は東京が大好きになった。

天才音楽家の公演場についた。前列右端に猿と女がいた。猿は明らかに中年の着ぐるみを被っている。女が猿に話しかけているのだが、笑顔がとても素敵だった。やがて演奏が始まりそれは虎ノ門のクラシック好きを刺戟する選曲だった。終演後作家はバス停に急いだ。霞ヶ関のビルを眺め、小説の完成をあの猿と女に誓った。


#19

嘔吐

 片田舎の繁華街、塾への道を急ぐ俺の視界に、派手な身なりでだらだら歩く女の姿。母の葬式に涙一つ零さず、「つまんない人生」と切って捨てた女。母の十歳下のこの女が、俺の叔母であることが耐えがたかった。
「あんたみたいな子供の世話に明け暮れて死んじゃうなんて、馬鹿みたい」
 叔母は母を侮辱した。

「あら、真一、お久しぶり。何年ぶり?」
「二年ぶりですね、母が死んだ時以来ですから」
「そんなになるの?早いものね。あんたもオトナになったかしら?」
「未成年なんで世間的には子供でしょうね」
「いいわね、未成年。そういう逃げ道があるってうらやましいわ」
「そういえば叔母さんの弟さんのことだけど」
「はあ?何言ってるの?私はあんたのお母さんと二人姉妹でしょうが」
「そうですか、以前男の人と二人で歩いているのを見かけたんで」
「あんた馬鹿ね、普通そういう時って恋人だと思うものよ」
「だけどその男の人が、あそこへ若い女の人と仲良く入っていく所を毎週見かけるんで、そちらの方が恋人かと思って」
俺はそう言うと、いかにもいかがわしい繁華街の一角の派手なホテルを指差した。叔母の顔から見る見るうちに色が消えていく。
「あんた、何言っているかわかってんの?」
「さあ?未成年ですから」
言い捨てるとそのまま叔母を置き去りにした。俺は暫く平静を装って歩いたが、ついに我慢できなくなって、周りが訝しがるのも気にせずその場で声を上げて笑い出した。馬鹿な女。男がいなくちゃ生きられない。あんな馬鹿を、俺が相手にする必要なんてないんだよ。

 萩が咲く家路。母が死んだ十三歳の秋も、こうやって風が花を揺らしていた。十六夜の月が、俺の感傷を後押しする。ぼんやり灯る門燈の下の、ぐるぐる円を描く虫を払って戸を開けた。
 玄関には父の革靴と、見慣れぬ赤いハイヒール。二階からかすかに聞こえる、物音。
 俺は一段一段ゆっくりと階段を上る。心臓の音が鼓膜を打つ。手のひらが汗ばむ。かつての母の部屋の襖は、開いていた。
 文机に置かれた月下美人の鉢ががたがたと音をたてている。叔母の裸の足が父の腰にからみ、白い腕が蛇のように首へ巻きついている。激しい息遣いの中、「もっともっと」と上擦る声の間で、叔母が俺を見た。
 背を仰け反らせ嬌声を上げながら、視線を俺から外そうとはしない。
 胃の底をねじりながら喉の奥がせりあがる。叔母が俺を見ている。
 その白い腕。その強い香り。月下美人。


 


#20

松の木

 これは私がまだ物心つく前の話。それは父方の祖母の家でのことだった。その祖母の家は古い造りの家であったが、縁側から庭に出ると、様々な植物がぐるっと家を囲むように存在し、庭が広かったため、手入れの行き届いていない裏庭は、私の背丈くらいの草が伸び放題で、まるで迷路のようであった。反対側の庭とは違い、裏庭は不気味なくらい静まり返っていて、草をかき分けていくと1本の大きな松の木が生えていた。この話、実際に私の父方の祖母の家には裏庭も含め、広い庭はあったのだが、私が物心つく前の話であり、夢と現実を混同した部分もあるのではないかと今では思う。話を元に戻す。
 松の木の下に一人の男が立っていた。派手な着物姿であったが、髪は乱れて、疲れきった顔をしていた。男の目を覗き込んでも、深い影が覆い、空洞のように見えた。男は私に言った。
「だいちょうをもやしてくだせぇ」
 私が「だいちょー?」と聞き返すと、男は再び「だいちょうをもやしてくだせぇ」とだけ言った。私はようやくこれが「ゆーれい」だということに気づき、急いで引き返したとき、「おねげぇします、だいちょうをさがしてくだせぇ、さもねえとあっしのたましいはずっと……」背中ごしに聞こえた。この話が夢であれ、現実であれ私はこの「たましい」という部分がはっきり聞こえたのを覚えている。
 それから私がこの話を祖母にすると、祖母は「悪い夢でも見たんじゃろうて」と笑っていたが、私が「たましい」と口にすると祖母は少し引きつったように驚いたことを私は覚えている。
 そして十数年後、祖母の三回忌の席で、私はこの家が江戸時代、高利貸しであったという話を少し酔った父から聞いた。「じゃあ何か残ってないの?」と聞くと、父が子供の頃には担保に取った刀や骨董品がまだあったと話してくれた。「台帳とかは?」と私が聞くと、「見たことねえな」と父は言った。
 父の話によると、担保にとった品々は大分昔に処分してしまったらしい。もちろん私が生まれる前だ。しかし、私が見た男が言っていた台帳はどこかにまだあるのだろうか。そのことと、男が「たましい」と言ったことを父に聞いてみたかったが、やめておいた。
 あちこちにぼろが出ていたこの家はようやく取り壊されることが決まったが、久しぶりに見た裏庭の松の木は、誰も手を加えていないに関わらず、奇妙なほどその葉を生い茂らせていた。


#21

ロンドンコーリング

 黒大使エドワードがクロスボウ部隊へと放つ長弓。
 物凄いスピード。
 物凄いスピードのプジョー。テスタロッサ。
 アスファルトに激突し大破する。
 真っ赤なカケラ。

 ばらばらに。ばらばらにばらばらにばらばらにばらばらにばらばらにばらばらにばらばらに。

 長弓の突き立ったセント・エドワード聖堂。
 長弓の突き立ったロンドンコーリング。

 長弓はフランスを通り抜けイタリアへ。ドイツへ。あなたへ。

(これがかの有名なクレシーの戦いである。フランス騎兵の死者は千五百五十名。これに対してイギリス兵の被害は微々たるもので済んだ。
なるほどフランス騎兵の勇敢さは十六回も突撃を繰り返したことでも解る。しかしぬかるんだ地面。そして降り注ぐクロスヤード・シャフトの雨。この場合勇敢さは何の助けにもならない。
 ジェノバのクロスボウ部隊もその点を指摘し、追撃を終えたばかりで皆へとへとではないかと説得したにもかかわらず「どけいっクズども!」と味方のクロスボウ部隊を蹄にかけ、イギリス軍めがけてフランス騎兵は突撃を繰り返す)

 ジョー・ストラマーに会いに行く。
 ピストルには弾が入っていなかった。
 十字架が崩れ落ちて十字架になる。ばらばらに。ばらばらにばらばらにばらばらにばらばらにばらばらにばらばらに。十字架が崩れ落ちて十字架になる。

「電子顕微鏡を使ってね、卵子の中に十字架を入れたら、どうなるだろうね?」

 ジョー・ストラマーは笑う。

「電子顕微鏡を使ってね、それで卵子の中に十字架を入れたらさ、やっぱり、問題になるのかな。倫理の問題があるのかな。神の領域とかの話になるのかな」

 ジョー・ストラマーは笑う。

 ハウリングが続いている。
 ハウリング。
 どこのアンプだろう
 フェンダー? マーシャル? ジャズコーラス?(でもどこのアンプだって良いんだ)
ジャズコーラスのプリントされたTシャツ。
 あれはどこへ行ったかな。
「ハウリングにメロディが無いの奇跡なの?」
 ハウリングが続いている。
 ハウリング。
(完璧なサイン波だってノイズだ)
 どこのアンプだろう
 フェンダー? マーシャル? ジャズコーラス?(でもどこのアンプだって構いやしない。そんなことはどうだって良いんだ)
(完璧なサイン波だってノイズだ)
 長弓の突き立ったセント・エドワード聖堂。
 長弓の突き立ったロンドンコーリング。
 十字架が崩れ落ちて十字架になる。
 ジョー・ストラマーは笑う。


編集: 短編