# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | ボツ 〜こういうことだよ〜 | Et.was | 538 |
2 | ほの薬 | タコトス | 993 |
3 | 落ちない | 真央りりこ | 1000 |
4 | eisaku | 不思議な球体に吸い込まれてゆくハンニャ | 1000 |
5 | 迎え火 | たけやん | 433 |
6 | いたずら電話 | 大宮 慎一 | 915 |
7 | 緑の指 | 群青 | 940 |
8 | 会いに来た犬 | 朝野十字 | 1000 |
9 | うれないし うらないし | 草歌仙米汰 | 155 |
10 | スラレタ・スマイル | 八海宵一 | 1000 |
11 | じゃんけん遊び教師! | 三枝 白雪 | 734 |
12 | 狐施行 | 白雪 | 527 |
13 | 信仰 | TM | 998 |
14 | ブエンディア | 公文力 | 1000 |
15 | 見えない出口 | プロニート | 522 |
16 | 手紙 | 壱倉柊 | 1000 |
17 | 蝶と憂鬱 | mlcy | 927 |
18 | どうしようもない心臓 | 藤田揺転 | 1000 |
19 | 十三歳 | qbc | 1000 |
20 | 仮面には裏側がある そしてそれは鏡張りになっている 当然のように、それは歪んでいる | 三浦 | 996 |
21 | おともあち(1000文字版) | わたなべ かおる | 1000 |
22 | 紫陽花の唄 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
23 | 擬装☆少女 千字一時物語12 | 黒田皐月 | 1000 |
24 | 深くへ | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
25 | いささか長めですが、これが短編第57期への曠野反次郎の投稿作品の題名ということになります(良い題名が思い浮かばなかったのでこうなりました)。 | 曠野反次郎 | 1000 |
まあ何だね、久しぶりにペンを握ってみたわけだが、どうも意欲がわかないね。
オレは少しため息をつきながら部屋を出た。学生時代のレポートにしたって、論文にしたってそう。こっちは三日三晩寝ずに考えたのに、その返事は「良」それだけ。小学校だっけか? 五時間かかった粘土の置物。評価は「普通」普通って何だよ。オレが普通ならほかの奴等はどうなんだよ…… 普通ってのは一般的の事だろ。腕のない招き猫なんて普通の招き猫だって売られた日には陶器屋のオヤジと大喧嘩だよ。
いつの間にか居酒屋の前についていた。
静まり返った町にぽつんとそびえる明るい居酒屋。
のれんを押し上げて入るといつもの威勢のいい挨拶。
これだって普通の挨拶っつたっていいんだろ? まったくやってられないな。
まぁ世の中そんなもんか。
「ビールと枝豆をくれ。」
大将はいつものだねって、普通だねなんていわれたら気分が悪いだろうがね。
あんたの注文は普通だなんてね。
「先生。なんだい、浮かない顔して。町じゃ面白い事もあるだろ。」
「ふん、やってられないさ。オレがビールを飲んだら終わりだってよ。何でもどっかの作家先生が意欲が沸かないらしくってね。面倒だから止めるんだってよ。枝豆くらい食いたいもんだ。」
「どういうことだい?」
オレはビールを啜った。
惚れ薬って知ってるよね。飲ませた相手が自分を好きになるってやつ。
でもさ、みんな本当にそんなものがあるなんて思わないわけ。もしあったらなぁ、とか思うかもしんないけどさ。
あるんだよ。惚れ薬。吊り橋効果ってしってる? 怖い所でさ、心臓がドキドキしてる時に、近くに人がいると、その感情をその人への恋だって、思い込んじゃうの。で、惚れ薬使って意中の人の心拍数を上げてやるわけですよ。
僕の父さんは内科医でさ。家には薬がいっぱいあって、風とかひいた時凄い便利なんだけど、当然その惚れ薬もあるわけよ。
で、その惚れ薬を五百円で買わないかって、昔友人に聞き回ったわけ。まあ当然だけど、誰も信じなくてさ。でも、一人だけ信じちゃった馬鹿が……、というより僕が誘ったんだけど。まあそいつが好きな子に告白したいからって、薬をくれっていうの。せこいやつだよね。まあ、売ったのは僕だけどさ。
それから数日して、そいつが告白するって言ってた日がきたのさ。
僕としては、服用者の無事を見守るために……って、ホントはどうやってあいつが薬を飲ませるか、ってのが気になったわけ。
学校の帰り道でさ、あいつ突然走り出して、大声で名前呼んでさ、息切らしながら、「三年間、ずっとあなたのことが好きでした!」って大声で言ったの。
絶句したね。薬は? って。でそいつはお構いなしに、「付き合ってください!」ってやっぱり大声で叫んでるわけ。
彼女は気圧されてたっていうか、とにかくビックリしちゃっててね。僕もびっくりしたんだけど、次の瞬間にあいつ、鼻血出しながらぶっ倒れちゃったの。顔真っ赤にして。
ほんと馬鹿だよね。あいつ自分で薬飲んだのさ。心臓が暴れ回ってさ、気持ち悪くなってたんだろうね。僕の顔は青くなってたと思うよ。目の前真っ暗なちゃって、気がついたら彼女があいつに駆け寄ってさ、ティッシュ出してんの。
映画のワンシーン、それもクライマックスのを観てる気分になってたよ。鼻血出して、意識朦朧として、小声でなんか言っているあいつの手をとってさ、彼女うんうんって、うなずいてんの。
僕はなんとも言えない気持ちになっちゃってさ。
後は多分ご想像通り。薬の使い方は間違ってたけどさ、結果オーライってやつだね。
でもさ、もしかしたら彼女があいつに驚いて、それが吊り橋効果になったって……。まあ、どうでもいいか。あいつらは幸せです。
見つけたというてんとう虫はすでに動かなくなっていた。背中の中心が軽くへこんで羽が出せないのだった。くっきりと記された七つの黒い星。ツイ子はそれを軽々と拾い(実際とても軽かったのだ)、はじめからなかったもののように四階の踊り場から上空に投げた。てんとう虫はふわりと浮き上がりすぐに下降して行った。
生きて飛ぶ虫の飛行が曲線をつなぐように華麗だとすると、死の飛行線は優れた科学者ってとこね。
感情を込めないでツイ子が言う。
どうして、と聞くと
重力には逆らえない。
「あなたを見てるとむしゃくしゃするわ」
そう啖呵を切られたのが、ツイ子との出会いの最初だった。
特になんの取り得もない私にツイ子が苛立つ事も今ならわかる(が、そのときはただぼーっと立っているだけだったと思う)。
目に見える現象は一度分解されて、ツイ子の頭で組みなおされる。世の中のほとんどのでき事はツイ子によって組みなおされた。唯一、組みなおされなかったのが私だった。
「あなたが何を思って毎日生きてるのかよくわらない」
おおよそ、初対面では取り交わされることのない単語でツイ子は宣言した。さらに、ツイ子はこうも予言した。
「たぶん一生、落ちるということを知らない人なんだ。そして、落ちるということを知らずにしあわせに死んでいくのよね」
「待ってよ」
私はやっと重い口が開くことができた。
「勝手に人を殺さないで」
そんなことをツイ子はもう忘れてしまっているのだろう。相変わらず口は悪いけれど、風邪をひいて寝ているという私のところに、車で一時間半の山道を越えて来てくれていた(寝込んでいたのは一週間前のことだったけれど)。
「組みなおされるほど高度なものではなかったのよね」
ツイ子の横で地面までの飛行線を見届けながら、胸のうちで告白していた。
今朝、パンにピーナツバターを塗って食べ、パンもピーナツバターを塗るスプーンも落とさなかった。パンを乗せる白いお皿もサラダを盛るとき包丁もレタスもクコの実も落とさなかった。半欠のチーズもルッコラも、思い出したツイ子のことも(夕方までは落とさずにいられるだろう)。そういう人生かと思ったとき手をすべらせて、ピーナツバターの蓋を落としそうになった。瞬時にスリッパを蹴り、テーブルの足を支えにして右足を押し付けた。蓋を内側から打ち抜くように足先がぴたりとはまった。そのはるか下方に、フローリングの床が黒々と横たわっていた。
栄作はおしゃれな17歳。
モテるためにバック転の練習を開始した彼は、それはそうと、いつどのようにして女の子にバック転を見せつければオールOKかという疑問に対する答えをみつけることができず、若さ大爆発。眠れぬ夜はPuffyのベスト盤をBGMに空を飛ぶ夢を見た。
彼は九州に飛んだ。
九州はいいことずくめ。おれはなにをうじうじ悩んでいたんだ。バック転なんてどうでもいい。大事なことはゲット・セット。そう、九州に行けばとんこつ。
たまたま飛行機で隣の席に座っていたジャニ男と意気投合した彼は、最近腹がでてきた、という悩みを打ち明ける。それに対するジャニ男のひとつの解答が、
「攻めろ、攻めろ。」
その言葉を聞いた瞬間、シートベルトを引きちぎって海へスカイダイブ。ああ、おれもこんなスピードで落下することができたなんて。
同時に、栄作をレーダーで発見したアメリカ軍がすぐに戦闘機を7機発進させ、彼を撃墜にかかる。7回連続でロック・オンされるという人生初の体験をする。
そうか、おれはここで死んでしまうのか。そうかそうか。よし、それなら、
「OK楽しもう。」
世界中のカモメたちが栄作に集まって行く。
「すいません間違えました。レーダーに映ったあれは天使でした。」
「トゥギャザー、トゥギャザー、なにを言っているんだね君は。なんの脳内革命かね。え、ちょっと待って、あ、天使だ。」
やばいやばい。おれのからだのなかにはこれほどのエナジーが。
さらに世界中から6億800万羽のカモメたちが夕日をバックに集まり、北半球の空に文字を形つくる。
『そんな重たいバッグはこっそりドブ川に投げ込みな
たぶん明日からスパッとワン、ツー、スリー
おしゃれな映画は名前が長いが
医者の息子はプライド高い
奥田さん宛に電話がきたのに奥田さんが見当たらないときは
折り返しでよろしいでしょうか
雨天決行でたぎる身体能力
ゲットセット そこの坊や、生きるっていうのはな
狼スイッチON!
だからホコリをかぶったサーフボードを取り出して
走って家を飛び出し一気に3塁へヘッドスライディング
その足でステージにジャンプして乱入してギターを奪ってソロ代行
スタンディングオベーションのビッグウェーブに乗るのさ』
その文字列は編隊を組み、大移動をはじめ、やがて宇宙へ飛んで行った。
そのなかの『忘』の右端に、栄作はいた。
錚々と冷えた空気が上昇してゆきます。暖められて、このわたくしの足元から。
何をしているのかと尋ねるひとがありましたので、迎え火をと答えましたらあとは何も言わずに立ち去ってしまいます。
構わず立っておりました。鋭く一度、百舌鳥が鳴きました。
やがて、提灯に灯さねばならないのだろうに。と、呆れた風情の声がして、けれど姿はなく。
季節も違う。と、今度は笑い声。
目を閉じておりますと、目の前に立っているような。
ぱちりと燃えていた小枝がはぜる音。
目を開けると、しょうしょうと細く長く、空に向かって煙が昇ってゆくのが見えます。
それきり、なんの音もなく誰も来ず、急に火が強くゆらめき、あとはゆっくり静かに消えてゆくばかり。
ぼんやり煙を見送っておりましたら、先ほどのひとがまたやって来て何をしているのかと尋ねるので、送り火をと答えました。
寒いのだから早く家へ戻ったほうがよいと言い残して、立ち去ってしまいます。
飴玉ひとつ頂きましたので、いま、それをなめております。
雅樹はテーブルの上に携帯電話を置いた。
「誰?」と台所から妻の真紀が言った。
「いたずら電話だよ。非通知設定だからおかしいとは思ったんだけど。電話口で、はぁはぁやってるやつ」
「聞いていてあげれば良かったじゃない」真紀は台所から笑って言った。
「そういえば」雅樹は不意に、昔何度もかかってきたいたずら電話のことを思い出した。
「昔さ、毎日毎日いたずら電話をかけてくるやつがいたんだよ。それも、その頃の彼女といるときにきまってさ。女の声で、あなた今浮気してるでしょうって」
「本当に知らない人だったの?」
「なんだよ、疑ってるのかよ。本当に覚えのない相手だったよ」
「着信番号は出ていたんでしょう? そんなに毎日かかってきてたんなら、かけなおしてみればよかったじゃない」
「かけなおしてもみたよ。番号は表示されてたからね」
「相手はなんて言ったの?」真紀は雅樹の正面の椅子に腰かけて言った。
「電話に出たのはどこかの知らないおじさんだったよ。それで、毎日あなたの番号から電話がかかってくるんですが、って言ったらさ、そんなはずはない、って言うんだよ。自分は一人暮らしだし、誰にも電話なんか貸したりしないってさ」
「それじゃ、その相手は存在しなかったてこと?」
「まあ、そういうことになるね」
「でも、電話は確かにあったのよね?」
「あった。そのときの彼女もそのことは知ってる。一緒にいるときにかかってきてたからね」
「そう、いつも一緒で仲が良かったのね」真紀はトゲのある口調で言った。
「なんだよ、そんなことで妬くなよ」
「わたしの性格知ってるでしょ?」
そう言うと、真紀は黙り込んでしまった。
真紀の人一倍嫉妬深い性格は今始まったものではなかった。雅樹は、ふうっと大きな溜息をつき、椅子の背にもたれかかった。
そのとき、テーブルの上の携帯電話が鳴った。
雅樹は携帯電話を手に取った。着信表示には、「真紀」と表示されていた。
「出ないの?」
真紀は黙って雅樹を見ていた。
雅樹はしばらく迷ってから、通話ボタンを押し、携帯電話を耳にあてた。
「ねえ、私本当に嫉妬深いのよ」それだけ言うと電話は切れた。
雅樹は真紀を見た。
「私って、本当に嫉妬深いわね」
真紀は微笑んでいた。
白いキャンバスに、一筋、色が加わる。
真白の中に一際目を引くライトグリーンの線は、平衡のようで、不均衡な太さでキャンバスを駆け巡る。1本。2本。3本。線は瞬く間に増えていった。
彼は一心不乱にキャンバスを緑で埋めていく。彼の指は緑の絵の具の所為で鮮やかに染まっていた。
彼のそういう姿を見ているのが、私は好きだった。
夕日が教室の窓から差し込むと、緑のキャンバスは光を反射して輝いた。
キャンバスを駆け巡る緑の指は、毎日、15本の線を描いてその役割を終える。
彼は私が見ているのを特に気には止めていないようだった。
彼が初めて赤い絵の具を使っていた。
ライトグリーンのキャンバスが、真っ赤な鮮血で染められていくようだった。
彼の指は、もちろんその色で染まっていた。
部屋には誰が用意したのか、ラベンダーの花がたくさん飾ってあった。
そのせいだと初めて気がついた。部屋はとても素晴らしい香りに包まれていた。
赤色は、次の日にも使われた。
もちろん緑も使うのだが、やはり赤の色の強さは明快だった。
ズル、ズル、と指がキャンバスを這う音が耳に入ってくる。
赤が7本、緑が8本引かれた。
彼が入院した。
異常に体内の血液が欠落していたため、貧血を起こしたのだそうだ。
それでも私は、彼のキャンバスのもとへ向かった。
いつものように、椅子に反対向きに座り、背もたれの上に顎を乗せ、キャンバスを眺めた。
私は、あることに気がついた。
指を水に浸し、十分に湿らせてキャンバスにつけてみた。
ヌルリと指が滑った。赤色に染まった指を、口元へ運んでいく。
舌先で、少しなめてみた。
私はすぐさまトイレへ駆け込み、盛大に吐瀉した。
なめたものの味など、問題ではなかった。
今私の目の前に、彼が絵を描いていた時の風景が広がったのである。
彼は、赤い絵の具など、最初から使っていなかった。
結局-----2年経ち、彼と私が卒業しても、その理由を聞くことはできなかった。
私は、彼の秘密を1つ握れただけで充分であったからだ。
彼の左の人差し指は、第一関節から上が欠如していた。
もちろんそれは緑のキャンバスに、他の色を付け加えたからである。
私は卒業する際、彼に右手の人差指と親指を見せてもらった。
絵の具で染まった、鮮やかな緑色であった。
緑の指の彼を、私は一生、忘れない。
ゆり子は風呂場で手首を切って倒れてる妹をまた見つけた。傷は浅かった。妹は泣きながら別れた男の名前を口にした。
ゆり子は一人暮らしで聾学校の事務員をしていた。妹は健常者で、子供のころは熱心にゆり子の手話を覚えてくれたが、年頃になって家を出て長く会ってなかった。久しぶりに帰ってきた妹は不健康に痩せて目つきが悪くなっていた。ゆり子は手を動かしたが妹はすぐに手話を読むのを諦めてしまった。ゆり子に読唇させるためゆっくり言った。
「もう、忘れた、の」
浩が川辺で鮒釣りをしていると、弟の孝が小さな犬を抱いてやってきた。拾ったと言う。孝はその犬を飼うと言ったが犬の首輪には住所が書かれてあった。
「きっと家の人が心配してるよ」
「ぼくが飼うんだ」
まだ小学生の孝はいつも兄の尻にくっついているおとなしい少年だった。いつだって兄の言うことを聞いていたのになぜかこれだけは渋った。父や母が説得してもだめだった。孝が学校に行っている間に犬を返しに行こうものなら随分泣くだろう。
週末になって浩が言った。
「犬を連れてこの住所に行く。どんな人か見てから決める。おまえも一緒に行くだろ?」
「うん……」
住所は二人の住む田舎町から電車に乗って半日かかる大きな町だった。兄弟はリュックに弁当と水筒を入れて背負い、籠に犬を入れて電車に乗った。憂鬱だったはずなのに、孝は遠足気分になって元気が出てきた。孝は兄が大好きだったし、二人で知らない町に行くのはワクワクした。
大きな町の静かな住宅街の細い路地の入り組んだ先に小さな家があって、姉妹が住んでいた。妹は兄弟の話を興味なさそうに聞いた。姉はずっと無言だった。
「うちの犬じゃないよ。この家の前の借主の犬かな。でもその人はもう死んだし、犬だけそんな遠くに行くのも変だなあ」
姉が手を動かし始めた。妹が目をそらすと肩をつかんで顔を覗き込み、何度も手を動かした。意味の切れ切れが妹の頭に染みてきた。
この犬は……会いに来た……あなたは寂しい人……。
「この人はなんて言ってるの?」と孝が聞いた。
「わからない」と妹が答えた。
ゆり子は忙しく手を動かし続け、妹は首を横に振った。兄弟は途方にくれた。浩は犬を連れて帰ろうと籠に入れかけたが、ゆり子に止められた。
「その犬、姉が飼うって」と妹が言った。
兄弟が帰った後、犬は我が家にいるかのようにすやすや眠っていた。妹は手を伸ばしてその犬を撫でてみた。
私は占い師だ。ある日、同じ占い師の友達に、自分の占いが本当に当たるのかどうか占ってもらった。結果は「当たらない」ということだった。腹が立ったので、その友達を蹴り倒してやった。「このエセ易者が!!」と罵声を浴びせながら。
でも、いいのだ。私は占いなど信じていないから。
占いなんて、当たるわけがないじゃないか。
改札を出て、変化に気づいたのは連れだった。
「気分悪いのか?」
唐突に聞かれた俺は首を傾げた。気分が悪いなんて言った覚えはない。どうしてそんなことを聞いてくるのかわからなかった。
「顔色悪いか?」
俺が訊ねると、連れは心配そうな様子で頷いた。
俺は駅の便所に行き、確認のため鏡を覗きこんだ。
見慣れた顔。別に青ざめた様子もない普通の顔だ。これで顔色が悪いと言われたら、ずっと顔色が悪いことになる。大きなお世話だ。
俺は安心し、笑おうとして、やっと気がついた。
表情が崩れない。
俺は鏡の前で固まった。
どうやら電車の中で、“表情”をすられたらしい。
「最近、多いんだよね、表情すられる人」
駅長室の奥の部屋で、俺は鉄道警察の担当官にそう告げられた。隣で連れが爆笑している。担当官はイスに座り、被害報告書をへらへら笑いながら、作成していた。
被害にあった人間を前にしてなにが楽しいのかわからなかったが、俺はムッとした感情を顔には出さず(あたりまえだ)に言った。
「返ってきますよね、俺の表情」
「むずかしいね。ほら、出てきてもそれが自分のだってわからないでしょう」
正論かもしれないが、俺は無表情のまま、拳を握り締めた。
「生活に支障が出るんですけど」
自然と強い口調になる。しかし、担当官は笑ったまま、「まあまあ」となだめ、足元のダンボール箱を俺のほうに差し出した。中に大小さまざまなチューブが入っていた。
「応急処置だけど、一つ持っていっていいから」
俺は箱からチューブを取り出した。
“しくしく(悲)”と書かれていた。
「なんですか? これ」
「それ塗ると、悲しい表情が作れるようになるんだ。ラベルにそう書いてあるだろう?」
「つまり、悲しい表情限定?」
「そういう事。これなら“ムカムカ(怒)”で怒った表情だ」
「いろんな表情が作れるのは? あったら、それがいいんですけど」
「あれはとても高いから、個人的に整形外科のほうで買ってもらうことになる……とりあえず、一番必要なのを一つだけ選んで、持って帰ってくれればいいから」
一番必要な表情と言われても……。
俺は適当にチューブを一つ取り出した。すると、担当官が言った。
「それは評判が悪いみたいだ」
ラベルを見ると、“へらへら(笑)”と書かれていた。
なるほど説得力がある。
俺は別のチューブを取り出し、それを顔に塗りこんだ。
“やれやれ(落胆)”
隣で連れが爆笑していた。
公立中学校の親睦会の宴会にあった本当に馬鹿馬鹿しい話ですが、宴会たけなわの折、区の教育委員や父母に信頼の厚い校長自らが、女性教職員を交えた中であれ、ジャンケンをさせて、相手が負ければ負けた相手の、着ている衣類を一枚一枚脱がせるじゃんけん遊びで、あれよあれよと思っている中に、好きで脱いでか脱がざる状況か、最後にパンツ一枚になった若い女性体育教師がいました。いくらスタイルが良いからと言っても、自ら好んでなったのかどうか分からないが、今日ならば、外部に漏れ聞こえたら、何と破廉恥なことかと。女性蔑(べっ)視(し)で、破廉恥校長とか破廉恥教師とか言って、教育委員会から、何らかのお達しの対象になるでしょうが、実に守秘義務と言う有り難い壁があるので、遣(や)りたい放題に安心して遣(や)れるのです。宴会も中締めともなれば、当然の如く女性が各部屋に戻りますが、新米男性教師は男性教師が全員残っているので渋々残らざるを得ません。その機会を待っていましたとばかりに、校長自ら丹前を脱ぎ捨て、素っ裸になって、また父母の信頼の厚い教職員自らも迎合して、一斉に素っ裸になり、嫌がる新米教師の衣類を強制的に脱がせ、パンツまでも下ろし脱がせて、裸踊りを興じることもあります。然(しか)も、この裸踊りを好んで遣った教師の殆(ほとん)どが管理職となって、教師を管理しているのが現状です。生徒の前では教科指導内容以外に雑念を決して持たない素晴らしい教師なのでしょう。
会社からリストラを受けて、教師になった者にも、同じ様な傾向があるようで、会社でも裸の付き合いは遣っておるのかなと、考えさせられることが屡々(しばしば)現状にあります。
全く眼を覆いたくなる現状は品性をもと疑いたくなります。(了)
少女の住む所には、古くから伝わる行事があった。
真冬の夜、狐の面を被った人の行列が提灯をかざし練り歩く。そして一行は、お施行だよ、お施行だよ、と呼びかけながら稲荷社を詣で、狐の好物とされる赤飯と油揚げを竹皮に包んで置いて帰るのであった。
この行事を狐施行と呼んだ。
その昔、冬の寒さに困窮した狐は人里へ下りて人をばかしては暖をとり餌を盗んでいた。それを見兼ねた人々が狐の好物を与えてやったのがはじまりとされた。
今夜はその狐施行の日であった。
少女の父は白装束を身に纏い、代々一家に一つ受け継がれていく狐の面を紐でくくりつけた姿で玄関の戸口に佇んでいる。
綿の敷き詰められた木箱にひっそりとしまわれているその面は、白塗りに目が朱色で縁取られている。少女は見るたびに背筋にひんやりとしたものを感じた。
狐になった父は提灯に明りを灯す母をただ黙って見つめている。狐の面を被ったら人間の言葉を話してはならないのだった。少女はそれが本物の狐のようで怖かった。
狐はいってくるというように提灯を軽く掲げてみせると、夜の闇へと繰り出していった。
少女はその後ろ姿に黄金色の尻尾を見た。
お施行だよ 狐や出ておいで
お施行だよ もう悪さはしないでおくれよ
お施行だよ
「じゃあ、子供たちは理屈じゃない世界に生きているとでもおっしゃるんですか?」僕はくってかかったつもりだった。「そうですよ、それと同じなんですよ、私は。理屈じゃない世界で生きていたいんです。サラリーマンなんて、理屈の塊ですよ。私はあんなものにはなりたくなかったんです」老人はコーヒーカップを両手で包んだまま、少し震えた声でさらりと答えた。僕は納得がいかないというふうな顔でさらに続けた。「この世界では、みんなサラリーマンにならないと生きていけないんですよ」「皆殺しだよ」「え?」「皆殺し」「どういうことですか?」「つまり、生きながらにして皆殺しにされているんだ」僕はますますわけがわからなくなった。「意味がわかりません」「わからなくて当然だ。よらしむべし、しらしむべからず。あんたたちにはわかりゃしないんだ。知ったとしても理解できない、絶対にな」「そんなことはないです」「いーや、そういうもんだよ。現に今あんたは私がぼけていると思っている。握られた右手の中に石が入ってることも知らない」「右手は左手と同じようにコーヒーカップをつかんでいるじゃないですか」僕はこっちもちょっとからかってやろうという気分になった。老人ホームではよくある意味のない会話に過ぎないのだと。「さっきからずっと石を握ってる。あんたには理解できっこないんだ。私が今、青みを帯びた石の結晶をつかんで天にかかげていることなんぞ、あんたにはわかりっこない。その石からはすばらしい青白い光が放出され、あたりを優しく包んでいることすらもな」僕はもう我慢の限界だった。さっさと他の仕事に移るべきだった。僕はもう無視してしまおうと思い、立ち上がってその場を去ろうとした。なんのことはない。よくある状況であり、いつものことなのだ。その時だった。「偽の世界だ」「え?」僕は立ち上がったまま、その場に釘付けになった。「あんたが生きているのは偽の世界なんだよ」老人は僕を見上げて言った。「なんですって?」「ふははははは、あーはははは! 私はこの石によって偽の世界を投影している神に最も近い存在なのだ!」僕は冷や汗をかいていた。なぜって、最近の僕は何をやってもうまくいかず、この世界は偽の世界じゃないかと思うまでになっていたからだ。「お願いです、僕を本当の世界へ連れて行ってください」老人はまっすぐ僕の目を見て言う。「簡単なことだよ。信じればいいんだ」
事務所を畳んで一月経つ。マイルスの1stから再生し作業を初め大方片付いた頃には彼は最早僕の理解を超越する音楽を奏でていた。ハル子は相変わらず一階の受付に座って本人曰く幸せな午後における官能的な妄想に耽っていた。隣に座っている小太りの娘(彼女一日にアイスクリームを8個食べるの)とにお別れの挨拶を交わして4年過ごしたビルを出る。ここで開業した時の印象と変わらず眼前の体温の失せたビルの佇まいはゲシュタポの尋問所に見えなくもない。
メール着信音が鳴る。〈空っぽの貴方の事務所で今私何していると思う?〉
義父の遺言通り僕は労働することを止めた。月曜の朝からジムに通い僕はバイクを漕ぎながら本を読み料理も以前に比べて随分上達した。日が暮れるとプロジェクターで映画を見た。暇になるとスケッチブックを取り出してG・マルケスの作品群の登場人物の相関図を記憶を頼りに書いてみたりした。それは「北の国から」のそれを書く4000倍は難しい作業だった。当座のお金は義理の弟(彼が製薬会社を引き継いだ。世間の目から見ればやや言われそうだが僕らはなかなか友好的な関係をこれまで保ち続けている)の指示で僕の口座に振り込まれた。それは決して悪くない金額だった。そして僕が何らかの衝動で業を煮やして労働で対価を得るようになるか会社が倒産でもしない限りずっとこの生活が続くのだと考えると不思議な気持ちになった。義父は一体僕に何を求めているというのだろう。
僕は銀行にいる。先日届いた利用明細書に数回に分けて200万円を何某に振り込んだと明記されておりそれに全く覚えがない僕は止む無く訪れたのだ。シックなネクタイを実に職業的に結んだ銀行員は確かに貴方様からお振込みされていますねと淡々と述べる。
不安感が僕を包み込む。記憶の欠如。アンビバレンス。何かの偶発的な間違い。あるいは他人の作為。あらゆる疑問を追及した挙句にその銀行員はこういう行為は本当は許されないことなのですがと僕をモニター室に案内する。
「よく見て下さい。これが新堂様がお振り込みされた時の映像です。」
その画面には確かに僕が映されている。僕は何度もATMでの入金を繰り返している。その動作は客観的に見ればただの人の行動だった。でも何かが違っていた。そしてモニターを振り向く僕の顔を見て僕は絶句する。それはまるで僕ではなかった。
「どうですか。どう見ても新堂さんですよね。」
早朝だというのにキャンキャンと甲高い耳触りな声、全身を撫で回される不快な感触。
湯気を立て悪臭を撒き散らす、皿に山盛りの残飯。
今日も鬱々とした一日が始まる。
ぞわぞわとした手の感触に、臀部が総毛立ち、ブルブルと震えてしまう。
かつては、その様を見て上がる嬌声を聞く度に、激しい殺意を覚えたものだ。
だが今はどうだ。プライドはとっくの昔に破壊し尽くされ、すえた香りの残飯すらも喜んで平らげる、
みっともない屑に成り下がってしまった。
ああ、何もかもが自由だった頃が懐かしい。移動の際は必ず監視付きの上、
珍妙な服を着せられて晒し者にされている現在では、もはや望むべくもない状況だ。
街中で擦れ違う仲間たちの希望を失った暗い瞳に、より一層気分を重くさせられる。
…だがしかし、過酷な環境にいるのが自分だけではないという、後ろ向きの連帯感が唯一の心の救いとは…。
自らの運命を呪いつつ、私は何の意味も見出だせない生を、ただ消化していくしかないのであった。
「あらあ、おはようございますぅ。お宅のワンちゃん、あんまり吠えなくなったわねえ」
「そうなんですよぉ。飼い始めの頃はうるさいくらいだったんだけど、最近やっと懐いてくれたみたいで……」
高校時代は「自分さがし」の時期である――などと言ったのは確か保健体育の教師だが、そうすると僕が君に宛てて書いているこの手紙も、そんなことの顕れなのかもしれない。あるいは、もっと別の解釈もできるだろうか。「高校時代には、一生を台無しにするような行動をとる危険性がある」――そんなことも、教師は言っていた。
この間、久しぶりに会った友人から一本のビデオを借りた。彼はいささか興奮しながら、しきりに絶賛していたけど、まあ、つまらなくは無かった。
そういうわけで、僕が面白いと思った本や映画も、君にしてみればちっとも魅力的では無いのかもしれない。僕だって、小さいころは何故か福山雅治が好きだった。何故だろうね。「男」としてカッコイイ! とでも思ったのか。そりゃ今だって嫌いじゃないけど、別に惚れちゃいない。
そういえば、新しい物語ができたんだ。マジシャンの話なんだけど。でも彼がマジシャンであることは誰も知らなくて……つまり彼は自分自身が楽しむためだけにマジックをするんだ。他人に見せるあてもなく。
どうだい。君にしてみれば、下らないの一言に尽きるかな。僕自身、もはや冒頭部分を読み返すことすら躊躇われるけど、一応同封しておく。軽蔑の一つもくれてやって、書き直してもらえたら有難い。読むのが辛ければ、捨ててくれても一向に構わない。君が酷いという感想を持てば持つほど、僕の「感性」とやらも、少しは磨かれているのだろうから。あるいは、まったく見当違いの方向に進んでいるのか。今の進行方向だって定かじゃないけど。
そうだ。徹底的にカタストロフィーを求めたり、かと思えば、クセのある恋愛ものを進んで書き散らかしたりする。それが僕で、君は違う、のかな。とにかく、グニャリグニャリと曲がりくねった気味の悪い虫のような僕の価値観その他諸々が、まっすぐな君によって全部否定されるなら、それは望ましいことなのかもしれない。少し寂しい気もするけど、それなら、あっさりとこの物語は目も通されず消えるのだろう。
そうすると、この手紙だって――勢いで書いた詩文が、暫く経つと意味不明になったりするように――君は見つけた瞬間消し去ってしまうか、クシャクシャに丸めて闇に隠してしまうのだろう。そして二度とこの手紙は日の目を見ない。今、僕はそれを祈ろう。
幸せですか、なんて訊かないよ。「自分は見つかりましたか」とだけ訊いておく。はは。
人間の若さなんて人生を十センチの数直線にしてみれば、ほんの二センチ程度しか無い。
宇宙単位で考えてみれば、一瞬の出来事だ。
私はいつか若さを失う。
それが怖くて仕方が無い。
「蝶の寿命ってどのくらいだと思う?」煙草の煙を嫌がる私に気を使ってベランダのバルコニーに座り込んで煙草をふかすサトウに何気なく訊ねる。
「え?いきなり何だよ。んー。一週間?」
「そんな長いっけ?蝶って。」
「まぁ、どっちにしろ蝉よか長いっしょ。」
「何でそう思うわけ?」
「別に理由とかねぇけど。」
どっちにしろ、蝶の方が人間より幸せなんじゃないだろうか。
綺麗な羽を持ったまま老いを迎えることなく動きを止める。私にとってはこの上なく羨ましい事だ。
できるものなら今ここで息を止めたい。髪も眼も、肌も唇も輝きを持ったまま終りたい。
こんな事を望むのは贅沢なのだろうか。
「あのさ、」暫く沈黙が続いた後、サトウが静を断ち切るように声を零した。ぼうっと天井の一点を見つめ寝転んだままの私は、「何」と短く返した。
「いや、お前学校行かなくて良いわけ?さすがに親も心配するっしょ。」
「心配しないよ、あいつら。別にあたしのことは気にかけてないから。」
「お前帰ったほうがいいって」
「嫌だ」
語尾強く言った為か気の弱いサトウはそれ以上干渉してこなかった。
バイト先で出会った年上の恋人のサトウの家に転がり込んでから昨日で二週間になるが、親や学校からの連絡は未だ無い。
私が不登校になる理由も家を出ているのもきっと大人には理解できないだろう。
いや、理解など求めていない。
今は何をすることも無く、毎日を変化無く過ごす。
蝶と私との決定的な違いがそこにある。
「案外蝶の寿命って長いのかもしれないね。案外」
「そうか?」
「あたしの、寿命は長いと思うけど、今この時間ってたぶん一瞬」
「一瞬か…その大切な一瞬をこんなところで潰してて良いわけ?」
「いいの。」
言葉を続けようとしたけれど、言葉を紡ぐ事すら勿体無い気がした。
私は重く体を起こしてバルコニーに座り込むサトウに歩み寄り、体を後ろから抱き締めた。
サトウは吸いかけの煙草を地面に押さえつけて、私の腕に手を添えた。なぜだか心の奥に空洞が出来てそこからいろいろな感情が漏れてるようで、虚しくなった。
どうしようもない心臓をもてあまして、博士に聞いて解除passを教えてもらおうと思った。
博士は多忙があたぼうな人なのでどうにもつかまらない。人は、あきらめなければいつかつかまるとか、歩いてこないんだから歩いてゆくんだよとか、寝て待てとか、見つからなければ自分で作るんだとか口々に勝手なことを言うが、良く晴れた2112年の朝にトイレで脱糞しているところをつかまえた。やはり高い意識を持って毎日の所作に当たることが自然と自己の向上に繋がっていくのだとこの時ばかりは思った。
「博士、どう? 最近」
博士は脱糞しながらなおかつ食事を採り、それでいてネットワークサーチもでき、おまけに装甲を整備しながらさらに左脇毛抜き占いまでもができるという流石の高機能を誇っていたが、それらの全てを放り出して放心するという荒業を度々行うこともやぶさかでない様子だった。
「イシワタリサン、丁度イイ所ニイラッシャッタ」
私の名前は断じて石渡でも胃死倭汰痢でもなかったが、そこは初等教育システムにおいてもいちはやくあらゆる意味で集団を脱してしまった博士のことだ。私をイシワタリと呼ぶにしても彼には何もかも分かった上で、それでも私が、「イシワタリ」に違いないと判断したのだ。詰まるところ私は真実さにおいては俄然イシワタリサンなのだ。
「博士心臓のことで……」
「ソレニハ及ビマセン」
話が早い。博士によると、私の心臓のこの所のどうしようもなさは決して危険なウイルスによるエラーではなく、私の生機構の一過程に過ぎないと言うことだ。
「”恋”デス。心配ハアリマセン」
これが恋と言うものか。しかし苦しい。手っ取り早くワクチンを投入することは出来ないのかと私は尋ねた。それには答えず博士は言った。
「イシワタリサン、ワタシジツハ“ゲイ”ナンデス」
ショッキングなニュースと言うものもこの頃は殆ど絶滅寸前になっていて、新たに「自分はショックを受けているんです内心は。でもそのことがあなたに悟られるとあなたは心を閉ざしてしまうかもしれないから、だから私は自分のショックを隠して表面は穏やかに、水も揺らさぬ様子を示してるんですよ」という名のアバターが公開されたほどだ。
鋭い色をした博士の眉は嫌が応にも美しかった。まだ見ぬ地平を見た、と彼らは思った。カミングアウトとはよく言ったものだ。気が付くとそばに塁審が控えていて、高らかに親指で天を指していた。
クレアは今日も、嵌め殺しの大きなガラス越しに「外」を眺めていた。そんなクレアを見て、マイケルはガラス窓付きの地上邸を購入した事を後悔している口振りになって、趣味を作らないといけないよ、と諭すのがこの二ヶ月続いていた。クレアは決まって生返事で、日毎目線の方向は変わるものの、地下に下りていって社会に触れようと行動を起こす事はなかった。一月前、子供でもあればと夫婦で新生児局へゆき申請したが、早くても半年後になるという返答だった。
「外」に魅入られるのは特に珍しい事ではない、と医者は言っていた。我々人間には、触れられないが知覚できる物事に対して入れ込む性質があると。例えば恋愛の衝動のような……。
即効性の解決策はなかった。
「……という夢を見たんだ」と僕は妻に語った。
「すみません、お愛想」妻は席を立ちながら財布を手に取ると、恨めしそうに見つめていた僕に向かって「聞いてたわよ。でも話半分よ。どうせ夢の話でしょ」
「じゃあ、現実の話をしよう」通りを歩きながら僕は妻に提案した。「子供を持つんだ」
妻は足を止めた。「婚前契約は破棄しないわよ」そして歩き出した。「絶対」
妻は不倫している。そして僕から財産を絞り上げようと画策している。僕は夢を見る装置を開発した。夢診断の専門家がみんな廃業するような、平明な夢が見られる装置だ。といってもこれは財産とは関係がない。財産は父から継いだものだから。
二億六千万ドルを持って妻は出て行った。ガラス窓付きの地上邸は僕だけの城になった。一ヵ月後、妻が、いや、クレアが戻って来た。
「子供がいるの」
「僕の子?」
「あたりまえじゃない」
当たり前じゃない。僕は生まれてこの方、新生児局へ足を踏み入れた事がないのだ。
目を覚まし、装置を停止させると、マイケルはクレアの様子を見に行った。相変わらず「外」を眺めている。家にいてばかりじゃ、と言う前にクレアが言った。「子供は嫌い?」
一瞬胸が詰まった。息を軽く吸い込み、しばらく溜め、もう一度息を吸い込んで、マイケルは答えた。「嫌いだね」
「ありがとう」クレアはマイケルを見て言った。「その言葉が欲しかったの」
それ以来、事態は良い方向へ動き始めた。マイケルは装置に頼る回数が激減し、再び勤めにも行き出した。
クレアは、窓ガラスの前で独りマイケルを待つ時間が減り、購入してから一度も使っていなかったオーブンをようやく使った。
妻を迎えに駅の改札へ向かうと、娘の真奈が「ぱすも!」と掲示物を指差す。
「すいかねえ、かーいいから、ぱすもとおともあちなったんだよ」
「そうだね。お友達なったね」
ピンク色のロボットらしきキャラクターと、ペンギンとが、手を繋いで飛んでいるのを、娘は満足そうに見ている。
PASMOの発行が決まったとき、妻が私に皮肉を言ったのだ。
「パスネットはアンチJR同盟だったけど、これでやっとJRも仲間にしてもらえたね」
なあに、と問う幼い娘に、カードを2枚差し出す。
「こっちは、地下鉄も東横線も東武線も乗れるの。でもJRは乗れないの。こっちは、JRしか乗れないの」
「とーぶどーぶつこーえん」
「Suicaじゃ、行けないの」
妻はペンギンの絵のついたカードを娘の顔の前に突きつけた。そのカードを、ひょい、と横に動かす。娘の視線がそれを追った。
「これじゃ、動物園、行けないの」
はい、とパスネットを娘に渡す。娘はペンギンのほうが欲しいに決まっている。案の定、みるみるその目に涙が浮かんだ。
「ぱぱ……」
「パパのペンギンさんあげるからね」
泣きついてくる娘のために財布を出しながら、私は視線だけで妻を批難した。
「パパがもっと、いいもの作ってくれたのよ」
涼しい顔で妻は言った。それでわかった。私に花を持たせようとしているのだ。正確には、PASMOの開発には関わっていない。それでも、その普及に不可欠であるICカード対応型自動改札機の設置とメンテナンス、それが、私の仕事だった。
「おかあさんきた!」
娘の声で、私は回想から引き戻された。妻が改札機に財布をタッチしてこちらに歩いて来る。娘は私の手を離し、妻のほうへと駆けて行った。
母親に抱き上げられながら、幼い子供はまたくりかえす。
「すいかねえ、かーいいから、おともあち、なったんだよ」
「そうだね。じゃあ、真奈ちゃんもかわいいから、お友達なれるね」
「おともあち?」
妻は娘を降ろし、中空に3つの円を描く。妻の発想の豊かさには、かなわない。
「Suica描いて、PASMO描いて、真ん中に真奈ちゃん」
「あー!」
娘が私を振り返る。
「ぱぱ、まなちゃんおともあちなった!」
笑顔で駆け寄り、私の足にしがみつく。全身で喜ぶ姿は、まさにトトロのメイちゃんだ、といつも思う。
「おかえり。行こうか」
「イコカ?」
「それは西日本」
娘の頭をなでながら、合言葉のように返すと、妻がクスッと笑った。
男が歩いている道に紫陽花が咲いていた。まだ蕾の色は薄緑色をしていて(これから暑くなってくるな)と男は思った。
道はどこまでもまっすぐであった。アカシヤの花にミツバチが集まっている。ミツバチはぶうんぶうんと羽音を鳴らして男の周りに集まってきた。男は立ち止まってじっと待った。ミツバチは男が敵ではないと知ると、まもなく去っていった。男は歩きだす。
少年と老婆がはいつくばって探し物をしているのに遭遇した。「ピースを探してるんだ」少年は言う。「パズルのピースを探してるんじゃ」と老婆が繰り返す。道は広大である。(どこにピースがあるというのだ)と男は思う。
雨が降り出した。男は自分の折りたたみ傘を老婆に差しだした。男にできることはそれくらいしかなさそうであった。男は歩きだす。「ばあちゃんあったよ」と背中で声がする。少年はピースをひとつみつけたのである。
紫陽花が白、あさぎと色をかえはじめた。男は立ち止まって花を愛でる。ハイヒールがよく似合う妙齢の女性が立っていた。女の足元にイボガエルが集まっている。男は近づいて蛙を追い払ってやった。
「ありがとう」
女はそう言ってハイヒールを脱いだ。靴底に一枚のピースがあった。「お礼にあげるわ」
男はピースを老婆と少年に届けたく思うものの、前進する。
(あなたはどこへ行こうとしているのですか?)
声がする。声は男の内側から聞こえてくるようで、それは若い女の声でもあった。男は立ち止まる。ベンチがあった。ベンチに座ってもう一度、声の響きに耳を傾ける。男の目の前に一匹の巨大な鮎が横たわっていた。
「私に迷いはありません。ただ進んでいくだけです」
男は答えた。
(それならあたしを食べなさい)
巨大な鮎は鮎の串焼きと変わっていた。男は両手で串をかかえ、それを食べながら進むことにした。アオバズクがやってきてホッホーと鳴いた。駒鳥がヒンカラカラ、ヒンカラカラと鳴いた。鮎の肉をむしって投げてやった。鳥たちは喜んでそれをついばんで飛び去った。
紫陽花が藍色、瑠璃色と花のまりを大きくしながら色変わりしていった。雨は滝のように降り始め、鮎の肉もわずかとなった。男の身体は弱りきり、体力もなくなってきた。
海がみえた。ついに道の終わりにたどりついたのだ。砂浜に落ちている小瓶を拾った。その中にピースを詰めて栓をした。小瓶が潮の流れにのって水平線に消えていくのを見届けて、男は目を閉じた。南風が吹いていた。
女装して、自転車に乗ってみたい。
我ながら、変な執着だと思う。何しろ、俺には女装趣味はない。女になりたいとも思わないし、女のように在りたいとも思わない。そうには違いないのだが、どこかで見た、しかしそのイメージはイラストのようなものだから実は漫画で読んだだけなのかもしれない、やわらかい陽射しの下を緩やかに自転車で走る淡い色の少女の姿が、俺の脳裏から剥がれずにこびりついている。それだけならばそれほど珍しいものでもなく、俺もそれを数えるのが面倒になるほど目にしてきたのだが、これぞ、と心に響いたことは一度もなかった。そのうちにイメージに対する憧憬が俺の中に生まれたのかもしれない、いつしか俺は自分がそのようになってみたいと思うようになっていた。
自転車は、毎日乗っている愛車がある。女装一式も、入手した経緯は問わないでほしいが、靴まで含めて、ここにある。必要なものは揃っているのだが、しかし俺はそれをなかなか実現できずにいる。
普段の俺は、自転車をかなりの速度で運転する。走り出しではほぼ必ず立ち漕ぎで一気に加速して、全力に近い速度で目的の場所まで疾走する。抜かされることよりも抜くことの方がはるかに多いし、そのときに対向車がいた場合でもその間を縫うようにすり抜けて走り去ってしまう。それは急ぐからではなく、そうしなければ気が済まないからなのである。しかしそれでは駄目なのだ。
そう思った俺はその前の段階として、女装の姿でただ歩くだけということを試してみた。意識して歩調を抑えて、ゆっくりと緩やかさを目指して、俺としては努力してみたのだが、一目で知人に見破られてしまった。その歩き方はお前しかいない、と言うのである。言われてみれば、ついて行けないからもう少しゆっくり歩いてほしい、ということをしばしば言われる俺なのである。俺の言うとおりにしてみろと笑った彼と一緒に歩いていた間は他の誰にも見破られなかったのだから、俺のしぐさには余程の癖があるのだろう。
だから今俺は、女性のしぐさを勉強している。密かに、と言いたいところだが、普通にしているときでもしばしばそれが表れてしまい、知人からは気味悪がられてしまっている。別に女になりたいとも思わないし、女のように在りたいとも思わない。それなのに、そんな目にあってでも俺は未だに女装して自転車に乗りたいと思っているのだから、我ながら変な執着だと思うのである。
「残念だが、君の能力は他の会社で使ってもらうほうが良い、という結論に達した。解るね? 健闘を祈っている」
会社の業績は下がり続けているが彼らの給料を下げることにより、男の給料は問題なくあがりつづけていた。
夜景を見ながら家へ帰る。
白いネグリジェの娘が出迎える。おかえりお父様。
ただいま。
彼は娘を愛していた。愛していた。
彼は休日になると街に出る。一度休日に娘が部屋で男の子と楽しげにしているのを見たことがある。男は街を彷徨う。娘に似た少女を探す。娘に似た少女はそこらじゅうにいた。出張で行ったパリでエッフェル塔の前を歩く、白いワンピースの我が娘を見つけたことがあった。トイレで用を足していると、娘はいつの間にか横に立っていた。男は少女を買う。いろいろなことをさせる。泣き叫ばせるのが、一番性にあっていた。あらゆる手を使って、いろいろなことをして、いろいろなクスリで、少女に涙を見せてもらう。叫び声をあげてもらう。よだれを舐め取ってもらう。許してくださいと言わせる。血飛沫が舞うまで鞭を振るう。シーツに付いた赤い飛沫を男は見たがった。許してください。彼は娘を愛していた。
お父様、おかえりなさい。
ただいま。
娘は学校を辞めた。良く解らない男と、良く解らない詰まらないビジネスを始めた。
これは、全く新しい、ビジネスなのよ。
娘の会社は父親の会社を三年で倒産に追い込んだ。
だが彼はそんなことはどうでも良かった。
その夜は月もネオンも輝かない真っ暗な夜だった、その夜、彼は娘を抱いた。その手に抱いた。抱きしめた。深く進入した。深く深く。何処へ。何処までも。娘は笑顔であった。耳元にキスをされる。囁かれる。お父様。もっと、深くよ。
男は娘に小遣いを貰い、街をふらふらと彷徨い続ける。何処へ。もっと深くだ。スーツを着て、黒い革靴を履いて、鞄を持ち。男は街を彷徨い続ける。ネオン街を三周もすると砂漠にたどり着く。そこにはピアノが置いてある。子守唄を作らなければな。娘は間もなく彼の子供を産む。子守唄を。かわいい息子が産まれた。三人並んで写真を撮る。
目を、閉じて、良いかい。
まだよ。まだ。まだよお父様。
ピアノに突っ伏したままだったのに気がついた。
花は、如何。花束を捧げもった盲目の少女に声をかけられる。赤、青、黄色。少女はめしいた瞳で花束を見つめながら、めちゃめちゃな色彩を歌うように呟いている。
アイディアは移動中に思いつくことが多い。バイト帰りに夜風に吹かれて自転車を漕いでいる時や、朝帰りの車内でぼんやり外を眺めている時に、不意にコロンと頭の中に転がり込んでくる。移動することで、知らず識らずのうちにはいってきた何らかの情報が、脳味噌をいい具合に刺激するのだろう。
トイレでぶりぶり放り出している時に思いつくこともよくある。ウンと出した分ストンとやってくるのだろう。狭い蒲団の中で、恋人の寝顔を見ていて思いついたことも二、三度あった。これもやはり出した分が補充される感じで、エロティックな行為の後だというのに、いやむしろそれ故か、爽やかなものであったりした。
アイディアを思いついてもすぐには書き始めない。だいたい二、三週間は放っておいて、特にアイディアを形にしようとすることもしない。忘れてしまうことも多いが、時折不意に浮上してきたりする。その度に、頭の中で、コロリ、コロリとしておくと、いつの間にやら、小さな断片だったものが、文章の形になっている。
しかしここでもすぐに書き出したりはしない。〆切当日までまた放っておく。推敲を重ねるというような殊勝なことからではなく、単に書き出すのがめんどくさいからで、明日出来ることは明日にするというドン・ガバチョの教えを忠実に守っているのである。
〆切当日も特にアタフタすることはない。シーズン中であればのんびり野球観戦などする。今日も実際に、鳥谷の押し出しサヨナラデッドボールで万歳三唱して、こっそりやってるミクシィで「今日のヒーローは岡田監督を退場にした谷球審やったね」などと書いてから、やっとワープロソフトを起動させた。
起動させてもすぐに書き出すわけではない。「現在の投票状況」を無闇にリロードしながら、書く気になるのを待つ。残り一時間ほどになってようやく切羽詰まって書き始める。大抵は転がしておいたものをそのまま引き写すようにして書くのだが、たまにその時の思いつきを優先させる場合もある。今回は思いつきの方だ。
推敲は特に行わない。というより行う時間がない。時間があっとしても、厳密に推敲し始めると一字も残らなくなりそうだから、誤字脱字のチェックにとどめておく。なんともいい加減だが、ライブ感がそれなりにリズムを作ってくれて、むしろ呻吟して書くより書きやすい。
ここまで書いて残り十分ほどとなった。字数も丁度良さそうで、後は投稿するのみ。