# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 中間色 | 尚 | 746 |
2 | 海辺の食堂 | たけやん | 428 |
3 | 美が果てる | 草歌仙米汰 | 760 |
4 | アンチテーゼ | 克 | 13 |
5 | 独占欲とゲンキンさ | ys | 260 |
6 | 境界線 | 林和夫 | 737 |
7 | ドーソン氏の血脈 | TM | 984 |
8 | suddenly I | 公文力 | 1000 |
9 | 筒井筒 | 長月夕子 | 995 |
10 | 夢を追う少年 | Qua Adenauer | 1000 |
11 | 休日雑景。 | どんぶり。 | 406 |
12 | 俺の彼女 | shedshed | 844 |
13 | ジャ、ジャッジャッジャッジャ、ボンボンボンボン | ハンニャ | 978 |
14 | ねこにゴハン | 藤田揺転 | 1000 |
15 | わたしとWATASHI | 心水 涼 | 882 |
16 | 月を目指す | 索敵 | 704 |
17 | 擬装☆少女 千字一時物語11 | 黒田皐月 | 1000 |
18 | ははは | ろーにんあきひろ | 1000 |
19 | 姉の話 | qbc | 1000 |
20 | 青いペンキじゃなかった | もぐら | 1000 |
21 | そなたと朝寝がしてみたい | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
22 | 回送 | 川野直己 | 1000 |
23 | 二つの一周忌(1000文字版) | わたなべ かおる | 1000 |
24 | よいとこさ、よいとこさ | 三浦 | 991 |
25 | 千年女王 | 二歩 | 1000 |
26 | オー!パイナップル | 安倍基宏 | 998 |
27 | サンダーマイン | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
28 | わたしはわたし | 曠野反次郎 | 1000 |
29 | 放浪 | 美土里 | 702 |
30 | だしません | 藤舟 | 994 |
違う。
全ての何もが自分と反する方向に向かっていることに気づき深く悩んでいた。
洋服の販売員をしている彼はデザインを学んでいたが壁は厚く時を待つかのようにこの職に就いた。
突出した個性を持つスタッフの中で肩身の狭い感情を覚えていた。
来る客もいつも同じで定価の商品を見た後に必ずセールの商品群を巡り何も買わずに店内を出る。
おんなじ様な人々の動線ばかりで嫌気が差し何かを見出そうとしても考える気すら起きて来ない。
今日はある程度の売り上げを出し客寄せのために繁華街の大通りへと向かう。
楽しげに手をつないで歩くカップル、不道徳な喫煙者、虚勢を張る若者、強引に女性に詰め寄り名刺を渡そうとする愚弄者。
後はチラシを避けるような無表情で途方にくれたかのような眼差しとか。。。
同じ路上にいるだけだがこの狭いスペースだけでいつも何かが起こっていて、形成された人工的な町並みと現代に生きる人々の葛
藤模様や喜怒哀楽が展開されていた。
一時間が経過しただろう。
どことなく煮え切らない焦燥感と共にそこを後にし、また店へと帰る。
現実と妄想の間に自分の居場所はなかった。
これが現実。と、数分後、仲のよい友人が遊びに来た。
単純すぎるのかのしれない、でも嫌な事ばかりではなかったりする。
くだらないことだったが話も弾み一時が瞬く間に過ぎる。
救いの手のように思えて疲労困憊だった心身もいつしか忘れ去られていた。
そして1日が終わり床に就くと彼は深い眠りについた。
頭の中には淡く絶妙な色合いのターコイズブルーが目一杯に広がる。
中途半端だが美しかった。。。
いつまでも望んでいたが儚くもあたりにはパールの様な輝きが差し込んでいた。
朝という手が強引に体を引き寄せてまた一日が始まる。
こんな日常でも彼は些細な喜びを見つけ出そうとゆっくりと歩き出した。
ヤヌさんと海へ行くことになり、気乗りはしなかったがだましだまし海へ行く。
海へついたら曇っていて、空も海も鉛みたいな色だった。
ヤヌさんがクラゲを捕まえて、それを両手に持って踊っている。大海原を渡って来た風が、野暮ったい風体のヤヌさんを劇的に煽り、得体の知れない迫力をヤヌさんに与えている。帰ろうと言っても聞かない。
仕方なく待っている間、空腹だったので閉店していた海辺の食堂の厨房を勝手に借りて料理をしていたら、通り掛かった人が勘違いして店に入って来て料理を注文する。
腹が減ったんだと悲しそうに呟いているので言われた通りのものを作って出すと、すぐに平らげて勝手に代金を払って帰って行った。
浜ではまだヤヌさんが踊っている。
もう一度帰ろうとヤヌさんに声を掛けたがまったく聞いていない。
そんなことをしているうちに、食堂に勘違いした客がぞろぞろやってきて食堂は大繁盛となり、結局空腹なまま料理を作り続けるはめになる。
ところでヤヌさんはまだ踊っている。
「はい、手術は無事終了しました」
鏡を見た瞬間は、まるで夢のようでした。子供の頃から修復不可能な顔だって言われてきたんです。他の整形外科医には「どこをいじれっちゅうねん」って言われました。ええ、関西の人で。でも、治田先生は違ったんです。最新の医療をもって、私を救ってくれたんです。
あらそれ、私の写真?懐かしいですね。酷い顔だわ。これはいじめたくなりますね。もう不快感が、吐きそう。(笑)
ああ、それは今の持ち主?ああ、すいません。私ったら何にも考えず・・・そうですか。その顔で生きている人が、今現在いらっしゃるんですね。その方に関しては、ええ、もう、ご愁傷様としか言えませんね。運がですね、悪かったんです。・・・悪かったのは治田先生じゃないですよね。逮捕されましたが、先生が悪人な訳ないです。そりゃ、人の顔を盗むというのは、あれですが・・・。
だって、この顔になったとたん、もう、初めての経験ですよ。ナンパ。カッコいいお兄さんから「今、暇?」って。もう、私、初めて、女を実感しました。女を生きてて良かったって。
先生のした手術は、安全性がまだ認められていない、ええ、ニュースで聞きました。私の顔が盗品であること、十分理解してます。夜中にこっそり付け替えられたって人のインタビュー、何回もテレビで流れてましたから。
いや、さっきも言いましたよね?被害者は、かわいそうに、運がなかったんですって。先生はともかく、私に非はありませんでしょう?その人だって、散々ちやほやされてきたんですから、私がこれまで味わってきた思いぐらい、耐えてもらわないと、ねえ?
アレルギー症状はないか?そういえば、さっきから顔が痒いような・・・え?どうかしましたか、私の顔が?拒絶反応?痒い・・・え、剥がれてる?ねえ、私の顔、今どうなってるの?
僕は彼女が好きだ
独占欲というのは、あまり善いものじゃない
けれど今の僕は
そんな独占欲の塊だ
ついてきて欲しいの
だから僕は君についていった
綺麗でしょ?私のお気に入りの場所なの
案内されたのは見知らぬ草原だった
けど、僕は草原に嫉妬した
彼女が花に向かって
無防備に笑顔を見せるから
つまらない
君がいれば場所なんて関係ないのに
どうして、花なんかに
僕はこんなに短気だっただろうか
君はいつでも、僕を素直に受け入れてくれるのに
僕の間違った独占欲は
君があまりにも無防備だから
無差別に笑わないで欲しい
あら?どうして?貴方といるから、私―・・・
幸せだ
僕は、夢を見ている。
夢とは何だろう?
寝ている間に見るもの?それも夢だろう。
将来の目標?それも夢だろう。
有り得ない空想?それも夢だろう。
夢は、色々な解釈が出来る。
良い夢、悪い夢。色々だ。
だが、一つだけ全てに共通することがある。
それは、夢は現実ではないということ。
だが、現実に起こったことでも、「悪い夢だ」と言って、逃げ出すことがあるだろう。
それは現実ではないのか?
いいや、違う。現実とは、その事を自分自身が「現実だ」と認識した時点で、初めて現実となる。
「悪い夢だ」というときは、現実であって、現実でない。
自分は、現実と認めていないのだから。
そう。夢とは、自分が認めていないということだ。
これは本当の事ではない、と。
では、現実とは何だ?
今生きている時?そうかもしれない。
過ごしてきた過去?そうかもしれない。
自分という存在?そうかもしれない。
ただ一つ通じることは、それは自分が「認めている」ということ。
何故、今生きているといえる?
それは、自分が生きていると「認めている」から。
何故、過去がある?
それは、自分が歩んだ道を「認めている」から。
何故、自分という物体がある?
それは、自分がそこにあると「認めている」から。
こうして考えてみると、夢と現実の境目は、極々簡単なものだ。
それは、自分が「認めている」か「認めていないか」のどちらか。
では、夢は「認める」ことが出来れば、現実なのか?
現実も、「認めない」とすれば、夢なのか?
それは有り得ない。
夢は夢のままだし、現実は現実だ。
夢を幾ら認めてもただの空想となり、現実は幾ら認めなくても、それは現実逃避に過ぎない。
いつかは、夢を認めなくなり、現実は認めなければいけないときが来る。
では、何が夢となり、何が現実となるのか。
僕は、さらに夢を見る。
「この世界ではずるくて、悪賢くて、粗暴な連中ばかりが生き残るんだ。現に見ろ、この世界を。悪に満ちている。この世界では善などなんの意味も持たないのだ。真面目なやつほどバカを見る。もっとも真面目な人間などもはや存在しないがな。だが、おまえは違う。おまえは神に選ばれた人間なのだ。この世界を救ってくれ」俺は占いなど信じるたちではないし、第一ゆきずりの老人からこんなことを言われたぐらいで心が変わるような人間でもないのだ。「じじいはひっこんでろ!」俺は目の前の相手をぶちのめすことに集中しようとした。路地裏でのけんかには暗闇から声が聞こえることがある。これも薬をやり過ぎたせいで起こる幻聴か何かの類に違いない。だって、じじいなんかここには居ないからだ。居るのは俺の女に手を出したくそったれ野郎だけ。「おい、殴るのはかまわねえ。けどな、宙を見ながら居もしねえ野郎に声をかけるのはやめてくれ。じじいなんかどこにも居ねえぜ。それともおまえいかれてやがるのか?」「うるせえ! これ以上くらいたくなかったらこの街から出て行け」「わかったよ、おまえの勝ちだ。いかれ野郎の勝ちだよ」「てめえ、とっととうせろ!」「はははは、じゃあな、いかれ野郎!」そうかもしれない。俺は別の意味でいかれているのかもしれない。この世界では不条理なことが当たり前になり、いかれていないやつなどもうどこにも居ない。昔、ドーソン氏といういかれ野郎が居た。なぜそれを知っているかと言えば、そいつは俺の親父だったからだ。親父というのは事実だが、実質的には他人に近いやつだったと思いたい。そいつは酒乱だった。どうしようもないいかれ野郎、それがドーソン氏だ。何もかもあいつのせいなんだ。俺がこんなになったのも、すべてあいつのせい。俺は血を拭いながら、暗い路地裏の湿った地面に膝をついて泣き崩れた。やんでいた雨がまた降りだした。膝に小石が当たって痛いのはもはや問題ではなかった。俺はこんなことをするために生まれてきたんじゃない。さっきのやつが俺の女に手を出したというのは俺の妄想なんだ。彼女なんて居やしない。もううんざりだ、妄想に支配されるのは。俺は悟っていた。親父が妄想に、悪の妄想に支配されていたことを。そのとき、また声がした。「息子よ、世界を救うのだ」俺はもうそう言うしかなかった。「やってやるよ、俺はこの世界を救う!」
義父が何者かに射殺された。使われた銃はトカレフ。至近距離から放たれた銃弾は彼の頭を粉々に吹き飛ばした。果たしてその事件と昨日の僕への謎の電話との間に繋がりはあるのか。もし僕が秘密結社にでも義父の殺人を依頼したのだとすればそれは全くのお門違いだ。義父には9つの時に引き取られてから本当に良くしてもらった。殺意などある筈がない。葬儀は親族だけで内密に執り行われた。本来は何百人もの弔問客が訪れる筈の義父の突然の逝去と彼が取締役を務めていた製薬会社(戦後のGHQ支配下時から義父は一代で会社を東証2部上場にまでのし上げた)の今後の経営施策に身内は動揺していた。マスコミもその動向に注目していた。ただ僕だけを除いて。通夜の後携帯を見るとハル子から着信が入っていた。いつもなら無視を決め込むのだがその晩は妙に気分が高まっていた。電話を掛ける。すぐに出た彼女としばらく話をするうちにようやく彼女が先日メモを渡してきた受付嬢だということに気付く。彼女はメモ通りに《触れられたら私どうなっちゃうのだろう》乱れた。こうやって何の恥じらいもなく悶える姿を上目遣いで見ながら僕は二つの精神の同調などありえないのだと反芻してみる。
「すごく刺激的だった。だけど新堂さんこの前と別人みたい。いやに無口なのだもの。」
「いやに無口って僕は一体君にどんな電話を掛けたのだろう?」
「覚えてないの?」
「全く」
ふうん、でもまあ良いや。ずっと新堂さんとはこうなりたかったし。そう言うと彼女は僕の腕に身を絡ませてくる。かなり鬱陶しかったが僕はそのまま彼女を受け入れる。
「酔っていたんだ。それで記憶がプッツン」
「酔ったら一体どんなになるの?今夜なんていきなりホテル直行だし今度飲んだ新堂さんを見てみたいな」
「義父が殺されたんだ。それで明日が葬式。誰が彼を殺したのか。それとも依頼者があってのことか。僕には何が何だかさっぱり分からない」
そう言って隣を見るとハル子は昔付き合っていたTバックの女に変わってすやすや寝息をたてていた。
葬儀から数日後義父の遺書が京都の別荘(昔の遊郭を改築したものだ)の簡易金庫の中から見つかった。そこには今後の会社経営の在り様が事細かに書かれていた。
そして僕に残された遺言はただ一つ。
〈幾ら金銭を使っても構わない。但し決して労働をしてはならない。貴君の労働が幾許でも認められた場合この遺言はただちに効力を失う〉と。
その男は30歳を節目に結婚する。彼の人生設計にはそう書いてあるからだ。相手は幼馴染と決めた。幼馴染はおとなしく控えめで、容姿もまた然り。要は地味でつまらないタイプではあるが、結婚とは生活である。生活とはそういうものだと男は思っていた。実は幼馴染が密かにこの男へ好意を抱いていたので、難なく男は結婚することができた。無論男は、その好意の存在を知っていたのだが。
穏やかな二人の生活が始まる。それは凪いだ太平洋にひっそりと浮かんだ小さな船のようであった。船の周囲には美しい海がある。美しい海しかない。1年も経つ頃、男は気付くのだ。「穏やかな生活」を望むには自分が少し若すぎるということを。
男は職場で企画プロジェクトのリーダーを務めることになった。大方は彼の意見に右へ倣えのチームであったが、どこかしら案件の穴を見つけては鋭く切り込む人物がいた。ビーズをちりばめた爪で不機嫌に机を鳴らす。大きな瞳で彼を睨んだと思えば、会議が終わるとコーヒーを淹れてくれたりする。面白い女だ。
男がその女と深く関わるようになるまで、さほど時間はかからなかった。「休日出勤」や「残業」が目立つようになっても、妻は変わらず笑顔で男を送り出した。愚鈍であるということは幸せなことだ。男はただ青いだけの空を見上げてそう呟く。
ある平日の午後、外回りから帰社する為に男は有楽町の駅へ向かっていた。西武付近で妻を見つける。今日は外出する予定だったろうか?膝丈のトレンチコートのベルトをリボン結びのようにして、裾をひらめかせ颯爽と歩く妻は、彼の把握している人物とは少し違って見えた。表情は明るく華やいでいる。黒い髪がつやつやと肩にふれて揺れる。
どこへ行くのだろうか?男の頭に漫然と浮かんだ疑問はやがて疑念となって頭をもたげた。まさか。男か?
隠れるように妻の後を追う。妻は銀座三越へ入っていく。まっすぐ紳士服売り場へ。見るからに高級なネクタイの前で立ち止まる。店員が妻に話しかける。二人の会話が耳に入った時、男は虚を衝かれて呆然とする。
「主人の誕生日なんです」
妻は頬を染めて、笑みを浮かべた。
「ねえ、何を考えているの?」
女が男の耳元で囁く。
「ネクタイのこと」
「ネクタイ!斬新ね。ソレで今日はどんな楽しいコトをしてくれるのかしら?」
女の赤いマニキュアが男の唇にふれ、首筋をなぞる。
「長い夜になりそうね」
長い夜になりそうだ。
少年は、土手の斜面に仰向けに寝転がりながら、夜空を見ていた。
その少年は、母方の実家がある、見渡す限り田圃の田舎に来ていた。
普段、都会に住んでいる少年にとって、田舎の空は神秘的だった。
空気が澄んでいるからか、周りに人工の灯りがないからか、星が良く見えるのだ。
少年には、異常な数に思えた。
星の数ほどという言葉を、体感した瞬間だった。
ふと、手を伸ばせば星を掴めるのではないかという考えが頭に浮かんだ。
少年は、星がとても高い所にあり、決して掴めない事を知っていた。
しかし、田舎の星は、普段よりかなり近くに見えたのだ。
手を伸ばす。しかし届かない。
いくら伸ばしても、手は星の光を遮るばかりで、向こう側には行かなかった。
ふと、空を飛べばもっと近くに見えるに違いないという考えが頭に浮かんだ。
少年は、旅客機に乗って海外へ旅行した経験もあったが、どうも自分の追い求める状態とは違う気がした。
もっと、自由に空を飛び、星に手を伸ばしてみたい。
少年に生涯の夢が生まれた瞬間だった。
十数年の月日が流れ、少年は航空自衛隊の戦闘機乗りになっていた。
国を守りたいとかではなく、星に手を伸ばしたいという幼い頃の夢の為だった。
星が、光の速さで行っても何年も掛かるような距離にある事は知っていた。
しかし、手を伸ばしたいという夢は健在だった。
ある日、夜間に高高度まで上昇する訓練があった。
星に手を伸ばす、またとない機会だと思った。
高度が上がって行く、雲を突き破り、天へ。
機体を安定させてから、さらに天を仰ぎ見た。
そこには、一面の星があり、以前田舎で見た時よりもさらに近くに見える、そう思って見た。
しかし、星は遠かった。
いつか田舎で見た時よりも、さらに遠かった。
少年は、落胆した。
星は、コックピットの透明な壁に阻まれていた。
いつか田舎で見た時は、もっと近くにあったのに。
ふと、緊急脱出の装置を使えば、直接星を見る事が出来るのではないかという考えが頭に浮かんだ。
後の事は、考えていなかった。
次の瞬間、少年は座席ごと宙を舞っていた。
物凄い速度で落下しながら、少年は星を見た。
そっと手を伸ばす。
掴めない。
次は、宇宙に行こう。
0度を下回る気温と薄い空気で、意識が朦朧としながらも、少年はそう思った。
それから数年後、少年は宇宙飛行士として訓練を受けていた。
星に手を伸ばしたい一心で、勉強したのだ。
少年が、宇宙船の窓に落胆する日は、刻一刻と近付いている。
「出会った頃はあんなにも愛情を注いだのに、今じゃダラダラと関係を続けているだけなの。」
とそこまで言って彼女は冷めたカフェオレを舐めた。それを交替の合図と受け取った僕がさも興味を持っているかのごとく、
「何が二人をそうさせたんだい?」
なんて漫画に出てくるような気障なセリフを吐くと彼女は、
「時間が経つにつれて愛が消えていったのよね、でもかといって別れを切り出せないの、それなりに長い時間一緒に過ごしたから、彼に悪い気がして」
と流暢に答えた。
友人の恋愛譚を聞きながら僕が考えていたことは主に二つのことで、今日の昼食をラーメンにするか、それともハンバーガーにするかということが一つと、もう一つは、彼女があんなにも注いだ愛情から愛が消えて、今は情で付き合っているのだろうか、ということだった。僕は我ながら上手いことを考えるなぁとほくそ笑みそうになるのを堪えながら、ただ彼女の話に適当なタイミングで頷いていた。
オレの彼女は、激カワ。美和っていうんだけど。
足は長いし目も大きいし、何より色白だ。
胸だってツンって、上を向いているしね。
足首とかも、もうたまんない。
歴代の彼女の中でも、一番いけてるんじゃないかな。
最近のコには珍しく、おしとやかという点も
オレは気に入っている。
例えばカラオケに行っても、オレに必ずマイクを譲ってくれる。
そして、歌をジ〜ッと聞いてくれたりするんだ。
落ち込んでいる時は、そっと傍に座って無言で慰めてくれる。
口下手だけど、またそこがいい。
なんだかんだあったけど、2人の距離は、
ここ最近でだいぶ狭まってきたような気がするな。
実はこないだ、美和と始めて一緒に風呂に入ったんだけど、
恥ずかしがって、あいつ全然脱ごうとしないから、
オレが代わりに脱がしてやったよ。
身体の間接がどうも曲がりにくそうだったから、
それもほぐしてやった。
その後?それは、想像に任せるよ。
オレは言いたくない。
それを言うと、あいつが汚れてしまいそうで言いたくないんだ。
3歳の甥っ子は、生意気ながら、
あいつを見て「『聖マリアンナ戦隊』のミキじゃん」って言いやがった。
もちろん、ぶん殴ったよ。
今度もう一度言ったら、間違いなく殺す。
ミキとは違う。全然違う。
ミキはそのあたりにもいっぱいいるけれど、美和は違うんだ。
1年前、ショーウィンドーのガラスケースの中に
閉じ込められていたあいつを、オレが全力で助けてやった。
店主が慌てて追いかけてきたけれど、2人で手に手を取って逃げたんだ。
それが、俺たちの出会い。なかなか、ドラマだろ?
「メイド・イン・チャイナじゃん」なんて笑ったやつも、ネットで血祭りにしてやった。
今度もう一度言ったら、間違いなく殺す。
生まれも育ちも、日本だ。ナデシコ。
美和には、ちゃんと心がある。
そして、オレに恋をしている。
オレのバンダナにくるまって寝ているあいつの姿、
あんたにも見せてやりたいよ。
天使って、きっとああいうのをいうんだぜ。
そうだ、今度ウチに来いよ。
歴代の彼女なら、ケースごとあんたにやるからさ。
悪魔6人組が、1時間目に乗り込んできた。
「くそっ! 朝からおまえら!」
先生は悪魔を見るなり、前のめりに走り込んで行って先頭の悪魔を押し出そうとした。
「危ない、先生逃げて!」
先生はあっという間に残り5人に囲まれ、両手足、そして首をきつくつかまれた。
「こ、腰が!」
悪魔たちはそのまま、歴史の先生が浮いてしまうくらいぐいぐいひっぱった。
「やめて! おねがいもうやめてぇ!」
一番後ろの席の女の子が立ち上がって泣き出してしまった。
「ちょっと、男子! あんたら先生を助けてあげなさいよ!」
「かわいこぶってんじゃねえよ。」
男子も立ち上がり、悪魔たちを指差して叫んだ。
「おまえらもなあ、腹の底ではもっとやっちまえって思ってんだよ!」
「ば、ばかじゃないの。」
「そうなんだろ。悪魔さまさまなんだろっ!」
みんな思わず悪魔のほうを見た。このまま悪魔たちが先生の身体をひっぱり続ければ、1時間目はおじゃんんになる。
やがて、悪魔たちは先生をやや回転させながら一瞬投げ上げ、各自持つところをローテーションさせた。そしてすぐにまた先生の身体をトスし、ローテーションを繰り返す。一回転、二回転、三回転。先生の身体は水平に右回転していく。
「悪魔にも言い分があるんじゃ……。」
「おれもそう思う。まずは悪魔がなぜこんなことをしているのか、それを聞いてみないことには。」
「言い分もなにも回転してるじゃない! どうすんのよ。」
下手に手を出せば、先生は床に落下してしまう可能性がある。というか、どうやって助け出せばいいのか見た目よくわからない。しかし、一秒ごとに先生の腰はパッキパキになっていく。
「それはおまえ、回転が終わるまで待つしかねえじゃねえか。」
「先生! 首は守って、首は。」
「そんなアドバイスがなんになるっていうのよ。男子はやく行きなさいよ。」
そのとき、悪魔の残虐さを見て泣き出してしまっていた女の子が、立ち上がって言った。
「みんな座って。私が行く。」
みんなが振り向いて彼女を見た。
「なに言ってんの、幸子。」
「幸子っ。」
「幸子やめなよ。」
「幸子、男子にまかせなって。」
「幸子! おれ、じつはずっとまえからおまえのことがっ!」
「えっ!?」
みんな、今度はまさとしの方を振り向いた。悪魔も振り向いた。
「ピューイッ! ピューイッ!」
「私も。私も好き。」
どすん、と音がして先生が床に落ちた。
ねこにゴハンあげたい。
痩せた、でもできるだけ身奇麗なのらねこがいい。
そいつは座っていて、後ろ足のかたっぽを舐めて毛づくろいしている。
ぼくが近づいていくと、ぴくりと顔を上げてこっちを見る。
ぼくがねこから2メートルくらいの所にしゃがもうとすると、すたりと飛び起きて反転して、こっちの様子を伺う。
ぼくはどっかから小さいお皿とねこのゴハンをとりだして、しゃがんだぼくの膝から手の届くだけ離れたところに、できるだけそっとそれを置く。
ねこはぼくの動作の一部始終をじっと見つめている。
ぼくは膝を抱えて、ぼくの親しみオーラがねこに届くように、やさしい気持ちとはどんなものだったか、体が思い出そうとするのを感じている。ちょっと目を背けたりも、する。
ねこはゴハンをじっとみている。
間。
ねこは再び座って、今度は股を広げて毛づくろいを始める。
ぼくは、ねこはお腹がすいていないのかしらんと思い始める。
再びの間。
ねこは突然顔を上げて、あらぬ方向をじっと見つめる。ぼくもそっちを見るが、路上。風に梢が揺れている。さわさわ。
ねこが動くので見ると、股の所をもうふた舐めして立ち上がった。にゃあと鳴く。ぼくの方は見てない。ひとりにゃあだ。
ねこはななめに歩いて、途中で止まって、自分の前足をちょっと上げたまま注視して、ぺろっと舐める。足を置いて、地面の匂いを嗅いでいる。アスファルト。
ねこはふたたびにゃあと鳴き(今度はこっちの足元を向いてる)、お皿に近寄って匂いをかぐ。くんくん。
たべ始める。
安心して、ぼくは自分の体がふわっとわらうのを感じる。
タバコでも吸おうかと思ってポッケを探るけど、しゃがんでるので取り出せない。ぼくはねこに気を遣いながらそろそろと中腰になる。ねこはたべるのをよして、じっとぼくを見る。
タバコに火をつけて煙を吐き出す。ふぅっ。ねこはぼくから目を離し、座ってお腹のところの毛づくろいをやりだした。お腹は白いね。
ぼくは二口目を鼻から吐き出し、顔を上げて空を見る。白く曇っている。小鳥が飛んだり鳴いたりしている。ぱたぱたぱたっ。ちちちち。チュン。ちゅん。
ねこはまたゴハンをたべだす。ぼくはもう全身がやさしくなっていて、鼻をこすって、満足の小さな溜め息をつく。タバコの煙がふわっとして、湿ったような風が撫ぜていく。
ねこはゴハンたべてる。
スタイルなんか気にしない。まわりからなんと言われようが私は私。これが私のライフライン。
今年で30歳になる私に気持ちの変化がおきたのは、弟のタカシと二人で私の部屋でケーキを食べているときだった。
ちょうどその日の夕方、普段はあまり話さない4つ年下の弟から電話があった。
「もしもし、おねえちゃん。今夜あいてる?」
「あいてるけど? どうしたの急に?」
「ほら、おねえちゃん彼氏と別れたばっかりだし、今夜一人っきりなら、僕がお相手をしてさしあげようかなと思ってさ」
「お相手?」
「誕生日、誕生日」
タカシの一言にハッとする。
誕生日……ここ何年もの間必ず誰か? いや、彼氏が祝ってくれていた。
考えてみれば、ヒロユキと別れて1ヵ月が経ち、自分の誕生日のことなどすっかり忘れていた。きっとタカシからの電話がなければ、今年の誕生日は一人で過ごしたに違いない。普段あまり会話をしない弟は、私のことを実はよく見てくれているのだとあらためて感じる。
タカシが家にきたのは午後7時を少し回っていた。
私は、タカシとの電話のあと大急ぎで買い出しに行き、手巻寿司に必要な食材とタカシの好きな銘柄のワイン、それと恥ずかしかったが、100円ショップでクラッカーや、ピエロがかぶるような三角のハットを買い、家路につくとすぐさま用意にとりかかったのだ。
「おっ、手巻か、いいね」
「タカシの好きなワインも買っておいたから」
「いいねえ」
「あとさ……クラッカーと、こんな帽子もかっちゃった……はずかしいね」
「何で! いいじゃん。じゃおれ帽子かぶるよ」
こんな会話のやりとりのあと、タカシの好きなワインで乾杯をした。
「タカシ……ありがと」
「何言っちゃってんの? だけどさ、たまにはいいよな、こういうのも。あとさ、おねえちゃんは少し肩の力抜いて生きたほうが楽だと思うよ!」
私は目頭が熱くなり、こぼれ落ちそうな涙を必死で堪えていた。
ライフラインなんて結局いらないのだと思った。
そして私が思うことがそれなのではなく、私を取り巻く環境、友達、兄弟などすべてがライフラインとして日々の私を支えてくれているのだと。
いまいるその場所から頂上を目指しはじめること。いまいるその場しのぎの快楽を求めつづけること。その2つの積はイコール限りなく0に近づきつつも月を目指しその先を求める。その力は僕の全力疾走なんかよりずっと苦しく純粋で、だから彼女も惹かれたのだと思う。今思えばだが。
その頃僕らは週3は彼女の部屋で、週3は僕の部屋で、残った1日は宛てもなく車で走った先の車の中で泊まる、という生活を続けていた。きっかけは彼女だ。どちらかの家に生活が偏るのは勿体無い、できるかぎり公平に、満遍なく、効率的にお互いの所持する場所と物と生活習慣を利用、使用、吸収する、つまりはお互いとお互いの過去と現在をイコールにするための儀式を始めようと言い出したのだ。残る1日はぶっちゃけまあ余ったからなのだが、いわゆる思い出作りってやつだ。二人で同じ場所にいながらも同じ別の場所に移動する、という経験同期による人生に於けるデュアルカタパルト?モノよりオモイデ?ともかく僕らはそれを楽しいと思ってやっていたし、それがその先、光のレールのように闇の先を照らしてくれるものだと信じていた。のが1年前だ。ちなみに今の僕は週7日僕の部屋に1人で泊まっている。既にそれがあたりまえでこの先もずっと続くものなのだと現実感と共に実感している。まあ実際はずっと今のこの部屋に住み続けることなどできて数年なんだろうなとは分かってはいるんだけど。でも今のこの生活は今の僕にとっては永遠なんだ。ちなみに彼女の居場所は知らない。この世界にまだいるのかどうかすら知らない。でもこれも勝手な実感ではあるのだけれども彼女は元気だ。今も何処かで月を目指している。僕には分かる。
満月の夜の僕には注意しなければならないと、人は言う。曰く、ルナティックフェノメノンだと。曰く、異形に化すると。
今日もまた、月下に写る僕の影に出くわした知人が、天を仰ぐ。
口数の多さは寂しさの裏返しだと、人は言う。曰く、家でも喋り続けているのではないかと。曰く、ひとりになったら泣き出してしまうのではないかと。
すべて違う。僕はただ、人の知識、思考、感性を教えてもらいたいだけだ。それによって知らなかったことを知り、考えたこともなかったことを考え、感じなかったことを感じることが出来るようになり、それが世界をもっと素晴らしく見せてくれるからだ。
特に。女の子の感性は僕の視野を大きく広げた。ひとつの物事がある。それまでの僕はそれを手持ちの懐中電灯で照らして、それがあることがわかれば良いとしていた。しかしそこに幾つもの広い光源が加わって、見たこともなかった像が目に映ったとき、僕は涙を流した。そこにあるものを押し返すのではなく引き込むようなそんな感性を、もっともっと僕のものとしたい。
しかし。ときに僕は絶望する。僕が求めるものはずっと遠くにあって、結局それは女の子にしか持ち得ないものなのかもしれない。もっと素晴らしいものが見たいのにと、落胆する。僕も女の子だったら良かったのにと、羨望する。女の子になれたら良いのにと、希求する。
黒いキャスケット、黄色いシワ加工のロングシャツ、ベージュのボーダー柄キャミソール、ブーツカットのデニムパンツ、ダークブラウンのウェスタンブーツ。せめて姿だけでも、女の子に。そんなときは決まって、満月の夜だ。ほの明るい月夜を、静々と散策する。
「こんばんは」
両足をそろえ、両手を前にして、微笑む。出来得る限り、女の子に。
「え……。そ、そうね」
「綺麗な月夜ですね。こんな夜は、静かに物思いにふけっていたくなりますね」
口をパクパクさせている知人に会釈して、散策を続ける。その後ろで、空を見上げた知人が、また満月か、と呟いた。
そのうちに。今度はこの姿に絶望する。姿を似せても、言動を似せても、女の子になどなれはしない。所詮、そんなことなど出来はしないのだ。そう思うと、僕はもうそこに居たたまれなくなる。家に帰り、服を脱ぎ、泣き濡れて、そして眠る。
繰り返す絶望の中、それでも僕の視野は広がっていると、信じて良いですか。そう誰にともなく問いながら、僕は眠りに落ちていく。
彼は月末の9才の僕だった。ははははじめてのお使いを彼に命じて、お札が沢山入った(あの五千円も)財布を渡した。それだけで彼はウキウキなのに、忙しいお母さんを助くヒーローで、しかもなんと偶然お母さんの働くスーパー。ははははは。
暫く歩き回って、レジの近くにいつものきらら395をみつけたきらきらした目は、突然コシヒカリとかいうのも米であることを直知して、棚に貼られた値札のシールをすらりと一通り浚った。とりあえずきららは1680円(一番安い)だったが、彼は遂に3480円を見つけたんだ。茶色い紙袋に入った立派なお米は、「魚●郡産コシヒカリ」というみたいね。彼は財布を取り出した。千円札が一、二…、あっ、五千円札がある。買い物篭にお米を積んで、お使いはあと…、と歩き出したらなんとそこに古代米。2kg2180円。赤くて面白いから交換!
財布にはお金があるし、お母さんに楽させたいから重い牛乳を五本、しかも一番高い●●●分4.2%の。そうしてレジに並んだら、なんとあっちのレジがお母さん。遠心力でマザコンロード。
彼はお母さんをずっと見てたよ。でもお母さんは忙しくて彼に気づいたのは前のパーマばばあの時だったんだ。彼にスマイルくれたけどその後びっくり。普通逆だね。お疲れさん。“古代米がお一つ、4.2牛乳が5つ、ポテトチョコチップクッキーが5つ。合計4580円になります。”バーコード音がおもろい。いいな。彼はお母さんの財布から五千円を取り出したんだ。そして得意げにしたんだ。でもははははははともせず、慣れた手つきで硬貨を渡した。
荷物を纏めている間も機械的だった。はははともせずただあのピッという音を延々と鳴らし続けていた。店の入り口には、北風に晒されて半分剥がれかかった紙が何とかガラスにへばり付いていて、吹き付けの具合でパートだとか650円〜だとかの文字が垣間見えた。寒いな。運動だ。彼はそう思って遠心力で家に帰った。
ははははじめてのお使いを褒めてくれた。数日は赤飯だった。でも僕は分かってきた。何故僕を買い物にわざわざ――。僕は母に言った、「僕は大金持ちになる。大金持ちになって、好き放題買い物する」と。ははははははと笑った。僕は一生懸命勉強した。一生懸命勉強して東大へ行こうと思った。だけど浪人。予備校代65万円。ははははははと1000時間。僕はろうそくの中でははは。昔を思い出しながらははは。
新聞を床に広げて、貼り付いた言葉をひとつひとつ丁寧に剥がし取る。「本日」「むき出しになっている建築物」「膨らんで」「回る」。今日も世界では様々な出来事が起こっている。
階段を駆け上がる音。
「プラズマ」「すでに」「得た」。ふむふむ、と僕がしたり顔で頷いていると、ナオ太が勢い良く部屋に飛び込んできて、
「インコを青く塗ろう!」
開口一番にそう叫ぶ。
「なにそれ」と僕は訊ねる。
「エヌさんのところでそういう映画を観たよ。青く塗って、チョコレートでできた爆弾を齧って」
「何ていう映画?」
「なんだっけ。詩が、海が、太陽が、ええと、それから、赤い車が」
「変なの」
ナオ太の言葉は新聞に書いて無くて、ナオ太の行動は僕には未体験だった。だから、ナオ太と一緒にいるのはとても刺激的だ。
「ペンキ買ってくるからインコを外に出しておいてね!」
そう言って、ポケットから飴やらネジやら撒き散らしながらナオ太は部屋から出て行った。
りんご味の飴があったので拾って舐める。新聞を丁寧に畳み、ネジで壁に留めておく。
鳥篭の扉を開けるが、遠慮しているのかインコはなかなか外に出ようとしない。餌で釣ろうとしても見て見ぬふりだ。小首を傾げて興味が無いのを装ってはいるが、本当は思わず鳴き声が洩れるほどこの餌が好きなことを僕は知っている。外に出るのが怖いのかもしれない。
仕方なく鳥篭に手を突っ込んで無理矢理外に追い出しても、部屋をひと回り飛んで再び鳥篭の中に戻ってしまう。
そんなことを繰り返しているうちに、ナオ太がブリキの缶を手に帰ってきた。
ナオ太は力いっぱい蓋をカポッと開けると、
「あれえ、このペンキ青くないや」
中を覗きこんで素っ頓狂な声をあげる。
僕も覗き込む。透明できれいなものが詰まっている。
指に取って光にかざすとキラキラと眩しくて、思わずうっとりしてしまう。こんなに透明できれいでとろりとしたものがあるなんて。
「あ、これ甘いよ!」
見ると、ナオ太が指で掬って舐めている。
自分の指を舐めてみて驚く。本当に甘い。美しい上に甘いこの液体を、僕たちは無言で舐め続けた。
「そういえば」
ふと思い出す。
「僕も読んだことあるような気がする。青く塗った鳥が出てくる話」
確か、あれはハッピーエンドだったな。まるで今日みたいに。インコは青くないけれど僕たちは幸せだった。
壁の新聞から言葉を拾う。「明日も」「おめでた」。きっとそうだ。
ザアザアという音に胸弾むときとそうでないときがある。その日は窓を開けるまでもなく雨だとわかった。古田さんは哀しくもあったし、「せいせいしたわい」と伸びをしたくもあった。
クサクサしてるなあ、と灰色がかったブルーのワンピースを着て出ると、なんとなしに谷中の墓地に眠っている友人と話したくなって山手線に乗った。日暮里で京成電車に乗りかえて京成上野へ向う。車窓を眺めているとしみじみと和んで肩の力も抜けてくる。
改札を出ると雨も止んでいた。
「近くの公衆電話からなんだ。俺、光ってんだ」そう言って電話が切れたあの日、懐中電灯を振り回しながら走ってくる友人を古田さんはベランダから眺めていた。恋人でもなく親友と呼ぶ付き合いでもなかった。ただ彼は古田さんに光る棒を見せるのに夢中で車に気づかなかった。
彼の墓前にて胸のわだかまりを話していた古田さんである。が、突然変な唄が聞こえてきて古田さんは我に返った。
「アアー、世はゆウめえかア、まっぼおろォしかあータカタッタ……やや、気づかれましたか、あっこりゃ失敬失敬」
「はあ」
「いやね、お嬢さんの姿があんまり絵になってるもんでネ。今日の風はいいネー新緑と何とかはおいらの生活を貴族にする……お嬢さん、ちょいと映画に行かないかい」
おじさんのような若者だった。シュッと2枚切符を取り出して渡された。古田さんは困惑したもの友人の墓前での不思議な出会いに興味を持った。
「肩車は好きですかい」
「肩車?」
「あい。こうみえても得意なんです」
「やめとく」
「残念」
映画館に入った。アフリカで猛獣を生け捕る話だったが、一致団結して500匹のサルを捕まえる場面があった。ふと若者の呼吸が荒くなっているのに気づいた。ピクピク震えながら「しばらくは花のふぶくにまかせけり」と呟いているところが実に怪しいと思って凝視してみると今度は服を脱ぎ始めた。
(変態?)
古田さんが出ようと決めると若者は手を引っ張った。ふさふさと毛深くて古田さんはギョッとした。人間の着ぐるみを脱いだ猿だったのである。
☆
「猿、あなたに初めて会ったとき、そりゃあ驚いたわ」
「そうかい」
「だって猿だったんだもの」
「ああ」
「携帯もなかったし肩車する猿もいないころだったのよ」
「うん」
「お腹すいたわ」
「赤玉チーズで一杯、どうだい?」
古田さんは夜空に浮かんだ月を眺め、猿はしっかりと彼女の足を首に抱いていつもよりゆっくり、東京を歩いていった。
午後十一時を回った頃、武蔵野線の汽車を待ってプラットホームに立っていると、見慣れない古びた機関車が長編成の客車を牽いて「回送」と行先標示を掲げながら通過していった。客車には勿論のこと誰も乗り合わせているはずはないが車内には白い灯りが煌々と点ったままとなっていて、各々の車両には誰に示す為であるのか白地に黒い文字の「回送」が光り、目の前をそれらが通過するたび追っていたうちにいつしか自分が視られている気になり、回送の「回」の字は、目を象った記号ではないかと思われてくる。幾つもの目が次から次と、こちらを睨みながら、送られてきては去ってゆく。目、といえば、それも成り立ちは象形文字であったと記憶しているが、目、と書くよりは、回、と書いたほうが幾らか実際の目には近いように感じられる。或いはまた、目は口ほどに物を言う、と慣用句にあるが、回の字には口という字が二つも含まれている。それならば回の字はべつにこちらを凝視しているのでなく、口が二つ合わさっている、または、接吻をしていると考えられなくもないが、しかし接吻をするには二つの口の大きさは合わないようでもあり、口付けをすると見せかけて相手を呑み込もうとしているのでは、などとも考える。しかしよくよく見てみれば口という字も象形文字にしては随分と雑な造りをしている。唇のこれだけ薄い人間があろうか。ということは回の字はいまこそ口を表す漢字として採用されるべきである。回、と書いてみれば、これはなんだか唇の厚い女が、唇を尖らせているようである。そして回と回とが合わさって接吻をしたところで二つが一つに重なるのだから回のままである。しかしながら回を送って回送とは如何なる意味だろうか。今一度、目の前を流れてゆく回送列車に目をやれば、誰も乗り合わせていないと見えたのは誤りで、各々の車両には幾つもの回が光り、或いは回を尖らせて、こちらを凝視しながら、こちらを呑み込もうと大きく回を開けて構えていた。俺もまたこの蠱惑的な回送列車に惹かれて目と回を合わせ、唇と回を重ね、相手を呑み込んで一つに重なりたい衝動にかられて列車に吸い寄せられる。このとき自分の目には回送の標示が点っていたと思われる。回と回はこちらを呑み込むことなく行き過ぎてゆくばかりだった。俺は目を潤ませ、唇を尖らせながら、武蔵野線の汽車を待って立ちつくしていた。回送列車の回はやがて車庫に吸い込まれた。
まだ年若いのに伴侶を亡くした知人へ、何とメールしたものか、迷う。一報を送り、その返信を読むと、一年が過ぎても気持ちは落ち着いていないようだった。ある程度は予想していたが、さて、これ以上どんな言葉を送ろうか。
それほど親しいわけではない。むしろ、知人の知人。しかし偶然とはいえ、彼女が未亡人になる数日前に私はその夫妻に会っていた。引退した上司の葬儀という、なんとも奇妙な場面で。私が入社する数年前に寿退社した彼女とは初対面だった。ただ、彼女の同期である先輩達から、名前くらいは聞いていた。
上司の葬儀のあとに簡単な挨拶を交わした十数名の集まりの中、彼女の後ろに遠慮がちに立っている彼を、かえって強く意識していた。まさか数日後に見送ることになるとは。あまりにも薄い関係。それでいて、忘れることのできない記憶。妻の紹介を受けて軽く会釈する姿が、何度も再生される。それ以外、私が彼について思い出せることがない。
けれど、小さな工場という職場の性質上、上司の葬儀に参列した女性は、彼女と私だけだった。だからその数日後の葬儀で、喪主を務める彼女に声をかけるのは、私の役割だった。葬儀のあと、メールを送り、返事をもらった。何度かメールのやりとりをしたものの、一ヶ月を過ぎる頃にはそれも途絶えた。会社に欠かすことのできない存在だった上司の一周忌に、再び数名が集まったが、彼女が欠席だったので、久しぶりにメールを送った。
返信メールを読み、数行の返事を書いてみる。小説を書くより、ずっと時間がかかった。最後に、食事に誘う文面を書いて、送信を思いとどまる。確か一年前にも、「落ち着いたらお食事でも」と書いたはずだ。だがこの一年間、彼女から連絡はなかった。私など、頼る関係ではない。それはそうだろう。だが、他に誰か、いるのだろうか。いるならいい。いないからこそ、一年という時間が経ったとは思えないような返事が来るのではないかと憶測する。
『工場の近くに、久休というおいしいおそばやさんがあると聞いたのですが、まだ行ったことがありません。今度行ってみようと思います。渡辺さんは、久休、ご存じですか?』
ではまた、と結ぶ直前の文章を、そう書き替えて、送信する。
ご存じですか、今度行ってみようと思います、ではなく。
今度行ってみようと思います、ご存じですか、という語順。
そんなものには、意味などないかもしれないと思いつつも。
二階屋ほどの山となっている瓦礫を円形に囲んだそれぞれの人が、桶と柄杓を手にしている。
まずは、唄。
りらりらと ほどける糸が
森をゆく あなたのたよりでしょうか
みごもった子を たたいたのは
あちらのゆくえが 知りたいから
そうして、瓦礫に水。
こうして、およそ二時間後に地の底から音調があがってくるという。私はそれを見物にきたのだった。
桶の水を空にした人々は、円は崩さぬまま、その場で思い思いに食事を始めていた。私も近くの家族に誘われたので、輪に加わった。そこの老人の言に因れば、彼の子供の頃には食事など以ての外、平伏して待っていたらしい。しかし参加する者もこれでは大変だというので、四十年ほど前には今のような形になったそうだ。由来についても語ってくれた。王墓の生贄となったツナマグサノヨイチヒノ他百名が、三十三年の歳月に渡って地の底から災厄の訪れを知らせてきたという伝説から、「死者の声を聴く」という、この行事が始まったという。
二時間後。
円の中の数名が、持っていた瓦に小石を打ち合わせ、それらを瓦礫に向かって放り投げた。この半年で家族の亡くなった者が、故人の気を蓄えている各家の瓦と、あの世へとそそぐ津名川に雪がれた小石を献納する事で、子孫の居所を伝えるという意味合いがあるらしい。死者は今、地上へと這い上がってきている。
円から外れ、私は再び部外者となった。
少しして旋律が始まった。それはたわいない、水音の反響だった。その連続が、何かしら旋律のように聞こえるのである。
その死者の音調に合わせて、唄が始まった。
よいとこさ よいとこさ
柄つかめ 足ふんばれ
よいとこさ よいとこさ
顔あげれ 歯くいしばれ
よいとこさ よいとこさ
それに足踏みがつき、手拍子が加わる。合唱は反復する。
この伝説の真意は、地の底に封じられたも同然の扱いを受けた氏神が、三十三年もの間王権と戦った事を示したものだろう。表立って王権に逆らう事の出来ない氏子は、祭と称し、密かに氏神に酒(水)を振る舞い、恨みのある者は河原(瓦)に送って(仇を討って)欲しいと泣いた事だろう。やがて酒のまわった氏神は、唄をうたい、戦への士気を高めたのかも知れない。そこは、氏神と氏子がひとつになれる貴重な空間だったはずだ。
私は首に提げていたカメラを構え、現代の氏子をフィルムに収めるべく、シャッターを切った。
西の帝国の軍勢が迫り王国が滅亡の危機に瀕したその夜、王の枕元に悪魔が立ち囁く。
――いかなる災いをも阻む絶対の守護を。
誘言に惑わされる愚王ではない。王は問うた。
――代償は。
――貴殿の娘を貰い受ける、哀れな姫が十五になったその晩に。
王は決意した。悪魔は知らぬのだ。生来病弱だった王女が治療の甲斐なく一月前に世を去った事を。王の子は姫の弟である王子のみ。
悪魔は契約を得た。
宰相は戦慄した。世継を希求する王を慮り王子として育てられていた子は真実王女だったのだ。
国中から法師術師を呼び集め策を乞う宰相に一人の老師が告げた。
――新月は時の濁る夜なれば、如月は朔に生まれし姫は時の魔力を繰りましょう。
師の言葉通り王女は類稀なる才を魅せ、齢十五を迎えようとする暁には時換の法を修めるに至る。
儀式が行われた。王女は再び十四へ還り、誕生の日付を正しく一年異にする侍女は十四を経ずに十五となった。
永い環の始まりだった。
五百年が過ぎた。
帝国は既に滅び跡に幾つもの王朝が興っては消えゆくその間、王国はただひたすらに凪いでいた。悪魔の守護ゆえ外敵を寄せ付けず、半千年紀に及ぶ為政のうち女王が比類なき賢政を学んだがゆえにかの国は不滅だった。
氷風に民草が身を潜めていた或る冬、一人の旅人が王国を訪れる。遥か東国より辿り着いた賢者である。
王城の戸を叩いた稀客に女王は問うた。
――時の環を断ち切る術やある。
対面する者へ例外なく投げ掛けてきた問い、それはしかし実に百余年ぶりの余韻だった。
――是。
賢者は答え、しかし容易には真理を明かさなかった。
――王において永遠とは見果てぬ夢、国において安寧とは得がたき宝。定められし道を失えば民は惑い血の流れるは必定。貴国は既に永遠と安寧を享受し繁栄を謳歌しているにも拘らず、聡き王は破壊を望むのか。
――是。
女王は宣う。
――史とは手から手へと伝え綴られるもの、国とは網の目の如き大河の流れ。王は船頭であって水神ではない。混迷と流血の後に民は識るだろう、人が命を紡ぐその意味を、時を織り上げるその意味を。
賢者は頷き、先導者たる女に解を与えた。
――呪いとは正しく言葉の契り、悪魔といえども定めを覆すことはできぬ。契約は一字一句違わず履行されねばならぬ。
儀式が行われた。齢十六を迎えようとしていた街娘は王の時を得て十五へ還り、女王は十五を経ずに十六へ至った。
小さな王国は、再び小さな歴史を歩み始めたのである。
人生は砂漠なんかじゃなかったよ。
トムは僕に言った。毛羽だったボロいベッドと霜柱みたいに白く痩せ細ったトムの身体は、まるで蜂蜜とパンケーキの関係みたいに親密そうに見えた。
トムは僕に指先で指示を出し、壁から絵を外させ、ソファーの端に座るテディー・ベアをとらせた。僕がクマを放ると、トムは柔らかな綿の内臓からガンを抜き出し、グリップを僕に向けた。餞別さ、とトムは笑った。
サイドボードのパイナップルは熟れすぎていた。
こいつも持っていってくれ。棘に指を押し付け、トムは言った。
ガールフレンドからのお見舞いなんだ。
じゃあ自分で食えよ。
僕がそう言うと、トムは少しだけ寂しそうに首を振った。
こいつを見るとママを思い出すんだ。
僕はズボンの後ろにガンを押し込み、絵とパイナップルを抱えた。
トムが笑った。ジェームズ・ボンドのできあがりだ。僕が見た彼の最後の笑顔だ。
ところで、僕の奥さんは時々おちゃめをする。
ある晩、僕が仕事で夜遅く家に帰ると、僕の奥さんはパイナップルの輪切りでできたブラをつけていた。 僕がブラを褒めると、奥さんは僕の疲れきった目の下にできた立派なクマを褒めた。翌日、僕は五年ぶりに仕事を休み、奥さんと二人でドライブにでかけた。トムが死んでから八年が過ぎていた。
トムのママは、僕を憶えていてくれた。奥さんを紹介すると、トムのママは喜んで彼女を抱きしめ、彼女はおどけて目を回した。
途中で買ってきたパイナップルは、トムのママの手によって、ラムの香りが程好く鼻にぬけるケーキに姿をかえた。
トムの部屋は子供の頃の記憶のままだった。僕はカーテンを開け、陽のあたるベッドに寝転がってみた。トムが最後に過ごした、あの暗く陰鬱なアパートの部屋。あの部屋にも同じものがあった。見上げる天井では、紐で吊るされたいくつもの小さな飛行機が、窓から差し込むやわらかな陽の光りに揺れていた。
別れ際、トムのママは奥さんに紙切れを手渡した。もちろん、トムの愛したパイナップルケーキのレシピだった。
ガンは僕が30歳になった日の朝、庭に咲くアジサイの根本に埋めた。絵は、青空と雲だけのトムが描いたあの絵は、寝室の足元にずっと掛けてある。ただし、そこにはある言葉が付け加えられている。四歳のとき、目を離した隙に僕の息子が書いてくれた言葉だ。そらはおっきい。どうやら僕の息子は、パイロットになるのが夢みたいなんだ。
虹を破壊した男。
「オーロラを見たんだ」
凍てついたキャンピングカー。オーロラの傷。
神殿のように凍てついたキャンピングカー。
「オーロラを見たんだ」
聖剣グラムを持って、サングラスをかけた男。ポルシェで高層ビルから飛び降りる。でも死なないのさそういう男は。男は人を殺したことがある。愛する人を殺されたことがある。
愛する人を殺したことがある。
愛してなどいなかったんじゃないか、と思ったことがある。
「誰のために鐘は鳴る?」
お前のために鐘は鳴る。
ジギープレイドギター。
階段を昇り続けている。
悲しみなんて感じるわけも無く。
階段は壊れ続けていく。
「壊して。お願い。めちゃくちゃに、壊して」
「なんて美しい」
廃墟。瓦礫。人間。
「とても美しい」
「また作り直しだ」
アンタレス。
アンタレス輝くお前。
「なあ、なにをどうしようか。なあ。聞いているか。まあどうでも良いか。そうだな。地図でも書いてみるか」
公園には紳士の銅像がいつも茂みに突っ込まれておられる。
誰の仕業かは知らないが、見つけたら直してやる。
重い石像だからなかなかの重労働である。
踊る男。雪の上を、踊る男。
「コーヒーをくれないか」
これは無謀な願いか。美しい男。美しい揺らぎ。一瞬と永遠。演算は繰り返される。可能性は試され続ける。虹を破壊した男。神殿。虹色の眼球譚。オーロラを見たんだ。
「ただの、ガラスだまだね」
「美しいね」
神殿。
モザイク画。
炎など熱くなく。ガラスを突き破り、あなたを手に取る。あなたは目を閉じる。
クモは餌にした蝶の羽をつけて羽ばたく真似をしていた。
虹が凄い数だ。
虹。
ソフトクリームが溶けてしまった。
今年の夏は暑い夏では無かった。
今年の夏は大切な夏では無かった。
世界は変わろうとしている。今皆の手のひらの中に小さな地球儀が乗っている。ハイテク機器なので世界で何が起こったのかすぐ更新されるのだ。アフリカ大陸の真ん中には大きな穴が開いていた。それは何処かへ行けそうな穴だ。いや、過去からの穴だ。過去からの復讐の穴だ。
いかづちの中に書かれた文字。詩。
そんな絵を描いていたのか。
いなづまを掴む。
サンダーマン。
「いなづまを捕まえた男を知っているか?」
「さあ」
「いなづまを捕まえた男を知っているか?」
「知らないねえ」
「いなづまを捕まえた男を知っているか?」
「聞いたことが、あったような気もするが。
知らないね」
小説を読み、小説を書いてきて、「私」とは一体何者だろうか、ということに時折悩まされてきた。未だ勉強不足であり、あるいは過去に論じ尽くされたことなのではないか、と思いもするが、無知や誤謬をみだりに怖れず「私」について今思うところを書き記してみたいと思う。
オーソドックスな推理小説の場合は、「私」は「ワトソン役」、つまり「私」=「記述者」という態を取っており、私小説の場合は、「作者」=「記述者」という態を取っているわけで、このイコールは厳密なものではないけれど、一応納得がいく。その他にも、古くは『ドン・キホーテ』や、あるいはウンベルト・エーコの諸作のように、あくまでもこれは発見された手記を編纂したものであって、私(この場合は作者)が書いた「小説」ではない、という態を取るものも多い。
私が悩まされるのは、そういった「記述者」という態を取らない「私」だ。例えばフィリップ・マーロウの場合がそうで、マーロウの物語は「私」という一人称で語れているけれど、この「私」は「作者」のレイモンド・チャンドラーとイコールではないし、かといってマーロウ自身が自らの物語を書き綴っているという訳ではないから、マーロウでもない。マーロウの言動を逐一読者に報告してくれるが、決してマーロウ自身ではないこの「私」とは一体何者なのだろうか。
背後霊のような存在や、「私」が故意に嘘をついていたりすることを認めるなら話が違ってくるが、マーロウが「記述者」ではない以上、「私」は作中世界の住人ではないし、作者自身でもないのだから現実にも存在せず、「私」はどこにも存在しないことになってしまって、「私」の正体は判然としない。
しかし、その役割だけははっきりしている。「私」は物語の「語り手」として、現実世界にいる私たち読者を、虚構の作中世界へと導く役目を負っているのだ。「私」を経て我々は物語に接することが出来るわけで、逆にいうと、読まれることによってのみ「私」は存在出来る。読者が読むことを止めてしまえば、虚構の中にも、現実の中にも居場所を持たない「私」は、たちどころに消えてしまうわけで、読書という行為の中にしか「私」はいられない。
それはまるで彼岸と此岸のどちらに属することもない三途の川の船頭のようじゃないか。
そうか、つまり「私」は「渡し」だったのだな、と「私」はこの駄洒落に気をよくして思わずニヤリと笑ってしまった。
下見にきた部屋の郵便受けにすでにわたしの名前が書かれているのはどういうことだろう、とぼんやり眺める。大家が気を利かせてくれたにしては随分古びているように思うが、これが先の住人の名だろうか。
繁華街からほど近い立地にして破格の家賃の理由は、建物自体が相当古いからというのもさることながら、以前ここに住んでいた人間が変わった亡くなり方をしたという噂にある。綺麗に剥がされていない表札のラベルから察するに、この部屋ひとつが埋まらないからといって家主は困らないのだろう。不動産屋を介して電話をしたときも、よほどの変わり者だと思われたらしい。確かにわたしは物好きではある。
「あんたは流転の相をもってる。これまでも一箇所に落ち着けないで、色んな土地を転々としてたろう」
自称元占い師にこう言われたのは確かふたつ隣の駅前のうらぶれた居酒屋だった。薄暗い電灯に照らされた濃い化粧ばかりが今も目に浮かぶ。
「だけどこの次であんたの移動はおしまい」
はあ。わたしの気のない返事にむきになったのか、尋ねてもないのにさらに言葉を重ねてきた。
「だからといってあんたの放浪癖が止むわけじゃないよ。この先もそれはずっと消えないね」
気配に振り向くと、いつの間にか大家が立っていた。
ネームプレートのことにふれると、誰の悪戯かは分からないが何度消してもまた落書きされているのだと愚痴をこぼされた。それからふと不思議な顔をして、でもあなたの名前とは似通ったところなんてありませんよ、と言った。
ふいに先の回想が、はるか昔の出来事だったことに思い当たる。
ここに決めます、と伝えると懐かしい感触のドアノブに手をかけた。
今生も同じ運命を引きずってしまったか。
いや、そもそもここがアンダーグラウンドと呼ばれていること自体が滑稽なのだった。
名前があるということは呼ぶ者がいるということを意味するが、ここには八色の小人がいる。赤青黄緑紫灰黒白色の小人が同じ色で50人ほどの班になって八方を掘削している。といっても一般の全小人が同時に働いているわけではなく20人ずつ交替でトンネルの中心地で休息を取っている。ちなみに中心点はSP(Starting point)と呼ばれている。
一定の周期で小人たちはUGの体積を報告する。ちなみにUGの名が呼ばれるのはその時だけだ。
僕は有線の交換機である。SPで八色の小人の連絡を中継するのだ。
小人たちの連絡はとても軽快で音楽でも聞いているようなのだが、その雰囲気を伝えることはできないだろう。小人たちの働きっぷりを想像するのも面白い。
「赤8.42.126.23X2,5へ黒土」「緑13.137.89.218Zに岩盤、桜4号使用5ビョウ」「灰23.65.167.45.X3.1へ黒土」
連絡は私を通して全小人に送られているようだ。小人の連絡を聞いているのは楽しい、連絡は私を素通りする。
ここらは真黒だ。何も見えないので明るさのことは知らないが、土壌が黒土ばかりなのだ。小人たちはもうずーっとトンネル掘りつづけているが岩盤と黒土以外の報告を聞いたことがない。小人たちはアリの巣みたいにグニャグニャトンネルを掘り続けどんどん住処を広げてる感じだ。掘った土がどこ行くのか見たことないので知らないがきっと小人が食ってるんじゃないだろうか。それだとつじつまが合う。
「何もないよ。」
という感じのことを男は言った。
ときどき混線が入る。地上のものだろうか、いつも同じ男の声で、最初は何を言っているのかわからなかったのだが最近意味を取れるようになってきた。
「いやだよ。めんどくさいし。」
とおとこはまた言った。これは僕に言っているのではないかと、僕は返事をしようか今考え中なのだ。
アンダーグラウンドは全く地上につながっていない。小人たちはずっと閉じ込められている。ここから出れないのなら、なぜここを地下世界などと呼ぶのかわからない。いつか連絡の語尾に「地上」がつくことはあるのだろうか。もし僕が地上を見つけたとうその報告をしたら小人たちはどんな反応をするだろう。そんな悪戯を考える。
(ずっと小人と呼んでいるが当然僕は彼らの姿を見たことはない。)