第55期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 ディスカッション Qua Adenauer 500
2 白の渦 クルミ 379
3 自分の世界。 緋夕 540
4 火星と小さなトスカネリ 千乃明ちよ 676
5 闇夜の湖畔 Et.was 845
6 無題1.txt* カイリ 985
7 頼むから僕からの電話には出ないでくれ 公文力 1000
8 閉じる TM 992
9 森に消える makieba 1000
10 俺と 藤田揺転 1000
11 茜差す 長月夕子 995
12 やる気・元気・渡邉美樹 戦場ガ原蛇足ノ助 992
13 スケッチブックと君の瞳 心水 涼 996
14 怪盗少女は夢を見る サカヅキイヅミ 995
15 おしりこ 冬口漱流 1000
16 モンスターハウス Revin 992
17 例えば千字で永遠を 黒田皐月 1000
18 阪急電車に乗って 宇加谷 研一郎 1000
19 スキッペンラン 索敵 933
20 きのうのけむり とむOK 1000
21 休暇のはじまり 三浦 1000
22 漬物の話 わたなべ かおる 1000
23 彼方の思い出 池澤 988
24 アンイージイ 壱倉柊 1000
25 最後のキセル ろーにんあきひろ 1000
26 qbc 1000
27 今日も過去を振り返るハゲ くされハンニャ 780
28 彼女はパラボイド シュガー 901
29 蒼穹 bear's Son 998
30 窓拭き魔、現る 二歩 1000
31 小説を掴まえた 曠野反次郎 1000
32 北京島にて るるるぶ☆どっぐちゃん 999
33 二人の部屋 956

#1

ディスカッション

ディスカッション、それは討論。
ある論点に関して、二手に別れ、主張し、納得させること。


あるカフェ。
私は、一杯の珈琲をここで飲む為に早起きをし、会社へ向かう。
それが日課だ。

ある日の朝。
いつものカフェの奥の席で、二人組みが何やら話していた。

A「私は、貴方と討論している。」
B「私は、貴方と討論していない。」
双方の主張。

論点は何か。
討論とは何か。
論点があるのなら、これは討論なのではないか。

A「では、我々は何をしているのですか。」
B「私は、貴方の主張に反対し、貴方は私の主張に反対している。」
A「それを討論と呼ぶのではないでしょうか。そして、それこそ私が主張している事です。」

Bは言った。

我々の行為を討論だと仮定する。
仮定が正しいならば、私の主張は成り立たない。
私の主張が成り立たないならば、討論が成り立たない。
仮定が誤りならば、私の主張は成り立つのではないだろうか。
私の主張が成り立つのならば、我々の行為は討論ではない。

A「貴方の負けだ。」
B「何故です。」
A「貴方の主張が成り立つ時点で、これが討論だからです。」
B「いいえ、討論ではありません。」

討論だろ。

私は、すっかり冷めた珈琲を飲みながら、そう思った。


#2

白の渦

夢を見た。
只ただ白い空間に取り残された、私、が、いた。
なぜかは判らないけれど、その夢を見ている最中、私はとても懐かしいような、心地の良い気持ちになった。けれども目覚めると隣には自分を買った醜い中年の男がひとり、いた。その男に心を売り渡した自身も同様に醜い。私はそっとベッドから抜け出すとバスルームへと足を向ける。シャワーの蛇口を捻ると、生温い水が私の肌に当たって足許へと滑り落ちていった。水は排水溝へと導かれ、其処で渦を巻いて消えた。いつかは私の中の白も、渦を巻いて何処かへ消えてしまうのだろうか。虚しさに呑み込まれ、汚れ、穢れ。背筋に悪寒が走ったので、シャワーの温度を高くした。

バスルームから戻ってきても、男は眠っていた。男の荷物の中から財布を探すと、札を適当に何枚か抜き取った。これが、自身の値段。そう考えるのが酷く虚しかったから、何枚かは数えなかった。


#3

自分の世界。

「この世界は、僕と真散のふたりだけなんだろうね」

「どうなさいましたの?季月さま」

真散は季月の顔を不思議そうに覗き込んだ。

「だって僕の世界は、この屋敷だけだから」

季月は空を見上げた。それにつられて、真散も見上げる。
よく晴れ渡った空は、昨日とまるで違う。

「僕はこの屋敷から出たことなんて一度もない。それは真散だって同じだと思うんだけど?」

「そうですわね、わたしもこの屋敷が、自分の世界のすべてですわ」

真散は、手を口に当てて軽く微笑した。

「でも、この屋敷には鳥や花や木、虫たちだって居りますわ」

李月の方を向く。

「そう考えると、この屋敷から見える空だって、わたしたちの世界ではないでしょうか」

「その通りかもしれない」

「でしょう?だから、季月さまの世界は、わたしだけではごぜいませんわ」

「だけど、いつか君は僕の目の前から居なくなる、と・・・・考えてしまうんだ」

季月は下にうつむいて、哀しそうな顔になった。
その姿は、幼くて、まだ何も知らない子供のようだ。

「そんなこと御座いません。わたしはずっと、季月さまに仕える者でございますわ」

「だったら僕は、君の主人として一生、真散を働かせるよ?」

「えぇ、嬉しいですわ。わたしもやり甲斐があります」





どちらかが消えるのは どちらかの世界が 崩壊することだ。


#4

火星と小さなトスカネリ


 今日は黒猫と火星見学に行った。ママには内緒で。
 水星には小さい頃行ったけど、火星は初めてだった。
 お金が無いので、お隣の星から眺めるだけ。
 ガラスにひっついて、できるだけ火星の近くにいけるようにした。

 きれいだねえ、と黒猫が言った。なので僕もそっちょくな感想を述べた。
「僕、火星って燃えてるのかと思っていたよ。」
 黒猫は僕を見上げて、ふむ、と頷いた。そして口を開く。
「燃えてないとも限らないよ。」
「でも燃えていない。」
「でも燃えてるかもしれない。」
 僕は首をかしげる。この頭のいい黒猫は、時々むつかしい事を言う。
「誰かが信じればイエス・キリストも神になるみたいに、
 君が信じれば火星は燃えているのさ。」
 黒猫は聡い目で火星をガラス越しに見つめた。
 僕は黒猫を上から見つめる。
「…でも、僕それじゃあただのへんなこだ。」
「そう。君がそう思うなら、それでいいんじゃない。」
 黒猫はガラスに背を向けた。そしてすたすたと4つの足で素早く歩いていってしまう。
 僕は待ってよ!と言いながら黒猫を追いかけた。
 展望ロビーは人がいっぱいで、ともすれば小さな黒猫を見失ってしまいそうだった。
 僕は小走りになりながら、ガラスの方を振り返った。ガラスの向こうには、大きくてきれいな火星がある。
「(僕がしんじれば、)」
 僕は前を向き、大分前に行ってしまっている黒猫の姿を見つけ、走った。
「ねえー、今度はもっとお金をためて、火星にお泊りしようよ!
 またふたりで、内緒で来るんだ!」
「嫌だよ、今日だって帰ったら絶対君のママにどやされるよ。
 それ覚悟で一緒に来てあげてるんだから。」



#5

闇夜の湖畔

動悸が激しく、口から心臓が飛び出しそうだ。いくら近道とは言え、この道を通るのではなかった。私は後悔した。私は恐怖に震える手を強く握って夢中で走った。
後ろから何かの気配が追ってくる、逃げられない。
そのとき、何者かが私の肩先を掴んで、私に呼びかけた。
「どうしました? こんな時間にお一人で。」
男の声。私は何も言わず振り切ろうとしたが、私の肩先を掴む手は力強く、離れない。
私は恐る恐る振り返った。俯き加減だったため最初に彼の足が見えた。私は少し安心して男の顔を見た。
暗さでよく見えないながらもそれほど男前ではないが、血の通った整った顔立ちをしている事は確認できた。
「どうしました?」
男は心配そうに私の顔を覗き込む。
「いえ、この湖の湖畔に深紅のドレスを着た女の幽霊が出るらしいんです。それで私怖くて、ほんとに怖くて。」
安心したせいか、自然と涙声になる。
「幽霊? その様ですね、でもご安心ください、僕は霊媒師ですから。」
咄嗟の出任せだろうが、彼は私を元気付けようと優しく微笑んだ。
 彼と湖畔を歩いて暫らくしたころ。月を覆っていた雲が途切れ、月の光が辺りを照らした。
「これで少しは明るく成りましたね……。」
彼は微笑んで私を振り返り、私を見るなり何かを言いかけたまま沈黙した。
静寂が流れ、身体の芯から凍えていく。
「どうかなさいましたか?」
私が問いかけると彼は声を殺して笑った。
私は少し不気味になり彼の肩を揺すった。しかし依然として彼は笑い続けている。
「何が可笑しいんですか?」
私が強い口調で言うと彼は笑いながら湖面を指差した。
水面には月と彼、そして赤いドレスを纏った女性が映っている。そして、彼女には足が無い。まるで幽霊。私は凍て付くような恐怖に顔を歪ませて叫んだ。
「きゃあ、幽霊よ。」
そして私はあまりの恐怖にしぼんで消えてしまった。
それを見て彼は笑うのを止め、呟いた。
「いやね、可笑しいじゃありませんか? 幽霊(じぶん)を怖がる幽霊なんて――」
こうして男は仕事を終え、暗い夜道に音も無く消えていった。


#6

無題1.txt*


 「無題1.txt*」が変更されています。文章を保存しますか?
 はい いいえ← キャンセル

 あ。
 気付いた時には、遅かった。ヤバイ。けっこうな量の文章を書いて、一息吐こうと保存しようと思い、エディタのファイルの保存を選択した、と思ったら。手元が狂ってファイルの「閉じる」を選択し、そのまま「いいえ」をクリックしてしまった。気付いた時にはもう手遅れ、今までの血と汗と涙の結晶が、全て、消えてしまっている。
 主人の心理等素知らぬ風に、無常にも壁紙と無造作に並べられたアイコンを映し出す画面を、手近にあったテレビのリモコンで壊したくなる衝動にかられたが、パソコン自体が高価な代物な故、思い止まった。

「ご飯だから、降りて来なさい」

 部屋の外から、覇気の無い母親の声が聞こえた。
 もう、何日もこの部屋から出た事が無かった。母親は一応、私に声をかけた後で、何も言わない父と、一緒に静かな食事をするのだろう。私のせいで、母と父は冷戦状態らしい。
 もう一人、家族が居たような気がするけれど、今はどうなっているか知る由も無かった。こちらとしては、別に知らなくても支障は無いけれど。
 私はもう一度、画面を見る。そうしてまたエディタを立ち上げた。

「さて、次はどんな家族を作ろうか」

 私はエディタに向かって、理想の自分と、理想の家族の様を書き上げていく。それが私の唯一の楽しみであった。
 今の物語の主人公とその家族の設定は。
 明るくてクラスで人気のある主人公。そんな主人公を頼りにしている弟。優しい父親。料理が上手い母親。周囲からも羨むくらいの、理想の家族。
 それを保存した所で、私の願いが叶う事は無いけれど。今日で終わりにしようと思う。これ以上、続けても無意味だろうから。


 「無題1.txt*」が変更されています。文章を保存しますか?
 はい← いいえ キャンセル


 ある家の、部屋の中で女の死体が発見される。女は自殺と断定され、死後三日は経過していた。第一発見者は母親ではなく、彼女の姉であった。
 女の部屋にあるパソコンの電源は入れっぱなしで、画面には彼女の遺書とも取れる文章が発見されたが。
 捜査員のミスで、文章は全て消されてしまった。
 捜査員は、画面に映し出されたダイアログを見て、保存先を「はい」にカーソルを持っていこうとした所、手元が狂い誤って「いいえ」を選択してしまったと話している。


#7

頼むから僕からの電話には出ないでくれ

 酔っ払ってからの電話癖がついたのは一体いつ頃からなのだろう。自分では全く覚えていない。発信履歴を二日酔いの朝眠たい目を擦って見ても何もなし。着信履歴はもう何日も前の覚えのあるものだ。七年ほど昔に会社勤めをしていた時には履歴サービス(いついつに何処に電話を何分かけましたよ)を仕事上利用していたのだが今はそんなサービスは受けていない。通話時間がどれくらいで幾らかかりましたという請求書がポストに入っているだけだ。誰に掛けたなんてことは分からないし(幾らでも調べようはあるのだが)発信履歴が見事に一つもないのはいかがなものか。自分で削除しているのか。泥酔し混濁した意識の中でさえも翌朝にそれを見て後悔するのを危惧してのことかそもそも自分に電話癖があるのかどうかさえ分からない。自分は通帳を持っていない。通帳記入してもたもたしているおばさんの姿に生理的に嫌悪感を感じるのだ。だから自分はカードのみで済ませる。半年に一度ほど明細が送られてくるがそんなものは見ずに捨てる。それだから実際の所勝手に引き落とされる電話料金には興味はないしそれで生活が破綻するほど逼迫した生活を送っている訳でもないので独り身の自分としてはさほど気にもならない。
 今朝出社すると受付の女が小さなメモを渡してくる。エレベーターの中でそれを見る。
〈昨晩はとても素敵でした。電話だけであんなに感じるなんて触れられたら私どうなっちゃうんだろう。今度飲みに誘って下さい〉はてな。携帯のアドレスをチェックする。さて彼女の名前は何だったっけな。思い出せない。無数の名前が携帯を塗りつぶしている。
 先日は昔別れた女が突然自宅に訪れてきた。
〈あなたがあんまり私のお尻の型を褒めてくれるから今日はとっておきのTバック履いてきたのよ〉すぐさま女を追い出す。この気違いが!と女は叫んで去っていった。
 昼休みの食事中に着信音が鳴る。電話にでる。
〈昨晩の一件ですが本当に今夜実行に移しても良いのですね。お宅が後で知らん振りでもされるとこちらでも何らかの対応は取らさせていただかなくてはなりませんのでね。一応確認のため。〉全く相手が何を言っているのか皆目見当がつかない。覚えても無い電話の記憶。そんなことを考えているうちに蕎麦がのびてしまう。ここの蕎麦は絶品なのだ。面倒くさくなり電話を切る。すぐに着信音が店内に鳴り響いたが自分はそれを無視して蕎麦を啜り続けた。


#8

閉じる

「ハイヒールを履いて、コツコツ音をたてて歩く女にびくついてんじゃねえぞ。確かにあれは音を出して自分がここに居ることをおまえにわからせようとしていやがる、気の強い女だってことは間違いない。だがな、音を出したら死ぬよりももっと恐ろしいことが起こるってことを知らないんだよ。それは何か教えてやろうか? 呪いの繰り返しだよ。連中は音を出したやつを憎み、音を出したやつは連中を憎む。その繰り返しだ。この世界では同じことが繰り返されているんだよ。いいか、いまだに戦争や紛争が絶えないのはそのせいなんだよ。大昔から続いてる人間に染み付いちまった呪いの繰り返し、抜け出すことは絶対にできない。人間から耳がなくならない限りな」天気のいい昼下がりの公園の隅で、市から委託された調査員の僕はこのホームレスのおじさんの話を聞いていた。内容は十中八九妄想に過ぎないだろうと思った。つらい生活を続けているうちに頭がいかれてしまったのだと。僕は仕事上の質問を繰り返した。「誰かに取られてしまったんじゃないんですか?」おじさんは火の付いていない吸い終わった煙草を口からはずして目を見開いて言う。「何度も言わせるんじゃねえよ。これは自分でやったんだ。今じゃ、まったく連中の音は聞こえなくなった。これはこの上なくすばらしいことなんだぞ」僕はそんなことはないだろうと思いながらも深くかぶられた厚いニット帽の中を確かめてみることにした。「じゃあ、ちょっと見せてもらえます?」「ええで」おじさんはニット帽を取った。そこにはちゃんと一対の耳が付いていた。「ほら、ちゃんとあるじゃない。だいたい、僕の声だって聞こえてるじゃないですか」「バカか、よく見ろ」「え?」僕はそのおじさんの耳を注意深く見てみた。・・・穴がない。石のように硬く閉じている。僕は言葉が出なかった。それを見ておじさんが言う。「あんたの声は聞こえる。だけど、連中の音は聞こえないんだよ」「連中の音って何です?」「卑しく、暗い、悪の音だ。この世界にはそんなものがわんさと溢れかえっている。あんたも嫌になったら耳を閉じるといい。すばらしい幸福の世界へ行ける」僕は黙ったままにっこりしたおじさんの顔を見た。しわがあり、髪は乱れ、無精ひげがあり、肌は汚れ、身なりもきれいとは言えない。しかし、おじさんが言ったように、確かにおじさんはすばらしい幸福の世界に居るように見えた。


#9

森に消える

急に腹が立ってきた。私は叫び声を上げて走り出した。周囲一帯は森だった。夜の森は圧倒的に真っ暗だ。自分の身体を外部と隔てる輪郭線も壊滅的に不明瞭で、緊密に張り詰めた虚空が全的だった。消え入りそうな私は何も見えないでも無理やりにひた走った。走るとそこが道になった。しかしどれだけ走っても、深い闇と幾重にも重なった枝葉の影が不明瞭なアラベスクを成している黒い森の黒い背景がゾートロープのようにぐるぐるとループするだけで、私の焦燥は増すばかりだった。しばらく走ってから気づいた。行頭を字下げするのを忘れた。これではうるさ型の反感を買ってしまう。しかし私はもう走り出している。行頭に戻ることはできない。私は構わずに黒い森の中をどこまでも走った。黒い森はテクストでできていた。そのことは承知していた。私もまたテクストの一部である。だからどこまで行っても森からは出られない。脱出の経路は内部へとより深く分け入るしかない。中心部が結尾部だ。それが物語構造だ。この物語のあらすじは、ある朝<私>が目覚めると家が深い森に包まれていた、というそんな話だ。そして「森」は、直接的には表象不可能なひどく曖昧でありながらなお執拗に連続している私の中のある感覚の隠喩だ。それをとりあえず仮にCと名づけよう。私は密やかにCを書き表したい。だから<私>は狂的に走るのである。けれども私は迂闊だった。作者の意図をそのまま説明してしまった。幼稚だ。恥ずかしい。。。とメタな方向に走っている裡に私はまたミスを犯した。私が<私>として表記するところの私を見失っていた。<私>であるところのそれは、記述よりも速くテクストの彼方へ走り去っていったに違いない。あとには書き出す<私>を見失った私だけが取り残されていた。私は呆然とした。いや、<私>はもういないのだから私は既に私ではない。あるのは森だけだ。だから私は森だ。すると今度は森が走り出した。杉も楓も走り出した。銀杏も走り出した。ぺんぺん草も走り出した。やがてそれらはいくつかの曖昧模糊とした不定形の塊になって、鞠のようにぼよんぼよんと跳ね出し、それぞれがばらばらに隠喩の意味作用からどこまでも離れていった。森も<森>のシニフィアンも消えてしまい、あとに残ったのは夜のしじまだけとなった。私はしじまだ。。。。。(あ、また急に腹が立ってきた……(ああ行頭に戻りたい……(なんだかCって感じだ……


#10

俺と

 憂鬱な時お前はいつでも、ミルククラウンが見たいと言って、グラスを掲げて机に牛乳を零したけれど、俺達の望む瞬間なんてものは、そう簡単に人前に姿を見せはしないという事を、ただ徒に悟るだけだった。逆に言えば俺達の人生は、目では見えない瞬間の、それこそエベレスト級の積み重ねで出来てるんだって、そんな言葉を、胸の中で玩ぶ。

 夜のお前はいつでも、月を探して、曇った空には涼しい顔で「おやすみ」と言うけれど、晴れた空にも月のでない夜はあって、お前は月を探し回る。「月がいない」と辛そうに言う。そんな時俺は、世界は何もお前を中心に回っている訳じゃないんだからと言ってやりたくなる。だけどお前は、「月、大丈夫かな?」なんて、病気の友達でも心配するみたいに言うから、月よりもお前の事の方が心配な俺は、お前に比べたら永遠ともいえる時間と美しさをもっている月が妬ましくて、「死んだのかもな」なんて答える。そうするとお前は不安を露にしてじっと俯くので、そんなお前を見て、俺の輝くことのできるお前の夜はあるのかと、そんな恥ずかしい問いを灰色の自分の中で響かせる。

 朝のお前はいつでも俺に、雨が降っていないかと訊ねる。俺が降ってないと答えると、お前は詰らなさそうにして、それでもベランダに出て確かめる。霧雨も降っていないと、確認したお前は、「降ってないよ」と俺に言う。俺の身からしたら雨など降らないほうがいいのだとも思うけれど、もしも雨の日ならお前はいつでも幸せそうに雨音を聞いて、寝椅子の上でたゆたうので、俺もすこし残念そうにする。

 「あんた」と俺を呼ばわるときお前はいつでも、頬を紅くして、黒い目を輝かせるので、返って俺は嬉しくなったりして、顔は殊勝に繕いながら腹の中でニヤニヤする。お前の心臓を燃えさせるのが怒りであっても、その時こそお前は生を鮮やかに咲かせるから。だから俺が何もかもキスで解決しようとするのは、それが強引な手段だからじゃなくて、瞬間お前が美しすぎるからだ。

 寒いときお前はいつでも、ストーヴを点けないで欲しいという。暖房を付ければ確実に温い幸せがやってくるのだと、知っていてそう言う。「嫌悪と関係のない冷たさって、優しいじゃない」と言う。俺はお前が、暖かくして、それで幸福でいてくれればと思うが、冷気に当てられて流れ出すお前の涙の美しさに、魅入ったりもする。お互いの息の白さにはしゃいだりもする、俺達。


#11

茜差す

 初詣の柴又帝釈天の賑わいに浮かれ、私達は露店をひやかしながら江戸川の土手までやってきた。私は甘酒で一息つき、夫はイカのゲソをほおばる。
  川を見下ろすと矢切の渡しだ。趣のある船着場にこれまた昔の写真で出てきたような小船が一艘着けてある。物は試しに乗ってみようと小走りで向かった。しかし乗り込んですぐに私達は浮かれた己を呪った。
 寒い。
 川を吹き抜けてきた北風に、容赦なくなぶられる。甘酒で温まった体など一瞬で冷め切り、夫は風にあおられたゲソで顔中タレだらけだ。陽気のいい頃ならこの小船がモーターで進むことにがっかりしたろうが、今はこれが手漕ぎでなくてよかったと心底思った。震えながら無言で船を降り、そして再び後悔する。他の乗客たちはいそいそと土手に停めてある自家用車に乗り込み、あっという間に去っていった。私達は寒風吹きすさぶ土手に取り残された。至近の駅までは歩いておそらく40分はかかるだろう。
「あ!バス停があったような気がする!」
夫は何の根拠も無い自信に満ちた足取りで、おそらくあると思われるバス停に向かって突然歩き出した。
「考え無しに、あんな船乗るからだよ」という私の悪態は、夫の耳に届く間もなく後方に吹き飛ぶ。
 10分も歩いた頃、ようやく土手下の田んぼの真ん中に、力なくたたずむバス停を発見した。バス停は強風にあおられてがたがたいう。
「本当にバス来るの?」
「来るよ。だってバス停じゃん。時刻表もあるし。後20分で来るよ」
「20分!」
30分歩くか20分待つか。
「20分待つ。これ以上歩いたら鼻が風で取れてしまう」
夫は真顔で言った。
2分で私は音をあげる。
「こんな所で立っていたら凍死する!」
すると夫はいきなりその場で跳ね始めた。
「風に向かって歩いたら、その速度分、風に抵抗して寒さが増す。しかしこういう上下運動なら風に対して無抵抗で温まる」
 常日頃、夫の言うことには懐疑的な私ではあるが、まさに骨の髄まで冷えそうな関東の空っ風に耐え切れず、私も跳ねる。
 そうして私達は畦道の真ん中でぴょこぴょこ跳ね続ける。真冬の午後の日差しはすでに茜がかり、水の張っていない田んぼの土に、長い影がぴょこぴょこ伸びる。ついでにバス停の影もがたがた揺れる。
 やがて黄色い日差しをいっぱいに浴びた、バスが彼方からやってくる。
 運転手は、あれ、お客がいるよとでも言うような、あきれた顔をして私達を見た。


#12

やる気・元気・渡邉美樹

 中年の男が街中で楽器を演奏するのを見るのは随分久し振りだった。右膝に継ぎのある濃紺のスラックス、ぶかぶかで格子柄のジャケット、目深にかぶった中日ドラゴンズの帽子、と三拍子揃ったルンペンルックの男が、いい加減に爪弾いているのかそういう曲なのか、アコーディオンでやるにしてはやけに音の少ない曲を奏でていた。
 今風のストリートミュージシャンとは違い、足元には缶詰の空き缶とアコーディオンのケースらしきものがあるだけで、CDやライブのビラはおろか名前を示すものすらなかった。家財道具と呼べそうなものも持っていなかったので、外見から受ける印象とは異なり、屋根がある方が落ち着く性分なのかもしれなかった。
「おい、まだ電車に乗っているのか。先に始めているから、着いたら電話を――」
 既に待ち合わせに遅れていたせいで時間にゆとりがある気になっていた私は、留守電のメッセージが吹き込まれるのを聴きながら少し離れて壁にもたれかかり、しばらく男の様子を観察することにした。軽い気持ちで返事をして、いざとなると近況を語るのが酷く億劫に感じられる。この十年、そんなことばかりを繰り返している。
 駅に出入りするエスカレーターの脇という好位置にも関わらず男の演奏に真摯な態度で耳を傾けている者はいなかったが、私を含めて待ち合わせかそのフリをしている内の数人は、時間潰しの見せ物として視線を送っているようだった。体を揺すらないと音が出ないイメージのある楽器だったせいか、俯いて直立不動で演奏する様子からは商売っ気の無さばかりが伝わってきた。
 そのせいかどうかはわからないが、手を繋いだ高校生の男女が男の前に立ち止まった。無造作かつ不自然というややこしい逆立ち方をした髪の持ち主たる男の方は一刻も早くその場を立ち去りたいようだったが、正弦波のように曲がりくねった髪の持ち主たる女の方はさすがに音楽の素養があるのか足でリズムを取りながら演奏に聞き入っていた。
「おい、まだ電車に乗っているのか。西口を出ると見える和民に――」
 携帯電話を耳にあてたまま、若者を前に少し困っているようにも見えた男に歩み寄って缶に千円札を突っ込んだ。
「とりあえずビールでも飲んでくれ」
 そのままエスカレーターに乗ると、ちょうど真上から三人を見ることができた。不意にこちらを見上げた女から目を逸らすと、(東口)と書かれた看板が目前に迫っていた。


#13

スケッチブックと君の瞳

「君は何処までいくの?」
 総武線快速には、向かい合って座る4人席がある。少年はジャイアンツの野球帽を浅めにかぶり、窓際に座っている僕の正面を陣どっていた。少年の目は遠くの景色を追っているらしく、小刻みには動いていない。日に焼けた精悍な横顔は、少しばかり大人っぽく見える。
「鎌倉」
 目は流れる景色を追ったまま、ぶっきらぼうに返答が返ってくる。少しだけ腹立たしく思えたが、どこか憎めない雰囲気をもった少年だった。
「おじさんは?」
 この少年から見れば、29になりたての僕も、おじさんと言う部類にカウントされてしまうのだろうか。
「君とおんなじ。鎌倉だよ」
「ふーん」
 気のないそぶりで答える少年と初めて目が合った。にこりともしないで、ひざの上に置いたリュックサックの中に手を突っ込み、ごそごそと何かを探しはじめた。取り出したのは、スケッチブックとクレヨンだった。
「おじさん、動かないで。おじさんの顔描いてやるよ。暇だしな」
 ずいぶん生意気なガキだと思ったが、僕を静止させる十分な説得力を持っていた。とにかく瞳が大きい。くりくりっとしていて、いつまでも眺めていたくなるような瞳だった。少年は僕の顔をチラッと見ると、スケッチブックに目を落とし、クレヨンをこすりつける。その動作を一定のリズムで繰り返していた。僕も暇だったので時間つぶしには丁度よかった。
「次は鎌倉駅」のアナウンスが、車内に響きわたる。除々に電車の速度は遅くなっていく。
「もう着いちゃうぞ」
「あっ、動かないでって言ったでしょ」
 本当に生意気なガキだと思い、モデルを放棄しようと立ちかけたとき、スケッチブックから1枚切り離し、僕に差し出した。
「やるよ」
 圧巻だった。とにかく常識をこえているうまさだった。紙の右下には、「kenji」と小さく描かれていた。
 電車は停止し、少年は「じゃーね」と言うと、初めてにこりと微笑み、リュックを背負い足速にホームに降りて駆けていってしまった。
 僕は少年の背中に「ありがとう!大事にするから」と言い残し、個展会場へと急いだ。今回で7度目の個展開催だった。
 会場に着き、自分の作品を見て廻っていると、そこには「kenji」が立ちつくしていた。僕が描いた作品の中で、自らが一番気にいっている油絵をくい入るように見上げていた。
 僕は、並んでいる作品の1番はじに「kenji」が描いてくれたスケッチをそっと張り付けた。


#14

怪盗少女は夢を見る

 ものを盗るのが好きだった。
 何のことはない。自然なことだ。人殺しが好きだとか暴力が好きだとかよりはずっとまし。
 建設的だし経済的。唯一の欠点は私のそもそもの人生の上に、ほんの少しばかり余計な危険を付け加えないといけないという、それだけ。

「それだけのこと」

 言いながら私は今日もものを盗る。
 スキンローション。高い品。友人たちが化粧に凝るようになってきて、元々肌質の良くない私が付いていこうとすれば、どこかで経済的なアドバンテージを獲得しないといけない。
 だから盗る。それだけ。

「それだけのこと」

 家に帰ると蛍二が待っていた。

「ミキ」
「なぁに?」
「俺は前から思っていた。ものを盗るのはいけないよ」
「そうね。はい、あなたが欲しがってたジャケット」
「ありがとう。でもものを盗るのはいけないと思う」

 蛍二の善意はポーズだ。私の盗品を享受しつつ自分の正義感を満たせるようなラインを提供してやれば彼は黙る。私も彼を見透かしていることで余裕を得ることができる。余裕。余裕は大事だ。余裕はあらゆる行動において成否を分かつ要因のひとつ。盗みとか。やましいこと全般は特に。

「もうすぐ、雪解けが来るね」
「話を逸らしちゃいけないよ」

 窓の外、向かいのお屋敷を見やる。
 季節はめまぐるしく変わる。
 昨日の棚と今日の棚は違う。朝方の雨を黄昏はおぼえていないだろう。昨日にこちらの花と思えば、明日はあちらの花。世界はうつろえる、気まぐれの庭。
 けれどそんな気まぐれの庭に、今日はとりあえず水仙の花咲いた。

「明日はあれを盗るわ」

 向かいの花壇を眺めつつ、私はそう呟いた。


「それがいけないんだ。ミキ、君は中学を卒業しても同じ事をやるのか」
「卒業式ね。そうね、もうすぐね」
「ああ、どうするつもりだい」
「式の日には学校を休んで、ここで卒業式をやるわ」

 私は自分の部屋を見回す。
 家電の群れ。ミニボトルの香水コレクション。流行の過ぎた洋服。埃を被った文芸書と聴けもしないレコード。
 すべて盗んだもの。私がこの世界となんの契約もなしに、盗み取ったもの。
 式の日にはフラワーシャワーを降らせる。バスキューブを溶かしたお湯で床を水浸しにして、盗み取ったたくさんの硝子をかたっぱしから割ってやる。
 そうして、蛍二の腕の中で私は笑う。きっと笑えるだろう。蛍二はきっといつまでも、私の共犯者であることをやめない。
 いつまでも。
 いつまでも。


#15

おしりこ

 ものを食う女の後ろ姿は恐ろしい。
 高校の同窓の男が死んで、風邪の身体を通夜の場まで運んだのはいいが、帰りの乗換えが億劫になった、今晩は泊めてください、とはつ美から連絡があったのは1時間前のことだ。今は座卓の上に新聞と駅で買ったという折詰の鮨を広げている。
 読むことと食うことの半々なのが、かえって無心さを際立たせて、こちらからは見えぬ章魚だの鮪だのの好き嫌いが頭の傾きに現れるのも知らぬ気である。黒々とした髪が二股に分かれて肩の前に流れ、その間に切り抜かれたようなうなじが青く光っている。軽く屈んだ姿勢の、横座りの尻が大きく張り出して、こんなに腰周りの豊かな女だったかと今更に見返した。尻が話し出す。
 「通夜だの葬式だのは押しの強いところが困るのね。出物腫れ物ところ嫌わずだわ」
 見当を外したことを言うと思いながら、それではこの女にとっては、死も吹き出るものとしてあるのか、それこそ命そのものではないか、と疎むような誘われるような、荒い気を起こしかけて、男は壁の時計を見遣った。
 
 「言葉遊びをしましょう」
 肘枕の顔を戻すと、いつの間にか鮨を食い終わって、片付いた顔をこちらに向けている。この女のこういう調子には慣れていたので、どんな遊びだ、とまずは尋常に受けた。床をすべらせてよこした広告の裏には、鉛筆で小さく「おし○こ」と書いてある。
 「その○に字を、できるだけたくさん入れて」

おしるこ、おしんこ、おしっこ、と続けると、ちらと笑みが浮かんだ。それから、と促す女に、一語でなくていいかと念を押して、惜しむ子、惜しい子、惜しき子、と一息に繋げる。「それから」女の瞳はいよいよ澄む。息が走り、お白子、と言った先で極まって、
「おしりこ」
「おしりこ?」鳥のように首を傾げた。
「ほら、尻子玉を取られるとか言うだろう」 
苦し紛れの出まかせにそれこそ尻が抜けた気がして押し黙ると、名乗りの声の確かさで、寝ましょう、と言った。

 枕元の文庫に手を伸ばした女を置いて浴室に行き、立ったまま熱い湯を使う。布団の中で耳にした言葉を反芻する。あなたと、別れてもいい気がしてきました。
 不意に戸を押し開けて女が入ってきた。ついぞないことに驚いていると、背中に回り込み、腰から下を押し付けてくる。冷たい肌だ。何をなさっているかあててごらん、おしっこよ、と唄うように呟く。灯るような温かさが、腿から脹ら脛にかけて、ぼうと流れた。


#16

モンスターハウス

 昼飯食うとこ探してたらお好み焼き屋があったので、どれ入ってやれ、と飛び込んでカウンターに座ったら店の親爺が三つ編みしてて、注文した豚焼きを渡される時に「男の俺が女言葉使うなんておかしいと思うかしら?」って話しかけてきて、ぼくは「んん?」ってなった。頭ン中、記憶のどこかに引っかかるものがあって、なんやろと思いながらソースの上で踊るカツオブシ睨んでたら、わかった。ドラクエ3だ。「女のあたしが海賊のかしらなんておかしいと思うかい?」(うろ覚え)だ。ぼくが「いえ、別に」と返事すると、親爺はニコリともせず奥に引っ込んだ。なんなんだ。お前の言葉づかいなんか知らねえよ。そりゃ海賊のかしらが女だったら萌えるけど、お好み焼き屋の親爺が女言葉使ってもきもいだけ。ん? あれ、よく考えたらあの親爺とこの女海賊、対応してるようでしてねえな。「女市長って違和感ありますか?」みたいなもんか? いやこれは海賊の方か。あの親爺に当てはまる例が思いつかん。あ、じゃあ、おかしいじゃねえか。「いえ、別に」なんて言っちゃったよ。嘘ついちった。ヒェ〜。その前に三つ編みがおかしいよ。ま、どうでもいいや。この後も三件ほど営業だし、さっさと食って行かんとな。いただきま〜す。
 半分ぐらい食ったら親爺が帰ってきた。親爺再び。髪型が変わってるというギャグかなーと思ったけど同じ三つ編みだったので、ちょっとガッカリして、なんでガッカリすんねんと自分で突っ込んで、無視して食い続け……ようとしたら親爺が「サービスです」ってぼくに小さい皿を渡してきた。言われるまま受け取ると、皿にはスライスチーズが一枚乗っていた。またんん?ってなって「何ですかこれ?」と聞き返すと「サービスです」ってそりゃさっき聞いたしわかるけど、チーズ? お好み焼きにチーズ? え〜。まあそりゃマヨネーズかける人も居るから、チーズもありなのかもしれんけどさ、ん、いや、チーズ結構うまそうに思えてきた。ソース塗ってチーズ乗せて青海苔かけると、チーズの黄色に青海苔の深緑が映えてうまそう! ピザを連想するとダメだけど。あっ、でももう半分しか残ってないよ。しかも既に青海苔とカツオかけちゃってるし、その上からチーズはなんか嫌だな。持ってくんの遅えよ親爺。とりあえず「どうも」とお礼を言うと、また親爺は無言の無表情で奥に消えていった。なんなんだ一体。あ、もう一時。


#17

例えば千字で永遠を

 もうどれくらいの間、落ち続けているのだろうか。

 もっと速く飛びたかった。景色の流れる様を見ることが気持ち良かった。街路樹が数えられなくなるくらい流れた。街灯が点滅して見えるかのように流れた。白い雲が勢いに形を歪めて流れた。そして、星々が光の尾を引いて流れた。速く、もっと速く。俺は速さを求めて、より高度なことに挑み続けた。
 スウィング・バイ。星の重力で加速するそれは、遠心力で勢いをつけるハンマー投げに比せば良いだろうか。ハンマー投げは、間違ったところで手を放せば間違った方向に飛んでいってしまう。スウィング・バイにも同じことが言えるが、これにはもうひとつの危険がある。加速を求めて星に接近しすぎると、星の重力に捕らわれて衝突してしまうのである。究極の重力で、究極の加速を。今回俺が挑んだのは、ブラック・ホールによるスウィング・バイだった。

 重力を感じてこれまでにない加速が始まったとき、俺の心はこれまでにないくらいに沸き立ち浮き立った。だが数瞬後、それは驚愕に変わった。姿勢が僅かにずれ、ギリギリで重力に捕らわれないはずだった軌道が崩れて、ブラック・ホールに向いてしまったのである。加速に浮かれていた数瞬で、すでに離脱は不可能になっていた。諦める以外、為す術はなかった。
 これまでにない加速、これまでにない速さ。せめてそれを感じて最期にしよう。旋回しているのだろうか、一晩中カメラを露光させて星空を撮影した写真のような、そんな光が見えた。しかしそれもほんの少しの間だけで、ついには何も見えなくなった。光さえ脱出できないブラック・ホール。そこは一点の凝集された特異点であって、同時に無限の空間である。前方には、逆方向に向かうもののない虚無が広がっているだけである。流れるもののないそこで、速さを感じることはできない。
 俺は落ちる。落ち続ける。高速で移動する系は、それを高速とする系から見ると、時間が遅く流れると言う。息子に冗談で、お前より若くなって帰ってくる、と言ったことがあったが、もしかするともう息子の子供の孫の曾孫が俺より年上になっているかもしれない。タイムカプセル、くすっと笑っても、確かめる方法はない。光速に届いたとき、俺は永遠を生きるのか、ただ落ち続けて生きるのか。

 腹の虫が鳴った。結局俺はただ俺の時間を生きて、死ぬことしかできないのだ。どこまでも、ただブラック・ホールを落ち続けて。


#18

阪急電車に乗って

「黒きこと罪の如く熱きこと地獄の如く甘きこと恋の如し。そんなトルコ珈琲、貴女に捧げたい!」

宴会の人込みを掻き分けてきた一人の男は吉田さんの隣に座りこむなり叫んだ。(うざい。大学の飲み会なんて嫌)と思った吉田さんである。が、言ってる内容が気にいった。かなり酔いが回っているようではあるけれど酔っぱらって暗誦する男なんて久しぶりだ。吉田さんは古臭い男が好きであった。

「それなによ」
「呪文だ、珈琲ブルースだ」
「ブルース?」
「まあ飲んでみなよ」

吉田さんは男の差し出した珈琲を飲んだ。インスタントそのままだ。

「ああ罪な味だわ。ぬるくて苦いけど」
「そうか。それも人生だよ」
「人生よね」
「人生と、君に乾杯」
「乾杯」
「名前、なんだっけ。俺は木村だ」
「吉田」
「じゃあ吉田さんの美しい踵に!」
「カカト?」
「ああ。君の踵はグッとくる」

木村はその場所で眠った。(名前は知らないのにカカトは見てるんだ)木村を放って吉田さんは帰った。乗った電車に偶然、友人の古田智子を見つけた。早速吉田さんは義理で出た宴会にも面白いことがある、哲学的呪文を唱えカカトが好きな男がいる、と話した。

「谷崎の小説みたいじゃない。面白いわね」と古田さんはクックと笑った。二人は本を通じて知り合った書友である。古田さんはまもなく獅子文六「青春金色譜」を、吉田さんは広津和郎「動物小品集」を取り出して読み始めたがこれも互いに交換した本だ。

「広津和郎、ぞくぞくするよねー。馬は恩も仇もずっと覚えているから子馬のときから丹念に愛撫してやらなければいけない、とかさ」

二人は馴染みのブックバーに着きラム入り紅茶を飲みながら話した。吉田さんは広津和郎の興奮を古田さんに語らずにいられず、古田さんは同感、同感と頷いている。顔がほんのりと赤くなったころ、解散とした。



木村が叫んだ出会いから数年。吉田さんは昼間の阪急電車に揺られながら振り返っていた。大抵友達になった男とは寝たものだが木村とは友人のままで、いつしか連絡を取らなくなった。(あの人私より足が好きなんやもんな)

神崎川で降りると携帯電話が鳴った。

「玲ちゃん、すまんなー、わしや。あんなーすまんけど、スーパーでチーズとな、パパなんとかこうてきてくれへん?」

電話はすぐに切れて、吉田さんはスーパーでパプリカを買った。この男と結婚することになるんやろうなあ、と思いながら(大阪にずっとおるんもええか)とにっこりした。


#19

スキッペンラン

彼女は走っている。何処かに向かって走っている。同じスピードで。息を切らせて。おれが最後に走ったのはいつだったか。それよりもおれは走れるのだろうか。彼女みたく。彼女はまだ走っている。スピードは変わらない。川沿いの橋の下を潜り、その先へ走る。走ること自体が目的なのかそうでないのか。彼女にしてみれば走ることはつまり息をすることでそれはおれにとっては理解しがたい話ではあるのだけれども彼女の走り方をみているとおれも走ってみたい、そう思うことがある。思うことがある、というよりはいままさにおれは走りたい。思う存分走りたいと思っている。息を切らし、その息切れの中の証を掴みたいと思っている。ここで座っている場所から見える景色とそこを走っている場所から見える景色には圧倒的な差があるはずだ。その景色の中走る。走ると景色は変わる。変わる景色、変わる身体、変わる時間。走っているときの時間はゆっくり進むはずで、早く走れば走るほどさらに時間はゆっくり進むはずで、おれはそのスピードで時間の中走る。夕暮れを走る。走ることは希望につながる。希望とはつまりまだ来ていない時間。その先。未来。おれは未来に向け走る。走っていればいつか未来になるだろうか。ふと彼女を見る。彼女はもういない。走り去ってしまった。追わなくちゃ。彼女を追わなくちゃ。おれは脚を交互にできるだけ速く動かす。できるだけ速く息をして、できるだけ高く飛び、前に進む。進む。スピードを上げる。さらに上げる。おれの心臓が悲鳴をあげる。脳が白くなり、目が熱くなる。汗は出ない。眉間の先がぼうっとする。でもおれは脚を動かすのをやめない。彼女においつくまではやめない。やめてしまったらそこでなにかが確実に終わるからだ。その終わったなにかはおれにはもうとりもどすことはできないからだ。幼いころ、スキップをするのが上手だった。スキップでだけは誰にも負けなかった。スキップ王。スキップの王。おれは自然と脚の動きを変えていた。走りからスキップへ。スピードは変わらない。心臓が踊る。景色もクリアに変わる。この調子だ。おれは彼女が走るスピードと同じスピードでスキップしている。疲れは無い。このまま彼女を追い続けられる。でも彼女に追いつくことは無い。


#20

きのうのけむり

 浅い海底のような蒼闇の中で電話が鳴る。男は受話器を上げる。
「あ、あの…」
 黒い受話器には幾つかの穴が開いていて、そこから女の声が漏れ聞こえる。
「やあ」
「やっと届いたのね」
 安堵の吐息に、甘えるような幼い響きが混じる。声は少し遠い。
「初めて?」
「え?」
 男の部屋には古い電話機のほか何もない。そういう仕事だ。窓には街灯ひとつ見えない石炭の闇が嵌め込まれて、部屋はどこまでも閉じている。
「ここにかけるのは、初めて?」
「…ええ」
「最初にルールを説明するよ」
「ルール?」
「そう。ルールは一つ。君は昨日の話をする。僕はそれを聞く」
「それだけ?」
「整理されゆく記憶回路に、安息は生まれる」
「なぜ?」
 男は穴の深さを女の声音で確かめる。自分の耳の傍に開いている穴の深さを。
「ねえ。どうやって番号を知ったかわからないけど、議論で安らげるタフな人なら他を…」
「ずっと呼んでたのよ。初めてキスしてくれた日から」
 受話器の奥の闇に男は記憶を辿る。耳に届く息遣いは記憶でなく身体に吹きかけて、埋み火をかすかに熾した。
「君にキスなんかしてないし、会ったこともない」
 昨日とは終わりという意味だ。終わりは終わりでなければならない。今日を揺さぶってはいけない。彼に通じる回線は、終わりを繰り返し確かめるための簡潔な装置だ。
「頼むよ。こんな風に話していることを知られたら、後で僕が叱られるんだ」
 長い沈黙。彼女の息が少しずつ遠くなる。二人を包んだ石炭闇に、熾火の朱がまだ消えない。
「昨日の話ね」
「昨日の話だ」
「きのうのけむり」
「きのうのけむり?」
「河口近くの工場の煙突が昨日出してた煙よ。今日という日になると誰もが讃えてやまないの。その過ぎ去った美しさを。工場はそれを缶詰にして売ってるのよ」
「それは良いね」
「本当にそう思う?」
「本当さ」
「缶詰はどうなると思う?」
「さあ」
「私が全部壊すのよ」
「困ったな」
「話はおしまい。今から会えない?」
「何度も言うけどルール違反なんだ。僕は君の話を聞くためにここにいる。昨日の話をね。誰もがそのために僕に電話する。その気がないならもう切るよ」
「バカね。誰から電話が来るって? 今まで一本でもかかって来たの?」
 男は電話を待つ仕事について考える。しかし思い出せない。誰と話しただろう。一体誰の電話を待っていたんだ? 受話器の奥で声がゆらめく。
「ねえ。私、あなたのすぐ近くにいるのよ。ずっと前から」


#21

休暇のはじまり

 目を覚ますと炬燵の中だった。テレビがついていて、女二人の楽しげな声が聞こえる。雀が鳴き交わしている。首を持ち上げると突っ張って痛かった。首の角度を気にしながらユニットバスへ行く。顔を洗い、便座に腰掛けて歯をみがく。小便も出す。
 インスタントコーヒーを淹れ、炬燵に帰って来た。テレビのチャンネルをNHKから順番に回してゆき、再びNHKに戻って来ると、ビデオを再生させる。半世紀前の映画が流れ始め、主人公が肩に担いでいたラジオが人に当たって路上に投げ出され、タイミングよくやって来た自動車に踏まれて粉々になって散った。ビデオを止め、テレビを消す。と、自動車のエンジンがかかり走り出す音を聞いた。
 カーテンを開ける。淡い光。窓を開き、冷たい外気が浸入し、青みがかった近所が視界に入る。電線が不細工に垂れ下がり、太陽は目の前の肉屋の二階に遮られてまだ見当たらない。コーヒーを飲み終える間に、テニスラケットを提げた女の子が二人、バックミラーを取り付けた自転車に乗ったおじいさんが一人、下の路地を通って行った。コーヒーのおかわりを淹れ、窓を閉める。
 明かりを点け、文庫本を栞を挿んだところから開き、読み始める。火星にいる男がヘリコプターに乗り、途中遭難者がいるというので行って着陸し、彼らに水を与える。男は遭難者の一人からお守りをもらった。栞を挿み直し、文庫本を置く。
 炬燵に入って仰向けに寝そべる。明かりが眩しくて、一度炬燵から出て消し、また同じ体勢に戻る。陽光の浸入する量が増えて来ている。炬燵から出て、窓を開ける。炬燵の中へ戻る。
 窓枠に雀が舞い降りた。続いてもう一羽、二羽。反響する雀の囀りと、篭もっている炬燵の唸り。冷たい外気と、汗ばむ体。リモコンを取ろうとすると、雀が去って行った。
 リモコンを置き、天井を見つめる。炬燵を消し、バイクの走ってゆく音を聴き、深く息を吸う。ゆっくりと吐いてゆく。
 立ち上がり、トースト二枚と、目玉焼き二つをつくる。皿を炬燵のテーブルに並べ、牛乳をコーヒーカップに注ぐ。テレビをつけ、炬燵をつけ、中に入る。目玉焼きをトーストにのせ、かぶりついた。予報が快晴だと告げる。
 食器を片づけて、着替えを済ませた。鞄に文庫本と眼鏡を入れ、地図が入っているのを確かめる。窓を閉め、テレビを消し、炬燵を消し、外へ出る。鍵をかけ、階段を降り、バス停へ向かう。擦れ違った大家に挨拶をする。


#22

漬物の話

 ブリの照焼き定食を、残さず、すっかり食べ終えた。
 箸を置くと、いきなりキンキン声が聞こえた。
「私だって好き好んでこんなドピンクに染まったわけじゃないのよ!」
 早口でまくしたてるその声は、どうやら小皿に乗った漬物の声らしい。
「体に悪いと思って食べないのは勝手だけどね、もとはと言えばちゃんと畑で育てられた大根なんだから! どうして海で勝手に大きくなった魚が天然モノとか呼ばれてちやほやされて、あたしみたいに大事に大事に育てられた漬物が見向きもされないわけ?!」
 僕は、漬物がかわいそうになって、そっとつぶやくように話してやった。
「金子みすヾの『お魚』っていう作品があってね。海の魚は大事に育てられたわけじゃないのに、獲られて人間に食べられるのは、かわいそうだ、っていうんだ。君は魚が羨ましいみたいだけど、みすヾにも似てるね。でも、僕はあの詩はどうかと思ってるんだ。大事に、って言うけど、いずれは人間が食うために育ててるんじゃないか。僕だったら、限られた場所で与えられた餌だけ食べて人間のために丸々太るより、海で必死に生きて鮫に食われるほうが、よっぽどいいけどなあ。君も畑じゃないところに種がこぼれて、そこで一生を終えたほうが幸せだったと思わないかい?」
 すると彼女はまたキリキリ声でまくしたてた。いや、彼女かどうかわからない。どうも、ピンク色なら女の子、と思ってしまう。問題だとは思っているけれど、なかなか治らない。
「魚のことなんか知らないわよ! だって大根はね、ちゃんと手塩にかけてこそ、初めておいしい大根になるのよ! ちゃんと耕してない土なんかにムリヤリ伸びてったりしたら、ねじくれてひんまがって、それだけで味まで変わってしまうのよ?! あたしに苦くて辛くておいしくない大根になれって言うの?!」
「そうじゃないよ。だいたい、最近の大根は辛味が薄くて物足りないっていう人だっているんだ。でも時代は味気ない大根を求めてるからなあ。そういえば、君は何大根だったんだい?」
「だったんだい、なんて過去形で言わないでよ! あたしは今でもちゃんと大根なんだから! あたしだって風呂吹き大根とか、おでんの大根とか、夢くらいあったのよ!!」
 そのとき、今度は本当に女性の声が聞こえた。
「お済みでしたら、お下げしてよろしいでしょうか?」
 僕は、ウェイトレスの顔と、漬物を見比べて、思わず言った。
「いえ、これからです」


#23

彼方の思い出

 彼は一人の女と対峙していた。酷い頭痛が彼を苛み、心臓は杭で貫かれたような激痛を発している。目は霞みかけていたが、まだ女の表情を見分けることくらいはできる。女は他人を見る無関心な目で彼を見つめている。大剣に縋るようにしてようやく立っている彼の姿を。
「俺を忘れたか?」
 彼は自嘲気味に尋ねた。女の視線には相変わらず温度がない。だが彼と女は全くの他人というわけでもない。
「忘れてなんていないわ」
 答えと裏腹に、女はやはり温度のない眼差しを彼に向けている。彼女は昔からこうだっただろうかと、彼はしばし考えた。そういえばそうだったかもしれない。
「わたしに声をかけてくれたのはあなただけだったもの」
 女がぽつりとこぼすように続けた。その声にようやく感情めいたものを感じ、彼は目をわずかに見開いた。
「覚えているのか……あんたが俺にしたことも?」
 重ねて尋ねる。心臓がどくりと音を立てた。激痛も脈動するように形を変え、彼は唇を歪めた。もう長くは持たない。
「覚えているわ。あの日わたしはあなたを殺した」
 女が薄く笑った。十年前のあの日を思い出しているのだろうか。女が彼を殺したあの日を。
「だが俺は生きていた」
 気を抜けば膝から崩れ落ちそうになる。頭痛と心臓の痛みが全身にめぐり、意識を保つのにも集中しなければならない。
「知っていたわ。あなたが生きていたことも」
 女は何を思ったのか、彼に背を向けた。彼が何のために剣を持っているのか知らないわけではないだろう。彼は彼女を殺すためにここへ来たというのに。
「ねぇトラン。あの頃のわたしは分からなかったけれど、今なら分かる」
 振り返った女は微笑を浮かべていた。霞んでいく視界の中で、彼は女の顔を見つめた。
「わたしはあなたを愛していたのよ」
 彼は苦心して、歪む唇に笑みを浮かべた。
「おれもあんたを愛していたよ。昔から、な」
 彼は最後の力を振り絞って、縋っていた大剣を持ち上げた。鞘を抜き捨てる。気を抜くと折れそうな脚に力を込め、彼は駆け出した。距離は長くない。身体の前に構えた剣に、柔らかいものが突き刺さる感触がした。
 剣を伝って女の血が流れてくる。女が緩慢に倒れていくのが分かった。突き刺さったままの剣に引きずられて彼も倒れ込む。もう立ち上がるだけの力はなかった。
「俺たちは、違う出逢い方をするべきだったんだ……きっと」
 呟いて、彼は意識を手放した。


#24

アンイージイ

 窓の外は雪が降っていた。というか猛吹雪だった。
 そこから見えるバス停には、いつまで経っても来るはずのバスが現れない。自宅に電話を掛けても誰も出ない。この吹雪の中、十キロ歩いて帰ることも無茶に思えた。
「送ってやってもいいぜ」
ションタが後ろでそう言った。振り返ると、ションタはニヤニヤ笑っている。今思えば、僕はその顔から何か感付けば良かったのだ。だがそのとき僕の頭にあったのは「有難い」ということだけで、素直にその好意に甘えたのだった。
 外に出て車庫に入り、赤いワゴンの横で待っていると、暫くしてションタのお父さんが現れた。あとは誰も来なかった。
 マジかよ、内心そう思いながら車の助手席に乗り込むと、お父さんがエンジンをかけた。改めてマジかよと思った。
 初めて見るションタのお父さんは、現役のスポーツマンといった感じで若々しく、サングラスなんか掛けたら凄く似合いそうだった。
 しかし車が動き出してから、お父さんと僕は一言も喋っていない。正直この雰囲気は辛すぎた。しかもこんな時に限ってカーラジオから「クリスマス特集」なんて番組が流れてくるのだから、もうどうしようもない。
(聖夜に届けるリクエスト! さァて一曲目はナニかな?)
男性DJの、調子の良い声が聞こえてくる。僕は冷汗が出てくるのを感じた。

(いやあ、今年のクリスマスは俺もゆっくりできる! かっこヤケクソ、と)
「明日から冬休みだったね」
急にお父さんが口を開いた。
「あ、はい」
(そういえばミユキちゃん、去年のイヴはどうだったの?)
「そういえば、章太から聞いたかい?」
「え? ……なにが、ですか?」
「なんだ、あいつ言ってないのか」
「はい……たぶん」
僕が小さくそう言うと、お父さんは困ったような顔をして、顎の辺りをさすった。
「……実はね、今度――」
「あ、ここです」
思わず言葉が重なる。だが家を過ぎ去ろうとした以上、僕はそう言うしかなかった。そう言うしかなかったのだが、やはり余計に気まずい雰囲気が漂う。
「あ……ここか」
「はい、どうも有難うございました」
「ああ気にしないで」
車を降りると、途端に雪が激しく僕の頬を打った。
 僕がもう一度礼をすると、お父さんは軽く会釈をして車を発進させた。お父さん一人だけ乗った、赤いワゴン。それを眺める僕を、雪は絶え間なく打ち続けている。冷たくて痛い。
 車体ごしに聞こえてくるラジオが、車と共にゆっくり遠のき、やがて消えた。


#25

最後のキセル

 河毛でキセルをした。高2だからもう2年も前の事だ。修学旅行はグループで自由行動が出来たので、小谷城へ行くことを提案した。最寄り駅には京都の宿舎から一時間半程で辿り着く。改札が無い事を知っていたのか、何人かが私に初乗り運賃の切符を見せびらかした。
 唯、駅にはコミュニティハウスが付属し、私たちはそこで借りた自転車で大地へ飛び出した。五月は快い。小谷城は浅井久政、長政親子の居城で、かつ絶命の地でもある。信長の妹の市を娶った長政だったが、織田軍の朝倉攻めに久政が怒り、信長に反旗を翻した結果善戦するも朝倉軍の弱体故に撤退を余儀なくされ、この地で羽柴や滝川と最後の壮絶な戦いを繰り広げた。親子の首は義景のそれと共に漆塗りにされ、酒宴の席で用いられたという。
 湖北の道は清清しい。東京の無機質も、奈良や京都の小汚さもない。車は疎らで時折の静まりの間に静寂。鳥の囀り。山のざわめき。遠くの自動車の音。
 清水谷をゆっくり登る。涼しい風の中も、火照った顔がところどころ光を帯び、大手門の跡まで来ると、迂回の舗装道の他にもう一つ、木立の隙間に石ころだらけの急傾斜が顔を覗かせた。古の兵が数多通った、赤っぽい土が剥き出しの道だった。
 「こっちへ行こう」
 半分の人は新道を往ったし、酷だった。それでも着実に上へ進み、夏草の空間は私たちが通ることで再び道としての役割を取り戻したように感じられた。そして2分勝った。
 広間やら石垣やらを半分適当に見て、城を下りる。急勾配の坂道をブレーキが悪い自転車と共に、五月の風と飛ぶ。大きな青空がまだ広がっていた。
 ローカル線は行ってしまったところだった。私たちは大貧民をする。コミュニティハウスには唯管理人がいた。そして訊ねた。
 「切符はあるの」
 「うん」
 誰かが答えた。そのまま電車に乗った。空気の読めない私たちは電車の中でも大貧民を続ける。そのまま朝と違う駅の地に足をつけ、朝の切符で自動改札を通っていく。私にはそれが耐えられなかった。そして窓口へ向かった。
 「切符、なくしちゃったんですけど」
 「どこから」
 機械的に、駅員は訊ねる。
 「河毛です」
 私は1000円札を取り出していた。機械的に運賃を払おうとしていた。
 「いいよ、通って」
 「えっ」
 そのまま私は通り過ぎた。そのまま払わず関西を出た。そのまま払わず高校を出た。無機質な今、思い出す。それが最後のキセルだったんだと。


#26

(この作品は削除されました)


#27

今日も過去を振り返るハゲ

 謎の少林寺拳法家が、田舎にあらわれた。

「なにかこの村で、よからぬことが起こっているようですね。」
 村長さんの家に一晩ごやっかいになり、豚汁をすすりながら拳法家は、突然切り出した。村は暗くて、静かで、犬が耳の裏をボリボリる音だけが聞こえる。それは2.1チャンネルのスピーカーとサブウーハーで、和製ダンスミュージックがはじける直前のパーカッションを、無限ループで聞いているみたいな音だった。

「体長15メートルの天狗が、村人を…」
 村長さんは拳法家の言葉をさえぎった。
「人の土地に来て、あんまりそういうことは言わないほうがいい。人が集まれば、どこだって厄介ごとはあるし、不幸な死人は出る。こんなMcDonald(エム・シー・ドナルド)が一店舗もない村にでも、だ。」
 拳法家はクールに笑い、立ち上がった。
「ここにはなにもないですね。このなつかしい感じ、久しぶりだ。助走をつけて、キック一発でクマを倒そうとしたら、袖をつかまれて殺されかけたあの頃、思い出すようだぜ。」
 少林寺拳法家の言葉が、徐々にとがってゆく。昔、犬がまだ狼っぽかった頃、歯はとても尖っていた。昔、おもちゃメーカーががむしゃらに作り続けていた頃、プラスチックの忍者刀はとても鋭かった。ただ、今ではみんな過去のできごとなのだ。
「どこへ行くつもりかね。」
「ちょっと夜風を浴びるだけですよ。」
「まだ9時だが、もうみんな寝静まってる。こんな田舎じゃ、地下鉄(サブウェイ)は走ってないぞ。」
「おれの中の狼は、まだ走ってるのさ。」

 拳法家の背中は汚れていた。一人暮らしの水回りは汚れやすいが、排水溝に投げ入れる錠剤を買い置きしておくのが、良いだろう。
「死ぬぞ……。」
 戸を開け閉めする彼の身のこなしは、とても上品に見えた。学生にもあれができれば、一次面接はきっとうまくいく。外では、飼いならされた犬が吠え始めた。


#28

彼女はパラボイド

 俺は彼女の家に来ていた。
 だけども彼女は、俺に見向きもしないんだ。

 洗ってない食器が適当に台所に積まれていて、どこからか生ゴミの臭いがする。
 1LDKの借り部屋は、壁や天井がシミだらけで、その中のひとつが人面痩に見えた。
 中身がぎっしりの冷蔵庫の隅からは、さっきからずっとゴキブリの気配がする。
 俺のCDが無いと思ってたら、こんなところに落ちてやがった。
 しかもケースがひび割れて、そこにポテチのかけらがかかってる。
 おまけに歌詞カードにコーヒーをこぼしているから驚きだ。
 人の物は大事に扱えって、小さい頃教えてもらわなかったのか?

 それにしても。

 お前はいつまでテレビを見てるんだ?
 どうせまた、大物女優が不倫したりするだけのドラマだろ?
 ほーら、どこかで見たことあるストーリーだ。ついでに役者もな。

「それがいいんだよ」

 お前は言う。
 その間も、テレビから目を離さない。
 まるでスクリーンに重力で引き寄せられてるみたいに、前のめりになって口をぽかんと開けて。
 そんなお前に何を言われても、まるで心に響かない。

「面白いんだから」

 ああそうだな面白いよ。
 今のお前の面見てると、嫌でもおかしくなってくるぜ。
 そうか、だからか。だからこの部屋には鏡がないのか。そうだよな?
 俺が来てるってのにテレビばっか見やがって、お前は本当にどうかしてるぜ。
 お前みたいなのを廃人って言うんだと。お前の大好きなテレビがこの前言ってたぜ。

「お前、本当に壊れてるぜ」

 俺は言った。
 俺が言った。

 お前は答える。
 相変わらず画面を見つめたままで。
 お前はまるでそれを何とも思っていないかのような調子で、俺に答える。

「壊れてるのは、冷蔵庫だよ」

 そう言われて、俺は視線を再び、中身がぎゅうぎゅう詰めの冷蔵庫へと向けた。
 ゴキブリの気配が消えている。タンスの裏にでも移ったのかもしれない。

 しかし、そうか。
 だから、変な臭いがしてたのか。

「そうだよ」

 お前は答える。
 聞いてもいないのに、お前は答える。
 なんだ、俺が考えてることも、ちゃんと分かってんじゃねえか。

 だけどやっぱりお前は変だ。
 本当に頭、どうかしてるぜ。


【END】


#29

蒼穹

 アインシュタインの相対性理論では、人は1000年先まで生きることができたとしても本人が実感できるのは一人の人間の一生分の人生だけのようだ。
 私の話を聞いていた妻が笑った。そんな先まで生きていたくありませんよと。みんなと過ごす、この海が好きだそうだ。
 40年間、東京の商品の先物取引会社に勤め、退職金で海が見える所に家を建てた。妻はかねてから望んでいた尼さんになった。近所に住む方々と仲良くなり、一緒にもぐらしてもらっているらしい。
「あなたも本ばかり読んでないで、浜辺にでも散歩に出かけられればいいのに。海がとてもきれいですよ」そう言いながら私のいる書斎の窓を開けていった。妻はこっちに引っ越してきてからよく窓を開けっぱなしにするようになった。
 家を建てたのと一緒に息子たちへの相続の問題もまとめた。親しい弁護士さんに、私たちにもしものことがあったら息子たちに相続の旨を伝えて頂くようお願いしてある。分け隔てなくしたつもりだが、もめることがないことを祈っている。
 会社を辞めてから私は本に時間をかけるようになった。今いるこの2階の書斎で本を読むのが私の毎日の日課である。前々から興味のあった心理学や哲学の本などを研究している。アインシュタインもその中の一つだ。心理学、自己実現、これまでのこと、これからのこと。生きがいとは何であったかと振り返る。

 ふと、妻が開けていった窓から風が入ってきた。開いていた本がパラパラと閉じられてしまった。潮の香りの、涼しい心地よい風だ。
 外から妻の声が聞こえた。よく笑うようになった。窓の下で、妻が奥さんたちとこっちを向いていた。白い帽子の下に小さな笑った目がのぞいている。うれしそうな目だ。
「あなたも海にいらしません? あなたの顔によく似た魚たちが泳いでいますよ」妻はそう言うと、みんなと笑いながら海へ向かって歩いていった。
 海が輝いているのが見えた。妻たちの笑い声がまだ聞えてくるようだった。私もここを片付けたら海の方へ散歩に行ってみようか。妻たちの採ったサザエでも食べに行きたくなった。日の動きや潮の動き、外の自然の空気と同じ時を過ごす時間。妻たちと一緒にサザエを食べれば、私も笑みがこぼれてきそうな気持ちがした。
 ふと見上げる。空の青は海の反射だ。妻はこの海に来て元気になった。私も曇りがかった心のままではいけないな。

 外に出ると、空がいっそう青く見えた。


#30

窓拭き魔、現る

 ――《スカイタウン》には黄色の窓拭き魔が出る。
 そんな噂がその新興住宅街と隣接する商店街《青空通り》一帯に広まったのは、そよ風に葉桜の揺れる四月半ばのことだった。
 曰く――田中さんが留守の間に宅へ忍び込んで、氏の自慢の大きなガラス窓を拭いていた。
 目撃例がこの一件だけなら、窓を拭くために田中氏が人を雇ったのだと言えば済むだろう。しかし、
「鈴木さんとこにも黄色の男が出たらしいぞ」
「ウチにも来たわ。誰にも頼んでないのに」
 証言を総合するに、件の男は一人ではないらしい。黄色の繋ぎを着用した髭面中年男の二人組。一方は恰幅が良く、もう一方は痩せ。そう、世界的に有名な配管工兄弟の配色を変えれば彼らになる。
 神出鬼没な様子から当初は「幽霊では」と疑われた二人だが、実在の人物である証拠に彼らの仕事ぶりは完璧だった。彼らの仕上げた窓ガラスは水晶の輝きを魅せる。

 数日を経て彼らの《作品》の数が二桁に達する頃には、界隈で二人を知らない者はなくなった。黄色兄弟の所業は、いまや窓拭きだけに限られなかった。
「雨漏りしとった屋根がすっかり元通りになったわい、ふぉ、ふぉ」
「いやぁ、自転車のチェーン、油が切れてたんだけど……」
「荒れ放題だった児童公園の花壇、さっき行ってみたら素敵なお花畑になってたのよぅ」
「おぉ、私の髪が、私の髪が……」
「別居していた妻が戻ってきてくれたんです!」
 喜びの声が上がる一方、二人の正体が分からないためか不安に思う住人も出てくる。
「田中さんの窓と佐々木さんの屋根の件は不法侵入じゃないですか」
「いくら掃除だからって、他人の持ち物を勝手に触ったら器物損壊になるんじゃないのか」
「泥棒に入る家の下見をしてるんじゃないかしら」
 しかし、大勢の見方は兄弟に好意的だった。
「器物損壊なものか。こんなに綺麗にしてもらって、いったい何の文句があるっていうんだ」
「んー、泥棒といっても……あの黄色装束じゃ目立ってしょうがないでしょ。体格にも特徴あるから服を替えてもバレるだろうし」
「ふぉ、ふぉ、ワシの家に盗られて困るもんなどないわい」

《青空通り》の片隅に真新しい黄色の看板が出現したのは、それからさらに一週間を経た月曜日のことだ。

| 掃除・修理なら何でも承ります
| イエロー・ブラザーズ

 いまや東証一部に上場を果たし、全国八〇〇余店舗を展開するブラザーズ・チェーン。記念すべきその一号店の開業であった。


#31

小説を掴まえた

 まったく僕は興奮していた。僕はとうとう小説を掴まえたのだ。
 小説を書くようになって、というのが烏滸がましいなら、小説を書く真似事を始めて、もう何年にもなるというのに、こんなことは初めての経験で、小説の神髄などほんの些細なことだったのだと、まだ一字も書かれていない自分の小説に、小躍りしそうになるほどだった、とまで書いてしまうといささか大袈裟ではあるけれど、自分の経験したいくつかの出来事を、ほんの少し並べ替えてみるだけで、別々だった出来事が、シャキンと音を立てて結びつき、今まで得ることのなかった新たな視点が、ぼやけた僕の脳髄を真っ二つにして、間脳のあたりからニョッキリと現れたのだ。間脳には情動を司る視床下部があるから、至極いい加減なこの比喩も案外的外れではないかもしれないが、勿論そんなことは重要でない。
 まったくそれは初めての文学体験といってもいいかしれない体験で、それほどのことなのに、どうしてまだ一字も書いていないかというと、うまいタイトルがなかなか決まらないからで、重要なキーワードは「バルセロナ」の一言なのだけれど、それをそのままタイトルにしてしまうのはいかにも芸がないし、だいたいスペインの都市としてのバルセロナとはなんら関係なく、最近憶えた用語でいえば、シニフィアンとしての「バルセロナ」が重要なのだけれど、この場合シニフィアンという言葉を用いるのが適切かどうかは、理解がいい加減なのでよくわからない。
 いやいや実際のところ、僕が一字も書けていないのは、それがまったく書く必要のない小説だからで、つまりどういうものかといえば、小説を書こうと思っていたある男、要するに僕自身が、たわいもないいくつかの経験をして、小説なんて書く必要はどこにもないのだ、と知るという小説であり、この経験自体は事実ではなく、小説を書こうと頭の中でいくつかの出来事をこねくり回しているうちにシャキンと出来上がった仮想の体験なのだけれど、古今のどんな小説も解き明かすことのなかった「小説なんてものはまったく書かれる必要がない」という秘密を教えてくれた。
 だから僕はその小説を一字も書くことが出来ないのだけれど、真理を知ってしまっても悟りを開けたわけでないので、小説を書きたいという欲望は依然あって、安易に欲望に負けてしまい、書く必要のない小説をこうしてまた書き、そして今、正確にはあと少しで、書き終えるのだ。


#32

北京島にて

 地球儀を引き裂き地図を作る。
 しかしあれだね、中国の大きさには驚くね。
 洗濯物を干す。
 母(バイタ)の黒い下着。エッフェル塔の写真。地図。爆弾の配線図。洗濯物を干して20円貰う。
「ニイハオ」
 そう言ってマージャンパイを毎日届けてくれるあの女は誰か。こんな小さな島に毎日大変だろうに。
 マージャンパイは同じ柄の4枚のうちの3枚がガラスで、その3枚は日にかざすと向こう側が透けて見えて。
 だからとても綺麗だ。

(本部への報告書)
 女は赤いチャイナドレスでとても綺麗で、いつもご主人様に連れられていて、そして真直ぐ空を見ることが出来ることから(真直ぐ地面を見ることも出来る)女はおんなではなく男であると思われる。



 仕事に行く。パティ・スミスの息子にインタビューをしに行く。
 彼は美しい少年だった。
 黒い下着。
「穢れ、とは何か」
「性差、とは」
「芸術、とは」
「つまり男とは」
「女とは」
 無能な上司にインタビューとは相手を怒らせることだなんて叩き込まれたから今もそのようにしか仕事が出来ない。

 断層。


 弾奏。

(ギターを持って来ていたが弾けない。おんななのにギターなんて、と言われて育ったから、こんなに大きなギターケースを持って来ていても、私は何も弾けない)


「私は雷にうたれたんですよ」
 美しい火に燃えていく手をかざして少年に言う。
 向こう側が透けて見える。
 もっと芝居がかれもっと芝居がかれ。
 灰が花に花が灰に灰が。
「つまり虹とは」
 虹色のハンマー。
 そういうえばマネキンが持っていた。おしゃれブティックで、ふわふわのワンピースを着て、七色に光るハンマーを持って、遠くの空を眺めていたな。
 少年は流行りのチャイナな服を着ていて。
 彼はガラスパイをかちゃかちゃと弄んでいた。つまり性差とは格差とは歴史とは民族とは。ジギープレイザギター。
 エッフェル塔がおしゃれブティック街の向こうで急速に伸びていく。
 もっと芝居がかれ。
 エッフェル塔の前で二人並んで記念写真を撮る。

 エ、エ……
 エッフェックション!

 少年がくしゃみをする。
 春がすぐそこまで来ている。
 母(バイタ)の黒い下着。エッフェル塔の写真。爆弾の配線図。
 様々なものがすぐそこで終わっている。
 ギター、ジギープレイザギター、コンプレッサー、オクターバー、ピッチシフター。

 エ、エ……
 エッフェクター!

 燃える手で鼻をすすり、洗濯物を干して、20円貰う。 


#33

二人の部屋

机と壁の隙間から1匹の蜘蛛が這い出した。
彼はそれを驚きもせず、ただ見ていた。

蜘蛛は美しかった。

細くスラリと伸びた長い足は、少女の腕のように脆く儚く、わずかな力でその繊細さは失われてしまいそうであった。
不規則に並んだ幾つかの目は、夜空の星のように貴く輝いているようにも見えた。

蜘蛛は部屋の隅に静かに巣を作り始めた。
彼は体を部屋の隅に向き変えて座った。
蜘蛛はその美しいフォルムから白く輝く直線を出し、規則正しい幾何学模様を描いていく。
彼は何をするでもなくそれを見ていた。

静かな二人だけの空間がその部屋にはあった。

巣がほぼ出来上がった頃、彼はおもむろに立ち上がり巣の下に移動した。
手をかざすと蜘蛛はそれに合わせて移動しているように思えた。
彼はシャボン玉を捕まえるときのように優しく手を動かした。
蜘蛛はただわがままに巣を作り続けていただけかもしれないが、彼はその美しさを弄んでいるような錯覚に陥ることができたのだ。

突然、蜘蛛はバランスを崩し、ほどなく彼のてのひらへ落ちてきた。
音もなく。

それまで穏やかさを失うことのなかった彼の心臓が初めて高鳴った。
軽かったのだ。
何も感じられぬほどに。
あれほど彼の心を占領していた美しく巨大な存在が、彼の手を通じては何も伝えてくれないのだ。
ともあれ、あの繊細で壊れやすい美は、今まさに彼の手に委ねられているのだ!

彼は緊張しなくてはならなかった。
蜘蛛は美しいがゆえに、ほんの小さな動作でつぶれてしまうだろう。
彼は細心の注意を払い、手をそのままの形で保とうとした。

ああ、その間に逃げていってくれればよかったのだ。

蜘蛛はまた微動だにしなかった。

彼の手がむずがゆく動いた。
ゆっくりと手は閉じられていく。
蜘蛛は次第に暗くなる手の中で動かずにいた。
その速さを増すこともなくゆっくりと手は握られた。

もはや彼の目に蜘蛛の姿はなく、ただ弱弱しいこぶしが映るだけであった。
手からは何も感じられない。
何も感じられないが、そこでは1つの美が失われているのだろう。

ふと顔を上げると、それまで彼らと囲んでいた壁や天井は存在せず、白でも黒でもない地面が無限に広がっているだけであった。
やがてその地面も感じられなくなっていくのがわかった。
ああ、何もないというのはこういうことかと彼は思った。
すぐにこの思いも失われるのだ。


編集: 短編