# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | チーズパーティー | 壱倉柊 | 1000 |
2 | 車輪 | 公文力 | 1000 |
3 | you may | 真央りりこ | 723 |
4 | オレンジ色の靴下 | 与一 | 546 |
5 | 録画 | つむ | 802 |
6 | あっという間劇場 | 図書委員 | 235 |
7 | つげ | 藤舟 | 463 |
8 | 進歩 | TM | 998 |
9 | アロー、アロー | キイコ・ローリングストーン | 603 |
10 | 魚 | たけやん | 911 |
11 | ほらふき男爵の憂鬱 | makieba | 1000 |
12 | 猫と谷崎と手帳 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
13 | 牛乳 | 鳩 | 590 |
14 | マッチ売りの心配 | 戸川皆既 | 905 |
15 | 悲しいUntrue power | bear's Son | 976 |
16 | 擬装☆少女 千字一時物語9 | 黒田皐月 | 1000 |
17 | コヨーテの夜 | otokichisupairaru | 968 |
18 | 嘘を吐いているのは誰だ? | 二歩 | 1000 |
19 | ボートはボート | 長月夕子 | 1000 |
20 | スウィートサワー | 夕月 朱 | 879 |
21 | 逝く理由〜自殺〜 | T,J | 980 |
22 | 贋僕、贋冒険小説を書く | qbc | 1000 |
23 | 蟹 | とむOK | 1000 |
24 | 先生、わたしは、書く努力を、しなさ過ぎた | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
25 | 涙 | 曠野反次郎 | 999 |
彼女が袋いっぱいのチーズを持って僕のアパートに現れたのは、二月二十日の夜のことだった。
歯を磨いている僕を見事に無視し、彼女は「チーズケーキを作りに来た」とスカートの雪をほろいながら言った。
「チーズケーキ?」
「そう。だからチーズ選び手伝ってね」
テーブルの上にどん、と袋が置かれる。
「なんで急に……」
「チーズが投売りされてて」
「へえ」
彼女が座ってチーズを取り出し始めたので、僕もテーブルを挟んで座った。パーティの始まりだ。細かいことは考えなかった。チーズケーキって普通クリームチーズから作るんじゃ、そんな言葉も呑みこんだ。
「あ、これは旨い」
「こっちは味が薄すぎるねえ」
会が開かれてから、二時間が経過していた。二人とも好き勝手なことを言い合い、テーブルの上にはチーズの小山ができていた。
「おい、なんだこれ! 斑模様だぞ!」
「あー、そういうタイプのチーズも混ざってたんだ」
けらけらと彼女が笑う。
「勘弁してくれ……」
僕はそれを端に避けながら、なにとなく時計を見た。
「そろそろ終電だな」
彼女がぴくっと動く。
「明日も学校だろ? さあ、そろそろ帰った帰った」
最後のチーズを口に放り込み、いつもの調子で言ったつもりだった。しかし彼女はどうも普段の調子ではなく、「そうだね」と呟いて、ゆっくりと立ち上がった。僕は何か変だなと思いながら、余ったチーズは今度食べようと思い冷蔵庫にしまった。
駅まで行く間、彼女は顔を見せなかった。
「ごちそうさまでした。楽しかった」
電車が動く直前、笑顔を見せて彼女は言った。全部君が持って来たのだけど。僕はポケットからガムを一枚取り出し、彼女に手渡した。
今度なにか買ってやろうか。そう思いながら地下鉄の階段を上っていくと、満月が見えた。そういえば彼女は今日ケーキを作りに来たのだったと、僕はその時思い出した。
彼女が遥か北海道へ突然帰ってしまったのは、その二日後のことだった。半年経った今でも、全く連絡がない。
あの日のチーズは、今でも袋に密閉されて僕の部屋にある。賞味期限を調べてみたら、あの日の翌日だった。本当に安売りだったんだ、そう思うと少し笑いがこぼれる。
楽しいチーズパーティだった。しかし僕が勝手に楽しんでいたのかもしれない。何より肝心のチーズケーキを、まだ食べていない。
何とか北海道を楽に往復できる資金はできた。今度は、ほんの少しだけ高級なチーズを食べられるだろう。
「何を盗ったんですか?」
「そういう問題じゃないんですよ。これは習性というか本人の心の問題なんです。お母さん、ちゃんとお金も持っていますしね。」僕は謝罪する。
「全く、家庭に問題があるんじゃないんですか?万引きはねえ、大体が私に構って欲しい症候群なんですよ。お母さんももう年なんだからこんなつまらないことさせないように大事にしてあげなくちゃ。」調書を取った後母は解放された。
二人で土手を歩く。自転車の車輪はどこかが引っかかっているようで一回転する度にコツン、コツンと音が鳴った。
何を盗ったのか問うと母は恥ずかしそうに白髪染めと答えた。母の襟足を見ると幾分白いものが目に付いた。夕日の名残が時折それを紅く染めていた。
「うん、ごめん。それでなあ。」
「分かっちゅうって。親父には言わんき心配しなや。」
母は落胆しているようだった。足元も覚束ない。かつて彼女はとても美しい女性だった。
「白髪染めくらい、僕が買うちゃうき。」
「ほいたらはよう就職せなあね。」母がそう言った後で僕らは二人でくすくす笑った。何だか母はもう大丈夫な気がした。
故郷に戻って半年が過ぎていた。未だ職は見つからず失業手当も底を尽きかけていた。家で父と話をすることは皆無に等しい。元警察官であった父はソファで寝転ぶ僕を見て恐ろしく深い溜息をつく。僕は何故か無性に煙草を吸いたい衝動にかられる。
「そうそう、ところで田辺君って覚えてる?二年の時隣のクラスだった。」彼を殴った記憶が蘇る。
「この前新聞に載ってたわよ。どうしてだと思う?」
僕は初美と飲んでいた。かつての恋人で現在彼女は二児の母親だ。
「放火だって。中学校に夜中忍び込んで火をつけたって。」
僕はふうんとまるで無関心を装う。実を言うと僕は故郷に帰ってくるまで初美のことすらすっかり忘れていた。凡人には容量が限られている。昔話を捨てずに取っておける程の余裕は都会にいた頃の僕からは欠落していた。
「誰もがみんな心のどこかで小さな事件を起こしたがっているのよ。」
僕の隣で初美がそう言う。僕は彼女の髪を撫でる。
「貴方のお母さんだってそうだったのかもしれないし、田辺君だって同じかもしれない、空っぽの部屋に置き去りにされたみたいに。」初美の髪の毛に一本白いのが見えた。
「それで君も事件を起こしている訳だ。」
「あなたも加担してくれてるじゃない?」
僕は初美を抱き寄せるとすぐさま白髪を引き抜いた。
今度は鳥になるってきみが言うので、僕は重い腰をあげなくちゃならなかった(いつでもそうだ、まず僕が重い腰をあげるのだ)。きみは両手を水平に保ち左右に傾きながら爪先立ちで窓の外を見ている。そういえば前もその前も、鳥になるって言ってたんじゃなかったっけ。そう思ううちにはもう羽が生えている。背中から襟足に伸びた三角の草原に風が吹き、そこを拠点にしてうららかな白い羽毛がはじめは綿毛のように密集してそのあと何本もの小枝が皮膚を突き破りあらゆる時間を刺していく。息よりも早く長くなり、しなやかに曲線をまとった。ピアノもパイプオルガンもいらない。できれば紅茶を一杯、ロイヤルコペンハーゲンのティーカップでもらいたいと思った。
「鳥、なの」
「そう」
「鳥にもいろいろあるだろ」
「いろいろあるから鳥なのよ」
軽く、くちばしを羽に突っ込み、小刻みに振るわせる。落ちてくる数本の綿毛。
「鳥になってどうするの」
「どうしたいのって聞くべきね」
ああ、僕はどうしてこうなんだ。鳥になったきみに勝てるわけないのに。前にもその前にもこんなふうに、きみを鳥にしてしまっただけで。
「どうせ行ってしまうんだろう」
弱気だ。世界中の戦士がついていたって。
「あたり前でしょ。でもね」
でもね、と言ってしまうときみはいない。飛んで行くところを見たことがないのに、きみは部屋のどこにもいない。
鳥になる鳥になる鳥になる、と何度唱えてみても、でもね、のあとのきみの言葉にはたどり着けなかった。
部屋には散らばった綿毛が運河のように広がって、夜はそこに埋もれて眠る。時々きみの夢を見ては、水を掻き分けるように羽毛を散らす。泳いでいる。だけど飛ぶことはできない。僕は腰をあげるくらいが精一杯なんだ。
「明日死ぬからお前の太ももを撫でさせてくれ」
ジイはそう言うと私の手を取ってタクシーに乗り込んだ。
こんなジジイは初めてだったので、心の中では最初クソジジイと呼んだけれどなけなしの優しさを搾り出し、「ジイ」と呼ぶことにした。
ジイは高速道路の電灯に合わせたリズムで死んだ奥さんの話をしだす。
それはあんまりにもジイの思い出で彩られ、もう何だかよくわからない形をした思い出話ばかりだ。私は何を基準に聞いていいのかわからなくなって、ジイの声を子守唄に切断の連続でやってくるオレンジの世界の中をうとうとしていた。その連続はジイの声と呼応して、より緩やかなカーブを描き私を小さな女の子に変えていった。
ジイは私の太ももを触りながら、奥さんの名前を何度も呼ぶ。それは少し掠れたか細い声だった。誰にも聞こえないように願っているが出さずにはいられないあの声。あんまりにもしつこいものだから顔を睨んでやると、ジイは照れたようにはにかんだ。その顔はおとつい見た妹の赤ちゃんの顔に似ていた。私はたまらなくなって子宮のあたりがグっと縮こまり、やがて温かい塊を感じはじめていた。
それからしばらくジイは太ももを撫で続け、私にお金を渡して朝日目指して歩いていった。私はそのお金で甥っ子に靴下を買ってやるつもりだ。
冬はまだ続くから。
僕の姉は録画が出来る。
それは先週、冗談のつもりでビデオデッキのリモコンを
姉に向けたときに気づいた。
カレーライスを食べながら、テレビを見る姉の背中に
なんとなくリモコンを向け録画ボタンを押すと、
姉の首筋に真っ赤な丸いニキビのような吹き出物が浮かび上がった。
最初はそれが、録画の意味なのか、目の錯覚なのか
よくわからなかったのだが、再生ボタンを押したときに確信に変わった。
吹き出物は一瞬のうちに再生ボタンの形に変わり、
瞬時に姉の動きがちょうど1分前にタイムスリップする。
食べかけのカレーライスが、いつのまにか一分前の形に戻され、
姉はまたそれを咀嚼する。
−なんなんだこれは。
その後、何度か姉の録画について試してみたのだが
録画をするたびに、情報は上書きされるらしく
過去に録画した姉はもう二度と見れなくなってしまった。
また、姉の体に触れていたものは、再生時に復活するようだった。
カレーライスのように、食べていたものまでも復元されるのだ。
(その時の姉の胃がどうなっているのかは定かではない。)
ある日、そんな姉が、真夜中に泣きながら家に帰ってきた。
どうやら、付き合っていた彼氏が二股をかけていたらしい。
僕は弟として、出来るだけの言葉をかけたのだが、
一向に泣き止まない。
途方に暮れてしまった僕は、
ダメもとでリモコンの再生ボタンを押した。
その瞬間、姉の表情は、満面の笑みに変わる。
録画された姉は、おとついの姉だった。
あまりにおいしそうにチョコレートケーキを食べるので
思わず録画したのだった。
録画されていた2分30秒の間、
満面の笑みでチョコレートケーキを食べる姉。
再生が終わると、姉は、なぜだか泣き止んでいた。
何事も無かったかのように僕を見つめる姉は
泣きはらした目元のことも忘れて僕にこう言った。
「・・・なんか、わかんないけど・・ありがとう。」
これから何度、姉が失恋するかわからないけど、
なんだか僕は、とにかく大丈夫だと思った。
母「ねむくない?ゆうちゃん」
子「ねむくないよ。」
母「そう眠くなったら言いなさいね」
子「何で泣いてるの?」
母「泣いてないわよ」
子「ふうん。やっぱり僕なんだか眠いよ」
母「そう。早く布団に入りなさい。」
子「やっぱり変だよ。何で泣いてるの?」
母「もういいの。良い夢見なさいね」
子「う ん。 おや す み」
どさっ
母「もう家にはお金が無いの。ごめん な さ い」
どさっ
そして母の手から睡眠薬の瓶が転がった。
「はい、カットー。 OKでーす。」
トプンと音がして、私は海の中に頭を沈める。耳の底で音がする。頭を下にしようとして足が空気を掻く。
海に来たのは五年ぶりぐらいで、泳いだのは三年ぶりぐらいだった。二三回平泳ぎで掻いて波に浮かんでみる。大丈夫だという感じがする。記憶の中の海と今在る海をゆっくりあわせてしまう。慣れてしまえばいいのだ、慣れてしまえば驚くべきものなんて何も無い。
「幼いなあもう。」
大学を中退して、ある忙しい日々が突然終わって、でも今考えると何もしていなかった気がする。海から出ると肌寒い。ここの砂浜は歩くと足がちくちくするのだ。海は好きだけれど、海にはくらげやくらげみたいな良く分からないものがいて突然足に絡みついたりするからいやだったんだ、と思った。
こういう気分のときは少女漫画を読みまくるに限る。最近は何処の街でもマンガ喫茶とネットカフェがある。関係ないが前適当にネットカフェに入ったら周りが中国人ばかりでびびったことがある。
ある漫画で女が海に来ていて「一人で来た方が気が楽でいいわ」といっていた。私は海に一人で来たが比較的楽でもない。
「なんでも進歩すると思ってやがる連中ならがっかりするだろうよ」リュシアンじいさんは笑いながら煮込んだ豚肉を口に押し込んで咀嚼し飲み込んでから、ワインを一口すすり話を続けた。「なんでもあきらめてちゃあ進歩しないと思ってやがる連中に聞かせてやりなよ。そうさな、おまえさんがどんなに連中から憎まれていようと、連中にはやさしくしなきゃあいけないと思っているかを教えてやるんだ。連中は腹をかかえて笑いやがるだろうよ。そんなことが進歩につながるのかってね。連中の頭の中には常に進歩することしかないのさ。おまえさんがどんなに考えようと連中には関係ない」ここでリュシアンじいさんは茹でたジャガイモに手を出した。フォークは虚しく銀色に光り、僕の食欲を萎えさせた。僕は目の前の料理を冷めた目で繰り返し順番に眺めながら、黙ってリュシアンじいさんの話を聞いていた。「連中はそこにじっととどまっていることをなにか卑しいことだとでも思ってやがるのさ。例えばおまえさんが足音をたてる。すると連中はそれ見たことかとよってたかっておまえさんを憎み始めるだろうよ。なぜなら、それが連中の進歩だからだ」リュシアンじいさんは今度は茹でたニンジンを突き刺し、煮込みの煮汁につけてから口に持っていった。それを飲み込んでから、またワインをやる。「じゃあ、どうすればおまえさんは連中の憎しみを感知せずに済むか? ・・・これだよ」リュシアンじいさんはふいにポケットから小さな紺色の塊を取り出して僕の目の前に差し出した。僕は冷や汗の出る思いで声を出そうとした。「・・・な、んで、すか。こ、れは?」僕はリュシアンじいさんが答える前に、連中に悟られはしないかと心配しながら慎重に手を前に突き出し、それをつかんだ。その瞬間だった。僕の頭の中に強いエネルギーを持ったシークエンスが激しくうねりながら入ってきた。それは劣等感や罪悪感によく似た、とてもいやな気分に僕を陥れた。僕はその物体を手から落としてしまったが、テーブルの上に落ちる音がする前にすうっと消えてなくなった。僕はもう少しで泣き出すところだった。リュシアンじいさんは口をもぐもぐするのを止めて言った。「それが本当の進歩だ。連中はただの雑魚だ、いいか、おまえさんはもうすぐ別の人間になる。そのときこの世界は完全に壊れているだろう。気付いたときには遅いのさ。だが、おまえさんはもうわかってるだろう?」
「アロー、アローもう一度」
何度か試してみて、やめにした。
今度は日本語で。
彼は微笑んで、そうだね、と言った。
深夜2時。京都。
夜明けには遠く、かと言って彼の国より近いだろう
留学生別科で
日本人の「僕」と欧州からの留学生の「彼」は
ずっと飲んでいる。
9時か10時からスタートした飲み会も、ある者はそこで
寝てしまい、ある者はどこかへ消えてしまった。
「ところで―――」
僕は言う。
「どうして、日本に来たんだい?」
もしかしたら―――いや、まず間違いなく、もう聞いているに
違いない。
しかし、彼の答えは意外なものだった。
「偶然だよ。僕は、世界の広さを考えるときに、よく地図を見た。もちろん小学生の時だったんだけど。その時の端っこにあるのが、君の国、つまりココだったってわけさ。で、世界―――そう思ったときにここしか思いつかなかったんだ。」
流暢な英語で話した。
酒を飲んでるので、彼の言ったことは、単語と単語でつなげて、
おぼろげながら、分かった。
「それで―――で、分かったのかい。その世界ってやつは?」
もうすぐ国に帰るフェローに僕は少し意地悪に聞いてみた。
「世界と言うやつは、たぶん―――たぶんだが、言葉にして
出す時には、すでに実物大の広がりにしかなっていないんだと、思う。つまり、僕のもつ世界とは、結局、僕だけのものさ」
僕は、その言葉を胸にしまいこんで、未だ使ってはいない。そうすべきだと思うことは、きっとそうすべきだと思うから。
ある深夜。真っ暗な中、右手がどこにあるか分からないくらい冷えていて、それで目が覚めたらしかった。布団から右手だけ出したまま眠っていたのだ。あわてて布団に引っ込めてみたが、布団の中が冷えるばかりで右手は一向に温まらない。
仕方なく、隣りで眠っている妻を起こさないように起き上がってトイレに行くことにした。
トイレから出て洗面室に入ると、浴室の入口が開いていて、湯船にはたぶん冷めているだろうけれどお湯が張ったままになっていた。当然湯気は立っていない。
試しに洗面室の明かりを頼りに浴室へ入り、湯船に右手を入れてみると予想外に温かだった。冷めたお湯でも温かく感じるのは、冷えきっていたせいだろう。凍ったような右手は指先からじんわりと温かくなり、嬉しくなってお湯の中で右手をぐるぐる回す。
洗面室から入る明かりがまるで月明りのようで、水面でちぎれてきれいだった。しばらくそれを眺めていると、湯船の中を影がよぎる。最初は自分の動かす腕の影だと思ったが、右手を止めても動くのでよく見直してみると、小さな魚らしきものがいるように見える。
顔を近付けてみる。やはり小さな魚がいる。湯船の中をすいすいと泳ぎ回っていた。
妻が入れたのだろうか。いや、そんなことはしないだろう。かといって、いきなり湯船に魚が現れるはずがない。
ともかく桶ですくいあげて浴室の床に置き、明日起きてから妻に聞いてみることにした。右手はすっかり温かくなり、おかげでぐっすりと眠ることができた。
翌朝妻に、湯船の中を魚が泳いでいたのだがと話してみると、朝食の支度をしていた妻は不思議そうな顔で振り返る。なに言ってるの、湯船なんて昨日私が入ったあとでお湯流しちゃったのよ。からっぽだったでしょう?夢でも見たんじゃないの?
そんな馬鹿なとあわてて浴室を見に行くと、確かに湯船はからっぽだった。妻も後ろからのぞきこんで、ほらね。と呟いている。
魚はどこにもいなかった。
けれど浴室の床の上には、冷めたお湯の入った桶が昨夜置いたままの状態で置いてある。
以来、まるで子供のようだと自覚をしながらも、深夜目が覚めると必ず湯船を覗いてしまう。未だ、あの魚にはお目にかかれない。
さて諸君、我輩の生涯最大の冒険は……とヒエロニムス・フォン・ミュンヒハウゼン氏は集まった客人たちに向かって明朗に話し始めた。私はそのときちょうど彼の談話室に辿り着いたところだった。私は慌てて人々の後ろに席を取ることとなった。皆凝っと耳をそば立てている。これから「ほらふき男爵」の冒険談が始まるのだ。といっても、内容は大抵の人が知っている例のほら話である。それでもそこにいる誰もが興味津々だった。海の冒険の話、月に行った話、戦争の話、狩りの話……がミュンヒハウゼン氏の口から次々と語られてゆく。その様子はすこぶるご機嫌だ。しかし、話の合間に一瞬覗かせる彼の暗鬱な表情を見て取ったのは私だけだったろうか。それを見て取った途端、私の心は胸躍る奇想天外な冒険談から急に離れた。「ほらふき男爵」としての彼の辛い心情に触れたような気がしたからだった。
そもそも「ほらふき男爵」として今に伝わる彼の話はすべてビュルガーの創作だ。その彼が「ほらふき男爵」のままここにこうしているのはなぜか。「ほらふき男爵」の物語をご存知の方なら、沼に落ちた男爵を男爵が彼自身の腕で引っ掴んで持ち上げるというエピソードをご記憶だろう。それと同じことで、ミュンヒハウゼン氏はほら話の中の自分を自分のほら話として物語ることによって存在しているのではないだろうか。ほらをふき終えるやいなや彼は存在しなくなるのではないだろうか。そうであるなら彼のほらは、虚言症者のそれとは正反対に、徹底的に自覚的な嘘に違いない。嘘と承知の上でしかも止めるわけにいかない醒めた嘘なのだ。
その晩、それ以上その場に居られなくなった私は、話の途中で早々に退席することにした。彼のことを不憫に思わないわけではなかったが、私にできることはなさそうだった。私には彼の相談に乗ることさえもできそうにない。私の推測が正しいなら、彼は嘘しか言えないのだから、決して本心を打ち明けることができないのである。それは辛いことだ。
私は、その後二度と彼のほら話に耳を傾ける気にならないのだったが、しかしもしあなたが彼の話を聞きたいと思うなら、彼の邸を訪ねてみるとよい。彼は喜んで例のほら話を聞かせてくれるに違いない。もしかしたら、実際にあなたを胸躍る奇想天外な冒険の旅に連れて行くと言うかもしれない。だから少しでも興味があるのなら、彼の邸を訪ねてみるとよい。私のこの話は本当だから。
夕日が涼しい色をしている。人形町の路地を練り歩いていると猫が塀をとんだ。くるんと丸まって立ったときにはもういない。
「とんだ!」
大はしゃぎの私をおぶった看護婦さんの肩のぬくもりを覚えている。私は4歳でもろかった。楽しみといえば野良猫の散歩をみるくらいであとは寝ていた。ほんとに弱かった。あの日、看護婦さんが猫の着ぐるみにならなければ、私は今日人形町にいないだろう。谷崎潤一郎生誕プレートを拝みになど来ていない。
看護婦さんが「にゃあ」と着ぐるみでやってきたとき、指先から腕肩頭背中太腿……ほとんどが猫そのものであったのに、足だけ布がなくてスリッパも履いていなかった。
「にゃおにゃお」とベッドを這ってきた着ぐるみより、はみでた素足が私には猫だった。はしゃぐふりをして土踏まずに触った。その肌色がおいしそうだった。看護婦さんは人間の声で笑って、私をこそばかした。私は揺れる足をじっとみていた。
路地を曲がると事務のアルバイト風の女性と営業風の男性が逃げるように連込み宿へ入っていった。私の高校生のころのようだ。私たちは互いに固くなって黙っていたが、思い切って裸になった私はどこよりも足を舐めた。彼女は何も言わず着替えて部屋から出ていった。私は欲望を封印しなければいけなかった。今日はいろんなことが思い出される。
目的地に近づく。
谷崎を知ったのは大学で知り合った吉田さんのおかげだ。梶井基次郎が好き、とゼミで言ったが私は梶井も知らないし、本は病室を連想させて嫌いだった。でも吉田さんの履く靴がとても彼女の足にあっていてやがて友達になった。思いきって自分の嗜好を告白すると、谷崎潤一郎「鍵」を勧められた。
夫が娘の恋人に泥酔した妻の裸を拭かせる。何よりも「指と指の股をちゃんと拭いてくれよ」と念を押して自分は妻の足の股を丹念に触る……これが日本の小説だったとは!
喫茶店で気を失ったことを話すと吉田さんは「最高」と言った。いよいよ谷崎生誕地がみえてきた。
あれは?
一人の男が座り込んでいて、隣に猿がいた。猿は男に何かを囁いている。男は遠い目をして猿にかまわず、なぜか手帳を抱きしめている。その手帳が命綱であるかのようにしっかりと抱えこんでいる。
死にたくなる薬が処方され、話す猿がいるという東京だ。手帳が好きな男がいたっていい。私も足を舐めるのに躊躇はない。住みやすいのか住みにくいのか。
谷崎潤一郎の生誕地に到着した。
合掌。
ドアを開けると床に人が倒れていた。
しかも、お尻を高くこっちに向けてなんか怪しげに倒れていた。
「何やってんのお姉ちゃん」
「……猫が背伸びする時のポーズ」
お姉ちゃんが苦しげな声で言う。
「なんか、変態に見えるよ……てかエロ」
私はお姉ちゃんを避けて部屋の角の灰色い冷蔵庫から牛乳瓶を取り出しながら答える。
「そ〜ぅ、結構きくわよ?菊もやればヨガ」
「ヤダよ」
短く答えて私は腰に手を当てて牛乳を飲む。冷えた牛乳瓶で飲む牛乳はやっぱり冷たくて美味しい。スーッと食道を通って広がるのが判る。
「よっこらしょっ」
お姉ちゃんは体勢を戻して胡坐をかく。
「ふ〜う、あたしにも頂戴」
「ん」
「サンキュ」
長くて細い指が私の手から牛乳瓶を受け取ってこくりと白い喉が動く。半分だけ瓶の中に残った牛乳をお姉ちゃんは飲み干した。
「美味しかった」
「あ」
汗ばんだその顔に私はドキドキした。
「どした?菊乃」
私は緊張を気付かれないように何も言わずにお姉ちゃんの目の前に屈みこむ。
お姉ちゃんの呼吸と匂いに鼓動が早くなるけど私は止まらない。
「お姉ちゃん」
「な、何?」
私の顔とお姉ちゃんの顔が近づけて真っ直ぐ目を見る。
どんどん距離が縮まって、そして……。
―プチ♪
「痛っ!」
突然のことに呆然とするお姉ちゃんから離れて私は右手親指と人差し指の間の戦利品を得意げに見せた。
「伸びてたよ」
少し太めの黒い鼻毛。
ゼノを呼び止めたのは、大通り沿いの森林公園だった。潮風を街から、恋人たちを羨望と憎悪の眼差しから守るために、その公園は作られた。ゼノはベンチに座って、周りを気にしながら、日課のスケッチを終えたところだった。私の姿を認めると、ゼノは矢継ぎ早に「あと数百歩も歩けば、家に帰れるし、マッチ売りの心配もなくなるんです」とまくし立てた。そして、マッチ売りの何が、ゼノにとって恐れるものとしてあったのか、という私の疑問に答えるべく、回想を挟んでくれた。
「ぼくはマッチ売りが怖かった。『マッチ売りの少女』という童話をご存知ですか。あれを読んだ時の驚きと言ったら、なかったです。ぼくは、マッチ売りというけったいな商売が成り立っていた時代の本を読みたくなって、お父さんに尋ねた。しかしお父さんはマッチを売るのに忙しくて、ぼくに構ってくれなかった」
ゼノはいささか抽象的な回想を終えると、さめざめと泣き出した。私は、悪いことをしてしまったと思い、ゼノのために数百歩を代わりに歩いてあげると約束した。するとゼノは喜んでこう言った。
「よくある冗談に『トイレに行きたいけど面倒だから代わりにいってよ』『そんなことが可能なはずはない』『ああ、ちげえねえ』というのがありますけど、あなたはそれを可能にしてくれるんでしょうか」
私はゼノに、質量保存の法則は、ニュートン力学とかそういったアナクロなものを考慮しない人には全然効かないものなのだ、と教え諭してあげた。ゼノはあまり要領を得ていない様子で、スカートの裾をぐるりとやり始めて、
「あなたは、まるで嘘みたいなことを言うんですね。ぼくはスカートなんか履いていませんよ」
と言った。私は、スカートのことはたいした問題じゃないんだ、と、ゼノのスカートを見つめながら言った。
「だから、ぼくは男の子だし、お父さんの女装趣味を受け継いでいるわけでもないんですよ、なんて、お父さんが女装趣味を持っているわけでもないのにこんなこと言っちゃいましたけど」
私は、すっかり呆れてしまったので、ゼノの手許にあったふっくらとしたパンに一撃を食らわせた。パンは無惨にもへこんでしまった。
ゼノのスカートが風に舞った。
あいつが学校に来なくなって1年近くが経つ。幼馴染だったけど5月ごろから学校に来なくなった。今、学年が変わろうとしている。もう中学3年だ。あいつとはもう全く会ってない。
新しく2年生に上がった時、僕はみんなと仲良くなっていった。だけどあいつの友達は僕だけだった。僕はあいつのそういうところを、少しずつ嫌になり始めた。あいつが学校に来なくなったのは、僕がそう思い始めた矢先のことだった。
最初はみんなも心配して、あいつの様子を僕に聞いたりしてたけど、ひと月も経たないうちに忘れていった。僕もみんなと同じように忘れていった。
あいつが忘れられた夏休み明けから、クラスでいじめがはやり始めた。クラスの一人が標的になった。発端は僕だった。少しだけ気に食わなかったそいつを、クラスの真ん中に置いておきたくなかった。多分そいつも僕のことを好きじゃなかった。端に置いておけば僕も嫌いやすい。そいつは学校にき続けているけど、どんな時も笑顔をつくって心を隠そうとしている。
昔はいじめなんてしたことがなかったけど、要領と環境が整えば簡単だった。2学期になってからは、僕の足首をつかもうとするやつを蹴り落とすことがうまくなっていった。その力が僕を支えた。
だけど最近3学期になった今、問題が起きた。いじめ問題がテレビやニュースで騒がれるようになった。周りのやつの目がよそよそしくなった。だんだん僕からみんなが離れていった。ニュースを聞いて僕もぞっとする感覚を覚えた。そいつへのいじめはなくなった。
今までの僕の力であった環境と要領は、今はそいつの手中にある。でもそいつには環境も要領も要らない。僕にはない大きな力をこの一年で身につけていた。
今そいつがクラスの中心にいるわけではない。でもそいつには僕たちクラスのみんな、いやもっと大きな、世界に対して大きな力を持っていた。
2年生としての終業式が終わった。今日僕は、誰とも話さなかった。僕は今、5月から学校に来ていない、あいつの家の前にいる。ただ動けずチャイムも鳴らす勇気のない僕がいる。頼る力のない僕がいる。
あぁ、お前は今どうしているんだ
勇気の先は見えたか
前進する手掛かりをつかめそうなのか
今回のことでお前への気持ちが蘇ってきた僕。
だけどお前への優しい言葉の陰に、お前の存在を当てにする僕がいる。……。
女の子って良いな。硬質じゃない感じ、フォーマルなスーツを着ていてもどこか柔らかみがあって、おしゃれしてふわふわな洋服を着ているのを見たときなんか、僕の心もふわり暖かく心地よくなるみたい。
僕だって女の子が好きだよ。だから髪の手入れとか顔の脂汚れとかムダ毛の処理とか、いつも気にしてちゃんとしてる。でも僕は小柄で痩せっぽちでカッコ良くなくて、女の子にモテたことなんか一度もない。それでも僕は女の子を見ると良いなって思って、僕のものになったらなっていつだって思ってる。
だから、他の人が聞いたらだからってわかってくれることはないと思うけど、僕、眠るときはネグリジェを着て寝てるんだ。だって、眠るときは身も心も暖かく、心地よく寝たいじゃない。柔らかいネグリジェは、身体も暖かく包んでくれるんだよ。怖い夢を見ても大丈夫、ネグリジェが優しく包んでくれるのが感じられれば、安心できる。
淡いピンクに小さな花柄が散りばめられた、ガーゼ生地の長袖ネグリジェの前ボタンを開く。生地が柔らかくて、手に持っているだけでもうふわふわ、夢気分になりそう。右腕を袖に通す。二の腕のあたりのリボン飾りのところだけ少しすぼまっていて、親指や小指が軽く擦れる。気持ち良くて、そのまま眠ってしまいそう。手首のところにもリボン飾りがあって、手首から体温が逃げないようになっている。出した手が寒くなっちゃう、このまま手を出さないでいちゃおうかと、迷っちゃうくらいにふわふわ暖かい。でもそれじゃボタンを留められないから袖から手を出して、左腕も袖に通す。そうしてネグリジェを羽織ると、ふわりとした感触が全身を包む。思わず目を閉じて、ほっと一息つく。開いている前がちょっと寒くて、上から順にボタンを留める。早く全部留めて眠ってしまいたいのに、でもそれすら待てずに眠ってしまいそうで、なかなか手が進まない。ベッドに腰掛けて、ようやく膝下のボタンを留める。
丸首と手首とポケットと裾にピンクのチェックのフリルがあしらわれていて、同色のリボンやボタンと合わせて可愛らしい。眠い目を擦って袖を通した手を見やる。ふわふわな女の子の袖がそこにあって、たまらなく安心する。吐く息はもう暖かくて、寝息のように穏やか。ベッドに潜りこむとガーゼがもっと体に触れて、もっと暖かくなる。これが僕の欲しい心地よさ。それに満足して、丸くなって目を閉じる。
おやすみなさい。
絡まったタイを緩め、草むらに寝転ぶ。
冷たい風が波のように、ほてった体を撫でてゆく。
スーツのまま草むらに寝転んでいるのは、
酔っているせいだけだろうか。
漆黒の闇に浮かぶ月は、大地や頬を照らす。
幼い頃、いつも不思議だった。
縁日。
賑わい人ごみで溢れかれる屋台。
緑亀を最中のお玉ですくう瞬間。
大きく成長し、売り物にならなくなったら、どこに行くのだろうかと。
ホームセンターで見かけるショーウィンドケースの子犬や子猫。
大抵、寝ているか、餌をもらう方角で固まっている。
モモンガ、セキセイインコ、モルモット、ハムスター、蛇、熱帯魚、残数が無いような在庫管理が行なわれているのだろうか。
喉がやけに渇く。
土手まで下り、河の水を四つん這いになり、わざと卑猥な音たてて飲む。
血の味しかしない。
どこかで、口の中を切ったようだ。
シャツで拭うと赤く滲んでいる。
勝手に第三カ国と名づけ。
馬鹿みたいに安い人件費で働かせる。
自立させるためには、援助は必要ない?
だったら、対等な賃金、労働条件にさせなよ。
日本の地方にも、そのシステムが押し寄せてきている。
産業の空洞化は、今に始まった事ではない。
金持ちの子が金持ちの子を産み。
貧しい子が貧しい子を産む。
TVでは、巨乳グラビアアイドルが、
尻のような胸を出し、はしゃぎまわり、楽しさを演じている。
「これぐらい媚売っとかねぇと出られないんだよ。文句あっか。」
悲壮に満ちた声がする。
俺らもくたびれ果ててるものな。
こいつら見て楽しんでたら、安いものか。
納得する。
呼吸しているこの数秒の連続。
国の借金は、増え続ける。
草原は砂漠化し、
地雷で農民の足は玩具みたいに飛び散り、
氷塊は、音をたてて溶け出す。
地殻の変動が聞こえるか、生い茂った草を掻き分け、耳をたててみる。
聞こえてくるのは、自分のアルコールにまみれた心臓の高鳴る鼓動ばかり。
雑草のむせかえるような青臭さ。
睾丸の左右の大きさで、いつも論争になり、
8歳も満たないストリートチルドレンは、
金を持った外国の男どもにペニスでえぐられる。
羊の血一滴をも活用するように、
臓器をとられ、殺される。
木々の中を駆け回りながら、水面に映る影と踊る。
雲の切れ間から月が見え隠れしている。
俺は野犬となって、夜吼える。
得体の知れない怒りに突き動かされ。
それでも子供達の目は、大きく瞬く。
真昼に光り輝く星のように。
後味の悪い事件だった。
嬰児誘拐。
昼過ぎから降り出した霧雨。ショッピングセンターの入口で、母親が折り畳み傘に手間取っている僅か数分の間に、ベビーカーに乗せられていたはずの娘が消えた。まだ首も座らぬ2ヶ月の乳児だった。4時間後、父親の職場に身代金2億円を要求する電話が入った。
状況から店頭で着ぐるみのアルバイトをしていた男――以前、被害者の父親の同僚だったことがあり、母親とも面識があった――が犯人だと断定されたが、事件発生から18時間後、県警に身柄を確保されたとき男の手元に娘はおらず、また共犯者の痕跡もなかった。誘拐の直後、娘をバラバラにして複数のゴミ集積場に捨てたと男は証言した。身代金が要求されたとき既に娘は殺されていたのだ。そして、犯人が逮捕された時点で遺体のすべてはゴミ焼却場の炉の中に消えていた。
「奥さんの取り乱し様なんて、気の毒すぎて見てられませんでしたよ」
実際、新米刑事である川本にはショックの強い事件だった。何の躊躇いもなく乳児の身体を破壊できる人間がいるということがどうしても信じられない。
「近頃じゃこういう事件も珍しくない。慣れるしかないぞ」
ベテランである山口の表情も固い。被害者は殺され、遺体さえ戻らない。考え得る限り最悪の結末だった。しかし――
「被害者が生きてる!?」
男が証言を翻したのだ。警察を挑発するために殺害を仄めかしたが、実際には誘拐の直後、隣県の病院へ車を走らせ被害者を赤ちゃんポストに捨てたのだ、と。病院に照会すると、確かにその時刻に預けられた乳児を保護しているとのことだった。母親は狂喜した。署内に安堵が広がる。
「ポスト?」
「ああ、事情があって育てることの出来ない乳児の受け皿としてK県の病院が設置したものだ。賛否両論あるが、今回ばかりは被害者を救う役目を果たしたわけだな」
誘拐事件の場合、逃げるにしろ隠れるにしろ被害者を連れたままでは犯人の行動は著しく制限される。だから、追い詰められた犯人は被害者を殺してしまうことも多いのだ。今回の事件では、匿名で安全に乳児を遺棄できる仕組みが犯人を身軽にするために上手く利用されてしまったのである。
「しかし、だ」
山口は川本を会議室の隅に引き込んで、そっと耳打ちした。
「母親は娘が戻った喜びに涙を流して喜んでるんだがな。父親は首を傾げてるわけだ――これは我が子じゃない、と。さあ、嘘を吐いているのは誰だ?」
今日のような天気の良い休日にあの人は、家族でディズニーランドへ遊びに行ったり、上野公園でボートに乗ったりしているのだろう。
ディズニーランドやボートは別れるジンクスがあるからと一度も行かない。もっともらしい理由をあの人は言ったつもりだろうが、そんな事、家族を思い出すからに決まっている。家族を捨てなければ、別れると何度口にしたろうか。今回の別れ話も、いつの間にかなし崩しに消えてなくなると、あの人は高を括っているに違いない。
日曜の朝九時半に、茶の間のテレビの前で頬杖をつきながら、私はそんなことをだらだらと考えていた。
「おい、美和子、多摩川へ行かないか」
そばで新聞を読んでいた父が突然そう言った。
土手の草はまだ枯れていて、歩くたびにかさかさ鳴った。ふきっさらしの風は思ったほど寒くなく、かすかな春の気配を感じる。
私の前を黙々と父は歩く。話し掛けようにもきっかけがつかめず、私達はそれほど狭くもない土手の上を一列になって行進していた。
父がやっと立ち止まって私を振り返った場所は、ボート乗り場だった。
「ボートに乗らないか」
きしむ船底を踏んで、腰が引けながらも恐る恐るボートに乗り込むと、父は軽い足取りで私の正面に座り、慣れた手つきでオールを手繰る。
「お父さんとこうしてボートに乗ったの、初めてだけど漕ぐの上手だね」
「そうか?ボートはたくさん乗ったからなあ」
「ふうん、誰と?お母さんと?」
「ふふん、いろんな人とだ。いろんな人と乗って、いろんな人が降りてそうしてお母さんと出会ったんだな」
「ふうん」
「うん、そうだ。そうなんだぞ、それだからなあ……」
父は一生懸命言葉を探していた。勘がいいわりに的外れなこの人は、私が失恋でもしたと思っているのだろう。私がよその家庭に忍び込み、すっかり奪い取ってしまおうとしているなんて思いもしないで。
「うわ!おとうさん!」
「おお!いきなり大声出すなよ、びっくりしたじゃないか」
「ねずみが浮いてるよ!」
猫ほどの大きなドブネズミの死骸が、ボートの横を流れていく。
「左旋回!左旋回!」
父は、オールをぐるぐる回す。
「やだ!お父さん、ボートが回っているだけだよ!」
私はむやみに声を張り上げる。
「お父さん!お父さんたら!」
「あれ!なんだ!この!」
ドブネズミの死骸は、やがて渦に巻かれて川底へ沈んでいく。
父がオールでたたく川面に、しぶきが上がってきらきら光る。
この世界から蜜柑が姿を消して、もう7年。当初の混乱も収まり、世間は蜜柑のない生活に順応しつつある。俺も慣れた。勿論それも、以前よりは、という意味でしかない。俺はまだ、あの橙色の果実のことを思い出すことがある。眠れない夜なんかに、時々だ。
「蜜柑って、どんな味だったかしら?」
隣の女がそう尋ねる。
「甘かったのさ」
「甘いんだ?」
「ああ、そして酸っぱかった」
「甘酸っぱいの?」
「いや、違う。甘くて、酸っぱいんだ」
そうだったかしら。彼女はそう呟いて、爪の手入れを再開する。その薄い、美しい爪に、あの原色の分厚い皮が挟まることはもう有り得ない。俺は蜜柑のことに思いを馳せる。
どうしたって、時は過ぎる。蜜柑があろうがなかろうが、俺は年をとり、彼女は妊娠して子供を生み、その子供は蜜柑を食べることなく、大人へと成長してゆくのだろう。もう誰も、蜜柑を食べ過ぎて手が黄色くなることを心配したりはしないのだろうし、セックスマシンガンズの「みかんのうた」も、その意味を失うのだろう。俺は愛媛県人のことを思った。彼らに比べれば、俺の絶望など、些細なことなのかもしれない。
半年ほど前、蜜柑が発見されたという報道があった。ある者は驚き、別の者は喜び、そして、多くの者は無関心だった。しかし発見されたのは蜜柑ではなく、八朔だった。ふざけた話だ。
俺は蜜柑のことを忘れたくないと思う。なぜならば、俺は蜜柑が好きだからだ。もう一度言う。
俺は、蜜柑が、好きだ
いつだって、蜜柑は傍にいてくれた。辛いことがあっても、炬燵に入って蜜柑を食べれば幸福な気持ちになれた。蜜柑は俺に、多くのビタミンCをくれた。俺から蜜柑に捧げられるものは何もない。せめて、この思いだけでも届けばいいと、俺は願う。
「どうしたの? 難しい顔をして?」
女が俺の腰に手を回す。
「消え去ってしまった物について、考えてた」
「やめましょう、そんなこと。私はここにいるんだから」
「……そうだな」
俺は女の細い肩に手を回し、引き寄せる。確かな重みを体に感じる。その感覚を楽しみながら、そっと唇を近づけて、甘いだけのキスをした。
僕は自殺した。
まさか、自分が自殺するとは思わなかった。
時々、テレビのニュースで中学生や高校生がイジメや将来の不安とかで自殺してしまうニュースを見ていた。僕はそれを見て。
「くだらない。弱虫だなぁ。」
と思っていた。
思うだけだと思った。
だけど、進学してからだった。親の転勤で引越しをした。まったく知らない町。まったく知らない場所にきた。誰も知らない町の誰も知らない学校。行く前、差ほど気にはしなかった。しかし、それは甘かった。
「どうせ、すぐに友達が出来るだろう」
本当に甘かった。
最初の数日はちらほらと話した。一ヶ月経つと、僕に話しかける人は居なくなった。勇気を持とうとクラスの人に話しかけた。だけど、話は続かず、彼は言った。
「つまんない。っていうかお前いたっけ?」
名前も覚えられてなかった。
休み時間が辛かった。昼休みは得に辛く、図書室で本ばかりを読んでいた。
家では親の前で気丈に振舞ったが、部屋では素の自分になっていた。
引き出しのカッターを自然と手に取った。
切った。
切った。
切った。
血が流れ、心が落ちついた。
半年経つと、何も感じなくなった。
自然と窓辺や屋上と高いところへ足が動いた。
本にも書いてあった。「辛くなったら逃げても良い」と、
授業中、僕は突然立ち上がり教室の窓へ歩み寄った。先生やクラスメートが何か言っているが何も聞こえない。
落ちた。
3階から真っ逆さまに、痛みは無かった。自分を上から見たが、特に怪我はしていなかった。頭の打ち所が悪かったのか、死んだ。叫び声や塞ぎ込む人がいたが、僕には関係ない。自由と思った時、突然体が空へ引っ張られた。意識が無くなった。
僕は今、地獄にいるらしい。鬼にも遭った。本当に角と虎柄のパンツを履いて、
どうやら僕は殺人の罪らしい。よく分からない。考えることが出来ないのだ、唯只管、労働作業をしている。僕と同じ年位の人から僕のお婆ちゃんより年が上の人もいた。
後悔はした。
もう少し頑張ればと思った。
唯、母さんのカレーがもう一度食べたいと思った。
涙が零れた。でも拭うことは出来ない。それが何なのか忘れてしまったから、
「これから引越しだ、知らない町だな。まぁ、どうせすぐ友達も出来るだろうし、一人のほうが楽だろう。とりあえず、少し寝るか。ファ〜ァ・・・・。zzz」
孤独は人を殺す。死はアナタの背中に常にある。消して離れぬ影のように・・・・。
水曜日。言い知れぬ不安に苛まれたまま、玄関に置いたアルミ鍋をかぶって、冬空の国道を僕はスーパーへ急ぐ。
「檸檬はあるかい」
「蟹ならありますよ」
スーパーの制服を着たアルバイトの女の子が答える。
「蟹かい」
「ええ、蟹です」
僕は蟹を一匹貰って代金を払う。内ポケットに入れた蟹はざわざわと動いてますます僕の不安を煽った。歩くたびに頭の上で揺れるアルミ鍋が、短く切った髪に擦れてちりちりと鳴り続けた。
生暖かい土曜の夜に、少しだけ強い雨が降った。一晩続いたぬるい雨は、街中の言葉を洗い流した。言葉は排水溝を伝い、すべて川へと流れ去った。そうして初めて僕は気づいた。言葉は既に死んでいた。週末までビルを飾っていた言葉たちは、まるで蝶の標本のように煌びやかに死んでいたのだ。死んだ言葉を失くしたままで、看板も標識も広告も、色のない空白を血まみれの夕空に浮き立たせる。無数のビルはどれも同じ灰色をさらけ出していた。僕はもうずっと前から、匿名の遺跡の住人だった。そのことを思うと、僕はたまらなく不安になるのだ。
赤銅色の街はやがて黒く、夜に混濁する。僕は国道ぞいの大きな書店に足を運んだ。軒先ではたくさんの文庫本が山になって、どれもからっぽの白い内臓をさらしている。濁流となって溢れた言葉に押し流されたのだ。その上を何匹もの蟹が歩いていた。蟹がこんなに多いのは、死んだ言葉を食べて増えたからだ。僕はかぶっていたアルミ鍋を山のてっぺんに置いた。ライターで本に火をつけて、蟹を拾って幾つも鍋に放り込む。内ポケットにいた奴も一緒に入れた。くつくつと湯気を立て始めた鍋を前に立っていると、街の人々がやってきて、葱やら蕪やら豆腐やら白菜やらを投げ込んだ。
賑やかな蟹鍋パーティーが始まった。真っ赤に茹った蟹を僕たちは腹いっぱい食べる。どの顔もみんな喜びにあふれていた。とても素敵な気分だった。どこからか詩人が現れて、街中が一緒になって歌った。ハレルヤ。磔された言葉たちは、ようやく世界を廻るのだ。あるいは海の底深く、ひっそり目覚めを待つだろう。あるいは樹々の根に吸われ、風に小鳥と歌うだろう。ハレルヤ。今ふたたび世界はほんとうに生まれる。ほんとうに生まれてほんとうに死ぬ。世界は輪廻に還るのだ。
見上げると凍った空に檸檬色の月がある。今にも破裂しそうに熟した月が、名前のない灰色のビルたちの上に冴え冴えと乗っている。ハレルヤ。
先生、わたしは、書く努力を、しなさ過ぎた。
子供達は右手が三本あったり、左目が六つあったりする。リノリウムの床はべとべととしていて、訳の解らない水分に緑色がぎらぎらしていたりする。それを器用に踏み分けて子供達は影ふみ遊びをしている。
先生は手が七本ある女の子を手術台に載せた。
女の子は、手がたくさん生えてきてしまうのだ。
先生は、その腕を、細く、肉の無く筋も無く骨も溶けていて、既に手なのかなんなのか、そのようなものをメスで慎重に選り分けながら切断していく。先生の娘には手が沢山生えてきてしまうのだ。
先生は手を全て切り落とし、女の子に包帯を巻いて、ソファに横たわる。
「先生」
「ああ」
「先生、わたしは、書く努力を、しなさ過ぎた」
「ああ」
「先生、わたしは、書く努力を、しなさ過ぎた」
先生は汗をぬぐいもせず、遠くを見ている。
「確かに、人の歴史は戦いの歴史だ。我々は、そう生きている。だが、だがそれがどうした。どうしたというのだ」
ネオンサインの下で男はわたしに向かって語る。
「我々はそう生きている。それが我々の本質の一部だ。それが我々だ。そして、我々は、我々の、一部だ。
だから、だからスピーカーを作ってくれ。
金ならある」
煌くネオンサイン。超巨大スピーカーの群れ。ぴかぴかと輝く超技術スピーカー。
「先生」
「なんだ」
「先生、わたしは、書く努力を、しなさ過ぎた」
「ああ」
「先生、わたしは、書く努力を、しなさ過ぎた」
「ああ。そうだな」
煌くネオンサインの下。超巨大スピーカーの群れ。ぴかぴかと輝く、超技術スピーカー。
「くそ、ここはどこだ。ただの花園か。
くそ。
おおい、誰かいないか。
くそ。
我々のタイムマシンでは、ここまでか。
くそ。
私は未来人だ。未来から来た。
君らは滅ぶ。もってあと少しだ。しかし気にするな。ピテカントロプスもアウストラピテクス滅んだ。どうぶつもしょくぶつも、もりも、うみも、滅んだ。滅び続ける。私達も、滅びかけている。
滅ぶ。
滅ぶんだ。
とにかくだから、気にするな。
私はただ君達を見たかった。ただ見たかっただけだ。だから気にするな。
滅ぶ。
気にするな。
ああ誰かいないのか。
花か。
これが花か。
くそ。
誰かいないのか」
子供達は沢山ある手を器用に使い、スピーカーを作り続けている。
「先生、わたしは、書く努力を、しなさ過ぎた」
花園にどこまでも連なっていくスピーカー。
音楽はまだ無い。
音楽はまだ無い。
憂鬱になると無性に女が抱きたくなる。
抱くのは男のほうで、抱かれるのは女のほうだということになっているけれど、相手を深く受け入れているのは女のほうで、どんなに懸命に腰を振り、汗を飛び散らせたところで、男はいつも女に抱かれているのだと、風呂にはいりながらそう思った。
まるで子どもみたいにブクブクと湯船に頭を沈めると、股の間にさきほどまであれほど怒張していたチンポコが、どこか恥ずかしげにちんまりと縮こまっているのが見えた。今の自分もちょうどあんな具合で、このままトロトロと湯に溶けてしまって、原形質にまで還りたいと思うも、溶け出す前に息が続かなくなって、顔をあげる。
溶けることが出来ないならば、せめてこのままずっと湯に浸かっていたいのだが、すでに少しのぼせ気味で、それだから湯に溶けてしまいたいだなんて、馬鹿なことを思うのだ。
けれどもそんなことを思うのは今だけのことではなくて、奥底まで届けと、抜き差ししながら、出来ることなら自分自身もまた、少しづつ相手のなかへと入り込んでしまって、果てるころにはすっかり包み込まれていたいと、そんなことを考えていて、それが適わぬことだとわかっているから、乱暴なほどに腰を使って、卑猥な言葉を耳元で囁きもする。
薄いゴム越しに絡みつく肉壁の温かみが伝わってくるのだが、それは相手のものであって、自分のものではない。一人でいるより、誰かと一緒にいるほうが、はるかに自分がひとりきりなのだと、思うことがあるなんて知らなかった。今こうして肉体を繋いで快楽をともにしていても、その快楽の高まりかたはそれぞれ別々で、一緒にイクことすら難しい。いくら相手の体液を吸い、自分の体液を相手に吸わせても、それによって互いの体液で満たされるなんてことはなくて、本当に一緒になれることなんてないんだ。
でも、と再びブクブクと湯船に沈みながら思う。
自分ではない誰かが、こんなにも深くまで、自分を受け入れてくれているのも確かで、快楽で火照る身体とは別に、泣き出したいような安堵の気持が、相手の体温から伝わってきて、彼女の身体の裡に抱かれながら、白い涙を流す。
それが卑猥な比喩ではなしに、本当に涙なのだとしても、「知ってるか? さっき俺、泣いとったんや」なんてことはいう必要がなくて、勿論いいはしなかったから、「知ってるよ」なんて返事があったとしても、それは多分空耳だったんだろう。