第53期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 かぴばら タコトス 1000
2 otokichisupairaru 996
3 久貞 砂道 377
4 太陽のモダニズムと月の背徳 ミンスク 925
5 はなこ 905
6 いないないばぁ ライス 999
7 B&B 5or6 1000
8 耳掃除の話 公文力 1000
9 Moon Brige 前川千弘 907
10 新しい自転車 スポック 452
11 眠らない羊飼い 八海宵一 1000
12 揺らぐ青い影 藤田揺転 1000
13 同じ場所、近い場所 Lolly.、。 786
14 そらのいろ aqua. 779
15 スキナコト T,J 215
16 非線形性 makieba 1000
17 湯豆腐 宇加谷 研一郎 1000
18 クロッカス 与一 285
19 スノーマン 熊の子 995
20 擬装☆少女 千字一時物語8 黒田皐月 1000
21 秘密 長月夕子 1000
22 バトン たけやん 1000
23 ドア えんら 1000
24 みやび 三浦 987
25 海雨 心水 涼 439
26 おいしい虚像 戦場ガ原蛇足ノ助 969
27 原付と雨 outro 829
28 人生、OKルール ハンニャ 824
29 ドクトル qbc 1000
30 ターンオーバー もぐら 997
31 トリニティ hydel 763
32 バリエ るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
33 ベイクドケイク 壱倉柊 1000
34 木の子ステーキランチ(ナスビ入り) 曠野反次郎 999

#1

かぴばら

さてさて
今ネットで「かぴばら」と検索しているのだが……
検索結果約3020件。幾つかのサイトをのぞく。
表示された「かぴばら」の写真を見て、僕は2年前に学校行事で行った北海道 A山市 A山動物園で会った一匹の「かぴばら」を思い出していた。
 
平日にもかかわらず来客は多かった。
そのせいで人気の動物は人ごみで見えず、一人退屈していた。
何気なく園内地図に目をやる。「クモザル&かぴばら館」というのがあった。
クモザルという響きに、興味を持った僕は早速そこに向かった。
気がつけば雨が降っていた。僕は着ていたパーカーのフードを被る。
 
クモザルは雨のために外の遊技場でなく館内で眠っていた。
クモザルが想像とは違ったので僕はがっかりした。
 外に出て遊技場を見ると奴はいた。
なんてふてぶてしい態度だろう。
ああ、小突いてやりたい
眼を細くし、こちらをじっと見つめてくる。「見てんじゃねぇよ」とでも言っているかの様な顔をした「かぴばら」に僕は話しかけてみた。
「そんな狭いところにいて気分悪くないかい」
「そりゃあお互い様だろう」
かぴばらが返してきた。見た目通り生意気言う奴だ。僕も言い返す。
「どういうことだよ」
「寒いなぁ」
「おい」
「腹がへった。何か持ってきてくれ」
「聞いてるのかよ」
「こんな日はじっとしているのが一番だ」
まるで会話が噛み合わない。
人と動物なんてこんなもんか。その場を去ろうとした時。
「人と人が解りあうことなんて無理なのさ」
奴が言った。
人同士じゃないだろが。そう突っ込もうかと思ったが。
「元気出せよ」
そう言った。
こいつもしかしたら僕を励ましてるのか
殆ど閉じた瞼の向こうの輝いた眼を一瞬、僕は確かに見た……様な気がした。

高校に入学した僕は、友達と呼べる友達ができなかった。
親しくなった奴はいたけど、皆どこか一線を引いているような感じがした。
そんな気持ちが今回の動物園見学で、僕を一人にしていた。
最も、僕自身も何処か心の奥に一線を引いていたのかもしれない。

俯いていた顔を上げると、細くしていた瞼を完全に閉じてかぴばらは眠っていた。
ちらと眼を開けて
「さっさと行けよ」
という顔をする。
時計を見ると、集合時間5分前だった。
「じゃあな。明日晴れるといいな」
そう言いながら僕は奴に背を向けた。
「今度来る時は餌でももってこいよ」
そう返してくる。
僕には、今度来るときは友達でも連れて来いよと言ったように聞こえた。
様な気がしたのだった。


#2

「僕は、嘘をつくことが嫌いだし、相手につかれるのも駄目なんですよ。」
男友達と新宿の末広亭で、寄席を見た帰り、一杯居酒屋に立ち寄った。
日本酒をおいしそうに飲んでいる。
熊のように毛むくじゃらな男。
人を真っ直ぐに見て話をする。
言葉通り、本当に正直な人なのだろう。
瞳が澄み切って、吸い込まれそうだ。

この場所まで歩く途中、空を見上げた。
高層ビルの間に月が顔を出していた。
「寄席、初めて観ました。大笑いっていう訳じゃないけど、なんか面白かったです。」
大きなディバッグがゆらゆら揺れている。
私は、落語家達の手つき、物腰、出囃子の太鼓の音を思い返す。

店内は満席。
にぎわっていて、会話がかき消されそう。
マスターは、店員に叱咤しながら料理を出す。
私はその光景に、いたたまれなさを感じる。
「好きなタイプってどんな感じですか?」
「決まっているよ。賢い人。」
これは、本当。

熊は、言葉の持つ意味や自分の気持ちを良く考えてから話すようだ。
長い間があって、
「じゃぁ、今の彼氏はそういう人なんだ。」
私の婚約者は、人の話をじっくり聞いてくれて、誰に対しても公平、道徳心もある。
これも本当。

私の話を熊は、静かに聴いている。
彼は、眼と唇の横にかすかな傷を持っている。
大学時代、車で出掛け、事故にあった。
フロントガラスは割れ、上半身が投げ出された。
記憶は断片的に残っていて、右足の皮膚を、腰から移植し、左足の関節に少し後遺症があるそうだ。

相変わらず、店員の一挙手一投足をマスターは、注意している。
「全く飲めないんですか?」
熊は言う。
何度も使いまわされた言葉を私は、唱える。
そう、一滴も駄目。
飲むと走らずには、いられなくなっちゃう。
それも、場所が決まっているから厄介。
校庭を何度もぐるぐると回りたくなっちゃうの。
これも本当。

熊は、笑う。
私は、ほっとする。
店員にもこの会話が届いて、笑ってくれればいいのに。

「俺、家庭持ってその人と幸せになるのが夢なんですよ。」
いいねぇ、私は最後の一口を飲み干す。
「そう言う人、いつ現れるんだろう。」
「良い子見つけてあげるよ。」
私がそう言うと、彼は店員に勘定をお願いした。

帰り際、大きな背中を見ながら寂しい気分になる。
私は、自分に嘘をついていると確信する。
出来れば、このまま一緒にいたい。
本当は、完全に彼の瞳に吸い込まれている。
彼の誠実さ、健全さが胸に痛い。
バラバラになりそうな気持ちを抱えて、月夜を歩く。


#3

ある朝目覚めると彼女は一輪赤いの花になっていた。
仕方がないので鉢を買ってきてそれに植えた。

毎日決まった時間に水をやり、たまに肥料をやった。
花に明るくない私は花の名前など知らなかったが
その花はとても美しかった。

私は家にいる間は花を常に傍らに置いた。
花は私の心をすっかり奪ってしまった。
特に心地よい音楽をかけながら、お気に入りの白い椅子に腰掛け、
好きな作家の分厚めの小説をゆっくり読みながら
たまに花を眺め過ごす。
この時間が私にとって一番の幸福であった。
花は美しかった。


ある朝目覚めると花は彼女に戻っていた。
彼女は花に詳しかったので花の名前を尋ねてみると
すぐに教えてくれた。
その花の名はよくは知らないが
本の中でなんとなく読んだことがあるような
そんな名前だった。

私はその花を近所の花屋に買いに言った。

花は、美しかったのだ。


#4

太陽のモダニズムと月の背徳

 朝の集荷を終えて、一服しているところで電話があり、配達のため国道の土手をハイエースで走っていた。道沿いの野原に屈み込んだ人の姿が見えた。赤いランドセルを背負っているので小学生だろう。別に構うことはないのだが、おかしく感じて思わず車を停めてしまった。ここは最寄の住宅街から約3キロほど離れていて閑散とした、子供があまり来る所ではなかったし、安全に遊べる所とも言い難い。そんな場所へ来るのには、子供なりの大事な理由があるのだろう。暫く見ていると、それは小学校低学年くらいの女の子のようだ。ただひたすらに地面を眺めている。大きなススキの揺れる野原で、彼女は瞑想をしているような佇まいだった。風を感じているその心が、澄んだ空気を吸い込んだのを遠く確認して、僕は車を発進させた。
 日曜日といっても、無趣味で何もすることがない僕は、だから少し歩いてみることにした。散歩をするという行動は、無数の考えが採りとめもなく頭を巡る。そのうちのひとつにこの間の小学生のことがあった。それで、その小学生がいた場所へ来てみた。ススキ野原と、ぬめった粘土のような土。ここに来ることにあの子はどんな意味を持っていたのだろう。多分この間、彼女が居たであろう地点に来た。何か地面が掘り起こされた形跡があるので、少し土を掘り起こしてみると、花が埋められていた。この花に彼女はどんな意味を託しているのだろう。僕は一服して立ち去った。
 何週間か僕の日々が過ぎ、何度か雨が降り、ぐっと気温が下がった。配達でいつもあのススキ野原を差し掛かるとき、ランドセルが見えないものかと目を凝らしたが、あの日以来その存在を確認できてはいない。これだけ寒くなったから、もうここにあの子が来ることはないのかもしれない。だが、せめてあの花が埋められてあった場所に、喫茶店の地図を書いたメモを残すことにした。
 いくつかのドラマの最終回を見た。外に出れば桃色の花が光っている。僕は丘の上の喫茶店に行き、あの小学生が来たら渡してくれとマスターに頼み、小花の模様の花刺しを預けた。希望じゃなくても、笑顔のために生きていくのも良いと思う。その夜、東京行きの夜行バスに乗った。月はどこまでも細長く、行き先を追い掛けて来た。


#5

 其れは、良く晴れた或る春の日の事だった。
 桜色の花弁も、薄い雲も、青空の下草原の上、私を残して風にさらわれて行く。影達も逃げる。私を残して。昨日新しく削られた毛先はいつもよりうるさく顔を触ってくる。白いシャツの衿は陽を辺りに散らして、紺のブレザーは頑なに風を知らない。灰色のスカートはへらへらと太股を擽り、其れより確実に芝の葉は私を刺す。私は鎧を着て無防備に桜の根元で春風に晒されて居た。
 「何してんの。」
 慎二が来ても、私の目も口も、知らんぷりを続行する。
 影も同じ。
 「何してんのって。」
 もう一度、同じ。
 「…良いの?」
 「…良い。」
 口は気付いたらしい。他はやはり、知らんぷりを貫きたがる。
 「南帆、もう行ったんじゃない?」
 「じゃあもう遅いよ。」
 …また、風が騒ぎ出した。天使の輪の乱れる墨色の髪の頭上、春に心躍らせる木の根より少し右、太陽を気にした浦公英が踊る。
 「…なあ、良いの?」
 「良いの。約束したから。」
 「約束?」
 「うん。」
 「見送りに行か無い約束?」
 「…そんな感じ。」
 「ふーん…。」
 風は遠慮を知り始めたらしいけど、今度は陽が色を囃し立てだした。
 「振ったんだ。」
 「………あー、やっぱ知ってんだ。親友だもんな。…うん、悪い。」
 「私が告白したんじゃないから。」
 「あ、ごめん。」
 私は、起きる事にした。スカートの裾を足で押さえて三角座りをした。卸し立てのローファーは濡れたみたいにテカテカ光る。
 「…卑怯かもね。」
 「誰が?南帆?」
 「だって、今日から引っ越すって日に告白するなんてさ。」
 「でもそう言うモンじゃねぇの。」
 「…ふーん。」
 「泣いてたよ。」
 「…ふーん。」
 立ち上がった。私は黙って幾メートルか先の花壇まで歩いた。
 春臭かった。


 南帆と、約束をしたのだ。暗黙の約束。確認し合う約束。
 親友と呼び合う約束。
 互いが慎二を好きに成った時、互いの心が晴れて居なければならないような約束。


 私は、約束をしたのだ。今。
 南帆が振られたのなら私は告白をしない。
 南帆が泣いたのなら私はもっと泣いてやる。南帆よりももっと。


 「好き。」
 果敢無い恋色の花弁に託す、一欠片の愛。


#6

いないないばぁ

 彼女が忘れていってしまったマフラーが、もう二週間も枕の近くに置いてある。僕達はもう別れてしまっているみたいで、
本当はこれを早く捨てて歩きたい。影みたいについてくるから。しょうがないので巻いてみたりもした。
そして、首を一本折ってようやく、終わる。
そうなったら虚しさだけが、いつまでも込み上げてくるんだ。何回も、夕方に君に向けて言ったことが、いつまでも耳から離れない。そこで僕は、ナイフ突き付ければよかった。何回だって自分の醜い部分を切り落とせるから。
何度も何度も膿を出しつくす。綺麗になりたい。できるだけ綺麗になりたいんだ。
そうじゃなかったら、美しくなかったら、綺麗じゃなかったら、生まれてきた意味なんかないから。
 損ばかりで相手にされないし。そうだって。風を受けて髪が浮いてその顔が誰かの目と合うと、アウトされるし。もう、嫌だから。しょうがねぇから、膿を吸い出してくれ。何度だって殺されるごとに生きかえらせられる。それを繰り返した後、うまくいけば彼女と会える時間がやってくることがあるかもしれない。ペンチで足の指を一本一本、握り潰す。それが全部終わるころ、ようやく、月が僕のものになった。ようやく、世界が変わり始めた。ようやく、すべてが滅んでいく。
 僕は平気な顔で、なんのためらいも無く彼女の胸を触りながら、眠りにつくんだ。
朝も夜も、俺一人、そこで、俺は、まぁるい月を、まぁるい蛍光灯で確認する。
 高層ビルが威張りながら、街を独占する。俺は蔓延るビルたちに向けて、ダイナマイトを仕掛けようとする。ほら、あいつらが、我が物顔で居座ってるのに、僕らは心無くして寄り添って過ごしてる。みんなが夢中になって、それぞれ違うモノやヒトに夢中になって過ごしていく。
悲しみを嘔吐と一緒に排水溝に流し捨てても、また雨になって戻ってくるんだろう。そんなことよりも、いつも似てる感じの人を目で追ってしまう。
「その癖、治した方がいいよ。」っなんて、分かってるけど意識してできるものじゃないから。
遠くで猫がひかれてる。近くでは鳥の首を食っている。そして、僕はすべてを貪って後から出す。星が消える前に、そう長くはない、時間の中に。
僕は君の心と、うまく適応させるために震えるから震えるから
もう少しだけ居させてくれよ。朝になるまで消えないで。
ほんの少しだけでもいい、一緒にいてくれ。もう一瞬だけ。
この部屋から二人いなくなる前に。


#7

B&B

あらすじ
ボビーとベンが日本に来た

HAHAHA〜!ついに俺たちもジャパンにカミングアウトしたな ボビー

オー ベン 使い方間違ってるぜ俺たちはソウルメンだろ?

イエスボビー!HAHAHA〜!それはそうとスシヤマは何処だい?

スシヤマってベン お前がいいたいのはフジヤマだろ?

HAHAHA〜ボビー!イエス!イエス!イエス!
(両指でボビーを指してる)

マイガー!ハウスアンドシッダウン!ベン!

どうしたんだボビー!そんなにドギーに怒ったら俺のスキーズもフリーズだぜ?

ベン 今の指を銃みたいに指すジェスチャーはまさにデンジャラスパフォーマー もう少しでお前のピーター・ポールズ・アーモンド・ジョイが打ち抜かれる処だったぜ

オ〜ノ〜!
(ベン パンツの中身を確認する)

オ〜ノ〜!ボビー!まだ俺はゲイシャガールズとエンジョイしてないんだ!俺のピーターほにゃららをショットしちゃ駄目だいっ!

ベン お前には黙っていたが実は俺達二人だけでこのジャパンに来たわけじゃないんだ

セイホァ?ボビー
もしかもしかもしもしももしかして…

イグザクトリーベン

マイマザーも一緒だ

オースピーク・ラーク!グッゴー!プ○ッシー!コッ○ミー!¢♀ε%!
(禁止スラング満載です)

するってーとアレか!
ボビー!お前のマザーに

ズドン寸前だったって事さ

なんでぇ!なんで銃持ってこっち来れんの!ティーチミー!

ベン!ドンクライ!俺たちはファミリーだ!お前を見捨てたりしないぞ!

ア〜ボビー…ボビー…寒い…寒いよぉ〜

ベン!しっかりするんだ!お前が楽しみにしていたカブキシティーにいくんじゃなかったのか!ドンスリープ!ベン!

ハァハァ…ボビー なんで俺は今‥死にそうなんだ…教えてくれ…オー!ジーザス!ハァハァ…

ベン!俺にもわからん!

ハァハァ…俺もいつまでこうしてるのか見当もつかないぜ〜ハァハァ〜ボビー!ボビー!

ベン!ファッ○!フ○ック!○ァ〜ック!死ぬなぁ〜ベン!

…ガシャ!

「次は〜上野〜上野〜」

ヘイ!ボビー ミスターサイゴーに会わなくっちゃ!

そうだな行こうベンお前の先祖だからな

リアリ〜?ボビー?

嘘だベン

HAHAHA〜!最高だよ最高だよ最高にハッピーな奴だよ〜ボビー!

そうさ俺はソウルメンなのさ匂うだろ?ベン

あぁ匂うさボビー 俺も匂うかなぁ〜?
(体中嗅いでるベン)

グレイトに匂うさ ベン 俺たちはソウルメンだからな

ソウルメンかぁ〜

ソウルメンだ

イェ〜

イェ〜
(ちょっと気にしてる)


#8

耳掃除の話

 夏の終わりに母が癌で急逝した。母の手に触れたのはわずかで殆んどの時を僕は死という現実と一定の距離を保ちながら母を見ていた。言葉は口に出す以前に既に風化されてその意味を失っていた。
 大学に戻っても空虚感は拭えなかった。誰かに話しかけられても聞こえてくる言葉はまるで暗号化された音の羅列のようだった。数日後の夜、いつものように予告もなく彼女はやって来た。片手にビニール袋に入ったウィスキーを持って。僕は母のことを彼女に話した。時折彼女は相槌を打ってその場に合う選択肢の中から限りなく適切な言葉を選んで話した。その言葉は久しぶりに心に響いた。いけないことだろうけれど実は母の骨の一部を持ち帰ったことを告げると彼女はそれを見せてくれないかと言った。僕は引出しから母の骨を包んだビニールを渡すと彼女は触っていいかと訊ねる。僕が了解すると彼女は指先でそれにしばらく触れて小さな破片を摘まむと口に入れてウィスキーで流し込んだ。僕はそれをただ見ていた。
 「何となくこうしたくって。怒った?」と言う彼女に僕は首を横に振る。おいで、と言うと彼女は両膝を前に突き出す格好をとる。僕は何だか懐かしい柔らかな意識の中で彼女の膝に頭を載せる。その姿勢のまましばらくじっとしていると彼女の熱が僕に伝わってきてとても穏やかな気持ちになっていった。耳の穴が汚れているよという彼女に、じゃあ耳掃除をお願いしていいかなと頼むと彼女は何だかはしゃいだように僕に耳掻きの場所を聞くとそれを見つけてよしよしと耳掃除をしてくれた。何だかとても切ない気持ちになった。
 「死んだじいちゃんの遺言なんだけど、信用出来ない人間に耳の穴を掘らすなって。」
ホント?と言う彼女に冗談と答えるとぷっとなって二人でしばらく笑った。
 僕が二十歳の誕生日を迎える数日前の月曜日に彼女は姿を消した。教授も一緒だ。僕の仕事は自由業みたいなものだからねと言う彼らしい突飛な行動だった。彼女が消えた日に僕の郵便ポストに入っていた彼女の古い外国製のジッポーは最後の春休みに行ったインドでのバンガロール行きの寝台列車の中で紛失してしまった。母の骨は旅の当初の予定通りガンジス河に流した。そして僕は大学を卒業し社会に出て行った。
 今でも時々あの耳掃除のことを思い出す。〈ほらっ、こんな大きいのが取れた。〉それは彼女の声のようで母の声のようで僕はそんな風にして眠りの中に落ちていく。


#9

Moon Brige

真夜中に虹の見える場所があるという。
きっと今もその虹の異様な神秘さにを前に、歓喜している人と恐怖に怯えている人とがいるのだろう。

古風な我が家は正月の行事を欠かさない。
書初めに餅つき、そして夜には賭博屋と化す。

まだ私が幼かった頃の掛け金は銀貨で、お金をかけるごとに「チャリン」という音が鳴り響いていた。
しかし最近、夏目漱石が姿を消す巷とは裏腹に、我が家ではその顔が猛威を振るい始めた。
そしてその姿は年々、双子三つ子となっているのである。

勝ち負けにこだわり、感情を顔に出す私の横で、母はいつも笑っていた。
勝っている時はもちろん、負けている時も笑っていた。
「負けたからってプンプンしてたら来るはずの福も来なくなってしまうのよ」
と言って。

幼い頃の私は、それが嫌で嫌で仕方なかった。
だって、負けたら悔しいじゃないか!負けて笑っているなんて、お母さんは物事を本気でやったことがないんだ!

何を言う…、あの頃の私には突っ込みどころが満載だ。
年齢を重ねるごとに、それこそ様々な経験を重ねるごとに、いつしか私は心底笑うことができなくなっていた。
母は、本当の苦しみを知っているから笑っていたのだろう…。ふと悟ったとき、母を偉大だと思った。同時に自分がちっぽけに思えた。そして私は、母のようになりたいと思ったのだった。

それからの私は、どんなにつらい時も一度微笑んでみる。愚痴ったって始まらない。まずは自分にできることをやってみたらいい。必ずそこから学ぶものがあるのだから。そして、光はやがて私を照らす。
ふくれっ面になる人の横で、私は微笑んで見せるのだ。

故郷を離れ、突然広がる目の前の世界に目を輝かせると共に、私は自分を見失った。そんな中私を助け出し、導き続けているのはまぎれもなくあの頃の母だ。その教えの真理を知る私は今、日の当たる場所を歩く。

真夜中の虹を見て、その神秘さに歓喜する人と恐怖に怯える人がいる。
同じ現象を前にした二人が、相反する思いを抱くことは稀ではない。
知っている者はそれによって力を得、知らない者は奪われる。

母の教えは日常のあらゆる場面に身を潜めている。
これはそんなたわいもない、しかし忘れてはならない戒めの一つである。


#10

新しい自転車

 少年は母子家庭であった。
ある日友達が新品の自転車を持っているのを見て欲しくなった。
「母さん、自転車欲しいよ」
少年は母に必死でねだった。
「お金がないから買えないよ」
 母は残念そうに言った。
 少年はしばらく駄々をこねていた。
 そこへ友人が遊びに行こうと誘いに来る。
 少年はらちが明かないので遊びに行くことにした。
 数日後友人から、何かを放り込むと、正反対のものが現れる噴水の噂を聞く。
 学校の向かいの公園にあるのと事。
但し、夜中に一人でやらなければいけないのだそうだ。
「ゴミ捨て場の自転車をほおりこんだら新品になるだろう」
 少年は夜中にぼろ自転車を盗み、いそいそと噴水前に向かった。
 突然猫が飛び出してきた。
 少年はあわてて急ブレーキを掛けた。
 ところが片方の前輪のブレーキが壊れていた。
 少年はウイリーの体勢で噴水に飛び込んでしまう。
 しかもタイヤがはまってびくとも動かない。
 少年は諦めて家に帰っていった。
 翌朝学校の校門前に黒山の人だかりが出来ていた
 噴水の真ん中に新品の自転車が逆立ちしていたのだ。


#11

眠らない羊飼い

 冷たい夜気が昼の喧騒から解放されて澄み渡り、耳をすますと遥か遠くの大気が揺れる音まで聞こえた。
 静穏。しかし――、
 大気の鳴動は次第に激しくなり、だんだんと近づき鳴り響いた。
 それはもう、うるさいほどに。
 どどどどどどどっ!
 怒涛の地響き。
 白く霞んでいた物体が、地平の彼方から猛烈な勢いでやって来た。
 猛烈な羊の群れ。
 羊が1匹、羊が2匹……羊が何千何百何十何万匹だ。
 あっという間に町を埋めつくした羊は、シープドックに追われ、無我夢中で逃げ回っている。
 めえめえ。
 群れに一頭だけいる黒羊に跨った羊飼いの青年が角笛を吹いた。
 シープドッグが動きを変える。
 ぽっぽこ、と羊が逃げ回る。アスファルトをカリカリ、ビルや民家に潜りこむ。
 オフィスで、ぽっぽこ。
 居間で、ぽっぽこ。
 寝室に逃げこんだ羊が、寝ている赤ん坊の頭を軽やかに跳び越えた。
 羊が1匹。
 天井を眺めている不眠症の男の目の前を、
 羊が2匹。
 喉の渇きに目を覚ました女の横を、
 羊が3匹。
 ぽっぽこ、めえめえ。
 黒羊に跨った青年は高層マンションの屋上に降りると、群れを見下ろしながら、シープドッグに命令を出した。羊の逃げていく方向を確認し、青年は黒羊の背から荷物を降ろした。海原の移動で汗臭くなった服を脱ぎ捨て新しいシャツに袖を通す。金盥の中に貴重な水を注ぎ、洗濯を始め、片っ端から干していく。
 干し肉を齧り、引っ張り出した毛布を被りながら、読みかけの小説を開く。
 青年が自由にできる時間は3時間しかない。3時間後には、群れとともに何千キロという距離をまた移動する。
「また、そんな格好で本なんか読んでる」
 コートを羽織った女がマグカップを持って立っていた。青年は困った顔つきで女を見た。
「君のために羊を百頭も増やした」
「無駄だと思う。ここに、あなたがいるんだから」
 女はマグカップを青年に手渡した。青年は砂糖の入ったミルクに口をつけた。
「きっと眠らせてみせるよ」
「ええ。でも、ミルクが飲めなくなるわ」
 青年はマグカップに視線を落とした。砂糖入りのミルクが湯気を立てていた。
「それでも、君は眠らなきゃ」
「ええ」
 黒羊が、めええと鳴いた。それが合図であるかのように、女は毛布に潜りこんだ。
「少しだけ、ね?」
 耳元で囁く女の声に青年は頷いた。女は青年に頭を預け、いたずらに羊の群れを数えた。
 羊が1匹、羊が2匹……。
 数え切れない羊を数えた。


#12

揺らぐ青い影

 お前が海を見たいと言ったから、連れてきた。ひた走る車の中で、お前の沈黙だけに耳を傾けていた。
 まだいつもの、お前の悲観した呪詛の羅列はやってこなくて、お前は独りで水の地平を眺め、彷徨う風に髪を絡ませ、いつの間に持ち出したのか、俺のウイスキーを顔を顰めながらやけっぱちに嚥み下していた。(帰りの車でダッシュボードに吐いた)。
 そんな真似をするのはよせよ。お前は可憐じゃないが、飛び切り美しくもないが、それでもお前は、お前の魂は、青くて、青い影のようで、揺らいで、日の光や風や雲なんかによって、ひらりひらりと色調を変えて、時に燃えて、青く、とても澄んでいて、つめたくはないけど、どこか白々しい。あてもなく彷徨う。夜は、俺の知らない闇の中で、そっと息をする。分からない。お前の魂がどうとかいうことなんか分からない。ただ、俺は、お前を掴まえておきたい。放っておくと、お前、どこの終電も去った駅で、独りぼっちでいるかわかんないだろう? だから、そんな下手な真似はよせよ。
 俺は、太平洋の向こうから、ポツンと小さな点となって現れて、少しづつ、少しずつ大きくなって、人の形で、動いて、そうやって真っ直ぐお前を見つめて、水の中から、海と雲の間から、お前の所に辿り着けたらいいと思ったけど、さすがに無理で。だから、お前の後ろに座って、お前の横顔を眺めていた。お前は泣いていて、インディアンの戦士みたいな勇ましい顔をして、それで、濡れていて、俺は衝動、お前の涙に口付けしたいと燃え立った。けれどもお前は野生の猫みたいに見えて、迂闊に手を伸ばそうものなら俺を引っ掻いて飛び去って行ってしまいそうに思えたから、俺は後ろからお前に飛び掛って、押し倒して。そしたらお前の拳が俺の顎を打って、右目も殴って、俺はお前を絞るほどに抱き絞めて、お前は暴れて、お前の頬に俺はキスして。
 お前から搾り出した透明の液体には、お前が濃縮されていて、俺は何もかも飲み尽くしてしまおうと思って、お前の頭を押さえつけて舌を這わせて、お前は俺の耳を千切れるほど引っ張って、潮騒の上で、砂の中で、俺達はそうやって。
 いつしかお前はしゃくりあげていて、俺はお前の体をきつく抱いて、お前の胸に頭を押し付けて、痺れている右目の辺りで、弾むお前の心音を聴いていた。空は暗くどこまでも鈍って、海は遠くどこまでもうねって、風は冷たく、俺はお前を、じっと聴いていた。


#13

同じ場所、近い場所


命の誕生を祝い、死を悼む。
その都度噴火する感情にどっぷりと浸かったくしゃくしゃの顔はどちらも美しさすら感じさせるほど人間らしい。
しかし、私にはその二つの感情の違いが未だに見出せずにいる。

気づいたのは5歳の時。祖父が交通事故で死に、雨の降る葬式では祖母が声を上げて涙を流していた。
ショックだったのはもう動かなくなった祖父の姿以上に祖母の泣き声だった。
その時初めて人が心に潰されて泣くところを見た私は驚きと同時にその顔が脳裏に焼き
感情を抑えきれなくなった人間の姿が、幼い私を何よりも怖がらせたのだった。

その翌年に弟が生まれた。病院で泣いて喜んでいた祖母の顔を覗き見ると、それは祖父の死で見た時と全く同じ表情をしていた。
皺という皺を顔に集めて、声を上げて泣く嬉し泣きの姿からは、死の哀れみと同じ雰囲気を一瞬で思い出させたのだった。
幼い私は、喜と哀の体現が同じ顔であることを疑いたく、恐怖した。
そして訳も分からず一緒に泣いたのだった。

嘆きと歓喜はとても近いものに見えてくる、それでも相反する様に思えて仕方ない喜と哀の違い。

それからずっと考えていた。

あの時、祖母に同じ涙を流させた祖父の死と弟の誕生。
生死の両極が私に見せた同一性は、長いこと私を縛り続けた。
命に触れる感情だけは、何か特別なものであったりするのだろうかと。

還暦になった私は、病院の窓からいつもそんなことを思い出すのだ。
世知辛い都会の景色と風が、思考に切なさを加える記憶の中で
空の紅、血の紅。命は紅く流れ、何れ止まり。そこから沸く様々な想いもまた、同じ色をしているのだろうか。
地に沈む朝焼けと同じ色のそれは、全て根源は同じ場所であるのではと私に問う。

確かに。何れ沈み、又昇る。ただそれだけなのだ。
こうして私はベッドに戻り
これが夕日なのか朝日なのか知るべく壁の時計を見上げた。


#14

そらのいろ

「気持ち悪い」
 地球は今も凄いスピードで回っているんだ!と大声で叫ばれたってうざったいだけのように、今の私にそんなことを言うこの人はどんなに無神経なやつなのだと考える。
しかし、結局反論することも彼女を放棄することも出来ず、私はこうして滑り台のてっぺんに立って、悲しく呻いている彼女を見下ろしている。
「なにがどうした」
「回りすぎた」

 彼女は今、何本か突っ立っている鉄棒に宙ぶらりんになっている。ぴくりとも動かない。30秒前にはぐるぐるぐるぐる、嫌なくらいに音を立てて回っていた彼女が。
「ばかじゃないの」
「ばかよ」
 分かってるよ、と言うと怒られそうだったから、私はそれ以上彼女を見るのをやめた。空が青い。青くて汚い。まるでうみのいろ。うみのいろはそらのいろ。

「生きているのに意味なんかないわよねえ」
 突然、宙ぶらりんな彼女が言った。長い髪の毛のうちの3分の1が、すでに地面についている。それさえも気にしない彼女は、きっと神様が育てた子供なのだと思う。
「死ぬために生きるって聞いたことがある」

 死ぬために生きる。
 なんてばかげた考えなんだろう。自分でも呆れる。だって、自分はそんなこと、ちっとも思っちゃいない。それを説いたやつは何も知らないやつだ。偽善者だ、と思う。
 滑り台から吐いた小さな溜息をひとつも逃さないように、彼女は言った。

「ばかげてる」
 びっくりした。きっと私と彼女は一心同体だったんだと思った。ふたご座なんだ、私たち。きっと。そして、こいつは無神経なやつではないのだ。そうだ。だって彼女は神様が育てた子供なのだから。

「うん、そう……ばかげてる」
 滑り台から、もう一度だけ彼女を見た。もう宙ぶらりんな彼女じゃなかったけど、やっぱり彼女の髪の毛は長かった。
「もう、帰ろう」
「そうだね」
 私たちは、静かに公園をあとにする。
 そらのいろが、変わり始めている。


#15

スキナコト

好きな事、楽しい事、
音楽や勉強やスポーツや・・・、
みんなが一つは持っている小さなツボミ。

もっとやりたくなって、
もっとしたいと思って、

小さなツボミは花が咲く。


だけど、

花はいつか枯れる。

時が、人が、想いがそうさせる。


それでも、花が咲き続けても、実はつかない。

好きな事をしている内が花。
実をつけるためには、
一度枯れなければならない。


そして、その実から新しい花が生まれる。

そこが難しい。

僕には本当に難しい。

人となんと不器用なモノだろうか。


#16

非線形性

 あまりにもゆらゆらとするから幽霊かと、思った。
 月だった。
 いや、正確には空だった。全天が揺れていたのだ。その天心に月があったというだけのこと。霞のかかった視界に揺れる虚空が映っていた。このような現象はよく、ある。(例えば寄せる波が波打ち際からどこまでも後退してゆくように……)
 すべての幽霊的なものは球体形性系だ。
 いや、円形性系というべきか。
 だから逃亡の軌跡はいつも円を描く。夢の形もまた丸い。
 マクロビウスによれば、神聖な宇宙は堕落によって球形から円錐形に変化するのだという。
 そうであればこそ、真珠の輝きはひとつの痙攣に他ならない。
 月が円錐形だと発表したのはゼーベルグ天文台のペーテル・アンドレアス博士だ。
 小学校の頃に好きだったクラスメートのT君はやはり幽霊に似ていた。ということはつまり月に似ていて、真珠のように痙攣していた。……

 それにしても今夜はあまりにも揺れる。果たして、何故か。
 あ、月が墜ちそうだ。……

 ということを遮蔽物によって小さく切り取られた夜の空を見上げながらぼんやりと思いつつも、そのまままたうとうとと眠ってしまったのは、やはり、あまりにもゆらゆらするからだったろうか。

 夢は続編を上映して、いた。
 誰かが枕元に立って、いた。
 顔を上げて見る気にもならない。それが先刻の夢の続きだということを事後的に意識して見る明晰夢を、見た。

 何かの本を読む夢――。
 夢の中の僕はひとつの名詞を探していた。先刻の続きから本を読み進む。そうしていても書かれている文字は少しも動き出さなかった。(大抵の場合、文字は凝っと見ていると動き出して零れ落ちるものだけれど。)だから夢の中の僕は――それが異常なことだと意識しつつも――本を読むことができたのだ。何が書かれていたかは、覚えていない。名詞についても、覚えていない。

 気がつくと茶の間では古き良き権威主義者であるところの父が独りで笑って、いた。灯かりも点けずに、いつまでも、機織りが機を織るようにして、笑って、いた。
 家の中はとても冷えていた。中庭の戸は開いていた。空は尚のことゆらゆら揺れていた。月は隠れていた。庭の合歓の木は凝っとしていた。枝にぶら下がっていた何かも、ただ凝っとして、いた。
 ある冬の日の夜だった。

 すべてのまっすぐなものは実は曲がっているのだと知るようになったのは、きっとこのときからだったような気が、する。


#17

湯豆腐

「あーる晴れたひーる下り、ドナドナドーナドーーナ……ちょいとお嬢さん、茄子が一本落っこちてる」

「つきはかっくれてあっめとなり、あめまたゆっきとなりしかなぁ、なくもわらうも、なくもわらうも……いやあ小唄をうたっているとなんだかいい気持ちになる。どうですか、お嬢さん、あたしと一緒に湯豆腐でやりませんか」

「花が咲く前の、梅の木の曲線がネ、実に姿がいい。あたしは夜更けごろ、たまに月明かりに照らされたそいつを眺めながらウイスキー入り珈琲を飲むんですが、何もかも忘れちまう」

老人はよく喋った。一人で喋り続けて、途中から小唄をうたったかと思えばシューベルトの「冬の旅」を原曲で歌った。とうとう座布団を枕に眠ってしまった老人を前に、なんだか可笑しくなって古田さんは笑った。

その日、古田さんは突然人生が嫌になった。嫌になった! と夫に言ってみたものの「俺も嫌だ」と素気ない。そもそも夫の浮気を見て見ぬふりをしていることに気がついていない。

それで古田さんは唐突に東西線に乗って荻窪へと向った。(どうして荻窪へ?)と自問しながらふらふらと町に降りたのである。目的地などない。くねくねと続く道を適当に歩いていると巨大な商店街モールにぶつかって、そこに八百屋があった。必要もないのに茄子と葱を買い、その茄子を落としたところに老人が現れたのである。

「犬も歩けば、とある。ジジも歩けば茄子を拾ってその先に別嬪にぶつかるという話もないことはないさね。どうしたい、ふてくされてるじゃないか。お嬢さん、映画に行かないかい」

老人はのっけから可笑しかったが、成瀬巳喜男の「舞姫」を観ながら<岡田茉莉子は美しすぎる……>と何度も呟いているところなど、頭もおかしいと思えなくもない。家が近くにあるということで、古いボクシングジムの隣の民家まで結局古田さんは付いていって、晩酌まで付き合っていたところである。

老人が眠ってしまったので、古田さんはぼんやりと庭に出て梅をみた。花は咲いていて、咲いた梅の方がやっぱり好きだと古田さんは思った。

古田さんは結婚をする前に本物の猿と付き合っていたことがある。猿は人間に着替えてどこかへ去ってしまったけれど、ふと老人があの猿のような気がした。

「梅はさいたか、桜はまだか」

振り向くと老人が珈琲カップを差し出した。樽の香りがしないでもない。古田さんは一言、猿、と囁いた。老人は「へへへ」と笑って珈琲をすすった。




#18

クロッカス

 突然、クロッカスの球根が大きな音を立てて破裂した。

 窓側前後席の女子が手紙をやりとりしていて、前の席の女子がいきなり手紙をクシャっと掴んで教室後方に投げた。上手い具合に観察用のクロッカスの球根にぶつかって、一瞬揺れた後に破裂したのだった。

 その光景をみていたのは僕だけで、あっという間の出来事だったから授業はすぐ再開した。
 僕はそのことを提出する「先生あのね」のノートに書き、大人の意見を待った。


 翌日返却されたノートには、「クロッカスの爆発した時の擬音語の使い方が上手ですね」と書いてあったので、僕はあきらめて新しいクロッカスを買ったがランドセルの中でまた破裂した。


#19

スノーマン

 クリスマス。路地裏で子供たちが雪だるまを作った。顔も手も足もない雪のかたまり。背丈は大きく子供一人隠れられるくらいだ。
 寒い日が続き、雪だるまは溶けずに路地裏に残っている。子供たちは冷たい風を嫌って出てこない。雪だるまの上にまた雪がちらつき始めた。

 夜、男が雪だるまの前に現れた。
「雪だるまかぁ。おれにはな、東京の私大に行っている娘が1人いてな、年末になって今日、久々に帰ってきたんだよ。だけどもう分厚い化粧にジャラジャラいわせて帰ってきたんだ。たくさん授業料を払って東京の大学に通わせているのに、おれはもうあんなになった娘を見てられないんだよ。あいつを見るくらいならこんな目、お前にくれてやる」
 男は雪だるまの顔に目を二つ渡して寂しく去っていった。

 次の夜、赤い顔のサラリーマンが千鳥足で歩いてきた。
「なんだ雪だるまか。おい部長といったら、おれをヌケだのノロマだの言いやがる。世間は年が明けるというのに。もうおれはあんな奴の声を聞くのは嫌だ。雪だるま、こんな耳お前にくれてやる」
 サラリーマンは耳を二つ雪だるまの顔に渡していった。

 年が明けようとする夜、また若い男が現れた。
「あぁ、僕はなんてことをしてしまったのだろう。クリスマスの夜、僕は彼女に浮気されたと思って、この手で彼女の頬を叩いてしまったんだ。ところが今日、それが僕の誤解だったと分かったんだ。あんな冷たい頬をしてさぞ痛かったろうに。あぁ雪だるま、もうこんな手お前にくれてやる」
 男は手を二本、雪だるまの体に渡していった。

 太陽が昇り年は明け、大通りでは多くの人が行きかっている。しかし雪だるまの路地裏では人も少なく静かなものだった。
 一人女の子が雪だるまの下に遊びに来た。隣に座り小さな手で新しい雪を雪だるまにくっつけている。
 向こうから一台車が走ってきた。大通りを避け路地裏に入ってきたのだろう。甘酒でも飲んだのか運転者の男の赤い顔が雪だるまにも見ることができた。女の子は雪に夢中になったまま。男はまだ女の子の姿が見えていない。
 女の子は新しい雪を取りに道路の反対側へかけ出した。男の顔が一気に青くなった。おもむろにブレーキを掛けたが、タイヤの滑る音が雪だるまの耳に響き渡る。

 ばーんッ

 青空に白い雪が弾けて舞った。車はバックして一目散に逃げ出した。
 宙に舞った粉雪の下、驚いた女の子が、崩れた雪の手に抱かれて泣いていた。


#20

擬装☆少女 千字一時物語8

 他の友達が帰ろうとしたとき、彼女だけを呼び止めた。
「どうした…、の?」
 そう言う彼女の声は、わたしが手にしたハサミを見て、強張った。
「大事な、話なの」
 手が震えて、声にもそれが伝わっている。わたしは空いた手でハサミを持った手の甲を押さえた。一呼吸置いて手の震えを静めてから、ハサミを後頭部へ上げた。彼女はそのハサミが何をするのか、怯えるような目で見ていた。
「好きだよ」
 ジャキン。
 ひっ、と息を飲む彼女の前で、肩より長かったわたしの髪がはらりと落ちた。
 わたしは続けて髪にハサミを入れた。彼女は放心したようにハサミの動きを見ていた。動かない目はわたしを写して、まるで鏡のようだ。
「どうして…」
 わたしがハサミを下ろしたのを見て、ぽつりと彼女は言った。
「好きだから」
 首筋を風が通って、わたしは思わず声を震わせた。窓を見ると、見慣れないわたしが写っている。さっきまではジーンズ系ボーイッシュスタイルだったのだが、今はれっきとした男の子である。わたしは少し開けてあった窓を閉めた。
 彼女は屈みこんで切り落とされたわたしの髪を掬い、その姿勢のまま顔だけを上げてわたしの目を覗き込んだ。その目にはまだ何の表情も写されておらず、鏡のようにわたしを写しているだけである。
「あなたが好き。友達じゃなくて、恋人になってください。僕の」
 彼女の目に映った僕が揺れた。
「私のために…」
 その僕が揺れて、もうそれは僕の像を失って、やがて涙が一筋、零れた。
「泣かないで」
 僕の目を覗き込む彼女から顔をそむけないでそう言うのがやっとだった。
「だって…」
 彼女もその姿勢のまま、涙も拭かずに僕を見つめ続けている。それを見ているうちに、僕は鼻の奥がツンとするのを感じた。泣いてはダメだ。しかし彼女から目をそむけてもいけない。僕はできるだけ我慢をしようとした。しかし、彼女が何かを言おうとして口を開き、何も言えずに閉じた瞬間、僕は崩れ落ちるように座り込んだ。
「ごめんね、泣かせたりして」
「ううん、泣かせたのは私なの」
 僕たちは声を抑えて泣いた。それが切った髪に対する惜別だった。
 泣き声がやんだ僕を見た彼女が、急に笑い出した。驚いて顔を上げた僕に彼女は、髪が変になっている、と言った。
「私が切り揃えてあげる」
「お願い」
 僕は彼女にハサミを渡して、彼女に背を向けて座り直した。
 切られた髪の毛は、きれいさっぱり掃除機に吸い込まれた。


#21

秘密

 月下美人。部屋の電気を消すと、満月に照らされて、切れるような白い花びらの美しさが際立つ。真一は本棚から太宰治を二冊取り出すと、下宿の毛羽立った四畳半の畳の上に放り、無造作に重ねた上へ鉢を置く。この花にはこれくらいがちょうど良い。
 俯いた花を見下ろす。重たげな花をそっと包むのは、まるで人の手のようだ。
女の手はこうあるべきだ。こういう手を持つ女を一人だけ知っている。母。記憶の中の母の手はただただ白く細く、影すらないほど完璧だった。斜陽に包まれた母の背中。上下する肩。機械の音がする呼吸。束ねられたつやのない髪。そこに含まれていながら別世界に存在するようだった母の手は、母が持っていた唯一の美しさだった。いや、その手が、母を属させていたのかもしれない。
 花びらに触れようと手を伸ばすと、月の青い光が真一の手をなぞる。母から受け継いだこの手。彼の手もまた、完璧だ。花には触れずに手を引き寄せ、そのまま口付ける。薄い皮膚に暖かい呼吸。そのまま花びらをなでるように唇で指をなでた。美しい。
 机の引き出しから小さな木箱を取り出す。彼の手が木箱の蓋をなでる。右に左に。いつかの母のように。そこから遺品の手鏡と紅を取り出す。
 中指で紅を掬い、唇に乗せる。右に左に。柔らかい唇をなぞる指は真一ではなく母の手だ。甘い香りが通っていくと、口元を映す手鏡の中で、女が微笑む。
 女の唇はこうあるべきだ。微笑を絶やさず、薄く開かれたその奥は闇。何を隠して微笑むか。
 襖の向こう、階下から忍ぶ足音が真一の部屋に近づいてきた。すすすとつま先で擦るような密やかな音。やがて、躊躇いがちに伺う。
「あの……真一さん?」
 下宿屋の娘。束の間は日常に毒される。真一は手鏡の中の唇を見つめながら、いつもの通りに答える。
「起きてますよ、何ですか?」
「数学を教えてもらいたいと思って」
「今行きます。食堂で待っていてください」
「はい!」
 弾んだ声がそのまま足音に変わり、とんとんとリズムよくそれは遠ざかる。階段を下りていく娘の白い靴下が目に浮かぶ。教えてやらなきゃいけないのは、汚れないということは美しさと違うということ。
 月下美人は全ての指を開いて、その奥を彼に見せようとする。花びらをこすり合わせ、身悶えながら花開くその様は、慎ましく美しい。だがまだその時はこない。
 紅をぬぐったハンカチに目を落とす。まるで母の溢した血のようだ。


#22

バトン

 からりと晴れた空。青は高くどこまでも突き抜ける色。仰向けに倒れていたら体が浮いているような気分になった。風が吹くと、地に任せた背中のあたりから幸福感に包まれる。この気持ちが何なのか、どこから来るのか僕は知らない。
 土手の上、空と風と地の狭間。普段の自分からは想像もつかない穏やかさ。何もかも洗い流してしまったような、しんと深いところに降り立つような静寂。他人と親密になったり軽口を叩きあったりするのが苦手で、いつも周囲から浮いている。いつでも何か問題を抱えている。心の中で悪態をつきながら、顔は真逆の表情を作る。自分の仕事ぶりに満足できずに自己嫌悪に陥る。どうしたらその繰り返しから抜け出せるのか考えつかない。だからできるだけ長く、そうやって何かに一体化したような安らいだ時間を満喫していたかったが、静寂は破られた。視界を巨大な向日葵が横切り、思わず飛び起きた。
 見えたのは、向日葵を担いだ女だった。そして、普段の僕なら決してしないであろうことをした。立派な向日葵ですねと声をかけたのだ。女は立ち止まりながら振り向いた。向日葵は根ごと引き抜かれ、女が振り返ると根から乾いた土がパラパラこぼれた。女は訳知り顔で僕の方へ、今辿った数歩分の道を引き返して来る。
「はい」
 女は担いでいた向日葵を差し出して来た。受け取れという意味にしか取れない。女の少し長過ぎる髪の毛が、ふらふらと風に揺れている。小さめの顔に、やや吊り気味の猫みたいな目をきらきらさせている。しばらくじっと見つめ合っていた。
 女は、もう一度「はい」と言って、さらに向日葵を僕の方へ近づける。それでも僕が黙って立ったままでいると、半ば押し付けるようにして向日葵を僕に持たせた。
「これね、次はあなたの番。この向日葵を植えなさい。種ができたら、来年の夏また花が咲くようにその種を撒いて、一番立派に育った一輪を根っこごと掘り出して、枯れないうちに次の人に渡すの」
「次の人…?」
「やってみれば分かる。わたしも前の人にそう言われたけれど、うん、本当にその通りだった」
 女は晴れ晴れとした笑顔を残して歩いて行ってしまった。僕は土手に立ったまま女の姿が見えなくなるまで見送った。女の晴れ晴れとした笑顔がいつまでも頭を離れない。この向日葵を女の言う通り次の誰かに渡したらその理由が分かるのだろうか。僕はゆっくりと土手を下り、歩き出した。向日葵を植えるために。


#23

ドア

 白い貼り紙。ビルの通路にずらりと並んだドアの一つに、テープで簡単に留めてある。窓は開いておらず、風はなく、誰かが剥がそうとしなければずっとそこに貼り付いたままだろう。
 貼り紙には百文字程度の短い文章が記されており、時折通り掛かった者が覗き込んでいく。読める者もいれば、読めない者もいる。読めない者は一様に首を傾げて通り過ぎるだけだが、読める者は何故かドアを開けて中に入っていく。ドアに鍵は掛かっていない。しかし、張り紙を読めない者には開けることができない。中に入った者が出てくることはない。
 ドアに耳を押し付けてみると、カリカリと何かを引っ掻くような音が微かに聞こえてくる。カリカリカリカリカリカリ……と、延々と続くその音を聞くことになる。
 物心もついていないような幼い頃に聞いた音。不安で曖昧な夢の中で聞いた音。気のふれた音。


 ガタガタとビルが揺れる。床や天井がひび割れ、通路に人の頭ほどのコンクリートの塊が落ちてくる。外で沸き起こった悲鳴が中にまで染み渡り、鮮やかな色の火柱が何本も上がる。幾つかの窓ガラスが割れる。
 それでも、カリカリと何かを引っ掻くような音は続いている。


 火が治まる。悲鳴が治まる。


 貼り紙は変わらずドアにある。ビルは静かだ。しばらくは誰も通路を通らなかったが、あるときヘルメット被り銃を抱えた男が現れる。一人だ。物音のたびに銃を構え、警戒しながらビルの通路を進む。ふと、あのカリカリという微かな音を聞き捉え、周囲を見渡しているうちに、白い貼り紙の存在に気づいた。
 男は書かれている文字を読む。そして、まるでそれが決まっていた事柄であるかのようにドアを開け、中に入る。彼からは、その直前までにあった警戒心が消え失せていた。
 また、ぽつぽつと通り掛かる者が現れる。ドアを開ける者も、開けない者もいる。男もいれば、女もいる。しかし、やはり入った者が出くることはない。
 晴れた日だ。窓から差し込む明るい光がキラキラと埃を照らしている。そんな朗らかな日に、ドアの隙間から、ねっとりとした赤い液体が染み出てくる。
 血のような赤。粘りつく赤。染み出した赤がドアを濡らし、床を、壁を、染め上げていく。ゆっくりと広がっていく。嬲るように、取り込むように、全てを赤に変えていく。
 やがて、カリカリと響いていた微かなあの音が止まる。
 ビルは静かだ。全てが静かだ。もう貼り紙を覗き込む者はいない。


#24

みやび

 当てのない旅は夕飯時に、信州の小ぢんまりとした港町に行き着いた。
 海の見える民宿の一室で箸をとり、目の前の器から海の物をつまむと、甘い香りが口から鼻へ抜けていった。柑橘系の香りで、柚子でも散らしているかと思ったがあれより少し重たくて印象的である。女将さんに尋ねると、
「みやびを散らしてます」
 と、よくぞ聞いてくれたという満足顔である。
 雅を散らすとは粋な言葉だと感心したが、「みやび」はこの町でしかとれない芋の事だそうだ。
「よその人は全然うけつけない味なんです」
 女将さんは誇らしげである。私は後日そのみやびを食したのであるが、ぬめりのある、なんとも甘ったるい食べ物で、一口で食欲が萎えてしまった。この町の人はこれを日に三つも四つも食うというのだから驚かされる。確かにこれは地元の味であった。
 翌朝、海岸縁に祀ってあるという神社を訪ねた。これは、当てのない旅のただひとつ確かな目的である。
 のんびりと参拝した後、港から瓦屋根に挟まれた路地を山の方へあがってゆくと、それまで薄っすら聞こえていた祭囃子が確かなものとなり、現れ始めた露店にはもう人が群がっていた。華やかな賑わいである。
 この賑わいを彩るように、何かが香っていた。香でも焚いているのだろう。それにしても清潔な香りだった。
 人垣が出来ていたので、何の見世物ですかと水飴をなめている女性に尋ねると、すぐによそ者と気がついた顔で、
「お葬式ですよ」
 という。
 悪い冗談だなと人を掻き分けると、路地の真ん中に棺が半ば立てかけられてあり、その中に花々に埋もれた老人の遺体が確かに収まっていた。
 ――すると、この香りは花のものか。
 咄嗟に浮かんだのはそんな場違いな考えだった。それほど、その香りは印象的だった。
「死人の臭いなんです」
 と、私は余程おかしな顔をしていたのだろう、近くの男性が素早く諭すように告げた。
 馬鹿な、と口を開きかけた時、私の頭の中で光が灯った。
 ――みやびだ。
 そうだ。この香りはみやびのものである。その事を男性に告げると、
「この町の人間はみやびをたくさん食べるでしょう。だからなのか、死ぬとこの香りが噴きだすんです」
 といい、こういう香りだから陰気にならないんですよ、と続けた。
 はあ、と曖昧にそれにこたえると、私は棺に向かってしっかり合掌してから、周りの人達と同じように、華やかな祭を楽しむ事にした。


#25

海雨

 さざなんでいる水面に、触れるか触れないぎりぎりのところをウミドリたちが渡っていく。圧巻のプリズムだ。浜辺は好きじゃないが鳥は好きだ。太陽は圧倒的な存在感を水平線の彼方に半分だけ顔をのぞかせて、はにかんでいるようにも見える。自然と笑みがこぼれる4:30am。
 全てが自然界の恩恵を受けているのだ。
 至福の砂塵は波とぶつかり合い融合するかのように海面に溶け込む。波打ち際では、彼女がいったりきたりの反復運動を繰り返しながら黄色い声。
 僕は都会という独立国家の機密地域で、毎日あたふたと何故あんなに頑張れたのだろうか。僕が選んだリタイアは決してマイナスシンドロームではない。
 革命的な朝を迎えた僕は彼女の横顔を見ながらそんな思いにかられていた。『一瞬の美学』。さっきから聞こえている言葉だ。海からのメッセージかもしれない。
「お腹すかない?」
 気が付くと目の前に来た彼女が笑顔で聞いてくる。その顔を見てまたホッとして、これから先のことはもう少し先になってから考えても悪くないと思った。


#26

おいしい虚像

 人々が回転寿司の皿をあまりに高く積み上げるのを見た神は、それを寿司が無闇に旨いせいと考え、世の中に安く不味い寿司をもたらした。人々は混乱し、寿司は長らく回ることを忘れた。今日に至る人類の歴史とは即ち、安くとも旨い寿司を回そうという苦闘の積み重ねに他ならない。
 小石川は何かの拍子に気分が大きくなると一皿百三十円の回転寿司を食べにいくが、随分腹が空いているようでも、決まって七皿しか食べられない。八皿で勘定が千円を超えることを鑑みるに、少食のせいばかりではなさそうだ。
 エンガワが好きな小石川は七皿のうち二、三皿はエンガワを食べる。とはいえエンガワをエンガワと知ったのも写真付きメニューのおかげであり、テレビでヒラメの姿を見てもエンガワとはまったく別の生き物としか思われない。
 そのためエンガワに対して多少後ろめたさを感じているが、同時にそれはまったくの杞憂ではないかという疑いも抱いていた。安い価格帯の回転寿司店で出される食材の多くが偽物であるという指摘をしばしば目にするからだ。
 その種の偽装に関して、小石川は多くを知らない。きっと受け止めるには悲し過ぎることばかりだと、無意識の内に情報を遮断しているからだ。それでも、ずっと知らずに生きていきたいとまで思っているわけではない。真実が自分の元を訪れる日を待ち侘びてもいるのだ。
 虚飾にまみれた空間に語られるべき真実など存在しないという向きもあろうが、と小石川は誰にともなく胸の内で言い訳がましい前置きをした。俺がエンガワ、あるいはエンガワを騙る謎の物体を愛している気持ちが真実である以上、その正体が何であれ、嘘などとは言えないはずだ。
「エンガワください」
「はい、エンガワちょっと待ってくださいね」
 連日の立ち仕事が応えるのか、板前は足をもじもじとさせながらエンガワを握った。この男にとってはエンガワの素性より足の疲労の方がずっと重大な問題なのだと、小石川は微かな不安を覚えた。
「はいエンガワ」
 エンガワはやはり旨かった。しかし、旨ければ旨いほどに自分が求める答えから遠ざかっていくようにも感じられるのだった。
 ならば一皿百円にしろとは言わない、せめて一皿を三貫にして欲しい。そして、一貫当たりの価格については目を瞑って欲しい。その日七枚目の皿を積み上げると、小石川はそっと席を立った。


#27

原付と雨

 雨は降っていなかったのに、大学からの坂を下りきったところで大雨が降ってきた。太陽のまぶしい8月の夕方。いわゆる夕立というやつだ。
俺は原付のカブに乗っている。右手のスロットルを全開にする。顔に当たる雨は、顔を自然に下に向かせ、心の奥にまで突き刺さってくる。大声をあげれば、急な雨など関係なくなるが、未だ大学も近いこともあって、人が多い。咆哮をあげるとアホだと思われてしまう。

 目の前に信号が迫ってくる。青だ。スロットルは依然全開のまま。坂を下り切って、60キロ以上でている。雨が痛い。心を貫通していく。顔に当たった雨が俺を貫通して、アスファルトを濡らしていく。俺を通り抜けていく雨。俺は雨と一体となる。痛覚が麻痺してくる。いまなら大声をあげることができそうだ。俺は俺であって俺ではない。俺の咆哮は人々の耳を貫通していくのだろう。

 「うおぉー、うおぉー」下を向け続けられていた顔が天を向く。雨の一粒一粒が見える。空からシャワーが絶えず落ちてくるようだ。俺のすべてを洗い流してくれる。俺はどこに向かっているのだろう。家なのか、大学なのか、コンビニなのか。

 目の前に信号が迫ってきていた。前方を走っている原付はまだ俺のレベルまで達していない。心に雨が刺さっている状態だ。やや俯き加減。
 歩行者信号の色が変わった。前方の信号も青から黄色へと変わった。俺は以前スロットルは全開だ。スピードは落とさない。前方の原付は、その信号に反応した。テールランプが赤く光る。避け切れなかった。
 ハンドブレーキとフットブレーキを目一杯かける。原付が迫ってくる。ハンドルを横に倒した。ぶつかるのだけはごめんだ。ギュルルルルー。背負っていたカバンを中心にくるくると俺は回った。ブレイクダンスをしているかのようだった。空の青が目の前に広がる。
 前の原付は、何事もなかったかのように、赤信号の中を進んでいった。夕立は止み、青い空がまぶしかった。
 「あぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜」俺は叫んだ。


#28

人生、OKルール

 一発高校卓球部が陣取った、中二階の席で、さっきまで眠っていた一年、吉村一発の目が開き、寝起きで飛び降りた。
「今日のおれが一番好き!」
空中で背中のゼッケンがめくれあがり、ゼッケンの下に書かれている『影で努力するエース』という文字が見え隠れした。置いてあったスポーツドリンクが飛び散らかした。
 トーナメント表で、吉村一発の名前から飛び出した一本のラインを追っていくと、いつのまにかてっぺんまで来ている。よく見ると、終了した試合には赤マジックが入り、吉村の試合にはすべて「1」と棒一本、殴り書きされている。これは、試合中、選手が放った打球の数である。
 スポーツとは、真剣勝負、刀で斬られれば人は死ぬ、ということに気づいた卓球界では、3年前から新たに「OKルール」という特殊ルールが採用されていた。一発で25点分の威力がある打球が放たれたとき、そのとき、25点が加算されその試合はもうOKになるのである。
 一球目で25点入らなかったら、おれは今日死ぬ。今日のおれが、今日のおれが一番好き!
 吉村は、一発目から人生を賭けるという無敵の作戦で、気がついたら決勝までやってきていた。ここに立っていた。体育館のど真ん中に立っていた。卓球台をはさんで、昨年の覇者が、顔が傾くくらい吉村を見つめながらスタンバイ完了している。そして突然、昨年の覇者が、その鍛えに鍛えた腕を伸ばし、吉村一発の頭の上方へ、ラケットを突き刺すように向けた。
「あ、あれは!」
「予告OKだ!」
 負けたけどまだ一応試合を見ているみんなが叫んだ。はじまるぜOKショットの応酬戦。と、卓球の神が言った。
 しかし、吉村一発は、予告OKに答えるかわりに、突然、ラケットを遠くの方へ投げ捨てた。それはもう、すごい勢いで飛んで、扉から出ていった。体育館が静まり返った。そして、ラケットを持っていたほうの手が、相手の頭の上を向いていた。予告OKである。
「もう1個少ない、0球で勝つ!」
 原子力発電所が爆発した。


#29

ドクトル

(この作品は削除されました)


#30

ターンオーバー

 初めて訪れたネリの部屋には小さなこたつとベッドがあるだけで、他にはテレビもラジカセも本棚もなかったが、壁にギターが立てかけてあった。
「拾ってきたの」とネリは言った。
 弦は錆びているしネックは反り返っていて、ジミヘンみたいに弾いたらバラバラに壊れてしまいそうだった。抱きかかえるように膝の上に置いて指で優しく弾いてみると、意外にチューニングは合っていた。
「弾ける?」
「すこしだけ」
「弾いて」
 ピックが見当たらないので十円玉を使って弾いた。昭和三十二年のギザ十、シドと同じ年生まれのとっておきだ。金属のこすれる甲高い音が狭い部屋に響いた。
 ネリが台所から皿を持ってきて箸で叩き始めた。どうやらドラムのつもりらしい。女の子のくせに力が強くて、叩くたびに皿は割れて小さくなったが、それにつれて音は可愛いらしく跳ねた。
「歌ってくれよ」
 ネリの歌は変だった。思いつく限りの人の名前を挙げて彼らは死んだと歌うのだ。

 あの曲がり角の向こう、息もせずわたしを待ってる
 みんなに会えるかな、わたしも息を止めてみる

 悲しい詩にも関わらず、ネリは楽しそうに体を揺らしていた。
 錆びて脆くなった弦が、しゃうんと悲痛な音をあげて切れた。別れの挨拶にしては間の抜けた音だった。すぐに続けて三本切れた。しゃうん、しゃうん、しゃうん。
 二本ではコードも押さえられないしもうやめようかと思っていると、ふいにネリの歌の調子が変わり死んだ人々が生き返り始めた。

 よかった、よかった、みんな、よかった
 生き返って、そうね、まるで朝みたい

「なんだか都合のいい歌だなあ」
 皿はもはや粉々になっていたが、ネリは執拗に、今度はまるで踊るように両手の拳を叩きつけた。どんじゃりどんじゃり。こたつの上で細かな破片が跳ねた。
「おい、やめろよ。血が出てるじゃないか」
 それでもネリは歌い続ける、叩き続ける。
「やめろって、見てて痛いよ」
 しゃうん、と弦は一本だけになった。こいつを切ってしまえばいいんだ。俺は気合を入れて最後の一本を引き千切った。するとようやく歌が止まり、ネリは驚いたように口を開けている。宙に浮かべた拳から血が滴る。
「みんな生き返るのはけっこうだけど、血はやめよう。それは美しくない」
「痛い」とネリは思い出したように言った。「ねえ、痛い」
「次は俺が歌うよ」
 こたつの向こうに回ってネリの手を優しく舐める。ざらりとした感触が舌を刺した。


#31

トリニティ

あらゆる事態を想定できる人間が死んだ。

死人受付窓口で、神の使いが、その人に問い質した。
「地上に生を受け、お前はしたことはなんだ?一つだけ挙げろ。」

その人は、答えた。
「やはり、このような聴取があるのか。私はあらゆる事態を想定し、公に書き残しておいた。このような事態すらだ。探してもらえれば、見つかるはずだ。このような私の存在は、ユニークなのではないか?それが私の誇りだ」

神の使いは、言った。
「そのようだな。ではそのお前の答えに、私がどのように回答すると想定していたのだ?」

その人は、答えた。
「あなたは、ただの神の使いだ。私の想定によれば、天国というシステムは、完全無比な無機質さなのだと想定していた。神の意思により、支障なく全てが完璧に機能する。一介の歯車であるあなたは、恐らく無機質に私に関する情報を収集する為だけに、機能するだけだ。つまり、あなたは何も実質的な回答はしない。天国において何かを判断できるのは神だけだからだ。」

神の使いは、言った。
「ここでは、神はあらゆるところに宿る。細部にも末端にも。」

その人は、言った。
「そのような解釈もできる。集権型も分散型も結局は、神の下では、同じであることは想定していた。
ただその問題は、あなたも神も、私ですら神になってしまうことだ。そして私は自分が神ではないことだけは知っている。」

神の使いは、言った。
「あなたには、自分が神ではないと知っていることにより、神の名によって、この言葉を届けよう。天国へようこそ。」

その人は、言った。
「このような結論になる事を想定はしていた。だが、喜びと共に、私に訪れている、この感情はなんだ?」

神は、言った。
「それが驚きだ。道を知ることと、実際に歩むことは違う。兄弟よ、だから、地上での生でお前がそうしてきたように、ここ天国でも、歩け。そして、驚け」


#32

バリエ

 アンドレのコンクリート帽子踏みにじられ。雑踏にばら撒かれるかけら。
 柔らかな果実。1946年。
 俺は。俺だけは。
 道には煙草が百本捨てられて乱雑に散らばっている。
 鳥かごには猫が百匹詰め込まれていた。
 1749年。
 引きずるように持ち上げて歩き出す。
 家に帰るのだ。
 赤く鈍く光る、虹のような橋で若い娼婦がリンゴを食べていた。夜空には女の立体映像の巨大な姿。スクリーン。どこでどう間違ったのか、女のけばけばしい服装は白い清潔な布一枚に変換されていて。女は客と共に暗闇に消える。立体映像と共に私達は残される。
 歩けども歩けども道が解らない。猫がどんどん逃げていく。鳥かごが空き地に山のように積みあがっていた。メモを取り出して書く。何を。色々なことを。
 お前馬鹿だろう。目の前にはスーツを着た黒人の紳士が立っていた。
 お前馬鹿だろう。黒く光るなめし皮のステッキで、コンクリートモニターをがんがん殴り始めた。お前馬鹿なんだろう。
 アメリカンインディアンにはB型が殆どいないらしい。アフリカからアメリカに行く途中にB型の人間がいなくなってしまったのだ。B型の人間がいなければB型の人間は産まれない。
 紳士は血だらけだった。お前馬鹿だろう。お前馬鹿だろう。コンクリートがばらばらと散っている。立体映像の女が、リンゴをもりもり食べながら、赤い口紅をだらだらと溶かしながらこちらを見ている。
 血液型といったって、遺伝O型もあるしRh型もあるし、分類しきれてない血球とその抗血球因子は膨大にあるから(大きな病院だってせいぜい10程度の分類しかしない)、血液型のバリエーションは、一説では1京を軽く超える。それは今までの全人類が違う血液型だったと言える数字らしい。
 どこにあんなにリンゴがあるのだろう。立体映像を見ながらぼんやりと思う。女は何時の間にか白いバレリーナになっている。箱舟の踊り。リンゴがぼたぼたと落ちていく。
 お前馬鹿だろう。猫はもう全てテレビモニターの中に逃げてしまっていた。デジタルテレビ番組。194年。2109年。20493年。
 歩き続ける。真っ白な鳥かごをがらがらと引きずりながら。真っ白なコンクリートハイウェイを。コンクリートのかけらを一つ齧る。立ち並ぶ巨大なスピーカー。ビルはもうここらでは殆ど無くなってしまっていた。流れているのはしょうこりもなくクラシック。たった500年前のクラシック。


#33

ベイクドケイク

 ふと時計を見ると、もう夜の十一時を回っていた。昼間は会社員などで賑わうこのホテルも、今はただ空しくクラシックが流れているだけ。 そんなシケた雰囲気に包まれたホテルの一角に、本当にどうしようもなくシケた喫茶店があった。その時、僕はそのカウンター席の内側で新聞を読んでいた。四コマ漫画を一分かけて熟読し、大きく欠伸をする。 父親が経営するバーの支店を強制的に任せられ、僕はここに店を設けた。だが、今時疲れきった会社員がバーに立ち寄ることなど滅多に無い訳で、気付いた時には喫茶店になっていた。そんな状況のせいで僕は腐っていたが、飲み物の扱いだけは自信があり、その自信だけで今までやってきた。そういえば昔はソムリエかバリスタになりたかったのだった。
 僕は立ち上がり、閉店準備を始めようとした。すると背後で妙な、本当に妙な気配を感じた。
 振り返ると、そこにはデカイ水筒があった。随分とずん胴な水筒だ。
「まだやっていますか」
そいつは抑揚の全く無い声でそう言った。僕は呆然としながらも、そいつの言葉を必死で聞き取った。
「ええ、まだやってますけど」
 そういえば知り合いのボーイが「掃除機みたいなお客が泊まっている」と言っていた。掃除機、というのが形状を指すのか「役目」を指すのか今ひとつ分からなかったが、こいつに違いなかった。
「注文、よろしいですか」
相変わらず無機質な声で、そいつは言った。閉店する矢先の意味不明なお客の登場のせいで、僕はいささか不機嫌だった。
「どうぞ」カウンターに肘をつき、紙を手にする。
「ブレンドひとつ」
「以上で?」ガソリンじゃなくて?
「それと、チーズケーキを」
「……二種類ありますが」
「ベイクドで」一番高いやつかよ。

 五分後、僕は青い顔で厨房から戻ってきた。
「どうぞ……」
どういう訳かケーキは焦げ、得意のブレンドも失敗気味だった。まあ別にいいやと思いながら、内心そろそろ潮時かなと思っていた。
 器具を洗って戻ってくると、皿とコップは既に空だった。一体どうやって「取り込んだ」のか少し気になったが、いいからとにかく早く帰ってくれ。
 そう思っていると、そいつは急にクルリと背を向け、「ご馳走様でした。夜遅く済みません。美味しかったです」と言って出ていった。カウンターの上には、きちんと料金が置いてあった。
 ロボットにも社交辞令ってあるのかな。そんなことを考えていた僕の顔は、少し紅かった気がする。


#34

木の子ステーキランチ(ナスビ入り)

 運ばれてきた木の子ステーキランチに嫌いな茄子がのっているのを見つけたきみは、「ナスビさんはリョウちゃんにプレゼントしてあげましょうね」と戯け口調で僕のほうに茄子をよこす。
 関西にきてもう七年になり、似非っぽさもすっかり抜けて関西弁をマスターしたはずのきみが、戯けるときだけは標準語に戻るのは妙な話で、かたくなに関西弁を拒否していたはずのきみが、ある日ひょこっと「そやけどね」といった日のことを思い出したりする。
「今、『そやけど』ってゆったよね」
「え? そんなの、ゆってへんよ」
「あ、『ゆってへん』ってゆった!」
 もう五年も前の話で、あの頃僕らはまだ学生だった。
「木の子ステーキって書いてあるのに、なんでナスビがはいってるんやろか。木の子ステーキかっこナスビ入りって書いとかんとあかんのとちゃう?」
 そやね、と軽く頷いただけの僕をしばらく不服そうに見つめたあと、きみは昨夜友人と見てきたお笑いライブの話を始める。
「なんしかねー。ジャルジャルがシュールやってん。あのシュールはなんてゆうんかなー。とってもシュールっていうか。なんしかシュールやったんね」
 としばらくシュールシュールと繰り返し、シュールという言葉自体が、なんやシュールやなと、サルバドール=ダリの顔が急に思い浮かんできたりして、しきりに喋りつづけるきみの顔に、ダリの髭をくっつけてみたりする。
 きみの話のなかにビッキーズのことが出てきたので、「ビッキーズの木部のおかんはうちのおかんの友だちやで」と、何度もいったことをまた繰り返すと、ビッキーズの名前を出したときから、僕がそういうのを知っていたきみは、「須知くんやないのがシブいよね」とこれもお決まりの返事をした。
 きみの席の後ろには、いつの間にか親子連れが座っていて、母親が切り分けたハンバーグを、幼稚園児くらいの息子が口をあんぐりと開けて食べていた。父親の顔はこちらからは後頭部しか見えないのでわからない。
 お笑いの話がいつしか仕事の愚痴へと変わっていたきみの話を聞きながら、あの親子連れが僕の後ろではなくて、きみの後ろでよかったと変に安心をして、カップスープを啜っていると、僕の背後で、「お、ニンジンまで残さんと全部食べるやなんて、トキオは偉いなぁ」という男の声が聞こえ、急に伏せられたきみの視線で、きみもまた喋りつづけながら僕の肩越しに別な親子連れを見ていたのだと、僕は知った。


編集: 短編