# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | はつかねずみ | 篠未来 | 363 |
2 | 『ライフバーゲン』 | 長月夕子 | 860 |
3 | 橋を渡る | otokichisupairaru | 662 |
4 | 髭 | わら | 1000 |
5 | 擬装☆少女 千字一時物語7 | 黒田皐月 | 1000 |
6 | 心の中で | 尚 | 995 |
7 | 神様 | たけやん | 673 |
8 | voodoo magic | 公文力 | 979 |
9 | 寒く乾いた空 | 壱倉柊 | 1000 |
10 | 妹の血 | qbc | 1000 |
11 | 切山椒 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
12 | pm 5:00 教室 | 熊の子 | 882 |
13 | 年月 | 川野直己 | 365 |
14 | ロイヤルゼリーちゃんズ 一般道東横トライアル激流殺し人名救出ライヴ | ハンニャ一家(大家族) | 978 |
15 | 後ろの背面 | くわず | 1000 |
16 | あの日の夕陽は今も | 曠野反次郎 | 999 |
17 | コンピュータミュージック | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
18 | 風の街 | もぐら | 1000 |
19 | 花房さん | マッド・スコーピオン | 676 |
「鼠色って、灰色のことだよね?」
「うん、だろうね。」
「はつかねずみは白いのに。」
「どうしてだろうね。」
「うーん…雪で出来てるのかな?」
「それじゃあ溶けちゃうんじゃないかな。」
「ふぅむ…雲で出来てるのかな?」
「空からおっこちたのかもね。」
「放り投げたら、空に戻れるのかな?」
「はつかねずみは重いから、むつかしいね。」
「ははぁ…わかったぞ。」
「何が?」
「はつかねずみがおっこちた理由だよ。」
「へえ、どうしてだい。」
「やわらかかった雲が肥え太ってしまって、おっこちた弾みに固まってしまったのがはつかねずみなんだ。」
「ふふぅん、そうかもしれないね。」
「土の上で痩せこけたら、また空に戻るのかな。」
「さぁね…おっと。はつかねずみが来たからこの話はおしまい。」
「そうだね、そうしよう。…ねぇ、林檎色って赤だよね?」
「うん、そうだね。」……
Nへ。
一つあやまらならなければなりません。私はつい先日、あなたをモデルに小説を書きました。というのも、あなたの「服は人に見られるために着る」という言葉が印象的で、私は小説の登場人物にそれを言わせてみたかったのです。ところが物語の展開上、その人物を野暮な男にしなくてはなりませんでした。あなたはとてもおしゃれで、ロシア人のような帽子にインディアンのようなコートを合わせたりする人じゃありませんでしたね。しかし、私は小説の人物に、野暮ったさや田舎くささを出す為、そのように描いてしまいました。
私はこの話を、本当は笑いながら冗談交じりにあなたへ報告するつもりだったのです。
1996年1月、あなたは下北沢駅前劇場で、マチネとソワレ合わせて計6回、舞台の上で死にました。それはとてもきれいな場面で、真っ暗な舞台の上ただ一人スポットライトの中あなたは、白いラメのセーターを着て、白いブーツカットのパンツにエナメルの白い靴、白い羽のショールを巻いていました。あなたはゲイの役で、当時我々の中でゲイの役をやらせたら、たぶん右にでる者はいなかったと思います。そうして、印象的な台詞を残して死んでいきました。
あなたは役にしても、普段にしても、印象的な台詞に包まれた人でした。
「役者とこじきは一度やったら辞められない」と言うのもそうでしたが、私が一番好きだったのはやはり、あなたが成増に住んでいた時の「成増になります」ではなかったかと思います。私の「松戸でまつど」よりずっとスマートな感じで、いたく感動したものです。
2006年10月、あなたは本当にこの世を去ってしまいました。
私はあなたの最期がどのようであったか知る由もありません。ですから、10年前の舞台の上で、あなたが残した言葉を、私はあなたの最後の言葉として、ずっと覚えていくつもりです。
「アタシのコト忘れてちょうだい…ううん…忘れないで…」
暗転
(『ライフバーゲン』坂手洋二作)
徒歩通勤。
片道1時間弱。
10月一杯までは、東京にも住居がある。
来月からの生活に向けて、練習。
一生、一人身で過ごす事がつもりだった。
結婚なんて、弱い人間がするものだ。
憧れる女性は皆、独身。
昨日も発作があった。
二年前から、体の調子が悪かったが、
症状が出たのは、去年から。
社会人になってから症状が無く、完治したと思っていたので、ショックだった。
10代の発病者は、親の遺伝が多いという。
母も経験している。
仕事をしている時が、一番気が紛れる。
彼が必要だと思った。
脳溢血で入院している彼のお母さんに挨拶に行った。
3ヶ月単位でたらい回しされ、遠方に入院していた。
彼に今日行かなきゃ、絶対後悔すると伝えた。
植物状態と聞いていたのに、笑って迎えてくれた。
思ったより元気そうだったので、ほっとした。
でも、あの言葉は、本当になってしまった。
あれから、数ヵ月後あっという間に亡くなってしまった。
8月の早朝、突然電話が鳴った。
常識を逸した時間だった。
横で眠っている彼を起こさないように、そっと電話を取った。
お姉さんだった。
私の声で、ちょっと驚いて、
それから自分を抑えている口調に変わった。
不幸な知らせだと直感した。
彼は、急いで洋服に着替えながら、
何度も、何かに問い、何かに怒っていた。
私は、その様子を見ながら、母の口癖を思い出す。
皆、明日をとも言えぬ命よ。
最初で最後にお会いしたあの日、偶然にも彼のお母さんの誕生日だった。
川沿いに、沢山の彼岸花が燃え滾るように咲いている。
皆、生命力に満ち溢れ、自然を賛美しているようだ。
それを過ぎると、私は橋を渡る。
私は髭が濃い。息子も小学生だが立派な髭を生やしている。そのためイジメを受けている。
父として自分を責める気持ちもあるが、悲観しきれないのは息子の生い立ちのためだ。
私と妻は子供を作れない身体だった。それでも二人で生きていこうと決意して結婚したのだが、どうしても子供が欲しくなった。
そこで親切な宇宙人さんに頼んで、私たちの細胞から子供を作ってもらった。
輝喜という。
私と妻にとってこの子は輝く喜びだ。息子にもそんな幸せを手にしてほしいと願って名付けた。
ところが宇宙人さんの技術が特殊だったらしく、私は高校の時生えた髭が、輝喜は小学生になる頃に生えた。六年生になると私と同じほど濃くなってしまった。
また宇宙人さんを頼ろうと思えば自責の念は軽くなるが、私は妻と出会い、輝喜を育てることで大きな幸福を得た。何事にも後ろ向きで孤独だった私が、愛する妻と息子のために仕事も猛烈に取り組み、職場にも生き甲斐とかけがえのない仲間を得た。
安易に宇宙人さんに泣きつくようでは、この幸福を軽視しているようで気が引ける。
しかし輝喜自身に罪はない。思い切って宇宙人さんに相談した。
程なく息子へのイジメはなくなったが、輝喜の髭は依然として黒々としている。
宇宙人さんは、学校の子たちに金属片を埋め込んだからもう大丈夫と言った。
だがこれでは輝喜は大人になるまで悩まされるだろう。その都度宇宙人さんに頼めば、いずれ全人類に金属片を埋められかねない。宇宙人さんにとってそれは本意かもしれないが、一地球人としてそれは避けなければならない。
やはり私たち家族の問題だ。永久脱毛も考えたが、輝喜が成長するにつれ髭が生えないことも悩みになるかもしれない。妻は輝喜本人に聞こうと言った。デリケートな問題なので輝喜には聞けずにいた。髭と一緒に私のことも否定されそうで怖かったというのも本音だ。だがやはり輝喜の気持ちが最優先だ。
夕食の席で、輝喜に自分の髭をどう思うか聞いた。
「父さんにもらった髭は僕の誇りだよ。よくバカにされるけど、父さんみたいに、ううん、父さんに負けないようにがんばろうって思うんだ。」
そう言って輝喜は笑った。涙が溢れてきて、照れくささもあり夜風をあびに外へ出た。
見上げた夜空は澄んでいた。満天の星が私たち家族の未来を祝福しているように思える。星空に浮遊しているアダムスキー型円盤に、私は小さく手を振った。
「ちょっと、女の子になってみたかったんだ」
僕はその言葉を、二回口にした。
僕の家には昔からよく姉の友達が遊びに来て、僕も彼女たちに構ってもらっていた。そうして育ってきた僕は、何となく男の子の中に入ることができず、かと言って女の子の中へ飛び込んでいくこともできなかった。
家に帰れば誰かしら構ってくれる人がいたので小さい頃はそれでも寂しさを感じることはなかったが、本当に彼女たちの輪の中に僕が入ってはいないことに、だんだん気がついてきた。それが増すごとに、僕は焦燥感を抱いた。
何故か。それは僕が男の子だからである。
ならばどうするか。女の子になれれば彼女たちのところに戻ることができる。
そのために何をするか。悩みに悩んだ末、形から入ることに決めた。
姉の服を無断で拝借した。心臓がどきどき鳴った。回を重ねるたびにそれはだんだん弱まったが、しかし焦燥感は消えない。消えない焦燥感に苛立って回数が増えてきた頃、姉に見つかった。
あまりの驚愕に表情を凍らせたような姉に、僕は努めて明るくそれを口にした。
「ふうん、面白いじゃない」
氷が緩むような力の抜けた笑みで、このことは姉の公認となった。
その姉から、想像の中に閉じこもっているだけでは進歩しないと助言をもらって、僕は外に出ることを始めた。また心臓がどきどき鳴ったが、これを気取られてはならない。抑えることができたと思うごとに、僕は徐々により人通りの多い場所へと向かった。
ようやく上がってきた目線で周りを見ると、ただそこに居るというだけであれば、男の人も女の人もそれほど違っていないように見える。それならば僕がこうしていても良いようである。
「ねえ、ちょっと話させてよ」
同級生の女の子に声を掛けられて迷いもせずについていったのは、自分を試してみたいと思えるようになっていたからだろう。
「アンタ、――でしょ」
何故、と無表情で問う彼女に、僕は照れ笑いを浮かべてそれを口にした。
途端に罵倒された。それは荒れ狂う吹雪のようで、その前に僕は凍りついた。
「そんなことで女の子だなんて、馬鹿よ」
言いたいことだけを言って、彼女は傲然と立ち去った。ようやく氷が緩んで僕の中に湧き出したのは、哀しみと怒りが綯い交ぜになったものだった。
もう二度とそれは口にしない。そして彼女を見返してやる。
およそ女の子らしからぬ反抗心で、今僕は女の子になることを目指している。
寒空の冬、週末の博多駅構内を黙々と抜ける。
寒さで足取りも無意識のうちに早くなって行き予想以上の速さでマンションに着いた。
明かりを点けて惣菜と炊いていた御飯に喰らいつく。
一人暮らしも早二年が経ちの専門学校に入学したものの、意のままに出来ない妄想と冷たくあしらう現実に直面している自分に苛立ちと不安とが同時に湧きあがる。
チャンネルを回しバラエティ番組を眺めながら焦燥感に満ちた自分の気持ちを落ち着かせてみる。
芸人の芸でさえ生き残るための大切な職なのかと思うと改まった角度から見てしまい笑うことさえ困難な状態になる。
すさみきった気持ちの中でベースを抱え込み鳴らしてみると、いつものように狭い四畳の部屋を低音が包み込んだ。
数分後、Smashing Pumpkinsの「Tonight Tonight」をかけ、自らの弾くベース音と楽曲を合わせる。
美しい旋律が心を満たしビリー・コーガンの歌声が高らかに情緒豊に響き渡る・・・。
曲の終盤「The impossible is possible tonight,Believe in me as I believe in you tonight.」(不可能は今夜、可能になる。
今夜、私はあなたを信頼するから貴方は私を信じて)と歌う部分でゆっくりと弾き終焉を迎える。
曲中の純粋な感情とは裏腹に、歌詞にさえ溶け込んでしまいたくなる自分が居て恥ずかしくなる。
無知な人間が世間から逃げるかのように助け舟を必死に探そうとしている、こんな間抜けな姿がどこにあるのだろうか?
親の前に顔を会わせるのも後ろめたく感じる我が身に冷たい風が窓から吹き、身を刺すその瞬間に涙が流れた。
二十年という歳月の中で親孝行も出来ない若者に対する警告なのだろう。
所謂、世間でのニートやフリーターという現実を否定しながら学校という盾の中でプライドとエゴだけが育ち傲慢になった自分に。
抵抗力の無くなっていく日本の子供はどこまで落ちぶれていくのだろうか?
甘えという薬でラクを知り、歳を重ねるにつれ副作用がやってくるのだ。
同じ現実が起こり自分だけではないと集団的心理で物事を考えどんどん派生していく現状。
先行きの見えないレールを渡り自分は何を考えるんだろう?
拭えない不安に苛まれながら床に就いた。
翌朝、テレビをつけて目に付いた文字は「また自殺・・・」だった。
ある日小さな男がやってきて、慇懃無礼にこう言った。
「あなた様の懸想されているお隣にお住まいのご婦人は、この世界をお作りになった創造主様であらせられますから、あなた様一個人がどうこうできるわけもないので、どうぞ潔くお諦め下さいますように」
余計なお世話なので黙って玄関の扉を閉めると、居間の窓からのぞいている。
目が合うと、先ほどとまったく同じ台詞を一言一句違わずに繰り返すので、カーテンを閉める。
すると今度は台所の窓からのぞいていて、先ほどとまったく同じ台詞を一言一句違わずに繰り返すので、窓を閉めて衝立で遮る。
いい加減に諦めただろうとトイレに入ると、トイレの小窓からのぞいているので、何か言い出す前に小窓を閉めた。
先回りして洗面所に行き、窓を閉める。磨りガラスだから外からは見えまい。
すると、風呂場から嫌な感じに反響した声が聞こえてきた。
「あぁなぁたぁさぁまぁのぉけぇそぉうぅさぁれぇてぇいぃるぅ…」
慌てて風呂場の窓を閉めに行くと、窓枠にぶら下がるようにして例の小さな男がのぞいていた。
問答無用で窓を閉めると、静かになる。
台所に戻って衝立をどかし、窓を開けてから、すぐに隣家に出かけて隣人の家の呼び鈴を鳴らす。
隣家の女性はすぐに出てきて、また行きましたかと言ってため息をつきながら深々と頭を下げた。
「本当に、いつもご迷惑をおかけしてすみません」
いいんです。笑顔でそう答える。あの男の言うことは、半分正しいのだ。
女性と共に家に戻り、台所に向かう。
有名な人形作家の彼女は、床に落ちていた人形を掴むと、いつものように幾度も謝りながら隣家へと戻って行った。
「私昔いじめられてたんです。それは過酷な日々が長く続きました。」
安いラブホテルの一室に僕とチヨダさんはいる。彼女はベッドの縁に凭れて話し始めた。僕は小さな冷蔵庫からスーパードライを取り出してプルトップを空ける。
馴染のバーでよく一緒になったジミという男からコンパに誘われてそこで出会ったのが彼女だった。二軒目のバーで甘ったるいカクテルを飲む他の女の子らから敢えて孤立するかのようにシングルモルトをロックでちびちびやっている彼女を見ると何だか悪い気はしなかった。僕は彼女の隣のスツールに腰掛ける。
「いじめが長く続くうちに私はやつれていったようです。母には心配を掛けたくなかったから家では元気を装ってご飯もちゃんと食べていたのですけれどやはりいじめられるというのも結構体力がいるものなんです。
僕が隣に腰掛けるとチヨダさんは一瞬身構えて一秒後には僕に親密な笑みを洩らした。悪くない微笑み方だなと思った。
「それが何かの理由で母に私がいじめられていることが知れてしまったのです。それからが大変でした。事態はさらに収拾がつかなくなりました。母は元々問題に直面してしまうと適切という言葉から最も離れた突飛な行動をとってしまうような人間なのです。それが私の最も恐れていたことでした。散々火に油を注ぐような行動をした挙句に母は宗教に走りました。」
「どうして?」
「自分の娘がいじめられてるなんて信じたくなかったのでしょう。」
僕はビール缶を両手の甲でスクラップする。
「悪魔崇拝ってどう思います?」
僕がぼんやりしていると彼女は言葉を続ける。
「母に反抗することも出来ずに私もそちらの世界にどっぷり浸かることになりました。しばらくすると見えるようになりました。」
「何が?」
「人の悪意だとかおぞましさが見えるのです。その人の肌から。紫の煙のように。湖上の靄のように。」
「何かハードロックだね、そういうの。」
そういうとチヨダさんはクスッと笑った。そう言えば家って一日中ハードロックが流れていたんです、と。
「私は今でも時々鶏なんかを生け贄にするけれどその辺を歩いている普通の人たちの方がどれほどおぞましいものかといつも考えます。」
「僕がそれを知らなかっただけなのかな?」
酩酊が心地よく僕を抱く。おっぱいに抱かれているみたいだ。
「そういうことです。」
チヨダさんの声がどこか遠くで聞こえた。
おかしな夢を見た。
十二月の張り詰めるように寒く乾いた空の下、僕は札幌駅前の交差点にいる。行き交う大勢の人々に紛れ、白い息を吐きながら歩く。素晴らしい買い物をしたらしく、手に紙袋を提げていた。気分がいい。
ビックカメラの角を曲がると、前方にポケットティッシュを配っている人がいた。その人の顔を見ると、これが驚くことに僕の学校の英語教師であった。彼は赤い合羽を着て、人が通る度にティッシュを差し出していた。しかし受け取る人は一人もおらず、彼はたくさんのティッシュが詰まった籠をいつまでも抱えていた。
僕は彼からティッシュを受け取ったが、その時見た彼の瞳は寒さと空しさのせいか白っぽく濁り、生気が感じられなかった。手元のティッシュに目をやると、何故か広告も何も付いていなかった。
そんな夢を見た日、彼は授業のため僕のクラスへ来た。僕はぼんやり彼を眺めていたが、彼の授業は普段通りだった。しかしその姿は夢の中とは違って、どこか楽しげですらあった。授業が終わって、僕は彼に夢の話をしようかと考えた。だがあまり親しくもないので言い出すきっかけが掴めなかった。
その日、僕は補修のせいで帰りが遅くなった。玄関で靴を履いていると、隣の職員玄関に彼がいた。サッカー部の顧問なので今から部活に行くようだ。僕は無意識の内に声をかけていた。
「先生」
「ん? なに?」
「昨日、先生の夢を見ましたよ」
「ホント? 俺何してた?」
「ティッシュ配ってました」
「ええ、やっぱ夢の中でもマヌケなことしてるんやな」
「いやそういう訳じゃあ」
「はは。じゃあ気をつけて帰れよ」
「はい、さようなら」
そして彼はグラウンドの方へと勢いよく駆けていった。
玄関を出ると辺りはもう闇に包まれていて、寒く乾いた空気が張り詰めるように冷たかった。僕は肩を竦めて歩き出した。早く、早く暖かいところへ、と一心に歩く。
校門を出ると、バスを待つ生徒達が白い息を吐きながら談笑していた。それを見て、不意に僕は自分の瞳が寒さと空しさのせいか、生気を失いかけていることに気がついた。僕はすっと制服のポケットに手を突っ込んでみた。中には使いかけのポケットティッシュがひとつ入っていて、どういうわけか少し笑いがこぼれた。
そうやってポケットに手を突っ込んだまま、僕は速くなっていた歩調をすっと緩めた。そして、ふうっと白い息を上空に向かって吹きかけた。満月だった。気分がいい。
「東京では猿が話すげんて!」
友人の水上がやってきて開口一番叫んだ。
「東京では何でもおこりよるで」
囲炉裏で眠っていたはずの婆が言った。俺は黙っていた。水上は帰ったようだった。再び婆は眠り、俺は気づくと家を出ていた。
数日後、俺は浅草にいた。しかし猿は一匹もいない。「猿、いないけ?」と聞いてみようと思って雷門の前に立っていた女性に声をかけた。
「猿はいませんか?」
「猿?」
「東京に猿がいるって聞いて、俺田舎から来たんだ」
「猿の話はしないで」
「え?」
「しないで」
俺はただ頷いた。女性は足早に去っていって、俺はひたすら途方にくれた。
「ほら」
「あ」
ぽんと肩を叩かれて振り向くとさっきの女性が立っていて、菓子をくれた。「切山椒」というそうだ。遠慮なくもらった。いい匂いがしてうまかった。
「喫茶店でもいかない?」
彼女は古田と名乗り、二階建ての古風な喫茶店へ向った。古田さんの勧める珈琲は梅酒割りの珈琲だった。それを飲んだ俺は東京に猿がいるのも最もだと思ったが何も言わなかった。俺たちはお互いの好きなものについて話した。俺がひじきと油揚げばかり食べてる、というと彼女は笑った。古田さんはドーモ健という写真家が好きらしかった。
「彼の、内面に土足で踏み込んでいくのがいいの」
と古田さんが言ったとき、俺は思わず「猿のように?」と問い返していた。すると彼女は立ち上がって手洗いへ行き、そのまま戻ってこなかった。何か機嫌を損ねてしまったらしかった。ただ、古田さんは手帳を忘れていった。ファイロファクスと読める英字の手帳だ。
「……それでおめえ、それ盗んだがか?」
水上は興奮して訊いてくる。
「いや、置いてかえった」
嘘をついた。俺は手帳を届けるつもりで持って店を出た。手帳には連絡先がどこにも書いてなかった。結局届ける術を失ったまま今でも机の引出しにある。
唐突に婆が目を開き「東京は危険じゃ」と言い放った。野次馬の水上はとっくに帰っていて、俺はやるせなくなった。
実は浅草を出た後、俺は猿に会っている。闇雲に町を歩いていると路地に入って、谷崎純一というどこかで聞いた名前が彫られた碑の前で座っていたときにやってきたのだ。猿は「河豚食いたいねえ」と俺に言った。返事をしないでいると、人間の着ぐるみをきてどこかへ行ってしまった。東京にいると猿が話すことは珍しいことではなくなる。
俺は猿よりも、もう一度古田さんに会って手帳を返したいと思った。
机の上で携帯電話が鳴った。
今日子は手に付いた絵の具を拭い、携帯を手に取った。相手は同じ看板作りの宏美。
「ごめん。こっちも売ってなかったよ。どうしようねー」
「うーん、そっかー。ほかにどこかあったかなぁ」
「いちおう駅まですぐそこだから、そっちも行ってみるね」
学園祭まで日にちが無くなってきたが、なかなか思うように進まない。ポスター二枚無いくらいの看板だというのに。どうしたものか。
携帯を机の上に戻し、絵の具を割り箸でかき出した。体育館のリハーサルも終わり、みんなはもう帰った。色が変にならないように混ぜていると、ひとり廊下を歩いている隣のクラスの聡と目が合った。聡は一度視線をそらしたが、すぐこっちへ首を上げた。
「看板作りしてんだ。大変だね」
視線は看板に行ったが、またすぐ戻ってきた。
「うーん、宏美と一緒にやってるんだけどね」
今度は今日子が看板に目を落として、苦笑いした。
聡とは去年同じクラス。席が隣になったときに気が合って、宏美と三人でよくしゃべっていた。だけど、クラスが変わってからは顔を合わせるのが照れ臭くなっていた。
「去年体育祭のとき、カーテンで応援幕作ったよね」
そう。作った。七人くらいで。三人ともその中にいた。
「ちょっと手伝ってよ」
思いがけない言葉が、自分の口から出てきた。聡は少し笑いながら教室に入ってきた。
特に話はしない。二人は看板に目を向けて、ただ軽く絵の具をいじっていた。そういえば昔から二人だけであまりしゃべったことがない。宏美がいつも中心で口を開いていた。二人のときは一緒にいるだけ。それでも気まずかったりすることは無かった。
二人はなんとなく昔に戻っていた。
聡が少し口を開こうとしたとき、机の上で今日子の携帯が鳴った。
「駅のほうも無いよー。ほんとどうなってるんだろう」
「そっかぁ。じゃあ、明日となりのクラスとかに当たってみようか。宏美はそのまま帰っていいよ。片付けは私がしておくから」
「えぇー、そんな悪いよ」
「いいよ、もう遅いし。塾あるんでしょ?」
今日子は携帯の電源をオフにした。
それからゆっくり、彼の言葉を待った。
新しい蒲団と少ない荷物が置かれただけの小さな部屋に暮らしはじめた。空気の乾いた季節、わずかに残っていた湿気も窓枠に凍りついては解けて乾き、陽は差さないが暗がりという訳でもない、そのような冷たく乾いたところに僕は蒲団を敷いたままで立ち上がり、外の雑木林を眺め、座り込んでは眠ることを繰り返していた。樹々を揺さぶる空気の流れはやがて部屋に入り込み、一巡りして外へ出る。僕自身が外へ出る必要性は感じないのだった。陽の光にほとんど当らない生活ではあったが、一度、真夜中を過ぎた時刻に顔を照らされて目を覚まし、隣接する棟との間、狭い空に浮かぶ白い半月を見た。ああこれが下弦の月というものだなと考えて目を瞠った。月もまた冷えきって白く乾いた場所であると思った。この部屋に暮らすかぎりは僕が月を訪れる必要性は無いのだと考えながら眠りについた。
アニメの主題歌を歌うことで一生食っていける状態までのしあがったロイヤルゼリーちゃんズは、全国ツアーのしめくくりを5秒前に控え、舞台袖にスタンバイしていたが、虫の息だった。46の都道府県で演奏してきた肉体はボロボロで、あおむけだった。残り1秒で機械のような動きで立ち上がり、そこから人間味をとりもどしてかっこいい顔でステージへおどりでた。
まず、彼らの目に飛び込んできたのは、焼け野原だった。人気がまったくないし、まだ草が燃えているから少なくとも人っ子一人いなくなってからかなり経っている。彼らは、全員何も言わずに後ろをふりむいた。かなりでかいスクリーンに、岸田(マネージャー)が顔だけ表示されている。画面の隅「生中継」という文字を指差しながら、岸田(マネージャー)はかなり上からの目線で話しはじめた。
「おまえたちはほんとうに、ちょっと売れたからって、なんだ。おまえたちには『はい! 岸田さん!』の頃のあの気持ちを取り戻してほしいと、こう思っている。 それではルール説明をします。まずは、映像をごらんください。」
岸田(マネージャー)はそう言い終わってからスッと口を閉じ、画面が切り替わるのを待った。大画面が二分割され、左には岸田、右にはなにやらCDショップの映像が映し出された。
「はい。」
岸田(マネージャー)がリモコンのくそでかい赤いボタンを押した。右の画面に、陳列されているロイヤルゼリーちゃんズのCDがぐいぐい大写しになっていき、画面がとまった瞬間、大爆発が起きた。
「はい。おれもびっくりした。きみたちの歌詞カードには、すべて平べったい爆弾が挟み込まれている。25秒に一枚ずつ、全国で好評発売中の爆弾が爆発していく。君たちにできることは2つある。君たちが持ち歌を演奏している間、特殊な電波が発信され、くわしい説明ははぶくが、爆弾は爆発しない。また、横浜にいるおれの懐に隠されている青いボタンを押すことで、爆弾は完全に停止する。タイムリミットは1時間だ。がんばって24秒以内の休憩をはさみながら歌って横浜まで来てくれ。売れても努力するということは忘れないようにしたいね。では。」
ロイヤルゼリーちゃんズは振り向き、イントロを開始させた。
エンジンかかりっぱなしの2台のバイクが向こうに見えた。ギターソロが終わると、2番の歌いだしとともに彼らは走り出した。
私は独り公園のベンチに座り、唯々夕暮れの圧倒的な橙に染め抜かれていた。
この橙に、私の胸の不穏な高鳴りを吸い上げて欲しかったのである。
牢獄の壁を打つ囚人の叫びの様な鼓動は、私が大通りから逃げ出してから止め処なく刻まれていた。
会社から帰宅する途上で見とめた、車道を挟んだ街路に寄り添う二つの人影が、自然私をそのような臆病の蒼白い闇へと融かしたのであった。
艶かしく揺らぐ影は、私の最愛の妻のなりをしていた。
私の度を真に外させたのは、共に揺れていたもう一方の影が私の親友であった、ということであった。
彼に親愛の情を有し始めたのは、私が未だ虚弱な子供の頃、近所の悪餓鬼から私を守ってくれたからであった。
一友人として以上に彼の存在を大きく感じていたのは、私の中に在る、強さへの絶対的な憧れのためであったろう。
その根が差し込まれている灰色の土壌は、幼い頃に父を失ったという経験にほかならない。
私の父は、母を捨てた。
それは、父が妾に本腰を入れたためであった。
女であることを捨てた母のなりが、父を道ならぬ痴情へと走らせたのであった。
腹の種が芽吹いたのを知って、母は女を捨てて母となった。
父も母も、子を持つには未だ若く、養うに足る銭の工面も儘ならなかった。
この失策は、父が避妊を忘れていたために起きた。
父にすれば、その非は失念にではなくて、避妊についての経験の無さに拠った。
父にその経験を強いなかったのは、偏に自身を不能の者と認識していたためであった。
その誤認は、幼い頃に父が局部へ被った痛撃の所為であった。
熊ん蜂の鋭い一刺しが火の様な痛みとなって、三日三晩父を責め苛んだ。
巣を侵す敵として、家の近くに在る鎮守の森で独り遊ぶ巨きな父に、熊ん蜂は果敢に挑んだのである。
熊ん蜂は兵隊蜂としての剛健な意志でもって、それを為した。
その忠信の源泉は、情動ではなく、本能である。
あらゆる存在の行為に関して、情動をその基底に据えさしめるのは、本能の策謀に拠る。
本能に策謀を強いているのも又、本能である。
本能は、何者かの仮面を被り何者かの背後に隠れることによって自らの思惑を成し遂げんとする、本能の本能に統御されているのである。
即ち、全ては本能によって設えられた精神や魂という薄皮の、手触りの塩梅における差異に過ぎない。
私を浸す橙の海の柔らかさも、痩けた頬を伝う温い涙も又、然り。
中学にあがって間もない頃だった。
昼休みの教室で、誰かが突然に「遠山左衛門尉さま、ご出座ぁ」と言うと、机が合わさり即席のお白洲が作られる。何の打ち合わせもなしに、金さん役、下手人役、同心役、町人役に別れ、「廻船問屋、越後屋。そのほうご禁制の阿片を扱い罪もない町人を誑かし苦しめたことは明白」「これはしたり。お奉行さま、斯様なことを仰せられるからにはなんぞ確かな証拠でもあるのでしょうなぁ」などとやる。配役はその都度違うが、金さん役と下手人役は決まった数名の生徒でローテーションのようになっていて、僕もそのうちの一人だった。机の上から身を乗り出し片肌脱いで、「市中引き回しの上、打首獄門!」とやるのは気持ちよかったし、「この遠山桜を見忘れたとは言わせねぇぞ」と迫られ、大袈裟に驚いてみせるのも楽しかった。
大学に入り何年かして、中学の同窓会があり、会場へ向かう電車のなかで、級友の一人と一緒になった。何年ぶりだろうか、などしばらく話したあと、話題は今日来ているだろう他の級友たちの話に移った。
「太田祐子がめっちゃ痩せてべっぴんさんになってたらどうする?」
「いや、あの娘はまだふくよかななままやったね」
「ここだけの話やけどな、あの娘にバレンタインのチョコもろてん」
「そうやったんか。いつもうちらの周りにおったんはその所為やったんか」
「『教室に台風が来たよごっこ』とか、『遠山の金さんごっこ』とか色々訳わからんことしてたん飽きもせず見とったよな」
「そうそう、『あんたら見てるだけで楽しいわぁ』ゆうてな」
「そういや寺田のうっちゃん来るかなぁ。成人式には来とらんかったけど」
そう言うと、相手は急に声をひそめ、周囲を窺うようにして言った。
「お前、知らんかったんか。うっちゃんのおとんが人殺して、うっちゃんとこ夜逃げしたんや」
「え?」
「テレビや新聞にも出とったで。愛人に別な男が出来て刺しよったらしいんや」
返す言葉に詰まり、窓の外を見た。僕が金さんで、うっちゃんが下手人だったことが確かにあった。ガラス窓の夕陽に染まる街のなかに、机から身を乗り出し嬉々として、「打首獄門!」と言う僕の姿が映り込んでいた。越後屋のうっちゃんは、大仰に顔を顰めてからグニャリと床に崩れ落ちた。それを屍体でも運ぶように同心役の級友が教室の外へと運び出していく。太田祐子が奇麗な声で、「あんたらやっぱおもろいわぁ」と笑っていた。
真っ赤なリンゴの降り注ぐ、モナリザ・ロード。
灰色のコンクリート壁に何枚、何十枚、何百枚と貼られたモナリザ。
リンゴを齧り、歩き出す。
白いドレスを着た女の子が泣いている。
頭の潰された黒いヘビを持って泣いている。
あたしは女の子の手を引いてモナリザ・ロードを歩いていく。
街には広告。広告、広告、広告、広告、広告。マケドニア社の広告。ネオンサインの広告。マケドニアネオンサイン。月々二円で五億曲ダウンロード可能。
一曲三分として時速二十曲。日速四百八十曲。月速一万五千曲。年速約十八万曲。
「お望みであれば」
アレキサンドリアがひざまづいて言う。
「お望みであれば、あなた方の時空をゆがめる、時空をゆがめて、楽しくする、美しくする、そのようなサービスも提供できますが」
クレオパトラが泣いている。ヘビを持って泣いている。
アレキサンドリアはひざまづいたまま動かない。
コンピュータに問いを入力する。十字架形のコンピュータ。作曲も作詞も作文も、昨今はコンピュータに演算させた方が早い。
「人は」
イエス。
「人は、滅ぶべきなのか」
イエス。
「人は、生きながらえるべきなのか」
イエス。
「人は、どこまで生きなければいけないのか」
イエス。
キリンが死んでいる。長い首を横たえて死んでいる。
爆弾で破壊された聖堂に、キリンの死体をなんとか運び込む。
聖堂に行き着くまで、色々なものを手渡されていた。鍵、本、パスワード、詩、朝日、夕日、虹。そんなもので両手が一杯になる。
突如視界が開ける。
あたし達はビルの屋上に行き着いた。
親しい友達や親、兄弟、親戚一同、ご近所一同、白いワンピースを着てあたし達に銃を向けている。
銃弾が一斉に撃たれる。蜂の巣になる。血煙が舞う。視界の彼方では青空が綺麗で。虹が綺麗で。モナリザが綺麗で。ネオンサインが綺麗で。クレオパトラが綺麗で。
落ちていく。ビルからあたしは落ちていく。
足首にヘビが絡まる。
逆さまに吊られるあたし。
ヘビは頭を潰されているくせに変に動いて、変にカラダに絡まって、変に刺激して、変に溢れさせて、変に縛り付けて。
逆さまの朝日。視界の全て綺麗で。イエス。イエス。イエス。イエス。コンピュータが答える。虹が綺麗で。モナリザが綺麗で。ネオンサインが綺麗で。クレオパトラが綺麗で。全て綺麗で。コンピュータミュージック。全ての音が綺麗で。全てがプログレッシブで。
山間に位置するこの街は風の通り道である。四方の山から吹き降ろす風が東から西へ、北から南へ、時にそれらが同時に、休みなく吹き荒れている。春には花弁が、秋には紅葉が飛び乱れる。暴力的な風に為す術もなく弄ばれる花や葉を見るのは心地良かった。それは、たとえ自然であっても抗えぬ上下関係があるということを私に見せ付けるのだった。
「俺はこの風に乗って街を出る。ふつうのやり方じゃあこの街から出ることはできない。ようやくそれがわかったんだ」
男が初めて街を出たのは十五歳の時だった。行き先も決めず自転車を走らせた。しかしどこをどう走ったのか、気付いたときには街の入り口に辿り着いていた。その後も何度か街を出たが、様々な理由からいつも結局は街に帰ってくることになった。街を離れられないのは自分の意思ではないと男は信じていた。それは街の意思に違いないと男は言った。呪いのようなものだ、と。
「メアリー・ポピンズを知っているだろう」
男は工場の裏に積み上げられていた廃材を使って大きな傘を作ろうとしていた。私は錆び付いたドラム缶に腰掛けてその作業を眺めていた。
「彼女はまるっきり自由に見える。まさに、俺が今一番欲しいものさ」
男をこの街に引き留めようとする見えない力が本当にあるとして、一体どうしてこの男のような人間を街に留めておくのだろう。私は男のことが好きではなかった。口を開けば街についての愚痴ばかりだった。酒に酔うと、かつて一時期だけ暮らしたことのある外の街の話をした。その話をするときだけは目に嬉々とした光が灯った。
工場の娘が赤い風船を持って私たちのもとへ駆けて来た。姉ちゃんこれ、と娘はその手を前に突き出した。きれいだね、と私が言うと、ヘリウムなのよ、と誇らしげに笑った。その時、一陣の強い風が吹いて娘の手から風船をもぎ取っていった。ゆっくりと旋回しながら、風船はみるみる小さくなって灰色の空へ吸い込まれていった。風船は山を越えて飛んで行くだろうか。頬に何かが当たり、私は反射的に目を閉じて顔を背けた。再び空へ目を戻したときには風船は視界から消えていた。雨、と娘が呟いた。
「雨なら傘に入ればいい」
男の傘は作りかけだったが、それでも私たち三人が入ってもまだ余裕があるほど大きかった。私は透明なビニールに雨が描く不定形の模様を指でなぞりながら、雲の上で風船が太陽の光をきらきらと反射する様子を思い描いていた。
君達!21世紀は精神の時代だ!感を全身で顕したい。だから、できれば打ちっぱなしのコンクリートにプシュッとスプレーをふって、なおかつそれを数年ほど雨風にさらして色あせた感の出たいい塩梅の赤いTシャツを新品で探しているのだが、ショップで働く自称ファッションリーダーの店員達でさえも首をかしげる有様だ。ならばシンプルに深煙色で妥協すると言ってみたものの、マジ勘弁してくださいフェイスで見つめられながらも店を去る。合掌。
要はこだわりだ。と下請けの花房さんが言っていた。
キャフェでショット追加のアメリキャーンを苦苦しくもクールに流し込む様は、ハリウッドというよりは、北欧の社会派ドラマの主役の友人を彷彿とさせる。アシッド系の二流DJだ。という感じで、脳内でいくらこだわったところで、街行くヤンガー・ピーポーには伝わりきらない。
こだわりの真髄はファッションだ。バイ・花房。
音で例えるのは簡単だ。StereoLab的なサウンドを2分程垂れ流して、ブレイクのギターノイズをうまいことループさせて、いきなりドラムンベースに展開するという、小悪魔的なミックスだ。セックスにも応用できるはずだ。Mix by DJ Hana-busa aka Like a Dick
どんなときも霊感が強いということにしとけば、あまり煙たがられないで済むのだ。それがこだわりだ。と、花房さんが言っていたが、あの人、休みの日も作業着だったよ、そういえば。裏アングラっちゃってるよ、チェルノブイリった感じだよ、花房。
やっぱ女子目線でナチュラルにしとこう。女子目線で。Kawaii系のニット帽ゲット。