# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 教室と廊下の狭間 | aqua. | 990 |
2 | ★小学生のラブラブ交換日記!(1990年8月〜12月分)★ | 奥村 修二 | 488 |
3 | まっすぐに見ろ。 | 藤舟 | 993 |
4 | ストーリーテリング | 公文力 | 931 |
5 | 夏夜 | 熊の子 | 933 |
6 | 起承承承 | 振子時計 | 1000 |
7 | アキトとユキコ | 朝野十字 | 1000 |
8 | 田園とマイナスのこども | 神藤ナオ | 998 |
9 | ありがとう ドンフアン | Don Juan | 1000 |
10 | それでも生きていた | 金澤蘇悠 | 804 |
11 | 擬装☆少女 千字一時物語6 | 黒田皐月 | 1000 |
12 | relief | いずみ | 926 |
13 | 嫌な人々 | タコトス | 1000 |
14 | やっぱ亀かな | sumu | 743 |
15 | 揺れる雫とその間で | 長澤あずさ | 1000 |
16 | 歯医者 | わら | 1000 |
17 | 畠山 洋子のショー | otokichisupairaru | 997 |
18 | 初冬の賭博師 | 壱倉 | 1000 |
19 | 生活問題 | qbc | 1000 |
20 | 古田さんと押売り男 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
21 | 黒い猫と白い私 | 宇枝 | 1000 |
22 | オーバーザレインボー | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
23 | ポリポリ | トイレ方向へ消えるハンニャ | 760 |
24 | 自己紹介 | エルグザード | 986 |
25 | 影踏み鬼 | とむOK | 1000 |
26 | 踊るは私 | くわず | 1000 |
27 | 老人の日 | 曠野反次郎 | 999 |
28 | 雨 | 川野直己 | 1000 |
多分年下だと思う。彼女の胸のあたりまで伸びた髪の毛が、風にひっかかっている。そんな人が廊下で赤い顔をしながら、ぼくのことを見上げている。
なんだろう。そう思いながら、ぼくはブレザーにひっついている校章を気にする。曲がっていたら、彼女が居る印。そんなことを聞いたことがある。
「あなたのことが好きです、ずっと前、あたしが入学したときからずっと好きだったんです、告白したら避けられると思って、それで、今まで言えなかったんですけど、あの、あたしと付き合ってください」
彼女の肩にかかった髪の毛がゆらゆらと揺れる。この子はなぜぼくなんかに告白するんだろう。思うけれど言えない。意味が判らないまま、震えた手で鞄を持つ。放課後の、教室と廊下の狭間。そんな微妙なところで行われる、愛の告白。
「ごめんなさい、嫌ですよね、こんな私となんて、付き合いたくも無い、解ってます、本当にごめんなさい、ごめんなさい、でも好きなんです、迷惑かけている、分かってます、でも好きなんです」
「えーと。ごめん。ぼく、あなたの名前、知らない」
「あ、坂田です」
「いや、名前なんて呼ばないけど」
彼女が、哀しい顔をした。鞄を床に置く。藍色の鞄が斜陽に照らされて、変な色になっている。
林檎は塩水につけておくと変色しない。何時だったか、国語の先生が言っていた言葉を思い出す。
「で、」
「ごめん」
この人は、ぼくのことを好きだと言った。髪の毛はさっきよりもゆらゆらしている。ぱさり、ぱさり。
「でも、好きです、ごめんなさい」
そんなこと言われても、と思いながら、ぼくは鞄を持つ。布団が吹っ飛んだ。何時だったか、国語の先生が言っていた言葉を思い出して、笑えてくる。
「そう言われても困るし」
笑いながら言ってしまった。布団が吹っ飛んだ、が頭を駆け巡っているせいだ。
「あっ、そうですよね、ごめんなさい、ごめんなさい」
ぼくの笑いが治まった。彼女は、何度謝ったら気が済むのだろう。そう思いながらも、手は校章を気にしている。仏頂面の、ぼく。
「さよ、なら」
ぱたぱた。ぼくに耐え切れなくなってしまったらしい。彼女はそれだけ言うと、勝手に走り出してしまった。
彼女は行ってしまった。なぜか頭が痛い。頭が頭痛。何時だったか、国語の先生が言っていた言葉を思い出して、笑った。腹の底から笑った。
でも。
無我夢中で走っていった彼女はきっと、泣いている。
★小学生のラブラブ交換日記!(1990年8月〜12月分)★
現在の価格 :1500円
希望落札価格 :1000円
残り時間 :2 時間
商品説明
私が小学生の時に、当時好きだった女の子と交わした交換日記です。
当時の二人のラブラブなやり取りや、悩み相談、ちょっとエッチな話等、盛りだくさんな内容となっております。
ノートはB5版で、60ページほど。二人が小学4年生だった年の8月〜12月までの4ヶ月分です。
改めて読み返してみると、いかにも小学生が書きましたと言わんばかりのアホな内容で、他人が読んでも思わず顔がニヤけてしまうこと間違いなしです!
少々高めの値段設定となっておりますが、これは、恥ずかしすぎてこれ以下の値段では売りたくない!と考えた結果です。それだけ濃縮された内容となっています。
小学校時代にあまりいい思い出が無かった方、小学生の時にもう彼女が居たんだぜ〜と見栄を張りたい方、小説や漫画の資料に使いたい方などにオススメです!
注意事項
●古い物なので、経年によるヤケやシミ・汚れなどがあります。ご理解の上、入札をお願いします。
●ノークレーム・ノーリターンでお願いします。
登下校は何時も一人だった。僕らの地元は郊外で、田んぼの中ところどころ再開発されていたりするところに家が集落になっているのが良くあった。普通はその集落ごとに登校班が作られたりするのだけれど、僕の所は偶然皆子どもはとっくに成人しているような家ばかりだった。でも僕は一人で考え事をしながら、国道沿いをいくのは嫌いではない。
その日は寒かった。まだ少し汗ばむくらいだろうと思っていたところにふと来た秋の寒さで、外に飛び出た僕は、やっぱり戻って上着着てこようかと思ったときには、もう戻りたくないくらいの距離にいた。秋に不意打ちを食らった形だ。
遠くにビニール袋のようなものが見えて、近づいていくと黒い猫の死体だった。
道路で轢かれてから歩道まで這ってきていた。下半身が完全につぶされていて、しかし顔は綺麗に見えた。僕は少し息を荒げて周りを見回したが誰もいなくて、とりあえず携帯のカメラで撮って友達に送ってみた。
歩道の上に首輪のようなものが落ちていた。轢かれた時に取れたんだろう。派手派手しい金色の首輪だったが、朝日を反射してきらきら光る。何となく、拾ってそのままかばんに入れた。
目が動いた様な気がしたので猫を良く見ると蛆が沸いている。僕はそのまま走って学校に行った。
遅刻した。
席に着くと前の席の本田がいなかった。そういえばメールの返事も来ていない。ふと思い出して、さっき撮った猫を見てみると、なんなのだろう、最初の驚きの消えた僕は意外なほど不吉な印象を受けた。グロテスクと言うよりは邪悪に見え、邪悪と言うよりは悪意に見える。朝からこんなもの本田に送らなかった方が良かったかもしれない。
後ろの奴に聞いてみたら本田は今日は風邪ということだった。
「て言うかさあ、お前今日何か臭くね?」「うっそ。」
確かに何か臭い。きっとさっきの猫の臭いだけど、手を嗅いでも何も臭わないのは当たり前で、腐った猫を触ったりしていたわけがなく、あの拾った首輪が臭っているのだ。
大急ぎで鞄をあさる。確かに鞄から臭いがする様な気がしてきたが一向に見つからない。
僕は教室を出た。トイレに行って(他に行く所が思い浮かばなかった。)しかしいくら探しても首輪は見つからない。携帯が鳴って本田君から返事のメールが来た。
「最悪。」だそうだ。
トイレの鏡を見ると、さっきの首輪が自分の首で光を反射して光っていそうな気がしたのは、やはり気のせいだった。
狭い六畳間に無理矢理設えた書き机で私はもうすぐ七歳になる息子のためにお話しを書いていた。書き物をしたことなど高校生の時以来だ。あの時は芥川の「羅生門」の続きを各々が創作するという課題であったが私は(もう名前すら覚えていないが)主人公が何の改心もせずただ新たな私の作った登場人物と(十七歳の私にとってはかなり斬新なキャラクターであったと思うのだが何一つ思い出せない)ひたすら逃亡劇を繰り広げるといったものであった。教師から戻された原稿には20点と書かれていた。殆んどのクラスメートは主人公が自責の念に駆られ自ら命を絶つか業の報いを受けて捕まるなり殺される結末であった。そしてそれらの回答は僕のよりはるかに点数が良かった。そんな回答を想像すら出来なかった僕という人間の浅はかさを当時の僕は責めた。そして十数年経った今では僕にもその回答の意味が分かる。
《人は 悪い奴を 完膚なきまでに 抹消したいのだ》
寝床で魘されていた妻がふと目を覚ました。僕の姿を認めてふうと息を漏らす。
「ショッカーに追いかけられてる夢を見たの。あぁ怖かった。」僕は笑う。
「この年になってショッカーに追いかけられてる夢が見れるなんて君は幸せだね。」
寝汗を手の甲で拭いながら妻は言う。
「じゃああなたはどんな怖い夢を見るっていうの?」
「そりゃあ自己破産した夢だとか会社からリストラを言い渡されたのやら運転している車が全然言うことを聞かなかったりだとか。」
「ふうん。いやに現実的な夢ばっかりね。」そう言うと妻は仰向けになって大きな伸びをした。興味もないくせにどんなお話を書いていたのか聞いてくる妻に僕は掻い摘んで説明する。
〈それは愛らしい坊やが一人でピクニックに出かけます。森の中で親切な樵のおじいさんから不思議な植物の苗を貰います。無事家に帰って庭にそれを植えるとそれ以来家の窓という窓を開けられなくなってしまいました。〉
「で?」
「それで終わり」
「そう」
「何か文句ある?」
「ううん、別に」
次の日の夜に息子の枕元でその話を聞かせると息子は勢い込んでこう答える。
「それだったら庭にある植物は全部明日の朝抜いちゃわなきゃいけないね。」
僕は深く溜息をつく。かつてアウストラロピテクスが闇を恐れたように。
三日三晩泣き続けていたら、一人の女が私に話しかけてきた。
「あなたはその悲しいことに三日も泣くことができるのなら、あと三日その木の上で泣いていていただけませんか」
そう私に話しかけると女は夜の森の中へと消えていった。綺麗な女だった。声もまた大変綺麗だった。私は女に言われたとおり木に登ってみることにした。私は木によじ登りながら、なぜ自分が女の言うとおり木に登っているのか考えた。この木は背丈が高い。この木に登って夜明けを待てば、きっと綺麗な日の出を見ることができるだろう。それを見れば私の心もきっと晴れるのではないかと、おそらく私は思ったのだ。三日三晩も泣き続けた私は自分の思ったことも明快でなくなっていた。
木登りなど久しぶりでまだ子供の時分以来だったから、すぐ手が痛くなってしまい登るのに時間がかかった。いくらか登ってちょうどよく腰を掛けられる枝を見つけた。頭の上では月の光を帯びた雲を後ろに木のてっぺんを確認できる。この周りにある木も私の目線と同じくらいの背丈だが、腰掛けているこの枝の上に立てばきっと日の出を見ることができるであろう。私は幹を抱えながら日の出を待った。
いくらか木の上に腰掛けていたら段々と東の空が白けてきた。私はいよいよかと今腰掛けていた枝の上に立ち日の出を待った。
木々の上に白い帯が広がり、太陽がその顔を出した。思ったとおり大変綺麗だった。だが、だんだんとその光に私の目が痛くなってきた。私はまた泣き始めてしまった。でもまたあの日の出の美しさを一瞬でもいいから感じたいと思った。
三日経ったが私はまだ悲しかった。三日三晩泣き、そして木に登ってからの三日も涙が私の頬をつたり続けた。涙は私の頬に深いしわを残した。たてに幾重にも彫られているのが分かる。今もまた私は泣いている。もうなぜ泣いているのかも忘れてしまった。もた一粒、私の頬を涙がつたっている。
セミが一匹闇夜から飛んできて私の涙をなめた。綺麗なセミである。大変おいしそうになめている。よほど腹が空いていたのだろう、いつまでもなめ続けていた。月が雲から顔を覗かせた。風がわっと吹いて私の体が大きく揺れた。セミは驚き羽をばたつかせて夜の森の中へと消えていった。
私はいつの間にか一本の木になっていた。
@獏。犀に似た野獣。長い鼻と上くちびるを持つ、黒い。
A獏。伝説上の生き物。悪い夢を食べる。姿は以下同文。
百科事典で調べたその動物は二種類の説明をもって記されていた。文章のすぐ近くにその動物の小さな姿が載っていて、版画のように古ぼけたその絵はただ「醜い」という印象だけを植えつけた。
なるほど、数日前からボクの肩に乗っかっているコレは、やはり獏という動物のようだ。最初はその姿に面食らったが、よく見ると象に似ている。ただ、子犬くらいの大きさで、白い。
「どうや?おんなじか?」
変な訛りの言葉で話す彼女は、ボクの書いたスケッチを元に“獏”という名前をボクに教えてくれた。名前はコウだ。
「うん、カンカンだよ」
「そか。カンカンて何?」
「さあ」
動物の正体は分かったものの、厄介なモノには違いない。
「なあ、何でそれ見えへんの?」
「獏だからじゃない?」
「へえ」
図書館の中はいつもより盛況だった。期末試験が近いせいだろう。ボクは百科事典を元の棚にしまうと、また椅子に座った。テーブルの正面にコウが座っている。一座席空けて眼鏡をかけた男子生徒が試験勉強している。
「なあ、アンタは勉強ええの?」
「うん、夜やるから、別に」
「夜行性なんね」
「暗闇に光る?」
「いや」
他愛無い会話をしていると、肩の上で獏がその頭(どこからが頭なのかは知らないが)を上げていた。鼻が天を向いていて、それは空気では無い、何かの別の匂いを嗅いでいる。
「始めた…」
「ほんまか」
獏は人の悪夢を喰らう。事典にはそう書かれていたが、コイツは違う。この動物は人の思念を吸っている。それに気付いたのは中略だ。紙面の都合である。
とにかく、この獏は人の悪い思想や理念を食べている。
「つまり、それってどうなの?」
「たぶん、人の嫌な思い出を食べるんじゃないかな?」
「いいやつやん」
「そう?」
しばらくすると獏はその鼻を下げ、満足そうに目蓋を閉じた。すると、二つ隣で勉強していた男子生徒がテーブルに突っ伏してそのまま眠ってしまった。覗き見るとノートは真っ白だ。
「ああ、何とま。嫌だ、と思っていることも食べちゃうんだ」
「あ、コイツまた濃くなった」
獏は最初、霧がかかったように曖昧な姿だった。それが今ではかなり鮮明に見えている。どうやら人の想いを食べる度にはっきりしてくるみたいだ。
「なあ、連れしょん行かん?」
「連れは分かるけど、しょん、って何?」
「さあ」
肩の上で獏が欠伸していた。
アキトとユキコはデート中に謎の宇宙人に誘拐されどことも知れぬ宇宙を飛翔する飛行体の内部に監禁されていた。窓のない内壁に柔らかいクッションの張られた部屋には、自動的にゼリー状の食料が投入された。
宇宙人はなぜかアキトだけを定期的に呼び出し、別室で拷問した。アキトが帰ってくるたびユキコは拷問の様子を聞いたが、アキトはただ疲れたと答えるだけだった。肉体的な暴行の様子はないようだった。
「宇宙人はどんな姿をしているの?」
「わからないんだ。真暗でところどころ星のように点滅している。ひんやりとした柔らかなたくさんの触手がぼくを撫で回すんだ」
他にすることがないのでアキトとユキコはセックスを繰り返していたが、アキトは次第にセックスを嫌がるようになった。
「アキト、拷問がひどいのね。それで気力がなくなってしまったのね」
「ごめん、白状するよ。実は拷問じゃない。もの凄く気持ちいいセックスなんだ。君とより何百倍もね。ああ、次に呼び出されるのが待ち遠しい」
ユキコはなぜアキトだけ呼び出されるのかと何度も尋ねた。時には大声を上げてアキトを叩いた。アキトは少しずつ宇宙人と意思疎通できるようになってきたようだった。
「ユキコも呼び出してもらえるよう説得してみるよ」とアキトは約束した。
しかし宇宙人の返事は理解不能なものだった。
「彼らはぼくたちとはぜんぜん別の存在なんだ。でも君を大事に思っているぼくの気持ちを何とか伝えようとがんばっている」
とうとう、アキトとユキコが同時に呼び出され、別室である処置が行われた。麻酔をかけられたようで、目を覚ますと元の部屋にいた。そしてアキトのペニスがユキコの乳房の間に移植されていた。
「これってどういう意味?」
「わからない」
アキトは呼び出しを受けても、もう気持ちよくなかった。部屋に戻ってかつての自分のペニスを触ってやると、神経がつながっているらしく、ユキコは気持ちよくなった。
このままではいけない、アキトはなんとか宇宙人にそれを伝えようとがんばった。再び処置が行われ、目を覚ますと、ペニスはアキトの股間に戻され、代わりに、アキトの頭がユキコの肩に移植されていた。
首なしのアキトの体は執拗にアキトとユキコの双頭の体を犯し続けた。そして首なしが定期的に宇宙人に呼び出される間だけが、アキトとユキコの休息時間となった。首なしが宇宙人に何を伝えようとしているのかはわからなかった。
振り返れば見渡す限りに広がる田園に陽が落ちて、世界のすべては黄金色になる。前を向けば、なだらかな丘陵の遥か遠く 凪の海が見える。涼しい風が吹いていた。紫の雲がまばらに低かった。
海から延び、丘を越え、田園を横切る一本の線路があった。その線路の傍らに立つポプラの幹に、一人の牧童が背をあずけ海の方をながめていた。牧童は、彼の粗末な身なりに似合わない 乳色の絹布でくるんだ赤子を抱えていた。赤子は顔を牧童の胸にうずめていたが、先ほどから動物のような声で泣いていた。泥で汚れた牧童の顔は赤子を向かず、ただ無骨な手が赤子をあやしていた。
レールには何度か列車の通った跡があったが、敷石は整然と詰められ 枕木は真新しかった。誰が整備しているのか 牧童は知らない。
どこかで蒸気の高鳴る音がした。牧童は立ち上がり、絹布に巻いた赤子をしっかりと抱いた。列車が決して好ましいものばかりでないことを彼は知っていた。好ましくない列車だと、不意に客車の窓から鉤のついた棒が伸びて赤子を引っ掛け連れ去ってしまう。
赤子は五ヵ月後に町へやられる予定だった。それまで彼は、赤子を守らなければならなかった。
丘の向こうから耳を叩く音が聞こえてくる。黒い機関車だった。牧童は、ひどいにおいに赤子が咳き込まぬように注意深く抱いた。
列車が叫びながらレールを行く。噴き上がる蒸気の音 列車が走る時にわきたつ特有のにおい 車輪が巻き上げる砂と風 牧童の半目に客車の窓からぶら下がるバスケットが見え、彼は夢中で手を伸ばす。残忍な車輪は今一歩のところで牧童を殺せず、彼の粗末なシャツの一部をかすめて行った。それだけだった。
遠ざかる機関車の尻はいつも滑稽だと、牧童は思う。赤子の絹布は真っ黒だった。牧童もまた煤で汚れた。彼は服の裏地で手を拭い、バスケットを開けた。美しい食事と、美しい絹布が入っていた。牧童はほっとしたように膝をつき、再び念入りに両手を拭ってポプラのそばにすわった。
田園は夕暮れだった。牧童は、赤子が五ヵ月後に行く町のことを何一つ知らなかった。しかし彼は赤子とともに町へ行くことはできない。赤子を送り出すまで守り育てることが彼の存在理由だった。
牧童は赤子から、汚れた絹布を剥いでいく。よく肥えた小さな手が彼へ向けて伸び上がる。顔は魚の幼生のように醜くのっぺりしているが、牧童にだけは赤子が笑っているとわかるのだった。
「有名な男がいいわ。」
「なんで?」
「有名になるぐらいの人なら隠された才能を予感するもの。やっぱり会ってみたいわ。」
アップスケールなカフェで(カフェの最後の方を高く、イントネーションをつける。それがフレンチ。)
どこもかしこも綺麗にアレンジした女性が二人、談笑している。
「金持ちで」
「ハンサムで」
うれしそうだ。ブランド名の袋がたくさん彼女らの周りを守っているかのようだ。ウエイターも笑みを看板のようにさげながら二人の周りをうろうろしていた。
近くのブースでミルクをたっぷり入れたコーヒーをすするアジア人の男がいた。
太郎はコーヒーを飲み終え軽く立ち上がるとすこぶる真面目な顔で二人の席に歩いていった。
「ハーイ。」
二人の女性を交互に見た後、太郎は微かな笑みを浮かべながら言った。
「ハーイ。」
ラテン系国籍だろう黒髪の女性が真っ白にそろった歯を笑顔に応じた。もう一人のややおとなしそうな金髪の女性は少し困惑した笑みを浮かべ何も言わなかった。
「二人ともあまりに寂しそうでね。少し注目をしてあげようとやってきたのさ。」
「そうでもないわよ。」
金髪の女性が笑うと、黒髪の女性が楽しそうに言った。
「貴方は話さないけど恥ずかしいだけなのかい、それとも友達に僕を譲ろうとしているの?」
太郎は金髪の女性を見て言った。
「まあ、自分を買いかぶりすぎよ。」
金髪の女性は笑いながら言った。
「お二人の名前は?」
「マルクエッタ」
「サラ」
「マルクなんだって?」
「私の名前をからかわないでよ。」
「そんなつもりはないさ。」
「マルクエッタよ。貴方は?」
「見も知らぬ他人に自分の名前を教えるのもなあ。君は危険人物かもしれないし。」
「信じられないわ。こんな人ってありえる?」
マルクエッタが首を振りながら笑った。
「あなたが先に聞いたのよ。」
サラも言った。
「そんなに知りたいなら仕方ないか。僕は太郎。」
「タロー?中国人?」
サラが聞いた。
「日本人よね。イチロー。」
マルクエッタが頷く。
「えーと。もういかなきゃ。」
太郎はいきなり言った。
店の外で男が待っていた。
「どうだった。」
「しだいに慣れてると思うよ。今回は結構いけそうに感じたよ。」
「日本人の男が外国でもてないのは悲しい。サッカー日本代表が決定力不足なのと一緒だ。」
「積極性の不足と欧米コンプレックスね。はいはい。」
「ちびなタローでも世界でもてる。それが愛の真理だ。自信を持て。」
「ありがとう。ドンフアン。」
熱い。
無秩序な自然。捉え方によっては汚いとも思える緑。
そして、それらに灰色が足されていた。
その灰色は――でこぼこで、それでもどうも真っ直ぐ、らしい。
これは、自然の物じゃない。確か名前は、「コンクリート」。
それの隙間からは草が乱れて生えていた。
自然じゃないものと、自然が入り混じっているこの景色。
汚いとしか、思えない。
そして私は、黒い点。
確か名前は、「蟻」。
私は食べ物を探していた。仲間の為と、自分の為。
どこまでも、どこまでも、歩き続ける。
毎日いつでも、探していた。
熱い。
食べ物が見つかるまでは、帰れない――。
私は「コンクリート」に乗った。
これは、何の為にあるのかは知らない。
だって何も食べ物が無いじゃないか?
ただ一つ分るのは、沢山の「名付け親」が通ること。
又は、名付け親の造ったものが通ること。
……また、名付け親が来た。
早く、食べ物を見つけよう。
名付け親は大きい。
そして、数が多い。
名付け親の足には登ったことがある。
それは、どうも不思議だった。
私が見る限りは、名付け親の足は自然の物ではないように見えるのだ。
名付け親は、本当に自然から生まれたのだろうか……?
それとも、名付け親も他の名付け親に作られたのだろうか……?
恐ろしい生物だと、誰もが思っていた。
早く、食べ物を見つけよう。
早くしないと、仲間に悪い。
早く、早く、早く、そう思っているうちに名付け親は私のそばに来た。
――名付け親は、私のそばに来ていた。
ぞっと、する。
名付け親の足が、私の真上に来た。
踏まれた。けれど、一度くらいなら、大丈夫。
私は逃げようとした。とにかく体を素早く動かして、とにかくここから去ろうとした。
……「コンクリート」の上にいたのが間違いだった。のだと思う。
また、踏まれた。二度目。
また、踏まれた。三度目。
そして、また――。
ぐしゃり。
熱い。
「ねえ、今ちょっと時間ある?」
少女二人連れに、同じくふたりの少年が声をかけた。
「ナニ?」
少女の一人が笑顔を向けた。これは脈がありそうだ。
「これからカラオケ行こうと思ってるんだけど、良かったら一緒にどう?」
少年の声音にやや力みが入る。
「ゴメンネ、アタシたち付き合ってるから」
笑顔をさらに増して、少女はもう一人の少女の腕を抱くように捕まえた。そして、じゃあね、と一言だけ投げて行ってしまった。少年は唖然として見送る他はなかった。
「ちょっと、そういう誤解を招く言い方はやめてよね」
「良いじゃん、本当のことだし」
私が厳しい顔をして見せても、まるで堪えていない笑顔しか返ってこない。
私の横を歩いているチュニックワンピースにカットソーパンツ姿のコイツの名前は、青野海人。性別は男。そして実際に私と付き合っている仲、と言って良い。
「ね、クレープ食べようよ」
海、と呼ばれることを好むコイツは、服装だけでなく、嗜好も趣味も友達関係も女の子のそれでできていて、いつの間にか私の近くにいた。
「イチゴふたつください」
自分でふたつ買うようなところはエスコートしている男なんだけど、意識してやっているものなのだろうか。友達の一人だった海から、私のこと好き、とやっぱり笑顔で言われて、良いな、と言われただけだっただろうか、私の心は大きく揺れた。
「はい。あっちで食べよ」
それから程なく海の方が付き合ってる宣言をしちゃって今に至っているんだけど、私の心は今も揺れが止まっていない。
「加奈子が告ったって話、聞いた?」
「聞いた聞いた。もっと早くに告ってれば良かったのにね」
ひとつ揺るがないことは、海といることが私には楽しいということである。楽しいし、海のこと良いなって思うんだけど、どう良いのかというのが問題なのである。
「でさ、あのときの加奈子相当キメてたみたいだけど、そんなことしちゃって大丈夫かなぁ?」
今も女の子な恋話をしている、憎らしくなるほどスタイルの良い海。けれどさっきみたいなエスコートなど、私のことを気遣ってくれる海。
「後々持たなくならないと良いけど…。って、どうかしたの?」
返事をしない私の顔を、海が覗きこんだ。
「あ、ゴメン。でも告白って一番大事だし、精一杯になる気持ちってわかるな」
「それもそうだよね」
輝くような笑顔で笑う海。今が楽しいんだからそれで良いかと、今日も私は詮索を放棄したのだった。
玄関の扉を開けて一筋の光もない暗闇の中へ。住み慣れた部屋では、明かりなんて必要なかった。それでも足元がふらつきその勢いで肩に掛けていたバッグが床にたたきつけられた。バッグを廊下にほったらかしにしたまま、部屋に入り身に着けていたアクセサリー、服を次々に脱いでいった。一人でいる部屋では私を飾る窮屈なものなんてすべて必要ない。頭がフラフラしてベッドに倒れこんだ。主のいなかったふとんがひんやりと気持ちよかった。今日は少し飲み過ぎたのかもしれない。
でも私にはまだしなくちゃならないことがあった。眠ろうとしている体をゆっくりと起こして置き去りにしてきたバッグの元へ向かった。暗闇の中手探りでバッグから携帯を取り出した。なかを確かめてため息をつくのはいつものことだった。そのままベッドに八つ当たりするように飛び込んだ。23時43分。もうバイトは終わっているだろう。私はリダイヤルボタンを押した。
「どうした?」
いつもと同じ台詞が聞こえてくる。
「今何してた?」
いつもの通りの私の第一声。あんたが言葉を変えない限り私も変えたりしない。
「明日朝からバイトだからもぉ寝るとこ。ズゥは?」
「今飲み終わって帰ってきたとこ。」
反応が返ってこない。だからって私から話し出すこともしない。
「男いたの?」
しばらくして帰ってきた言葉は私が望んでいたものだった。
「いたよ。バイト仲間の飲みだもん。」
「男いる飲みの時は教えてって言ったじゃん。」
少し苛立った声になっていた。でも私は何も言わない。もぉ私の目的は達成されたから。しばらく沈黙が続く。心地がいい。
「聞いてるの?」
今度は困惑した声色。
「ごめんね、今度は教える。明日早いんでしょ?もぉ寝て。おやすみ。」
「・・・うん。てか、おれ別に怒ったわけじゃないよ。ただ心配だったから。あんま気にしないで。」
「わかってる。おやすみ。」
「・・・おやすみ。」
プー、プー、プーと機械音が耳に響く。今日も何かまだ言いたそうな、おやすみだった。それはとても私を満足させる。安心させる。彼の頭の中を私でいっぱいにできるから。徐々に心地よい眠気が私に忍び寄ってきた。もう瞼があげられなくなってきた。私の夢を見ることを願って私も彼の夢を見る。これが私の愛の儀式。
気づけば世界中は「嫌な人」で溢れかえっていた。
「嫌な世の中になった」
最近はできるだけ言わないよう努めていたセリフがつい出てしまった。
里中 智 27歳
彼はよく見る平凡な『嫌な』サラリーマン、彼は帰宅途中にスーパーに立ち寄った。
彼は店に入るなり揚げ物コーナーへと早歩きで直進していった。途中にいた、タイムサービスを狙って来た買い物中の節約好きの『嫌な』おばちゃんたちに,わざとぶつかるように歩いていった。
揚げ物コーナーの前に行くと、『嫌な』買い物おばちゃん2号と目があった。
おばちゃんは彼を一瞥するなり、揚げ物コーナーの棚に残っていた白身魚フライ2個とコロッケ1個と、豚カツ2個全てを自分のパックにいれた。
智は揚げ物コーナーの棚の前に呆然と立ちつくし、舌打ちをした。
数秒後カップ麺を買って店を出た。
「ありがとうございました」と言う『嫌な』店員は一人もいなかった。
家に帰る途中、狭い歩道の向こうから自転車に乗った『嫌な』若者がやってきた。
こちらに気づいているはずだが、ベルも鳴らさずに突っ込んでくる。
仕方ないので、車道に出る。すれ違う際に睨みつけるが、気づかない。
自宅のマンションの前についた。玄関の前には犬の糞があり、すぐそこの曲がり角を犬の散歩をしている『嫌な』老人が曲がっていった。
手には空のビニール袋を持っていた。
部屋に戻った彼は、スーパーで買ったカップ麺をすする。
賞味期限は切れているが、最近では気にしていられなかった。
食べた後は特にする事もないので、風呂に入ってさっさと寝る事にした。
布団をかぶり、しばらく考え事をしていた。
なぜこうも皆、嫌な奴になってしまったのだろうか。
きっと心だけが満たされないこの世の中が続くかぎり、人々はますます「嫌な人」になり、増えていくだろう。
「神様も嫌な人だ…」
そう呟いて智は眠りについた。
その晩、智はいい夢を見た。
地下鉄では若者が、優先席でもないのに老人に席を譲り。
道を行く学生は、落ちているゴミを拾い。
出会う人々全てが、礼儀正しく「こんにちは」と挨拶を交わしてゆく。
みな親切な人ばかりな夢だった。
次の日。
智は郵便受けに入っているピンクちらしと、不幸の手紙を回収する。
昨晩見た夢を思い出すと、かるく胸が締めつけられる思いだった。
「俺だけでも……」
そう呟く。
性に合わないな。そう思いながらも彼は部屋から持ってきたビニール袋で犬の糞をつかんだ。
ある者は笑い。
ある者は泣き。
ある者は旅の途中だ。
たぶんそれが人の世だ。
誰かは大きな流れの中に石ころを投げ。
誰かは懸命に落ち穂を拾い。
誰かは夢の中こそリアルだっていう。
人のすぐ側には光の入らない大きな崖かある。
僕らはそっちへ続く道を選ばないようにして生きてる。
でもそこにしか行けない者もいる。
彼らが崖に立とうとしている。
そこにしか道は続いていない。
戻ることも崖に立ち続けることもできない。
途中で逃げることはできるけど、それも全部同じこと。
たぶん宇宙が始まったときから繰り返されていることなんだ。
さあ、廻って次は俺の番。
自分で道を創って生き延びた奴もいる。
道を創ろうとしてダメだった奴もいる。
どう転ぼうが崖は迫る。
そこで俺は亀になってやり過ごそうと思った。
俺はゆっくり歩きながらこの先はどうなっているのかと、
頭をにゅっと出して、周りを見回すと、ちっぽけな自分の背中と、広大な世界と、
遠くにちょっとだけ崖が見えた。
その時自分がわかったんだ。自分が蛙だって、それまで蛙だったて。
自分がどこに立っていたかって。
俺だって、簡単に亀になれたわけじゃないよ。
家族や友達がいてくれたから、なれたんだ。
誰かが助けてくれたからなれたんだ。
自分一人じゃ無理だったのさ。
そうやって今はなんとか生きてるよ。
ただ問題を先送りにしてるって見方もあるかもね。
すぐに答えを求めないようにしただけなのさ。
そりゃたまにガメラになっちゃうかもね。
でも、そのうち道も見えてくるよ。
いつかは誰かを、竜宮城に連れていけたらな。
そしたらきっと、幸せかもね。
亀になった俺は、少しかっこ悪いなったかもね。
ロックンローラーにはなれなかったけど、ジャズプレーヤーには、なってみせるよ。
例えがちょっとわかりにくいかもね。
亀はずっと、時と生きてく。
電車の外の流れる景色を見ながら私は深く溜息をついた。と、同時にこれから先の人生を思うと、ひどく不安になり心臓の鼓動が速く波打つのを感じた。 吉井美姫、30歳。私は本当は結婚願望が強い。昔から愛する夫の為に得意料理を作り帰りを待つ、そんな自分を想像していた。しかし現実は違い今だに結婚もしておらず彼氏もいない。美姫はもう一度深く溜息をついた。その時だった。耳のすぐ横で聞き覚えのある男の声がした。
「美姫どうしたの?」
その声に反応するかのように私はゆっくりと目線を右横に移した。同時に3年前の深く甘いその男との恋の記憶へと連れ去られていった。
「美姫どうしたの?ずっと窓の外を見て。こっち向きなよ」
渡邉はそう言って振り向いた美姫の右頬を左手で軽く触れ目を細め軽く微笑んだ。
「ううん、別に。」
照れ笑いをしながら美姫も頬を触れている渡邉の手にそっと触れた。今までに味わった事の無い幸福感にめまいがした。しかし、その恋の終わりもあっけなかった。
「他に好きな子ができたんだ」そして渡邉は続けてこう言った。
「全部俺が悪いんだ。美姫の事を決して嫌いになったわけじゃな いんだ」と。
嫌いになったわけじゃない。しかし、それは同時にもう好きでもないとはっきり言われているのと同じだ。
美姫は、まためまいがし、同時にひどい吐き気にも襲われた。
「どうして?私のどこがいけなかった?」悲鳴にも近い声だった。
「いけないところなんてない。そうじゃないんだ。分かってくれ
美姫」
この同じセリフのやりとりが何回も続いた。そして渡邉と別れた。いや、無理矢理別れに同意させられたと言った方がしっくりくる。
あれから三年。渡邉はその後結婚して今は一児の父親だと風の便りで聞いた。美姫の耳に電車の中の雑音が聞こえてくる。そして三年前の記憶から今の現実に連れ戻される。駅で電車が止まり人の波に押されるように美姫も降りる。そして改札に向かってゆっくり歩く。突然、めまいと軽い吐き気に襲われ美姫は座り込んだ。駅員がびっくりして走ってくる。
「大丈夫ですか?ご気分でも悪いですか?」
美姫は座り込んだまま首を横に振る。そして、手の上に冷たい雫が落ちた。溢れ出す涙とめまいと吐き気の中でそれでも生きていかなければいけない現実。美姫はゆっくりと立ち上がり、そして前を向いて歩き始めた。これからの見えない想像のつかない人生に向かって。
歯医者が苦手だ。
痛いのが恐いというわけではない。確かに嫌だが我慢はできる。それよりもっと人間の尊厳に関わる理由で苦手なのだ。
それだというのに虫歯になった。
看護士に導かれシートに座る。若く、笑顔が魅力的なたいそう美人の看護士だ。
医者に症状を伝えて口を開くと、医者は両手で鏡と器具を突っ込む。
これが苦手なのだ。
これでもかと口を開けた様は悲しいくらいマヌケ顔だろう。その口の中をのぞき込まれる。ずいぶんな屈辱だ。
そして目の遣り場に困る。たまに医者や看護士と目が合って気まずい。医者でもかなり気まずいが問題は看護士だ。若い女性だとなんとも気まずい。どうですかこのマヌケ顔、と言わんばかりだ。
今日は絶対目を合わせまいと看護士の反対側にある柱を注視した。不意に口から指や器具が抜けた。
医者は麻酔無しで削ると言った。我慢しよう。
シートが倒れ、看護士の指が口に入る。片手で押さえ、反対の手は吸引器を持っている。手袋はしていない。白く細い指が口に入り、ひんやりした皮膚の感覚が頬の内側に広がる。
考えてみれば口の中に指を入れられるなんてそうあることではない。それも美しく若い女性だ。舌で彼女の指をなめ回すことを想像してみるが、理性が実行を阻む。
限りなく近く、限りなく遠い場所に舌と指がある。
ドリルが甲高い音を上げ、我に返った。何を考えているのだ。
奥歯が削られていく。徐々に神経が露わになり、びりっとした痛みが頭に響く。だが大人は歯医者で泣くものではない。とは言え涙目になる。
歯の方に集中した途端柱への集中が切れ、不意に看護士と目が合ってしまった。すぐに目線を離したが、いつもの気まずさが襲う。
それから銀歯の型を取る。いい加減こじ開けられる口が痛い。
もう二度と目を合わすまいと、再び看護士の反対側へ視線を遣る。今度は柱も通り越し、できるだけ遠くへ視線を遣る。すると突然何も見えなくなった。遠くへ遠くへと夢中になり、白目を剥いてしまったのだ。
ハッとして正面に視線を戻すと、看護士と目が合った。多分白目を見られた。
貴女とはできれば違う形で出逢いたかった。
そういえば「歯医者」と「敗者」は同じ読みだ。寒い駄洒落を思いついてしまった。だが幼い頃から、歯医者に行って勝者になれた試しがない。
医者に明日また来るように言われた。その後ろで看護士が微笑んでいた。せめて営業スマイルであってくれ。
煙草部屋では、うだつの上がらない上司が、女の話をしている。
窓の外は、雨。
ここの所、ずっとだ。
奴は郊外に一戸建ての家を購入し、3人の子供と妻と住んでいる。
電車で、片道2時間かかる。
その間、車内で女を物色し、品定めしている。
それぐらいしか、楽しみが無い。
他の連中も一緒だ。
馬、パチンコ、マージャン、野球、競輪、ボート。
畠山 洋子の話題は、誰もが口を閉ざし、押し黙っている。
それがルール。
畠山 洋子が入社した頃、
男性社員からは、好奇と欲望、女性社員は、羨望と嫉妬が注がれた。
ここ数年、新入社員の採用が無い。
しかも、若い女。
それだけで、十分な魅力。
翌日から、女子社員のいじめが始まった。
簡単な仕事しか与えず、三時のお茶の準備も五分前だと早いと言われ、丁度だと遅いとお説教が始まる。
静かなオフィス内で、お局の「畠山 洋子」の物真似が響きわたる。
男性社員も関わらないようにした。
巻き込まれるのは、面倒だ。
存在しない者として扱われ、彼女自身も全てを承諾しているようだった。
外の雨は、止む気配が無い。
窓につく水滴を眺める。
眩暈を覚える程の無数さ。
プロジェクトを祝した社内の打ち上げ会があった。
お局の希望で、屋形船で行われた。
下っ端達は、芸をさせられ、飲まされる。
コールと共に、ビールグラスに、並々と日本酒を注がれ飲み干す。
全裸になり、舟もりにあったホタテの貝殻で局部を隠し、踊る者もいる。
楽しさを演出しなくてはいけない。
一人冷静に眺めている畠山 洋子をしゃくに思ったらしく、白羽の矢がたった。
能面のような顔で、畠山 洋子は返事をし、すっと立ち上がった。
ゆっくりと、アンサンブルのボタンを外し、脱ぐ。
次は、ストッキング。
何が始まるのか、一同釘付けになっていた。
ワンピースのジッパーを下ろした時は、皆唖然とした。
淡々と脱いでゆく。
計算され尽くした踊りのように、なまめかしい。
男性からの興奮と熱気、女性からの驚きと軽蔑の視線を浴びながら。
最後には、スリップ一枚になった。
ショーツもブラジャーもダンスの途中で、器用に脱いでいった。
それから、ゆっくりと窓を開け、気持ち良さそうに、海に身を投げた。
畠山 洋子は、それきり姿を消した。
警察と消防隊がやってきた。
数時間経っても見つからず、遺体も打ち上げられなかった。
誰もの心に深く刻みつけられた。
最後の最後まで畠山 洋子のショーは、完璧だったのだ。
こんな雨の日、僕は思い出す。
陸上部の練習が午前で終わると、ひとつ上の男の先輩があるロールプレイングゲームの話をしていた。珍しく私もそのゲームをやっていたのだけど、どうしてもどうしても倒せないボスキャラがいて、その先輩に攻略法を聞いてみたら「完全攻略法を知っているので今から試す」などと言っていた。それでまあ家も近いし小さい頃からの知り合いだということで、のこのこ家までついていった私が馬鹿だった。
ナルトの一巻を読み終えて、私は視線を上げた。ブラウン管からは相変わらず傲慢なBGMが聞こえてくる。先輩はさっきからずっとゲーム中のカジノで遊んでいるのだ。文句を言ってもやめないので、私は攻め手を変えてみた。
「なんでわざわざRPGでカジノに行くんですか? 専門のゲームを買えばいいのに」一応先輩なので、敬語である。
「あー、それはホラ、冒険中のカジノだからいいんだよ。ただスロットを回すだけのゲームなんて、味も素気もない」
それは何となく分かる気がした。それでも背中を眺めながら何か言い返す言葉を探したが、なんかもうどうでも良くなってしまったので、またマンガでも読むことにした。
三十分位経って、また顔を上げると、十万あった先輩の資金は二百円になっていた。こんな奴は絶対結婚できねえ、と思った。
「ああ、これじゃ他の町にも行けないぞ」不意に先輩が口を開く。私の倒せないボスは、そこから海を隔てた場所にいた。
「ワープとかは使えないんですか?」
「だめ、全員戦士だから。魔法は使えない」
「随分ゴツいパーティですね」
「こんなゲームは力ずくで何とかなるんだよ」
「力ずくで大負けしてるじゃないですか……ええとまあいいや。で、どうするんですか」
「とにかく何か売るなりして、金を作らんとなあ」先輩は溜息をひとつついた。
「……仕方ないなあ」
私はコントローラーを先輩の手からすっと取った。
「それじゃあ、この二百円を一万円にでも増やしたら、攻略法教えてくださいよ」
「おお、幾らでも教えてやるよ」
正直、さっきから少しやってみたかった。
敵はスロットマシン。五列合わせる難易度の高いやつだ。動体視力には自信あり。タイミングさえ掴めばいける……などと思っていたら、いきなり「7」がズバリ一列揃ってしまった。
大袈裟なファンファーレが鳴り響き、ものすごいスピードでコインが増えていく。その様子をただ呆然と眺めながら、私は生まれて初めて男の人に抱きつかれた。
ふわふわしたワンピースで社内を颯爽と駆けまわる古田さん。彼女の机に積み上げられた書類はあっというまに片付けられる。同僚がトラブルに蒼ざめ、ノルマに必死な中、古田さんはコートを羽織って社を出る。この秋に新調したばかりの程よく細身なベージュ色のトレンチ。ワンピースのボリュームを抑え、ぴったりなシルエットが美しい。
古田さんは専門こそ法律だったものの哲学が好きだった。ハイデッガー研究者で新進気鋭の教授にアレントの話題を持ちかけて盛り上がったり、黒ぶち眼鏡の院生と「存在」について議論を交わしては知的遊戯を楽しんだ。休日は古今東西の名画、音楽に片っ端から触れていった。知識が増えていくのが嬉しかったのだ。彼女の頭の中に、たとえばクライバーの振るオペラだったり、ルビッチの撮る物語が蓄積されていく。(知らなかったことを知るというのはなんて快感なんだろう!)と細胞が活発に働くのを彼女は愉しむ。
ところが知ることよりも得たものを「どうやって人生に取り込んでいくか」と考えるようになっていった。見かけより情熱の人なのである。やがて語るよりも語らせる側になった古田さんは同僚の誰にも本音を話すことはない。
押売りが古田さんの家にやってきた晩は普段より冷え込んでいた。古田さんはピリスのモーツァルトソナタをかけながら、台所に立っている。
「包丁買ってくれよ」
外から男の声がする。
(いまどき押売り?)
苦笑しつつ「刃が薄いタコ引きあるかしら」と聞いた。
「僕、よく知らないんだ。包丁もほら、この出刃しかない。買ってくれるかい」
(どうして押売りが“僕”なの?)
「それ切れるの」
「試してみる?」
「鰯があるの。おろしてちょうだい」
「僕にまかしといて!」
部屋にあがった押売りは緊張しているようだった。
「ほら、うろこの次は頭、お腹の皮もしっかりとってよ、洗った? じゃ開いて。骨をそいで。あなた、駄目じゃない」
「うん。駄目なんだ」
結局古田さんが、おろした鰯でしょうが煮をつくった。
「うまい、うまいよ」
押売りは何の取柄もなさそうである。
「もう一杯いいかな」
「いいわよ」
「なんかいい音楽だね」
「そう?」
「この食器きれいだ」
「ありがとう」
「あ、古い日本の絵だね」
「そうよ……」
「本がたくさんあるね。好きなのかい」
「うん」
「僕の知らない世界だな」
「あなたって何にも知らなさそうね」
「うん、知らないんだ」
古田さんは押売りが食べるのをじっと見ていた。
道路の端に黒い猫が横たわっていた。辺りにはセミの鳴き声が響いていた。
私は日課となっている夕方の散歩中にそれを見つけた。おそらく車にはねられたのだろう。心無いドライバーはそのまま放置していったに違いない。とは言ってもそれは当然のこととも言える。
運転手も自ら望んで轢いたわけではない。突然飛び出してきた猫を避けきれず不運にもはねてしまったのだろう。これが人間だったならまだしも、わざわざこの物体を病院に運んでいくなど誰がしようか。触れることすら嫌に違いない。
しかしながらその猫は、内臓を撒き散らしてるわけでもなく血が吹き出ているわけでもない。元の形のままでそこに倒れているのだった。
私は静かに近づいてみた。ほとんど日は沈み辺りには多少涼しい風が吹いてきている。とはいえ日中に地面に蓄えられた熱が身体を焼く。そして遠くにいる時には気付かなかった妙な匂いが漂ってきた。
はねられてから数時間は経っているであろう。どのようにして死んだのか私は知らない。苦しんだのかも知れないしそうでないのかも知れない。
私は黒い、少し前までは猫であった物をそっと抱き上げた。
外傷がないように見えた体も裏側は血でべっとりとしており、アスファルトの熱で焼けて地面にはりついた部分を剥がすようにしなければならなかった。また、抱き上げると同時にもわっとした異臭が鼻をついた。
持ち上げた体は予想よりもずっしりとしていた。だがそれ以上に生を失ったものの軽さを感じさせた。
そうして私は歩道の隅にある植え込みに猫を横たえた。私の手には猫から抜け落ちた黒い毛が、その身体から流れ出た粘つく血によってこびりついていた。
ふと思う。私は何故こんなことをしたのだろうか。分からない。
人通りもなく誰も私のことなど見ていない。見ていたとしても気持ちのやつとしか思われないだろう。
猫にしたって私の行為は全く無意味なものだった。彼はもう死んでいるのだから。道路の上で日に晒され朽ちていくのも、木陰で静かに土に還っていくのも同じこと。
強いて言えば自己満足だったのだろう。ただそれだけだ。
私はそうして家路についた。
手にこびりついた血が匂う。貼り付いた毛に違和感を覚える。しかし悪い気はしなかった。
五分ほど歩いて私は自宅に到着した。玄関の前にはセミの死骸。
夏の終わりも近い。
死骸を踏み砕く小気味好い音を聞きながら玄関のドアを開いた。
何処までも飛び続ける。何処までも何処までも何処までも。
何処までも飛び続ける。
それでも科学者達は地球が丸いことが証明出来ない。
飛び続ける。それでも科学者達は地球が丸いことを証明出来ない。
何処までも何処までも何処までも。
地上では麦拾いの女達が収穫の踊りを踊り、ゲイバーで吐きつぶれた男がオカマに介抱され、教会のステンドグラスは今日も綺麗だ。赤。黄色。緑。紫。橙。微妙な陰影。鮮やかな色彩。ステンドグラスは今日も綺麗で、聖女と聖女は今日もその色彩に白い身体を晒しながらお互いのふとももを舐めあう。ビルの屋上で音楽に明け暮れる少年達。地球儀が回る(それはアルミ仕上げの光沢があり、とても良い出来である)。
世界の果て。
オーバーザレインボー。
科学者達は飛び続ける。科学者達は何処までも飛び続ける。
廃ビルの根元から空へと伸びていく虹を、醜いアヒルの子のような、ばさばさの髪の女の子が渡っていく。
それをわたしはジェット機の中から眺めている。ファーストクラスのシートだ。機内には私のほかには誰もいない。ねじられ、ひねられ、七色、醜いアヒルの女の子は白鳥になって世界の果てへと飛び立っていく。それをわたしは書類を繰りながら、ゆったりと眺める。雑居ビルの看板をすれすれに飛びながら、うち枯れた街路樹を、ガードレールを、螺旋階段を、テレビモニターを、図書館の階段を、すれすれに飛び続けながら、世界の果てへ。世界の果てへ。
世界の果てへ。
オーバーザレインボー。
科学者達は飛び続ける。飛び続ける。見続ける。宇宙の果てを。巨大な鏡を丹念に磨き上げた巨大なレンズを幾重にも連ねた望遠鏡を衛星軌道へ打ち上げ、宇宙の果てを見続ける。何処までも何処までも何処までも。
「フィッシュ、オア、チキン?」
ワゴンをかたかたと押しながら、客室乗務員がわたしの隣にやってくる。そして静かな笑顔で尋ねる。フィッシュ、オア、チキン? 魚、ですか? 鳥、ですか?
「フィッシュ、オア、チキン?」
「虹ですよ」
わたしは窓の外を指差して言う。書類の束を閉じ、窓の外を指差し、言う。
「あれは虹ですよ」
オーバーザレインボー。回る地球儀。白鳥は今どこまで行ったのだろう。科学者達は。わたし達は。何処へ。
「そうですね」
青空にかかる真っ黒な半円。虹。ステンドグラス。白鳥。オーバーザレインボー。
「虹ですね」
若い客室乗務員は静かにそう答える。
ある日、野菜が大量に送りつけられてきました。あきらかに通常より大きなダンボール6箱にわたって、色とりどりの野菜がまる半年分は梱包されています。差出人は不明でしたが、一枚のメモらしき紙が入っていました。
「草木と一体になれ。」
気がつくと毎日野菜を食べている私がいました。3ヶ月も経つと、朝、昼、晩、ひとり野菜料理をむさぼるライフスタイルを獲得していました。不器用な私でしたが、おかずレシピを見ながら毎日いろいろな野菜料理に挑戦していました。そんなときに出会ったのが、びっくりするくらい火のとおっていないニンジンを食べるうさぎだったのです。
「どうしてあなたは、びっくりするくらい火のとおっていないニンジンを食べることができるんですか? 味とかするんですか?」
私はうさぎに問いかけました。
「なんだよ。うっせーなポリポリ。味は、しねーよ。バカか。味したらこえーよ。普通にこえーよ。ニンジン味したらこえーだろ。バカか。」
うさぎはさも当たり前のことのように生のニンジンをポリポリやっています。野菜の調理法に四苦八苦していた私には、その感覚が理解できないのでした。
「生ですか?」
「生だよ。音でわかれよ。音で生かどうかさ、わかれよ。バカか。新鮮さだけで胃に持っていってんだよ俺はよ。バカか。」
「炒めたりとかはしないんですか?」
「むしろ炒めねー方がうめーよ。」
むしろ炒めなねー方がうめーよ…
私は、うさぎのポリポリさ加減のなかに、なにかを感じました。
「あなたは、週にどれくらいポリポリするんですか?」
「週にどれくらいとかの考え方でやってねーよ、こっちはよ。明日もポリポリしていくだろうし、これからもポリポリやっていくよ。死んでしまうからよ。」
だよな――。私は、うさぎのポリポリさ加減のなかに、宇宙を感じました。
えーとはじめまして。
これを読んでくれているってことは少しは私に興味があったって判断しちゃっていいのかな、別に特別な意味はないけどね。
こういう形式の自己紹介っていうのは珍しいよね、あっと……字数が足りなくなったら厄介ですね。
名前は口頭で発表したから省略させてもらいます、見た目どおりちょっと地味な女です。
幼いころから本が大好きで、本ばかり読んでいたら幸せだろうな、って考えながら生きていました。でも実家が田舎のほうで、本屋さんが少なく歯がゆい思いもしました。
子供ですからお金がない私はずっと立ち読みばかりをしていました、難しい本だと時間がかかってしまい、足がガクガクいっていたのも一度ではありません。
そこで……私に道を与えてくれる人に出会いました。
うろ覚えですがその人は私に「譲ちゃん、本が好きなら図書館に行くといい」といったのです。図書館という単語は私にとって初対面の単語でした、詳しく聞いてみると、そこが夢のような場所だとわかったのです。
その日から私は図書館を探しました、友達、両親、教師にまでききました。でもだれも図書館を知らなかったのです。あの人は「学校には大体ある」といってくれていたのですが、どうしても見つけることができませんでした。そしてその人に会うこともできなくて、私は本当に最近まで図書館に行けなかったのです。
……ここまででわかってくれたかと思いますが、私は執念深い女なのです、これは見た目とは裏腹にとよく言われます。話を戻します。
年齢を重ねた私は、両親の元を離れてこちらに移住することになりました。そして故郷から離れたこの土地で私はついに出会ったのです。そこへたどり着いた私は、実のところ少し戸惑いを感じました。
そこは私がよく知る場所に似通っていて、間違えたのかと思いましたが職員さんに聞いたところ間違いないと、そこで私は長い間思い描いていた夢をかなえることができたと悟りました。
最後になりますが研究の話をします、図書館とかかわりのある話なのでここまで伸ばしてしまいました。
私は図書館とライブラリの違いを確かめたいのです、故郷ではライブラリがたくさんありましたが、図書館はまったくありませんでした、その理由も含めて私は知りたいのです。
ここまで読んでくれてありがとう、そしてできれば仲良くしてください、よろしくおねがいします。
街灯のない細い路地を雨が漆黒に染めている。先の方が右へ折れた舗道の角で、きい、と小さく湿った音がして、古びた木枠に磨りガラスの嵌めこまれた薄い扉が開くと、背の高い痩せた女が現れた。そこは廃業した個人医院で、女は白衣の上に色の濃い上掛けらしいものを羽織って傘も差さずに歩いてくる。俯いた顔は暗く表情は判らない。私は喉のあたりが重く痛むのを感じた。
開業医と若い愛人を、その医師の元愛人だった看護婦が殺害して自殺したという数年前の事件を私は思い出した。ちょうど今夜のような雨の降る秋の宵のことであった。私は舗道を踏む靴の感触が雨に呑まれて薄く消えるように感じ戦慄した。
歩み寄る女の細い体は白く浮きあがり、俯く顔は反対に闇に沈んでいる。看護婦は退勤の直前に、新しく医師の寵を得た若い看護婦を診療台に縛りつけメスで何度も突いた。雨はやまず薄いガラス窓を打ち、雲に隠れて下りた夜の帳が寂れた医院を黒く塗り込めていたという。警察が来た時はすでに看護婦の姿はなかった。彼女は自宅の玄関で咽喉を突いていた。血まみれの白衣に長い黒髪がまとわりつき、ぐっしょりと濡れそぼっていた。
かりそめの恋を彷徨う男女の行為は影から影へと飛び移る子どもの戯れのように儚く残酷なものだが、こうして女と向き合っていると、禍いを連れて取り残されてしまったその影の濃さに呑まれるようで私は不安を覚えた。女と私の佇むあたりの地面がひときわ黒く濡れている。靴は依然として舗道の硬さを伝えない。だらりと下げた女の右腕の先に雨粒が伝い、闇のなかで小さく光った。あの夜看護婦は、ほど近い路上で往診帰りの医師を見咎めた。執着を語る涙に返り血を洗わせ、頬をまだらに伝わせた異形で抱擁を求める女を医師は振り払った。男は影を重ねて刹那の喜びを求めるだけの虚ろな影であった。女は呪詛のように愛の言葉を叫びながら影の喉にメスを突き立てた。
傘を打つ雨の音に紛れて低い声が私の耳に届く。眼前に在る影の、唇の形に空いた穴から聞こえる呪詛をかつて何度も繰り返し聞き、一字一句覚えていることに私は気づいた。喉が強く痛みだし、私は鞄を取り落とした。往診鞄は音もなく雨の路上に消えた。私は自分がひとつの影に永劫の刻を囚われ続ける虚ろな影であることをその時ようやく思い出した。虚無を孕んだ黝い眼窩が私を睨みつけ、右手のメスがぎちぎちと糸に吊られるようにまた振り上げられた。
その朝私はいつも通り家を出たけど、何だか学校へ行きたくなくて、同級生から隠れるようにして、いつもの角を逆に曲がってみた。とてもぼんやりいい気持ちで歩いていると、四階建ての団地が五棟並んでいる所に出た。朝なのに、夕暮れみたいな所。足許にハンカチが一枚落ちてた。洗濯物が風で飛んだんだろうけど、拾って見るとその青いハンカチはひどく汚れてた。するとどこからか、どろぼう、と叫ぶ声がした。見ると、小さな女の子が建物の陰から顔だけ出して私を睨んでた。目が細くて、色黒で、薄気味悪い子。その子は、どろぼう、どろぼう、と言いながら、建物の向こうへ行った。私は、ちがうのよ、ってその後を追った。女の子は人気のない公園のジャングルジムに登って、どろぼう、どろぼう、と私を指差して叫んでた。私も、ちがうわ、と言い返した。女の子は脚をばたつかせながら喚いてた。私はその子の足首を掴んで、ぐいっと引っ張った。すると女の子はバランスを崩して、ひっ、と小さく息を吸ってジャングルジムのてっぺんから落ちた。細い目が見開かれて、首はおかしな方向へ曲がってた。私は、女の子の乱れたスカートの裾を直して、青いハンカチを顔に被せてあげた。
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平日の閑散としたショッピングモールのゲームコーナーで、何故だか大勢の老人がゲームに興じていた。ただ通りすぎるだけだったのだが、その様子がなにやら珍妙で、しばらく眺めていると、スロットマシーンにコインを投じていた老婆が声をかけてきた。
「ニィちゃんみたいな学生さんは、こんなウソモンより、ホンマモンのパチンコのほうがええねんやろ。それともニィちゃんは、ガラガラポンのほうかいな」
大学など卒業して何年にもなるが、老婆から見れば、平日の昼間にうろついている若い男はみな「学生さん」みたいなものなのかもしれない。麻雀牌を混ぜる手付きをしてみせる老婆の真似をして、「そうですね、僕はこっちのほうですね」と、麻雀などろくにしたことがないのに、そう答えた。
「友だち同士でやる分には平和でええわなぁ」
平和ならざる何かがあったのか、老婆が嘆息めいて言ったところで、短い会話は途切れた。
その日の夜のことだった。家の近くの病院から、白髪頭の老人が、腰のまがった老婆の手をひいて出てくるのを見かけた。老夫婦だろうと思ったが、男のほうは背がしゃんと伸びていて、老婆と同じ年頃には見えなかった。しかしその様子には、他人同士にはない親密さがあるように思えた。
すると、あの二人は親子なのか。老婆が九十を超えているとすれば、男が七十を過ぎていてもおかしくはない。母も子もともに老人であるというは、奇妙なことのように思えた。
考えてみれば、人が老いゆく姿というのを僕は見たことがない。祖父は僕が生まれたときにはすでに老人で、母はまだ中年の終わりといった年頃だ。
学生だった時分に、年老いた母とバスに乗って、山へと向かう夢を見たことを思い出す。それは母の不幸を知らせる不吉な夢のようで、はっとしたが、別段何もありはしなかった。当時の僕の年頃に、母が自らの母を亡くしていることを思うと、あれは母ではなくて、祖母だったのかもしれない。
祖母が老いていくのを見ていない母は、ちゃんと老いるが出来るのだろうか。手本となる身近な老婆を母は持たない。老婆になる代わりに、段々と淡く稀薄になっていって、ある日パッと消えてしまうのではないか、ふとそう思う。
そうだとすると、父を知らずに育った僕もまた、中年を過ぎると白髪でも抜けるように、躰のあちこちが薄く剥がれ落ちていき、ある日吹いた風に、ふわっと舞い上がり四散してしまう、そんな気がした。
大学に二十二年前から常駐している警備員氏と話したのは、前期試験も終りかけた頃のことだった。以後一度も姿を見ないのは僕が余り学校に行っていないせいだけれど、雨が降らないと登校する気になれないのは、普通ではないなと思う。あの朝、未舗装の泥濘んだ駐輪場を長靴で歩き廻る彼に、何気なく挨拶をして教室に向かい、地理学の試験を終えて駐輪場に戻ったところで呼び止められた。傘を差した学生達が周りを行き交う中、灰色の制服に透明の雨合羽を着込んだ彼は雨でふやけたような顔で笑い、試験や夏季休暇についての話題の後、訥々と昔語りを始めた。彼がこの校地に着任したのは五十六歳のときで、現在は七十八だと言った。
多摩校地が竣工した一九八四年は、僕が生れた年でもある。当時、学生運動が沈静化して数年が経ってはいたものの、都心の校地には依然として多くの活動家が居り、多摩での授業開始に合せて押し寄せて来ていた。ヘルメットと角材で武装した学生達が構内を歩き廻り、やがて連行されていく姿を彼は眺めていた。取り押さえるのは警備員でなく警察の仕事だった。昭和天皇が崩御したときには別の集団が多摩地域に流れ込み、それを追う機動隊が警杖と盾を携えて校地までやって来た。程無くして近くの山中に在るダム湖のほとりから迫撃弾が発射され、弾は御陵に届くことなく終り、多摩の学生運動もこの頃には下火となった。
彼の話は次々と移り変わり、この校地で知り合いの七年生が最近ようやく卒業見込になったこと、以前はバイクで通勤していたが現在は電車で来ていること、彼の娘婿が交通事故の後遺症で亡くなったことなどを静かな口調で話した。話が途切れて十数秒の沈黙となったとき、僕は言葉を巧く挟むことができずに次の話を待つか、大して意味を持たない一言や二言を発していたように思う。僕も事故で足を折ったけれど今は快復している、と話し、無事でよかったと彼は頷いた。或いはまた彼が経験してきたことに気の利いた言葉を返そうと試みることが非礼に当るのではと思い、あとは聴くことに徹するばかりだった。僕は優れた聴き手などではなく、寡黙で不器用な聴き手だった。雨合羽に当る雨はいっそう強まり、それではまた、と彼は詰所のほうへ歩き去った。取り残されたような気持になって自転車に跨り、長い坂を下り始めると雨粒が顔に鋭い痛みを浴びせた。坂が終ると痛みは収まり、雨でふやけた手と顔が残された。