第50期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 六月 木下絵理夏 636
2 日曜日 けろけろ 384
3 私達は湖を眺めていた 美鈴 610
4 新しい季節 熊の子 999
5 ブラジルの夜 朝野十字 1000
6 夕陽を見てる 水島陸 1000
7 自殺 百鬼夜行 989
8 鬼灯 モチノキ 862
9 独りでは居られないステージ わら 1000
10 擬装☆少女 千字一時物語5 黒田皐月 1000
11 傘とソープと初恋と 奥村 修二 855
12 テリトリー 公文力 995
13 青い骨 真央りりこ 934
14 Hack show on! Gefoge for... Revin 997
15 愛姫の月天使様 満月天使 747
16 『テレフォン・ワルツ』 安倍基宏 992
17 オチ 振子時計 1000
18 Game 心水 涼 811
19 ヒモロギ 1000
20 遠くを見つめる 長月夕子 928
21 愛唱歌 三浦 900
22 『God bless you』 ariadne 996
23 神無月の夜 アレ 709
24 猿は女を乗せて浅草へ向かう 宇加谷 研一郎 1000
25 蝶と蜻蛉と蟻 海坂他人 1000
26 ことばくずれ もぐら 1000
27 お茶と光のパレード qbc 1000
28 デジャヴ るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
29 エキストラ 戦場ガ原蛇足ノ助 966
30 ちーちゃん 曠野反次郎 999
31 卓球界では ハンッニャモンスター 赤 889

#1

六月

遠くの学校から午後の鐘が鳴り響き、水溜まりを覗く、一人の中年男。
彼はまだ少年の頃から、こうしてどこかに水溜まりを見つけては、何かを見つめていた。
彼は母を探していた。彼は自分の母を探している。
街の中に、家の中に、彼は母を知らないまま。
雑踏の中に、冷蔵庫の中に、彼はいつでも目を凝らしていた。
家に帰ればいつでもあそこに、彼と同じ血液型のお母さんが座っていると言うのに。
どこにも居ない彼の母は、彼の頭の中だけで微笑んで、名前を呼んでくれていた。
1973年、雨上がり、小学校からの下校途中に、彼は頭の中以外でやっと見つけた。
虹色が
水溜りの中から彼の名前を呼ぶ声がした。

それから彼は、こうしてどこかに水溜まりを見つけては埃混じりの水面に映る水中をじっと見つめて、影を探している。

わたしはいつからか、彼の習慣の終わりを見たいと思い、彼を追うように成った。
彼がそれを止めた時、笑うのか悲しむのか。それを探す事がわたしの習慣に成った。

みんな母を探している
みんな母を探していた

日が暮れ切れると、色を見失ったような息を吐きながら、彼はそこから立ち去った。丁度夕日が彼の顔を隠していた。
立ち上がる時、彼は確か頷いて、衣服がこすれて、明日は母を探さないと、そう言った。
商店街、大安売り会場では、碧い人々が平和を願って汗を垂れ流している。その間を縫って、彼はどこかへ消えていく。
もうすぐ夏が来る。
雨の日は、彼はずっと家にいた。
雨を見ると、魔法がかからなくなると、そう言っていた。
もうすぐ夏が来る。


#2

日曜日

「夏だな。暑いよ。」
「え?」
「いや、暑いなって。」
「まだ6月だよ。」
それっきり黙ってしまうと、下を向いてしまった。つられて僕も下を向く。
6月の中途半端な太陽の下で僕と君は一緒に熱そうな地面をみている。
「いや十分暑いだろ?今日は。」
と独り言をいってみる。返事はないようだ。
 アリが列をつくり規則正しく歩いているのを見つけた。しばらくぼんやりと眺めていたが、ちょっと邪魔をしてみることにした。
狙いを定め、つばをたらす。唾液の塊が列にぶつかると、アリたちは慌てふためき列を乱していく、別々の道へ進もうとするアリたち。まるで今の僕らみたいだなってぼんやりと考えながら、つばをたらすのをやめないでいると、ふいに君の声が聞こえる。しかしもう頭の中には届かない。このアリたちのように別々の道へと進んでしまっているのだから。
そのうちに、アリたちは列を直し何事もなかったように歩き出す。


#3

私達は湖を眺めていた

亭主は、起床と帰宅後、必ずTVをつける。
神への儀式のような行為。
情報は、大切だよ。
流れてくるのは、
子供への虐待、国同士の戦争、殺人、
政府の動き、芸能人の結婚・離婚。

食事中でもその儀式は行われる。
食べ残したものは、速やかにごみ箱に消える。


私達は湖を眺めている。
木々に囲まれた静かなこの場所で。

彼は何を考えているのか。
私はそっと、横顔を見る。
風が髪を揺らしている。
彼は視線に気付き、長い指先で、
私の手を優しく握る。

獣達は、一体どこに潜んでいるのだろう。
じっと息を潜め、機会を狙っているに違いない。

少し不安になり、空を見上げる。
空はどこまでも澄みきっている。
彼は、ただ真直ぐに湖を眺めている。


私は毎日、亭主が食物を咀嚼する様子を見る。
出来ることなら、あの静かな場所に行きたいと祈りながら。

食べ残しで溢れたゴミ箱。
いつしか、亭主の口からは、食べ物を咀嚼する音しか聞こえない。
毎日続く騒音の中で、言葉を失くしてしまったのだろうか。

ある日、私はおもむろに玄関にあった自転車空気入れを
大きく振りかざした。
情報の詰まった巨大な箱へ。
何度も何度も。

遠くで女が絶叫している。
こんなもの、無くなってしまえと。

静かだった湖は、いつしか荒れ狂い、
波立っていた。

澄み切った空は淀み、赤い雷雨が見え、
無数のカラス達が飛び交っている。
獣達がそろそろやって来るだろう。

対岸に彼は、悲しそうな顔で私を見つめていた。
もう流す涙さえも私には残されていなかった。


#4

新しい季節

梅雨が終わった日曜日の駅。ドアが開いて電車に乗った。
制服で乗っているいつもと違い、私服の今日は少しおかしな感じがする。私服で外に出ること自体、久しぶりに感じる。
電車はいつもより空いていて、冷房も少し肌寒いくらいだ。

父さんが会社帰りの駅で倒れた日、電話に出た母さんはひどくあわてていた。胃潰瘍だったらしい。母さんは父さんの着替えを袋に詰め込んで、急いでタクシーに乗っていった。
僕は家で帰りを待ったけど、朝起きたら台所に弁当が置いてあった。

学校に行って、2時間目の放課に保健室に行った。クーラーはないけどグランドに面しているから風通りがいい。ちょっと前からお世話になってる。
保健の井ノ瀬先生にいつもの紙を渡されて朝食べた物とか、昨日寝た時間を記入した。体温計を先生に返した時に、
「昨日、父ちゃんが大変だった」と言ったら、先生はどうしたのって。
「仕事から帰ってくる時、胃潰瘍で倒れて入院した」って応えると、
「そう、お父さん大変だったのね…」と。そう僕に言ってきた。僕に言ったってしょうがないのに。
ストレスとかが原因らしいけど、体が大きくて無愛想な父さんはそんなふうに見えなかった。倒れた前の日も、帰ってきたら居間で野球を見ていたと思う。その時食べた枝豆が腐ってたんじゃないかって少し思ったけど、僕はそこまで薄情じゃない。きっと父さんも大変だったんだろう。


電車は順調に、駅を渡り歩いていった。


あれから5日がたち、母さんに押し出されるように病院に向かっている。
通学に使い慣れた駅も、電車の中から見ると少し違うところに感じる。

最後に父さんと釣りに行ってから、もう半年くらいたっただろうか。あの時は真冬で、2人ともボウズだったのを覚えている。それでも2人は一日中釣り糸を垂らしていた。夏になった今、退院したらまた釣りに行けるかな。

目的の駅に着き、僕は電車から降りた。
病院は駅の真ん前にあったからすぐ分かった。割りかし大きな病院。父さんは大きな8人部屋の一番奥にいた。
ひげが少し伸びていて、その中の白いのが陽に当たって光っていた。体は大きいけど少しやせたかもしれない。会社から帰ってくる父さんとは少し違うように見えた。普段どおりに無愛想な顔だけど、なんというか、少しだけ普段より父さんが人間らしく見えた。
僕に気付いた父さんと目が合った。僕は父さんのところへ歩いていった。

窓からは、夏の新しい日差しが差し込んでいる。


#5

ブラジルの夜

 2006年6月23日午前2時。ジュンから電話が入った。クミがファミレスで荒れていると言う。
「送ってやってよ」
「動かないんだよ」
 クミは酒に弱くてビール数杯で潰れちゃって潰れるとテコでも動かない。だから密かにテコクミと呼ばれている。
「誰いんの?」
「おれとシンジとカナコ」
 でもテコクミを動かせるのはクミに親友視されてる私しかいないのだった。ファミレスに行くと、クミが私を見かけるなり目を潤ませた。
「ユウが……もしも……」
 ユウは昨日事故って入院している。そのことはみんな知ってるし昨日病院にも行ったんだけど、クミだけちょっと連絡が遅れてしまって、それで今日またクミを連れて病院へ行ったんだけどICUに入ってて会えなかったとジュンが言った。
「ユウはワールドカップ楽しみにしてたのに、私、今夜カレんちで応援するはずだったのに、なのに……」
 ユウのカノジョ的発言繰り返してるけど誰も認めてないからね、と私は内心思った。みんな優しいから黙ってるけど、クミがユウの家に行きたがってしかたないのでユウがみんなでウチに来いと言ったのだからね。
「予定通りみんなで日本応援しようよ。日本は勝つよ。ユウも大丈夫だよ」とカナコが言った。
 あーそーゆー言い方まずいんじゃないの?
「もしも、日本が負けたら……ユウは……」とクミがウワゴトのように言った。
 ちらりクミの顔を見ると、号泣する準備はできていた。
「もう帰ろうよ」とシンジが言った。
 途端にクミがテコ泣き始めた。クミのテコ泣きは最低二時間続く。
 「どこかテレビ見れないかな?」「うちはダメ」という会話が繰り返されて、ジュンが、
「よっしゃ。埼玉スタジアム行こ。みんなおれの車乗れや」と大きく出た。
 二時間ばかり走ったところでガス欠でガソリンスタンドに寄ったら、店のお兄さんたちが事務所で小さなテレビ見て歓声上げていた。
「試合どうなってますか?」
「玉田先制。1−0で日本リードしてますよ」と店員が教えてくれた。
 クミは車から降りて自販機でジュース買って飲んでたんだけど、その場にしゃがみこんで再び泣き始めた。
「私やっぱり行けない。私もう動けないわあ。もしも、日本が勝ったら……もしも……」
「ニッポン勝つよ」とカナコ。
「クミ、車に乗りなよ」
 テコ座りしたままクミは泣き続けた。カナコと私はクミの周りで手拍子して、日本を応援した。
「ニッポン、ニッポン!」
「ニッポン、ニッポン!」


#6

夕陽を見てる

「沈んだ太陽はまた昇る。」
背中越しにそう呟いたマダムの優しさに、俺は涙が止まらなかった。

15年前、当時付き合っていた彼女と食事をした帰り、薄汚れた男達3名に突然囲まれた。

「おい、いい女連れてんじゃねーの?おまえよぉ。おい、女。俺と飲み行こうぜ」

そう言うと一番歯の抜けた男が彼女の腕を掴み連れて行こうとした。彼女は「やめてください」と言ったが、一番歯の抜けた男は力づくで彼女を引っ張っていこうとした。俺は「やめろ!」とその男を突き放し、彼女の前に立った。

「なんだよ、この野郎。おめえはおとなしくしてろや!!」

ヒョウ柄のシャツの男が手に持ったペットボトルで俺に襲いかかってきた。俺はダッキングでそのペットボトルを避け、カウンターで相手の顎めがけて左フックをおみまいした。上半身の回転をフルに利用した左フックでヒョウ柄の男は膝から崩れ落ちた。

「貴様、我ら安達組の暗黒三連星にこんなことをしてただで済むと思うなよ。」

だぼだぼのジャージの男はそう言うとサバイバルナイフを抜き、俺に突進してきた。大学時代に全日本学生ボクシングモスキート級チャンピオン(防衛無し)だった俺は男の突進をまた同じ様にダッキングでかわしてボディにカウンターを入れてやった。すると、その拍子にナイフが男自身の体に刺さり倒れ込んでしまった。

その後、病院に搬送されたジャージの男は死亡した。ヒョウ柄のシャツの男は顎が粉砕し全治半年、一番歯の無い男は転んだ拍子に歯を折る重症だった。

正当防衛だった。しかし、死者が出たこと。そして、彼女が安達組に脅され「私は嫌がっていません」と証言したことにより俺の過剰防衛と司法は判断した。

悔しかった。大切な人を守ったのにこんな結果になるなんて。その後俺は15年間刑務所の中に入り彼女を恨みつつ大型免許を取った。そして、今度は本当に信頼の置ける恋人ができた。

出所後、当時食事に行った店を訪れた。15年も経つと世間は大きく変わる。完全に浦島太郎になった俺だが、この店はあの時と何も変わっていなかった。それは、当時の記憶を鮮明に思い出させもしたが、違う世界に来た俺の寂しさを癒しもした。

その店の女主人は皆から「マダム」と呼ばれている。俺は15年ぶりだがマダムに「いつもの」と頼んでみた。すると、あの時毎週食べていた大盛り牛丼が出された。涙でしょっぱくなった牛丼を頬張り、もう一度あの時からスタートしようと決意した。


#7

自殺

女子高生が自殺したと報道していた。 「いつの世も同じなのか...」 職業病だろうか?その自殺した女子高生が何に悩んでいたのか考えいた。 そして最愛の人を思い出す...。   当時、高校二年だった彼女は妙に大人びていた。その癖、少年のような外見でウルフカットにジーパン、タンクトップに重ね着していた。第一印象は『しかめっ面の少年』。 警戒心を剥き出しにし、不機嫌そうに顔を曇らせていた。 「何故そんなに顔をしかめているの?」と問うと、 「無表情だと不機嫌に見えるだけだよ」 初めて正面から見た彼女の瞳は奥へ行けば行くほど光を宿さず、悲しみで満ちていた。 それから互いの休みの日が重なれば必ず二人で会った。会えない日も電子メートで連絡を取っていた。それが私の日常になって行った。 会うようになって半年、喫茶店でお茶を飲みながら話していると彼女はこう聞いてきた。 『人の幸せの上に幸せを築いた人間がさらに幸せを願ったら、足台にされた幸せだった人はどう思うんだろう...?』 私は何も考えずに答えた。 「何でお前だけが、それ以上幸せになるつもりか?って思うんじゃない?」 『そう...』 それから彼女は雨が降る外をただ眺めていた。次の日、いつものようにニュースを見ていると、昨夜、電車に飛込み自殺があったと報道していた。 画面に写し出された写真と名前はよく見知ったもの...。 昨日言葉を交した彼女...。 「何で......」 思わず持っていたコップを落とし、足元でガラスが砕ける女性の悲鳴のような音がした。   彼女は七ヶ月前に恋人を自殺に追い込んでしまった。そしてその男性の家族から嫌がらせや誹謗中傷が絶えなかったらしい。 彼女が耐えれたのは私の存在があったからだと彼女の姉が教えてくれた。 彼女は私にほのかな恋心を抱いていた。彼女はそんな自身を許せなかった。思い悩んだ彼女は自殺した。 「私が殺してしまった...」 その思いも彼女の姉が渡してくれた携帯を見て投げ捨てた。 日付は彼女が自殺した日。一件しかない未送信のメールを開くと宛先は私だった。 『ありがとう』 だから私はもう考えない。私が考え、悩み、死を選ぶことを彼女が望んでいないのを知っているから。 きっと死んだ恋人と天国で幸せに笑っているに違いない。 そっと「おめでとう」と呟いた。 私の心にいるのは今でも自殺した彼女たった一人だけ...。 「貴方、早くしないと仕事に遅れるわよ? 「ああ...」 私は温くなった珈琲を胃に流し込んだ


#8

鬼灯

ホオズキの、オレンジ色のちょうちんのようなガクを破ると、
中には朱色の宝石のような、丸い実が入っている。
ぷにぷにしていて、やさしい手触り。
「きれい。やわらかいんだね。」
「うん、熟してるから。
……懐かしいなぁ。これでお婆ちゃんが教えてくれた遊びができる。」
「ホオズキで?」
「そう。ホオズキで笛を作る。姉ちゃんも、やる?」
高校生になっても、相変わらずいい顔をして笑う隣の家の子。
昔はよく私の後ろを付いてきて、
まるで本当の姉弟のようだって、よく周りの人に言われたっけ。

ホオズキの中身の種や果肉を、
楊枝などで皮を破らないように出して、きれいに洗う。
ここであまりの難しさに挫けるが、負けてはいけない。
次に中身を上手に取り去ることができたら、赤い皮を口に含み、
上手に空気を入れて、ふくらませたホオズキを舌で押す。
空気が抜けて音が出るのを楽しむ。

変な味。
気の抜けたような、素朴な音。
音を鳴らすのはもっぱら弟で。
私のホオズキは、膨らました途端、
すぐに皮が破けてぺちゃぺちゃとした音しか出なくなった。
秋の始まりの夜。
虫の歌が聞こえる、満月の下。
縁側は、二人並んで座っても、少し肌寒い。

「姉ちゃん、ホントに結婚して町のほうに引っ越すのか。」
となりで音を出す弟が、唐突にきりだした。

「うん。あの人のお父さんが立てた一軒家があるから。結婚したらそっちに行く予定。
あと、ここ、子どもいないじゃない。幼稚園も保育所もないし。
私も仕事あるからね、友達いなくてひとりぼっちだったら、この子、かわいそうでしょ?」
そっと、お腹の子を撫でた。
できれば男の子がいいな、なんて思う。
「へぇ。やっぱり子ども、できてたんだ。」
「うん、…あれ?ごめん、言ってなかったっけ。」
「言ってない。姉ちゃん細いからわかんなかった。」
破けたホウズキを口から出して、
もう一つ作っておいた方を口に含んで、膨らました。

「おれ、姉ちゃんのこと好きだったのに。」

酷く震えてかすれた声。
あんまり驚いて、閉口する。
その瞬間に、中のホウズキの空気が抜けて、音が出た。

あ、
こうやって上手に音を出すんだね。


#9

独りでは居られないステージ

 フレッシュ海鮮は若手漫才コンビだ。二人がテレビに映らない日はないほどの人気を博していた。

 だが、ひき逃げだった。フレッシュ海鮮はツッコミの蟹山一人になった。

 蟹山はフレッシュ海鮮としてテレビに出演し、虚空にツッコミを入れた。痛々しい光景だった。

 蟹山はテレビに出続けた。と言うよりテレビは彼を映し続けた。

 蟹山は一人でボケとツッコミをこなし始めた。だが蟹山の一人二役には無理があり、かつてのテンポは消え失せた。しかしテレビは彼を映し続けた。

 蟹山は異常な変化を始めた。
 身体が倍ほども太り、顔が見えぬよう頭巾を被った。蟹山の変化をテレビはこぞって取り上げた。

 やがて頭巾が膨れてきた。バラエティーの司会者が頭巾を剥ぐと、その下の頭は二つあった。
 蟹山は漫才を始めた。同じ顔が軽快にボケとツッコミの応酬を始める。それはまさにフレッシュ海鮮の漫才だった。

 蟹山は徐々に裂けていった。漫才も面白さを増した。だが人々は漫才が見たいのではなかった。

 ステージに二人の蟹山が立った。左蟹山のボケと右蟹山のツッコミにより、フレッシュ海鮮は復活を果たした。

 某大学が蟹山を研究したいと申し出た。報酬を約束された事務所は左蟹山を拉致して研究させた。
 翌日テレビで右蟹山は困惑していた。海老野を失った当時のような漫才だった。
 しかしまた蟹山は太り、分裂した。

 年末、フレッシュ海鮮はカウントダウン番組に抜擢された。テレビ局は年越しの瞬間に大爆笑を取れと命じた。

 迎えた本番。フレッシュ海鮮は千人の客を前に漫才を始めた。好調な滑り出しだ。
 だがこの番組には企てがあった。年越しの寸前左蟹山の立っている床が抜け、右蟹山が残される。大舞台に一人残された蟹山はどんな超常現象を起こすのか。人々の興味は漫才ではなくそこにあった。

 あと三分で新年。そのとき左蟹山が消えた。
「っておい!」
 右蟹山のツッコミが空を切った。それを見て観客は笑った。右蟹山は困惑した。観客はその様子でまた笑う。
 頭を抱えた蟹山は分裂を始めた。観客は目をこらした。そして一瞬静寂に包まれた会場は、絶叫に支配された。全国のお茶の間で悲鳴が上がった。

 テレビは彼を映すことをやめた。

 蟹山には身体のパーツを複製する時間がなかった。ステージにはグロテスクなミュータントが二体並び、年越しと同時に崩れ落ちた。

 引き際を知らなかったのだ。蟹山も、テレビも、視聴者も。


#10

擬装☆少女 千字一時物語5

 井上たち女子数人が、映画を見に行く話をしていた。それは漫画原作の青春ドラマで、井上に漫画を見せられたことのある僕も見てみたいと少し思っていた。面白いからこの漫画を見てみろなど、いつも強引なことを言って僕のことを振り回すくせに、こういうときだけ誘いがないのは狡い。僕は井上に抗議した。
「何で僕には秘密だったんだよ」
「別に秘密ってわけじゃないんだけど」
 だけど誘うつもりはなかったと言う。興奮気味だった僕はさらに食い下がったが、その答えは、レディースデイだから、というものだった。
「だったら僕も女の子で行く」

 井上から借りたデニムスカートと黒のスパッツを穿いて、Tシャツの上にスカートと同色の身丈の短いデニムジャンパーを着て、上映開始十一分前、すなわち集合時間の一分前に、僕は映画館前に行った。女子たちに騒がれることを防ぐためである。席を探して落ち着くまでの間だけでもいろいろ言われたが、それ以上に僕の癪に障ったのは、足が短いと無言で主張する折り返されたスパッツの裾だった。
 男の子のひとりが女装して女の子と二人でいる場面があって、女子たちの視線が僕に向いた。ウィッグつければ良かったね、と誰かが言う声が耳に届いたが、僕は努めて気にしないようにした。そのうちに僕も女子たちも、正面の画面に引き込まれていた。

 映画は面白かった。漫画なんだからと言われそうだが、こんな関係って良いなとか思ったりした。しかし、来て良かったかどうかは別である。
「すんなり入れちゃったもんね」
 本当のことなのだが、あまり騒がないでほしい。
「漫画読んだときは女装なんてナシでしょって思ったけど、そうでもないかも。全然変じゃなかったし、ここにも実例いるし」
「でも宮下なんだもんね」
「信じらンな〜い」
 映画の話と僕のことと行ったり来たりしながら盛り上がる女子たち。また話題が僕のことになって僕が口を噤んだとき、ふと井上が同じようにしていることに気がついた。気になった僕が井上のことを見ると、井上は僕から目を逸らせた。

 帰り道、家が近い僕と井上はいつものように二人一緒に歩いていた。いつもならば何か喋りそうな井上が、今日はあまり話をしない。家のすぐ近く、井上が右に曲がる交差点、僕も何と言おうか悩んで立ち止まったところで、井上が言いにくそうに、あのね宮下、と口を開いた。
「今日はきてくれて、ありがと」
 その服を、僕はまだ返せないでいる。


#11

傘とソープと初恋と

 中学生のころ、僕は人生の第一目標を「佐藤美香子とセックスすること」と定め、日々目標に向かって精進(主にイメージトレーニングと称した自慰行為だが)していた。
 しかし、当時シャイだった僕は、目標達成どころか、ろくに彼女に話しかけることさえできずにいた。
 そんな僕が、一度勇気を振り絞って、彼女にアタックしたことがある。
 ある雨の日、彼女は不幸にも傘を盗まれてしまい、学校の玄関で立ち往生していた。
 困っている彼女に、僕は言った。
「一緒の傘でよかったら、送ってあげるよ」
 それからのことは緊張していたせいか、あまり詳しく覚えていない。記憶に残っている事といえば、隣を歩く彼女の髪からリンスのいいにおいがしたことと、ドキドキしてしまった僕が、帰ってから三回連続で「精進」した事だけである。(もちろんその後自己嫌悪に陥った。)
 今思えば馬鹿な話だが、僕はあのころ真剣だった。そして、最高に輝いていた。
 結局彼女とは、その後何も無かった。僕は彼女に思いを伝えることも無く、遠くの町へ転校してしまった。

 それから7年後、僕は雨の中、ネオンでギラギラ光る建物を見上げていた。
──よりにもよって、ソープかよ。
 彼女の家があった場所には、風俗店が立っていた。
 自分の美しい初恋の思い出が汚されたような気がして、なんともいえない寂しい気持ちになった。
 しかし、傘が雨を弾く音を聞いているうちに、自分がここに来た目的を思い出し、苦笑いを浮かべた。
──そういえば、元々、美しい思い出なんかじゃ無かったっけ。
 僕は、しばらくその場で立ちつくし、これからどうするかを考えた。
 彼女が居ないのでは、目的は諦めるしかないだろう。それならもう、持っていても仕方が無い。いっそ捨ててしまおう。そうだ、どうせ捨てるのならこの場所で……
 僕はそう決意し、店内に入った。

 プレイ内容は、あまり印象に残らなかった。相手の女の子の顔も、もう思い出せない。
ただ、あの雨の日に盗んだ美香子の傘を、店内の傘立てに置き去りにしてきたことだけは、はっきり覚えている。


#12

テリトリー

「ついにあんたやっちゃったんだ!」
午後10時の喧騒の狂言町で田丸は青ざめた脇坂を半分したり顔、もう半分は賞賛の面持ちで見つめている。
「でも何で制服なワケ?そんな格好でこの辺歩いてたらどっか連れてかれちゃうよ。ただでさえ純粋な学生はレアなんだから。」
「だって・・・グスン」脇坂は憔悴しきっていて今にも突っ伏してしまいそうな様子である。
「まあいいからことの顛末を説明してみ。田丸嬢がお聞きに遊ばしまするよってに。」
学校から帰宅した脇坂は母親と口論になった。原因はふとした弾みで盗ってきてしまったビニール傘であった。近づいてくる台風の影響に拠る雨からウェーブする癖っ毛をガードするための止む無き個人的な所業であった。プロテスタントの母親は執拗に娘を苛み唇の辺りに密生していたヘルペスにまで糾弾した挙句に超科挙を迎えるにあたり相当なストレスを溜め込んでいた脇坂の怒り心頭に沸し衝動的にビニール傘の尖った先端で母親を刺し殺してしまったのだ。
どうしようと混乱している脇坂に田丸は自分の右手薬指の先端を取り外して渡す。
「とりあえず私の家に隠れてなよ。お父さんがいるけど〈別に〉以外口にしなかったら絶対バレやしないから。しばらくいればまあほとぼりもさめるっしょ。」
でもあなたはどうするのと尋ねる脇坂に、だってもうすぐ台風が来るんだよ。家になんてじっとしてられないわと田丸は答えた。
田丸の右手薬指で高層マンションの一室に入ると田丸のお父さんはリビングでクリケットの衛星中継を見ているところだった。
「〈こんな時間までどこをほっつき歩いていたんだ!〉って聞かれても〈別に〉って答えたらいいから。」
「〈お前あいつとやったのか?〉って聞かれても〈別に〉って答えるんだよ。」
相手はマニュアル通りに言っているだけ。それに対して〈別に〉と答えてればシステムは滞りなく作動し続けるんだから。それにしても〈お前あいつとやったのか?〉なんてプログラミングする奴のセンスはどうかと思うけど。ちなみにお父さんはもうすでに四号だからそんなトラブルもないと思うし。脇坂は田丸の箴言に則ってしばらくの間田丸家で快適な自習ライフを過ごした。
「勉強大変だな。コーヒーを淹れてあげよう。クリープは入れるか?」
「別に」
「そうか。」
もう大丈夫みたいだよという田丸からの伝心の後懐かしき我が家に帰ると脇坂の母親はすっかり超合金二号になりかわっていた。


#13

青い骨

 思いがけず、姉貴からメール。土曜日のお昼、ごちそうするから寄るべし。最後にハートマークまで入ってる。きしょい(きもいは気持ち悪いの略、きしょいは気色悪いの略。だからなんだっていうんだ)。俺が携帯持ってるのを一週間前に気づいたようだ。
「あんた携帯なんて持ってるのぉ」
 じろじろ見たって何も書いてねぇぞ。高校生が携帯持つ時代なんだ。姉貴こそ勉強不足だろ。とこころのなかで毒づきながら
「悪いかよ」
 と言えば
「悪かない。上等だわ」
 ふふふん、と鼻歌なんか歌っちゃって。姉貴、あの音、半音下がってたぞ。

 姉貴思いの弟としては部活のあと腹を減らして隣町の姉貴のアパートへ自転車でなだれ込む図。狭い階段を上がりながら、ぷうーんと漂うよい香りを思いきし吸い込んで、ひゅううと口笛でも鳴らせば、台所に面した出窓が開いて、にっこり笑った姉貴の顔が……。
「なに突っ立ってんのよ。宅急便やさんが案山子を置いて行ったかと思うじゃない」
「案山子?」
「畑じゃないんだからさ、まぁ、きらびやかでもないけどね」
 勝手に入れという姉貴に呆然とした俺。ゴムのように伸びた足がドアを開ける。
「おぬし、人ではあるまい」
 子供の頃よくやってた遊びをまねて問いかける。
「ばかなこと言ってないで早く入んなさいよ。足がつるでしょ」
 小さかった姉貴は目を輝かせて妖怪役をやったもんだ。

『見破ったか、しかし、私の名前まではわかるまい』

 母親代わりのおばさんが家を出て行ってしまい、多感な時期の姉貴は俺と妖怪ごっこをすることで事実を受け入れていったのだろうか。思い返してもさっぱりわからない。俺は姉貴よりもっと小さかった。

「ほら、座って」
 掃除が行き届いた姉貴らしい、こじんまりと整った部屋。家では見たことない陶器のごつごつした皿に、魚が乗せられやって来た。銀皮の開いたところからまだ湯気が立っている。差し出された朱の塗り箸で身をほぐし、口に入れた。
「ん、これ骨だらけじゃん」
 俺は抗議した。姉貴は魚の骨を抜いた。まだある、ここにもある。そのたび小さな骨を姉貴は抜いた。口をもごもごさせて俺は文句を言い続けた。ふいに姉貴の箸が止まった。
「魚だもん」
 華奢な両手で箸は隅に追いやられ、皿ごとの魚が俺の目の前に突きつけられた。


#14

Hack show on! Gefoge for...

 風邪の奴と来たらいきなり来るから分からん。こちとら毎日ゲンキッキ、五体満足じゃーい! と謳ってたのにクリーンヒット食らうと即ダウンしちゃうガラスのアゴ。慣れない悪寒に気づいて慌てて薬を飲み込んだものの既に時遅し、俺はそのまま意識を失っていた。目を覚ましても、布団の上でうつ伏せたまま小指一つ動かせない。死ね。何の権利があってこのバイ菌どもは俺の自由を奪いさらす。こうなりゃもう胃の中のパブロンに希望を託してただ待つしかない。暫く経って、ようやく少し身を起こして携帯を手にできるほどには回復した。ポチ・ポチ・ポチ、智子に空メール。そこで第2ターン終了。俺は電源を切られる。
 再び目覚めるとおデコに異物感。渾身の力で首を捻ると、ずるりと額を何かが滑る。「ドチャ」。やけに湿り気のある音が俺の体内を通って地球七周半する。気持ちいい。
「起きた?」
 智子の声。
「じっとしてなさい」
 またおデコのあたりで「ドチャ」と音がして額が重くなる。ヒンヤリして心地よい。ああ、これはアイス的な何かだ。風邪から俺を助ける心強い仲間だ。そしてそれを差し向けたのは治療戦隊ナオスンジャーの指令・智子。
 智子の言葉に応えるべく頷こうとして必死にアゴを引くとまた「ドチャ」。アイス的な何かが今度は顔面の中央に着地して俺の呼吸を妨げる。
「だからじっとしてなっての」
 言われたその場で命令を無視している俺はなんてダメ人間なんだろう。やることがみんな裏目に出てる、運命的なものさえ感じるダメ加減。情けなくって笑っちゃうよもう。笑うパワーないけど。
「あんたね、冷凍庫の中に生ゴミ入れるのやめなよ」
 指令はダメ隊員に追い討ちをかける。
「ドア開けていきなりピンクの米出てきたら焦るって。氷なかったから使ったけど」
 エッ! すると今ボクの上にはソレが乗っているのですか。そういえば何やら生臭い香りが……しなくて俺の鼻はズルズルズンズルズン。
「今ちゃんとした氷作ってるから、それまで我慢しな。食べれるならおかゆでも作ってあげるけど……無理っぽいね。とりあえず今は寝な。居てあげるから」
 智子はそう言ってゴソゴソと布団の中をまさぐる。エッ! これはもしや……と思ったらそんなわけなくて智子は俺の右手を探り当てる。
 ギュッと俺の右手を握る智子の手はやはりアイス的な何かで、握られてるのが右手だろうが別の何かだろうが関係なく心地よかったのだった。


#15

愛姫の月天使様

「姫〜まだ寝ているのですか。早く起きてくださいよ!今日お見合いの約束あるでしょーほら早く起きてください!」都怒ったように、私の布団を引き上げた。「ん・・・もう〜都イジワルだよ〜まだ眠いもん〜」私子供みたいに、甘えているようでした。「今日星国の王子様とお見合いでしょ、しかったないからね。早くお風呂に入ってきてください、お願いしますね、姫様。」都布団をきれいにしながら、お願いように言っていました。「はい!あ、一人で大丈夫だから、一人でお風呂入ってくるね!」私ザーとドアを開いた、バラの匂いがあふれてきた、お風呂の中で、頭の中にいろいろな事が出できた。
私満月天使、16歳、この月国の姫です、お母さんクーイン陛下です、井上都、もともとこの国中の地の姫だたけど、お父さん死んで、お母さん自殺しちゃて、私都と家族見たいだたから、お母さん都を私の専門使者になったのです。月国と太陽国は中悪いのです、まだ戦争起こってないけど、いつ起こってもおかしくない状態です。星国はどちの見方にするの選ぶ状態です。それで今日王子様とお見合いに行くの。まあ、お母さん好きじゃないなら断っても良いで言ってるから、断るつもりです・・・・・
考えているあいだ、いつの間に食事していた。「天使、大丈夫?」お母さん心配そうに言っていた。「うーん、まあ、大丈夫じゃないの?ただ見るだけだからね。」「はいはい、えーとね、たしか名前星河優輝て言うよ、優しい人だと思うよ。」「ふ〜ん、優輝か・・」・・
「じゃあ、いてらしゃい!」「いてきます。」私都と一緒に、馬車を乗って、空へ向かって走りはじめたした。
これから始まる事知ってたら、死んでも行かない。でもあの人に出会えてすごく幸せでした。ありがとう、神様、この運命をくれて、幸せでした、私・・・・


#16

『テレフォン・ワルツ』

 月さえもまどろむ時刻。
 杉村香織の眠りを梳いたのは、『天才バカボン』のオープニングテーマだった。                      香織が携帯の着信音に、こんなふざけた曲を設定してから、もう二ヶ月になる。香織は、まるで柳の枝にいる猫を弄るようにして、サイドボードの携帯電話をつかんだ。明滅するディスプレイ。そこに映し出された表示はけれど、健二ではなく《内田部長》の文字だった。 香織はベッドに沈み込み、左手で額を押さえながら通話ボタンを押した。
「もしもし杉村です」
「あ、杉村君?こんな時間に申し訳ないね。内田ですけど。寝てた、よね?」
「何かあったんですか?企画書の件なら」香織は寝返りをうち、眼鏡を掛けた。
「うん違くて、えっとぉ、杉村君、学生時代にダンスやってたって言ったよね?」
「ダンス?ですか?」
「そうだんす♪」
「・・・?」
「あ。今のはね、『そうザンス』と『そうダンス』を掛けてみたん・・・」
「ええ。やってました」香織はむっとしてベッドから身を起こし、時計を眺めた。れっきとした夜明け前だ。
「うふっん。えぇと、それでね、頼みなんだけど。ワルツをね、教えて欲しいんだ」
香織は頭を抱えたままキッチンへと歩いた。
「あのぉ。私がやってたのはヒップホップで、ワルツはちょっと。三拍子ですよね?」
「三拍子?三拍子ってなんだい?」
「ズンチャッチャーズンチャッチャーみたいなやつですよ」香織はため息とともに、グラスに注いだ水を飲み干した。一人だけのキッチン。グラスの中で転がる氷の音が響く。
「ああ解った。チムチムニーチムチムニーか」
「たぶん違うと思います。曲で言えばショパン、シュトラウスとか。部長、私の知り合いに馬場で社交ダンスを教えてる人がいるので、出社したら連絡先を教えます。それでいいですか?」
「うーん。あ、それで構わないよ。頼む頼む。いやぁーでもなんだかワルツってエッチな・・・」
 香織は素早く「失礼します」で切返し、通話を切った。
 一度は放り投げた計帯電話。もう一度それを手にとると、香織はベランダに出た。下弦の月が、香織の髪に細く静かに光を落としている。金属の手すりにもたれ、冷たく澄んだ風を頬にうけながら、青く目覚め始めた街を眺める。そしてその向こう側で、まだ眠っているだろう健二のことを、香織は想った。太陽が西から昇ってくれる日が、いつか訪れることを願いながら。 


#17

オチ

揺るがない慢心は無いし、恒等的に成立する謙遜も無い。だからキャラ性だとかそんなもので形容される物語のキャラクタは現実には存在しない。
何が言いたいかって言うと、人生は小説のように終わることが無いってことだ。

俺を主人公にして世界は回っている。世界という言葉の定義が“自分を主観にした周辺の諸々”であれば、この慢心は確かに成り立っている。
それはともかく。どこにでもある繁華街にどこにでもある貸しビルが建っている。中のテナントの案内板は擦り切れて、錆び朽ちて、長い間使われていないオーラを出していた。
街の雑踏と景色の中に、ひっそりと立つこのビルは昔からあるようで、その実、地元住民である俺にも何の店をしているのか分からない所だった。
禁忌を犯してこそ物語が始まる。
俺は何故か、そのビルを探検してみることにした。

ガラスのドアを開けてビルの中へ侵入した。
入ってすぐに二階へ上がる階段が見えた。ここから見える範囲では、一階のフロアはロビーと窓口の着いた部屋(たぶん管理人室だ)が入り口側に有って、廊下が奥に伸びている。
少し移動して廊下を覗くと、右の壁に入口が二つあって、その中に床が剥げてボロボロの部屋が見えた。つまり階段がある場所の奥に部屋が一つあるのだ。廊下の奥は更に右へ折れており、見えなかった。その曲がり角へ向かおうと足を上げた瞬間
――ガタッ
と二階から音がした。誰か居るらしい。
……落ち着け。何故なら俺はクールだった。
文法がおかしいがたぶん文法がおかしいんだと思う。とにかくこのままじゃ不法侵入なので、逃げよう。
俺は踵を返して、ゆっくりと、ロビーへ戻った。しかし。出入り口のドアはまるで魔法でもかけられたようにビクとも動かない。
だが、こんなときのために非常口というものがあることを俺は知っていた。更に踵を返して、俺はさっきの廊下へ向かう。角を曲がると、予想通り、そこには非常口のドアがあった。
ちょろいもんだぜ、と思ってノブを回すと鍵が掛かっていた。なのでサムターンを回して鍵を外そうとすると、バキンと音がしてサムが取れた。
やれやれだぜ。
意を決して、三階へ上がる。途中で二階の部屋から物音が聴こえた。
三階の非常口は既に開いていた。出ると、錆びた螺旋階段が地上へと続いて
「おい!」
声がした。全身が逆立った。震えながら。俺は飛び降りた。
落ちている途中、子供の頃に滑り台から飛び降りたときのことを思い出した。
グ■ャ!


#18

Game

 僕はずっと考えていた。この裁判自体意味を持つのだろうか? 人が人を裁く現場はこんなものなのか? 最高裁判所の法廷は何処かひんやりしていて冷ややかだったが、不思議と落ち着く空間だった。
 昨今、世間を騒がせた連続放火事件の被疑者として僕は連行され、やがて被告人に変った。
 僕は犯人を知っているが、それを主張したところで、また取り調べから始まり、この席に彼女が座ることになるだけだ。彼女には恐らく実刑が下り、懲役30年は免れないであろう。いや、多分彼女の年齢からして、刑務所の中で葬式が行われる確立の方が正解かもしれない。
 僕の口頭弁論が始まった。僕に着いた弁護士は有能らしい。
『いいね。日下部さん』と言っている目が自信に満ち溢れている。それはそうだろう、容疑を晴らすだけなのだから簡単なことではないか。
 裁判官が、
「あなたは日下部勝さんですか?」
「はい」
 僕はこのやり取りにうんざりしていた。『見ればわかるだろ』
「あなたは今回の一連の連続放火事件の犯人として法廷に立たされています。それは理解できますね?」
「はい」『それを警察がでっち上げたんじゃないのか? もしあの裁判長が犯人だとしたら、法廷は、世間は、大騒ぎになるのか? それとも政治力を利用し代弁者を雇うのだろうか?』
「あのぉ。全て僕がやりました」
 自分でも不思議なくらい冷静にはっきりと答えていた。法廷全体がザワツク。
「異議あり!」
有能な弁護士はアドリブに弱いらしい。
「弁護人」
「彼は混乱しています。そして事実には無いことを陳述しています。彼が冷静になるまで少しお時間を頂きたいのですが?」
 今度は裁判官達が忙しい。
 このやり取りを見ていた僕は、子供の頃のある遊びを思い浮かべていた。真理はもしかしたら何処にも存在しないのかもしれない。だから「六法全書」と言うルールブックが存在するのであろう。
 まだゲームは始まったばかりだ。
 さあ、僕の容疑を晴らしてもらおうか。


#19

 何かしらの陰謀を達成せんがために結成された謎の組織に拉致され、数多の改造実験を施された大学生・藤堂勇人青年! 彼は常態こそ普通の人間だが、外気温が摂氏6度を下回るとたちまちオケラの化物に変身し、なおかつ冬眠の必要に迫られるという、世にもおぞましき「冬虫夏人」なのである!

 一方、稀代の呪術師ミラレパの後継者、ミラウタ師に食虫植物の呪いをかけられた心優しき保育士・石澤ハルカ! 彼女の子宮はウツボカズラ様の機能を備え、羽虫・毒虫・甲虫・地虫……あらゆる蟲を誘引する蜜を分泌しては桃色の魔孔に落ちこんだ獲物を消化吸収するという、語るも恐しき「食虫人間」と成り果ててしまった!

 そんな二人が出遭った! どこで? ミクシィの「現実に怪人がいたらどうする?」コミュで! ああ、神はなぜSNSをこの世に創り給うたのか。互いの怪人性を秘匿しながら恋に落ちた二人。捕食する側とされる側の恋。あまりに残酷である。この物語の残酷性を多少なりとも希釈せんがため、ここから先は映画『シェルブールの雨傘』の如き暢気なミュージカル仕立てでお送りしよう。


〜秋〜
ラララ女心はヤマトタマムシ
愛しあってる筈の僕たち
なのに全てを許してくれないのは何故?

ルルル真実を知られるのが怖い私
そうよ私はエダナナフシ
あなたは木を見て私を見ない

ラララ僕が欲しいのは君の全部
もっと知りたいよ君の事
日が暮れても帰らないで僕の赤蜻蛉

ルルル駄目なのやっぱり怖いわ
ミヤマのハサミが胸を締めつける
さよならするのは愛してるからよ


〜冬〜
ルルル忘れられなかったあなたの事
幾千も浮かぶあなたの笑顔
バッタの複眼で見つめているようね

ジジジ電話が鳴っているけど
冬は眠くて動けない それに
オケラの手じゃ携帯を取れないし
君を抱きしめることさえも

ルルルなんで電話に出てくれないの
あなたに見せる覚悟が出来たのに
羽化するアゲハみたいに無防備な私を


〜早春〜
ギフチョウは春の到来を告げるというけど
僕は別れを告げに来たよ 春の昼下がり

どうしてどうしてそんな事……

それは 僕が オケラ だから

それは別れる理由にならないわ
お金がなくてもあなたとなら平気
それにね私 食費が全然かからないのよ

ラララ僕がオケラでもいいのかい

ルルル愛ってそういうものよ きっとね


季節外れの雪がちらつくその夜に 二人はとうとう一つになった
思い違いをそのままに 二人はとうとう一つになった
オオカマキリの雌雄のように 二人は


#20

遠くを見つめる

 バイトが終わると、いつも一緒に帰ることが普通になってた。バイト中に親しく話をした覚えはないし、住んでいる場所も違うのだが、いつだったか一緒に帰ろうと言われて以来、当たり前のようになっていた。
 彼はとても派手なシャツを着て、吃驚するようなデザインのジーンズにカバン、靴の配色もすごかった。 毎日毎日色にあふれた性別不明なそれらのものを器用に着こなしてはいたが、無論ごく普通の山手線の中では、浮いていた。ということは嫌でも人目を引くということで、隣に座る山手線のような配色の私にも視線は注がれた。
「服はね、人に見られるために着るんだよ」
と、いつだったか彼は言った。衆目を浴びて、彼は確かに誇らしげだった。そんな彼を見ていると、私は高校時代のスカートの極端に短い友人を思い出す。
「超むかつくよねえ」と口を尖らせるしぐさも、一人で家路に向かう私の背中に「ちょっとまってよ!一緒に帰るんでしょ」
と追いかけてくる様も、道行く人を見る目つきも、髪をかきあげるしぐさもよく似ていた。丹念に塗りつけたマスカラの扇のような友人のまつげに、彼の天然のまつげも負けてはいなかった。
 電車に揺られながら、私と彼はよく服の話をした。といってもそれは彼の独壇場で、なんだかタバサだとかオゾンなにやらヒステリックがどうしたと舌をかみそうな流暢なカタカナがあふれ出す。そこへもってきて渋谷だの代官山だの青山だの六本木だのと私とは縁のない地名の羅列に、女友達のような気楽さの中で、私はほとんど夢心地でその話を聞いていた。

 1月のプラットホームで、彼はロシア人がかぶるようなモコモコの帽子をかぶり、インディアンのようなコートに身をすくめていた。
「2月に実家へ帰らなくっちゃ」
「2月?法事か何か?」
「俺年男だからさ、やぐらに登って餅まかなくちゃいけないんだよね」
「年男?餅?実家ってどこ?」
「……愛知」
ため息に乗せて彼は横顔で呟く。
ホームに冷たい風が入ってきて、細い首をもっとすくめた。
「お土産、よろしく」
「ういろう買ってきてあげる」
「それ、名古屋じゃん」
「名古屋は愛知だよ」
彼がポンポンと私の頭を軽くたたく。その手は大きく、骨ばっていて、男の人の手だ。


#21

愛唱歌

 森をあるいているといつのまにやら冥界で、

  Ciao!

 とわたしがいうと、

  Ciao!

 とかえってきて、

  ここではイタリア語をつかうのですね、

 とつぶやくと、

  そうなんです、

 という声がきこえ、そうなんです、は日本語なので、

  日本語もつかうのですね、

 というと、こんどはこたえがかえってこず、

  ごめんなさい、

 とあやまって、ひあがった河をわたりはじめると、

  おいおいおい、

 という声がし、ふりかえるとウェルギリウスがたっていて、

  おいおいおい、

 ともういちどいうのでおもわず、

  やはり日本語ですね、

 というと、ウェルギリウスは石になってしまい、

  日本語をつかうのだということを知られたくないのだな、

 とおもったわたしは、

  Ciao!

 といい、するとウェルギリウスはもとにもどって、

  Ciao!

 とこたえ、『La Divina Commedia』をくれたので、

  『神曲』ですね、

 といってうけとり、ミノスにヘッドロックをかけたり、ベアトリーチェと野球拳をしたりするウェルギリウスをそのなかにみとめ、

  これは笑えますな、

 と感想をのべると、ウェルギリウスは樫のような四肢をうごかして、これはどうやらジェスチャーらしく、

  これをやるからあっちへ行けというのだな、

 と気がついた私は、全身でどこかをさししめすウェルギリウスに、

  ありがとう、

 といって頭をさげ、ひあがった河をはなれ、小ぶりの木のしたで真っ赤な実をひろうと、それをほおばり、

  ひろうた実 すっぱい あまい すっぱい あまい

 と詠いながら、ときおり、

  こんにちは、

 といったりし、ときたま、

  こんにちは、

 とかえってくることがあって、それはしかしわたしのようなひとのかえす声で、

  日本語はきらわれていますな、

 とそのひともおなじことをいい、なんにんかでいっしょに、

  Ciao!

 というと、

  Ciao!

 とやはりかえってきて、わたしらはみんなで顔をあわせ、

  日本語はきらわれていますな!

 といって笑い、みんなで真っ赤な実をほおばりながら、

  ひろうた実 すっぱい あまい すっぱい あまい

 を愛唱する。


#22

『God bless you』

 会社からの帰り道、男は電車の席に座っていた。夜も十時を回る頃で、車内はそれほど混雑していない。停車駅に着き、彼の隣の座席が空いた。
 すると、その席に制服姿の女子学生が腰を下ろしてきた。顔立ちは多少キツいけれど、学年でも屈指の美少女に違いない。膝上の短いスカートからすらりとした脚がのぞいている。彼女は通学鞄と別にクリアケースを持っていた。浪人経験のある彼は、たぶん予備校帰りなんだろうな、と思った。

 電車が駅を出てから少しして、彼女は数学のノートとテキストを取り出し問題を解き始めた。次々と問題を解くスピードに彼は目をみはった。だが、彼女の書いた答えの中には時折ミスが混じっていた。理系受験だった彼は、その間違いを指摘してあげたくなった。――あの公式を使えばもっとスマートに解けるのに。

「なんですか?」
 ノートを眺めていた彼は、その台詞が自分に対するものだとなかなか気付かなかった。顔を上げると、彼女が彼を睨んでいた。他の乗客たちも何事といった様子で二人に注目している。
「あ、えーっと」周囲の視線を集めて彼は口ごもった。そしてその後、笑顔を作って言った。「いや、理系受験なのかなーと思って。受かるといいね」

 とっさに思いついた言い訳にしては上出来だ。こうやって見ず知らずの人間を応援してやれる自分の優しさに彼自身が驚いていた。いつもの自分なら、思っていても口には出せない。彼は突然自分が神の慈愛を獲得し、彼女を祝福しているような気分になった。
 彼は想像する。少しはにかんだ顔の彼女が「ありがとう」と言う瞬間や、「どうも」と目を伏せる瞬間を。
 しばらくの間、彼女は彼のことを無表情に見つめていた。それからゆっくりと口を開いた。

「……あたしに関係がないからそんな適当なこと言えるんですよね?」彼女の台詞は彼の予想から大きく外れていた。現実は全く違っていた。
「あたしが受験失敗したら慰めてくれるんですか? それがショックで自殺しようとしても止めてくれたりするんですか?」
 彼女の鋭い言葉を前にして、彼は何も反応できなかった。
「答えられないんなら、無責任なこと言わないでください」
 彼女は素早くノートをしまい、そのまま席を立った。そしてドアの前へと歩いていく。
「あのさ……」彼が呟いた。
「まだなにか言いたいことあるんですか? 偽善者さん」
 彼女は振り向き、左頬を歪めて微笑んだ。
「次の駅、降り口逆」


#23

神無月の夜

 飲み会の帰り道、クラスメイトの香西は「何でもできる」と僕に宣言した。
 アルコールによる万能感というやつだろう。呂律が回っていなくて、ほとんど「れきる」としか聞き取れなかった。
「だって私は神様だから。世界を作りかえるくらいわけないわ」
『大学生活はノリとミエだ』
 兄貴の言葉を思い出し、僕はほとんどシラフであったにも関わらず「マジで?」と驚いてみせた。
 香西は千鳥足でスキップしながら陸橋を渡った。見ている僕の方が冷や冷やした。
「例えばあの赤信号っ」
 階段を下りたところで香西は交差点の信号機を指差した。
「あれは電気じゃなくて赤い星。最近急接近してきた火星なの。今、そういうことにしたから」
 確かに信号機の柱は暗闇に紛れていて、赤い球体が空に浮いているように見える。
 香西は今度は山の上に建っているマンションを指差した。
「あの建物はここから見ると普通だけど、本当はもっと遠いところにあって大きいの。それこそバベルの塔のようにね」
「ああ、そういうことか。分かった」
 要は意識的な錯覚だ。そのつもりで見れば見える、というわけだ。
「明石くんはなかなか見込みがあるね」
 香西はまんざらでもなさそうに僕を見つめた。と思いきや「うぃ〜」とぼやきながら僕の胸にもたれかかってきた。
「新鮮な果物が食べたいなあ」
 神様というよりもただの酔っ払いだ。
「あー。あんなところにバナナが」
 視線を追って空を仰ぐ。三日月が煌煌と光を称えていた。
 香西が腕を伸ばす。三日月に手が重なったように見えた瞬間、「えいやっ」と彼女はそれをもいだ。
 美味しそうに香西はバナナをむく。
 僕は何度も空を見渡したが、月はなかった。
 酔っていたのは僕だったのだろうか?


#24

猿は女を乗せて浅草へ向かう

やっかいな仕事が片付いた後、女は売店で瓶の牛乳を飲んだ。
「ふふっ手をあててるよ、あの子」
そんな声が聞こえて、女は少し恥ずかしかった。

女が社を出ると、外は暮れようとしていて夕焼けが眩しい。手で光を遮って歩いていると、一匹の汚い猿が立ったまま眠っている。
(誰? こんな所で猿を待たせて、おまけに眠らせているのは)
と思ってよくみれば、女の猿だった。

「ん、お嬢。おつかれ」
「さっきね、牛乳を飲むとき腰に手をあてて笑われちゃった」
「俺なら、指を頭にあてて飲むけど」

女は猿の冗談に返事はせず、黙って彼の差し出す首にまたがった。

「あの女、猿に肩車してもらってるよ」
「いいな、あたしも猿欲しいな。あんた猿になって」
「やだよ」

そんな声を聞きながら猿に乗る時間が女は嫌いじゃない。ゆったりと歩いていく猿の胸をかかとでポーンと蹴る。

「お嬢、チョコ食う?」
「今日は何があるの」
「ヴァローナ、ゴディバ、リンツ。一通りあるよ」
「お薦めは?」
「はあ、俺なら明治にするね……っていうか、実は明治しかない」
「じゃ、明治。そうね、神吉拓郎風でおねがい。パキパキって割ってちょうだいね」

猿の返事がない。

「ねえ、聞いてるの、猿」
「んごごご」

猿はうとうとしていた。
(ほんとに猿はよく眠る。ほんのちょっと目を離していると目を閉じるんだから)
女は猿の頬をつねった。

「は、眠ってた」
「眠っちゃだめよ」
「はい、明治の板チョコ吉田拓郎風」
「ありがとう……」

猿は携帯冷蔵庫を身体のどこかに隠している。チョコレートはとてもよく冷えていた。女はひとつまみで疲れがとれて、ふたつ食べれば満足だった。

「猿も食べる?」
「お嬢の口移しでいただきます!」

猿が急に緊張気味に言った。背筋が硬くなっていた。純情なくせになかなか強引だ、と女は少しためらった。猿はいつのまにか女を浅草まで運んでいる。こんなところで私に口を吸えというのか、と女は思った。

「ま、いいか」

猿は雷門の前で女を降ろし、女は口にチョコレートを詰めた。さっそく熱で溶け始めている。

「お嬢、いただきます!」
「うん」

女と猿は、多くの外国人観光客の前で口付けを交わした。猿は女のキスで魔法が解けて人間に戻るのだ、と賭けをしていたロシア人たちは、猿が本物なのに騒いでつねったりしていたが、女はその間うっとりしていた。「じゃあまた」と言って、人間の着ぐるみを被ったスーツ姿の猿は、東武鉄道に乗って日光へ帰っていった。


#25

蝶と蜻蛉と蟻

 この夏はどこにも行かずに、ずっと家ですごした。
 田舎なので、虫が多い。今年は揚羽蝶をよく見た。茶の間から庭を見ていると、黄色いのと黒いのが代りばんこに、どこからともなくひらひらとやって来ては、また去って行く。それを一日に何度となくくり返す。何か意志のあるもののようにも見える。
 四月に祖母が亡くなって、今年は新盆だった。亡き人の魂が、蝶に姿を借りて来る――家族の間では自然とそういう感じがしていた。
 お盆が終わると、急に涼しくなった。ある日の夕方、洗濯ものを取り込もうと庭に出たとき、地面の上に何か動くものが目に止まった。
 よく見ると、一匹の蜻蛉がひっくり返っているのだった。早くも蟻が集まりかけていたが、六本の足はそれぞれに空をつかもうとしている。口も何かもの言うようにもぐもぐと動いている。時々羽根も羽ばたかせている。
 自分は要らぬ惻隠の情を起して、その蜻蛉を拾い上げた。息を吹きかけて蟻を落し、ハイビスカスの茂みの上に置いてみた。
 しばらく見ていたが、誰にも突つかれなくなると、全く動かない。――後で思えば、蟻の毒で、体が痺れていたのだろうか。いずれにしても、もはや命数は尽きていたと言えるだろうか。
 すでに死んでいるものなら、蟻たちに返してやるのが筋ではないかと思い、また元の所に戻して、家に入った。
 半刻ほどして、ふと思い出し、様子を確かめに庭に降りてみると、今度は蟻がびっしり集っていた。皆それぞれに休みなく駆けずり回りながら、蜻蛉の体が見えないくらい覆っている。
 なおよく観ていると、蜻蛉の羽根がかすかに震えた。風のせいかとも思ったが、忘れた頃にまた地面を打つ。確かにまだ息があるようである。
 取り返しのつかん事をしたと思ったが、今度は救い上げる決心はつかなかった。さっき以上に弱ってしまっているだろうし、一心不乱に働く蟻たちの迫力は、安易な手出しを許さないものがあった。生きている間、何百何千匹もの虫を捕った蜻蛉は、寿命が尽きた今、その体を今度は蟻たちに返そうとしている。
 翌朝見に行ってみると、蟻たちは列をつくって規則正しく歩いていた。閑散とした現場には、羽根がついた頭と胸だけが残っていた。少し離れたところに後ろ羽根もあった。胴体はどこにもなかった。
 頭を拾い上げてみると、重さというものが全くなかった。裏を返すと、驚いたことに眼玉まで綺麗にくり抜かれてがらんどうになっていた。


#26

ことばくずれ

「ほら、やっと見つけた。あそこに犬がいるよ。さあ何て名前をつけようか」
 僕はガードレールに繋がれた犬を指さして言った。
「本当にそこに犬がいるの」と彼女は訊ねた。
「見えるだろう。ほら、あれだよ」
 犬を指さしたまま見ると、彼女は瞼を閉じているのだった。
「見えないのよ何も。なによこれ、ああ」彼女はそう喘いでしゃがみ込んでしまう。
「眼を閉じているからだよ。何してるんだ、せっかく見つけたっていうのに」
「何も見えない。真っ暗よ。真っ暗だわ。あなたどこにいるの」
 彼女は腕を空に向けてでたらめに振り回す。僕はその手を掴んで無理矢理に立たせようとするが、全身の力が抜けてしまったかのように、いくら引っ張っても彼女の体は沈み込んでいく。
 まただ、と僕は思った。いつだってそうだ。何をするにしても、あと少しというところで彼女がヘマをしてすべてが台無しになってしまうのだ。今日だって、「犬に名前をつけたい」と言い出したのは彼女の方なのに。
 僕は呆然と彼女を見下ろしていたが、彼女はいつまで経っても眼を開こうとはしなかった。
「帰ろう」と僕は言った。
「ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったのよ」彼女はきつく閉じた上下の瞼の隙間から涙を零している。「でも、もうだめ。あたし溶けてく」
 溶けてく? その瞬間、体の輪郭がぼやけて滲み出し、縒り合わさった糸が解れていくように、彼女は溶けていく。
「おい、おまえ溶けてる」と思わず僕は叫ぶ。
 きつく握った手の中で、彼女の手がみるみる縮んでいく。どんなにきつく握ろうと止められない。一体なにが起こっているのか、輪郭が滲んでいるその縁をよく見てみると、表面の肉が言葉に置き換わっているのだった。まるで書物が風化して無数の塵に還元していくように、彼女の体は無数の言葉に断片化され、周りの空気の中へ拡散していく。
「名前が思い浮かばなかったから」起伏のなくなった肉の塊に開いた暗い穴の奥から、彼女の声が切れ切れに聞こえてくる。「あたしの中のぜんぶの言葉を集めても思いつかなかったから、そんな言葉あっても意味ないから……でも、もし、最後にひとつでも残ったら、それを名前にしてね」
 僕は何も言うことができずに、ただ彼女の残った部分を強く抱いた。

 僕は這いつくばって彼女の残した最後の言葉を血眼になって探している。いつまでもいつまでも探すだろう。アスファルトの上に、湿ったピリオドがぽとりと落ちた。


#27

お茶と光のパレード

(この作品は削除されました)


#28

デジャヴ

 螺旋階段をくるくると昇りビルの屋上へ。
 そこには古びたピアノが置いてある。初老の男がその前に置いてある椅子に座っている。こちらを見て微笑む。
 微笑。
 ピアノは大きなスタインウェイ、コンサートグランドD。その他にも幾つかキーボードが並んでいる。ウーリッツァー。ローズ。ハモンドオルガン。
 初老の男は微笑む。
 ピアノを屋上から突き落とす。
 がたん、がしゃん、がごん、どごん。街のネオンライトが目を刺し貫く。がたん、がしゃん、がごん、どごん、がん、ががん、がどがん。
 ピアノが落ちていく。
 初老の男、微笑む。ウーリッツァー、ローズ、ハモンドオルガン、様々なキーボードに囲まれて。 
 がん、ががん、がごん、ごん。

 そして信じられないほど、良いメロディ。



 雨が降り始めている。
 雑貨屋で七色の傘を買う。開くと七色のぼんやりとした光に視界を覆われた。
 ぬかるに足をとられながら、丘を登る。
 丘のてっぺんの灰色の鎖には、アルミナ皇女が吊るされている。
 指にはタングステンロープを巻きつけられていて。ぎしぎしと強く巻きつけられていて。指には血が滲んでいて。美しい金色の巻き毛が雨に濡れていて。
 丘を取り囲むテレジア戦車。
 テレジア戦車は、唸りをあげて弾を発射する。
 アルミナ皇女へ、唸りをあげて弾を発射する。


 ネオンサイン。
 ビルから飛び降りる少女。

 花園。


 目を瞑っても瞼を通して花々の色彩が目を刺し貫く。
 花園。
 少女はぼんやりと目を開ける。



 オレルアンの喫茶店。テレビからはつまらない野球中継。煮詰まったまずいコーヒーを一口すする。
 少女はアルビオンからイギリスへ。


 アルミナ皇女は全ての弾を避けてしまう。
 ひょいひょいと器用に足をあげて、全ての弾を避けてしまう。白いかぼちゃぱんつををちらちらと見せながら全ての弾を避けてしまう。


 少女が泣いている。スカートをたくし上げて。
 つまらない野球中継。
 黒いパンツを見せびらかすようにして少女は泣く。


 スパイラル高速道路。
 二人並んで立つ。
 くるくると回るスパイラル高速道路。
 アップライトピアノ。おもちゃの戦車。書きかけの裸婦像。
 そしてメロディ。あなたに聞かせることが出来ないのは本当に悔しい。そのようなくらいに、本当に信じられないほど良いメロディ。


 とにかく私たちは歩き続ける。スパイラル高速道路。私達は歩き続ける。
 赤いフェラーリが私たちを追い越していく。


#29

エキストラ

 空席にそっと腰を下ろした皆川の耳が、隣で漫画を読んでいた男の発した小さな声を捉えた。
「おやおや、天才ジベタリアンの皆川先生じゃないですか。どうしたんですかこんな朝っぱらから」
 自分を知る同業者との遭遇に少々面食らいながらも、皆川は定石通り視線を交わさずに答えた。
「はあ、ジベタリアンは辞めたんです」
 四十前後の男が漫画ゴラクのページをめくるのを横目に、皆川は真新しい鞄から週刊少年マガジンを取り出した。
「ほう、辞めた」
 テンポ良くページを繰って男はまくしたてた。
「ジベタリアンの需要が減ったもんで食いっぱぐれのない『電車で漫画を読むサラリーマン』に転向ですか」
「需要はありますが、若くないとできませんから」
 電車が止まると、そうするのがマナーだとでも言わんばかりに男は手を止めた。
「それでしょぼくれたおっさんでもできる方に来たってわけだ」
「いや、そんな風には……」
 カリスマジベタリアンになるまで地を這うような努力を重ねた皆川はごく自然に男の言葉を否定しようとしたが、ドアが閉まると同時にそれを遮られた。
「なめるんじゃねえぞ」
 漫画ゴラクの中盤を睨み付けながら――そこで何が繰り広げられているのか皆川には想像もつかない――男は声を荒げた。通勤時間帯にはそぐわない剣幕に周囲の乗客は吊り革を握り締めるくらいはしたかもしれない。
「マガジン三年、ビッグ八年。一人前になるには十年以上かかると言われる世界だ。地面に座っているのとは訳が違う。半端な気持ちなら悪いことは言わない、PSPでもやっているんだ」
「おい、あんた」
 皆川は業界の禁を犯して男の顔を見据えた。それを敏感に察知した男は顔を挟むように漫画ゴラクを高く構えた。
「何考えてんだ、馬鹿か」
「俺は馬鹿でも結構だが、ジベタリアンを座っているだけ呼ばわりされるのは心外だ」
「どうでもいい、じろじろ見るな」
「いや、よくない。いいか、ジベタリアンは寝ることもあるんだ」
 次の駅に着くまでまだ少々ありそうだったが、視線に耐えかねてか男は席を立って吐き捨てるように言った。
「そういう意味じゃない」
 車内が少し暑く感じられ、皆川はネクタイを緩めた。水着姿のアイドルが地べたで見ていたころより随分生き生きとしているのに気付いて、ふっと小さく息を吐いて笑った。
 そして私たちの生活に溶け込んでいった。


#30

ちーちゃん

 帰りがけにパンクした自転車を玄関前に止めたところで、いつものようにちーちゃんに捕まった。
「ごんべぇ、ドッジボールしようや」
「くたびれて帰ってきたとこなんやから、ボール遊びなんてようせぇへんよ。まぁとやったらええやんけ」
「ねぇちゃんは今は晩飯作っとるんやもん。なあ、今日はどこ行ってたん?」
 ちーちゃんとまぁちゃんはこのアパートの二つ隣りに住む子で、共働きの両親は二人して帰りが遅く、六年生のまぁちゃんが、ほとんど一人で家事をこなしている。ちーちゃんが僕のことをごんべぇと呼ぶのは、一度教えた名前を次の日にはすっかり忘れてしまい、「なぁ名前なんやった」「もう教えたらへん」と、そんなことがあった所為で、つまりは名無しのごんべぇということだ。
「今日は日曜やのにずっとおらへんかったやん。どこ行っとったん? よし坊のお見舞いか」
「そうや、病院や。辛気くさいからえらい疲れんねん」
 母親のよし子が山の上の病院に入院したのは一月前のことで、家を出たわけでないのに、一人暮しに逆戻りした恰好になる。
「そうかぁ。あ、ごんべぇ髭残ってるでぇ」
 指差されて喉元に手をやると、喉仏の右上の方にわずかに髭が残っていた。
「ちーちゃん、チェック厳しいなぁ」
「そりゃそうや。いつもおとんのチェックしたってんねんもん」
「ちーちゃんは、おとーちゃんのこと好きなんか」
「好っきやで。ごんべぇと違ごうて、かっこええもん」
「あ、さよか」
「さよやで。百倍くらいちゃうわ」
 ちーちゃんの両親は何をしているのか知らないが、土日も殆ど家にいることがなかった。しかしそのことでちーちゃんが愚痴をこぼすことはなく、その代わりにみたいに、毎日僕を捕まえて「ごんべぇ、ボール遊びしようや」と云う。何年も経って、ちーちゃんが僕のことをふと思い出した時、最初から名無しなのだから、名前を忘れられることはないな、とそんなこと思う。
「そや、ちーちゃんのな、ちひろっていう字ィ、漢字あるん?」
 ちーちゃんは笑うように頷いてから、いつも持っているロウ石で、アスファルトに大きく「千尋」と書いた。
「なかなかええ字やね。これ、意味知ってるんか」
 ちーちゃんは当たり前や馬鹿にすなよというような顔をして、背をピンと伸ばすと、両手を大きく広げ、宙に円を描きながら、「めっちゃ大きいゆう意味や」と云った。
 その姿に宇宙が見えたと云ったら、ちょっと大袈裟な話になってしまう。


#31

卓球界では

 卓球界では、他を全く寄せ付けない絶倫の卓球センスを持つ人をよく虎に喩えている。
 虎と雷、この二つは古来よりスピードとパワーの象徴とされてきた。生身の人間が虎の称号を得たとき、そのとき、あまり練習に来ないのにいつのまにかインターハイに出場しているといわれている。それは生まれ持った身体能力と耳が聞こえなくなるくらいの集中力を同時に持ち合わせた瞬間なのだ。虎は自分の限界を打ち破り、見る者の想像を超えていき、ときに卓球のルールを打ち破る。そう、虎たちの、そのあまりにすさまじい打球は、まれに一発で25点くらい入ることもあるといわれているのだ。虎が強いのは虎だからである。 虎が強いことに理由はない。
 

 背中に”JAPAN”を背負った岸田は、対戦相手の控え室のドアを蹴破った。部屋の中では、アメリカンジュニアハイスクール服姿の少年(スマトラタイガー)がゆったりと腰掛けていた。岸田は言い放った。敬語で言い放った。
「今日は、あなたとガチンコ勝負をしに来ました。」
 少年(スマトラタイガー)は、岸田に興味がなかった。もっと強くておもしろい人間をたくさん見てきた。話題性あふれる体験をしてきた。虎レベルに達しない人間はみんなくだらなかった。話をしたくなかった。マンガが読みたかった。
「僕とガチンコ勝負がしたいなら、ケンカを売ってみなよ。」
 少年(スマトラタイガー)は静かに話す。
「おまえは部屋を壊しただけだ。僕にケンカを売ってみろ。」
 言いながら少年(スマトラタイガー)の顔はなぜか、徐々にデビュー戦当時の顔へ、デビュー戦当時の顔へと変貌していった。
 岸田はベンガルタイガーでも、スマトラタイガーでも、ましてやマレー虎でさえない。バックポケットに忍ばせた虎の鼻のおもしろパーティーグッズが岸田のお守りだった。しかし今、ポケットには家のカギ以外はなにもない。人っ子一人ない。なぜなら岸田は今、虎の鼻を装着しているのだから。顔に虎の鼻のおもしろパーティーグッズを装着しているのだから。だから、敬語はやめよう。俺だって敬語はやめよう。
「少年、おまえにひとつ教えといてやろう。 卓球は、根性だ。」


編集: 短編