第49期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 暑くて熱い、夏 桜葉吉野 1000
2 億年物語 今江美奈 1000
3 先鋭アートの作者になりたくて 54notall 824
4 風鈴 てふてふ 992
5 猫公戦 戦場ガ原蛇足ノ助 971
6 今はただ静かに眠れ 長月夕子 539
7 私の宝もの 朝野十字 1000
8 モノトーンメランコリ もぐら 1000
9 燃える家 ゆき 591
10 青暗い夢 熊の子 955
11 全力疾走 水島陸 652
12 揶揄よ Revin 904
13 スプーン曲げ 藤田揺転 1000
14 擬装☆少女 千字一時物語4 黒田皐月 1000
15 スザンヌ・ヴェガ 公文力 1000
16 女友達Sへ。 夕夜 423
17 深海魚 心水 遼 795
18 奇矯 ぼんより 1000
19 Night Marchers キリハラ 999
20 西瓜の迷産地 とむOK 1000
21 風に戦ぐ夏休み 八海宵一 1000
22 作文貴公子 ハンニャ(集中力) 996
23 メロン るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
24 停電ワルツ 宇加谷 研一郎 1000
25 百万人の笑顔と僕 壱倉 1000
26 曠野反次郎 999
27 教授とハローグッバイ 藤舟 746

#1

暑くて熱い、夏

「よく、そんな気持ちの悪いモノを塗れるね」
 クリームを腕に擦り付けている私に、眉間に皺を寄せた彼が言った。
 確かに気持ちの良いモノではないが、この炎天下、長袖パーカーを着込んでいる彼の真似をする気には、到底なれなかった。
 しかし彼は、汗の一つもかいてはいない。
「……お前は、蜥蜴の親戚か何かか?」
 私の記憶が正しければ、爬虫類は汗をかかなかったはずだ。
「はぁ? 突然何言ってんの?」
 そう問えば、明らかに馬鹿にした表情で返された。
「馬鹿なこと言ってないで、とっととソレ塗っちゃいなよ」
 馬鹿なこと。
 自分の異常さを棚に上げて、文字通り涼しい表情で、彼は私を見下ろして言った。
 真夏の海水浴場で、しかも天気は快晴。
 燦々とならまだしも、ジリジリとまるで網の上の秋刀魚を美味しそうに照りつける火力のように輝く太陽の下で、長袖姿のくせに汗もかいていない。
 何て羨ましい。
 もとい、何と恨めしい。
「どうでも良いけど、何でそんな完全防御姿なの?」
 お前は年頃のお嬢さんか。
 恨めしげな視線を送りつつ、日焼け止めクリームを腕に塗りたくる作業を再開する。
「……別に。ただ、日焼けするのが嫌なだけ」
「じゃあ、どうして海になんて来たわけ?」
 冷房の効いた部屋の中で、カブト虫の観察でもしていれば良いのに。
 皮肉っぽく聞こえるように言ったが、彼はそれを綺麗に無視して、
「……って」
 ボソリと、何ごとか呟いた。
「え、何? 聞こえない」
 急かして言うと、彼は一瞬言い淀み、それから、
「香織が、どうしても海に行きたいって言うから……」
 少し恥ずかしそうに俯き加減に、小さく呟いた。
 その顔は、仄かに赤い。
「……そ、そう」
 可愛らしい顔でそんなことを言われたら、何となく恥ずかしい気持ちになってしまう。
 私は、その変な気持ちを紛らわすため、只管に日焼け止めを塗り続けた。

「輝一く〜ん!! 早くおいでよ〜」
 砂浜から、彼を呼ぶ香織の声が聞こえる。
 黄色の、フリルで飾られた水着を着た香織は、贔屓目なしにしても、最高に可愛い。
「今、行くよ!!」
 白いパーカーを着込んだまま、輝一は裸足で駆けて行った。
 極上の笑顔を浮かべて。

 一人残された私は、香織に手を引かれ、歩いていく彼を見て思った。
「……傍目には涼しげでも、頭の中は熱つ熱つ人間だったのね」

 暑いのは、きっと太陽のせいだけではない。
 塗りすぎた日焼け止めで、腕は真っ白だった。


#2

億年物語

ナルシスト。
世間は僕のことをそう呼ぶ。
実際僕は、自分に何一つ不満はなかった。成績はいつもトップクラスだったし、もちろん容姿も自慢できる。クラス一の美少女と付き合い始め、家も父親が病院を経営していて裕福だった。
しかし、高校を卒業してしばらくたつと、僕は不安を抱えるようになった。それは歳をとることだった。
僕はあと11ヶ月でティーンズを卒業する。それが僕の心のつっかかりであった。恋人であるミユキも、いずれ顔が水分を吸い取られたように皺だらけになって、美しさを失うだろう。そんなことはあってはならない。美しいものの全ては永遠に美しくなくてはならないのだ。
そんなことを希っていたら、夢に、妙に恭しい男が出てきた。顔はよく分からない。彼は自分を、「全ての動物の寿命を司る神」と名乗った。
彼は手のひらに光を浮べ、にやりと笑った。
「永遠の若さと命を手に入れてみないか」
僕が大きく頷くと、その光を僕に放り投げた。
瞬間、僕は目覚めた。
ミユキにこのことを話してみると、この上ないほどに大笑いされた。そして一息つくと、彼女は僕の目を見てすんなりと言ってのけた。
「私はそんなのいらない。
 一人だけ若く生きていたって、しょうがないじゃない」

4年後、僕らは結婚した。
その3年後に、僕らの間には子が生まれた。女の子だ。
そのまた4年後。僕らは30代を迎えた。

9年後。娘は中学校に入学した。
ミユキの顔には、少し小じわが目立ってきていた。
僕の顔は、あの時の顔と全く変わっていない。

20年後。孫ができた。いつの間にか娘は僕より歳を取っていった。


そして30年後。

ミユキが死んだ。
既に彼女は皺だらけのおばあさんになっていた。その時の僕も、あの日とまったく変わっていなかった。

孫もまた、僕の歳を追い抜き、ひ孫が生まれた。
そしてここ10年の間、何人もの学友が死んでいった。

テレビの報道陣は歳を取らない僕に取材を申し込んだ。
信じるものもいれば、ガセネタだと疑うものもいた。

5000年の間。
大勢の恋人が入れ替わりできた。
時には男とも愛し合った。
そしてみんな、死んでいった。

気づけば一億年が経っていた。
人類は滅亡していた。

そして僕はずっと変わらない。

本当にこれが僕の望んでいたことなのだろうか。
あの時ミユキが言ったことが、今になって身に染みてきた。

枯れるほど涙を流した。

涙の水溜りに自分の顔を映す。
そこに映っていたのは、老いぼれた僕だった。
 



 
  
 


#3

先鋭アートの作者になりたくて

暗くてジメジメした腐敗臭の漂う部屋で、つとむは身動きとれずにいた。
重い手かせ足かせ。

「よォ、つとむ元気かァ」
中本の蹴りが飛んでくる。つとむの腹を強烈な一撃が襲い、血ヘドを吐く。
中本の蹴りと重なるように、大原、梅里の蹴りが飛んでくる。袋叩きだ。
ゴミ捨て場に転がったサンドバックを相手にしているかのように中本、大原、梅里の三人は蹴る。蹴りまくる。一度喰らいついたら放さない猛犬のように、もう夢中だ。

サンドバックは砂ではなく、真っ赤な血を吐き出した。
床にこびりついた真っ黒な血の上に新たな赤い血が塗り重ねられる。
それはまるで先鋭アートのようだ。と、つとむは思った。
だとすれば作者は誰だろう。
血を吐き出しているつとむか。それとも血を吐き出させている中本たちか。
絵の作者は絵の具ではなく絵の具を搾り出している人のほうだから、この先鋭アートの作者は中本たちなんだろう。
中本たちは暴力集団ではなく、芸術集団なんだ。はは、それにしても、僕は絵の具なんだ。

絵の具の顔面に向かって強烈な蹴りが飛んできた。
目の前に向かってくる足を見てつとむは思った。
もう嫌だよ。
すると声がした。
「じゃあ助けてあげる。」
それはつとむがいつも想像していた「女神」の声だった。女神は絶望の淵にいる人を助けてくれるんだ。
つとむは、ついに幻聴まで聞こえてくるようになったのか、と思った。
目の前が真っ白になった。

目を開けると、中本、大原、梅里の三人は消えていた。
手かせ足かせも消えていた。
「あれ、もしかして本物の女神、、?」
「私という存在に本物も偽物もありません。」
女神の声がした。姿は見えないけれど。
「もうあなたは自由です。好きなことをやりなさい。」
そう言い残して、女神の声は消えた。

つとむは自由を感じた。生まれて初めて感じる自由。
好きなことをやっていい。何をやってもいいんだ。
今までずっとやりたかったこと。

つとむはナイフで胸を突き刺した。

床の上にまた真新しい血が広がった。
作者はつとむだった。。


#4

風鈴

「以前どこかでお会いになりましよね?」
それは夏に溶けるカキ氷のような当たり前の感覚だった。
都会の街中でその彼女は涼しげな目をして僕を見ていた。
「いや、会ったことあったっけ?」
彼女の目は僕から外れることはなくそう答えた。
「いやぁ、どうでしょう?」
そう答えると彼女はなぜかずっと彼女を見なくては解らない程のとても微妙な表情で悲しみを表現した。
少なくともそう僕は感じた。
「あそこに座ろう。」
彼女が手で僕を促した。
僕らは新宿東口の木漏れ日に隠れられるちょっとした椅子に腰を掛けた。
蝉の音が聴こえる。蒸した木の匂いがする。今日は気分が良くて僕なりにオシャレな格好をしていた。劣等感はなかった。
二人はしばらくボーッとアルタ前のTVに夢中になって話すのを
忘れていた。
たとえば見ず知らずの人間2人が一つの空間に意識的に入った場合、緊張する。でも僕は緩和した。
彼女が口を開いた。
「昔、きっとどこかで君と会ったよね。」
その言葉で脳にノイズが走る。ど忘れかもしれない、でもど忘れじゃない。彼女の名前を知っているような気がする。
でもそれは違う国の言葉でしか表現できなくて僕は言葉を知らない。
彼女は言葉を続けた。
「もし、君に彼女がいないなら・・・その・・・なんて言うか
私と友達になる事もできるよって言うかその・・・。」
彼女の手が震えていた。彼女にとって見ればよほど度胸のいる言葉だと僕は肌で感じた。
「彼女・・・いるんだ。」
僕は答えた。そんな彼女に対して僕は誠実でいたかった。
「そっか・・・彼女もういるんだ。」

「残念!!」彼女は笑いながら茶化すと下唇をかみ締めてうつむいてしまった。
顔を隠して泣いている。
「またね・・・一緒にね・・・ひまわりの種食べたりとかバスとか乗ったりとか坂道を歩いたりとか・・・ジュース飲んだりとか・・・」
彼女の記憶を今、僕は共有し始めた。ノイズが消えた。
「ゴメンね、私にも彼氏がいて、その彼をちゃんと好きなのに
自分だってそんな変な事できない人間だって自覚してるのに
君が現れたから・・・。」
「僕がもし、今度生まれ変わったら君を見つけて君をお嫁さんにするよ。絶対に。忘れない。」
「私も絶対に忘れない、今度はお嫁さんにしてください」
二人はそれぞれ別々の方向へ別れて行った。
少し涼しい風が吹いた。蝉の音がそれをかき消した。


#5

猫公戦

「高速スライダーが打てるようになった」
 哲治の操る北海道日本ハムファイターズが言葉通りに松坂を打ち崩していくのを私はぼんやりと眺め、扇風機が自分の方を向いたときには前髪の動きを思い描いて目を閉じた。
 去年の夏もこうだったから、来年の夏も多分同じことをしているのだろう。松坂はいい加減アメリカに行ってしまうかもしれないという噂は私も時折耳にするが、哲治はもう少し先だろうと言うし、そう言われると何年も前から話だけはあったような気がしてくる。他の誰かとごっちゃになっているのかもしれない。
 私は人並みに野球に興味が無い。哲治は昔少し野球をやっていたらしい。昔少しピアノを習っていて、昔少し英会話に通っていて、昔少しワルかったという彼も今はすっかり大人になって、特に何もしていない。
「次は誰だ。三井か。おい三井、道民ならウチに来い、この野郎」
 ピッチャーが左投げになった。みんな同じ顔をしているので、可愛いとは思うが見分けがつかない。基本的に右か左か位しかわからないが、背伸びをするのがSHINJOだと最近覚えた。
 スリーアウト、チェンジ。
「ねえ」
「何」
「ダルビッシュって何人」
「日本とイランのハーフ。何回言っても覚えねえな、それ」
 語感は好きなのに、設定は何回聞いても覚えられない。不思議なことだ。それはそうと、言っておかなければいけないことがあった。
「杏奈が来週の花火大会一緒に行こうって言ってたのを今急に思い出した」
「もうそんな季節か。早いねえ」
「タモリか。車借りられるか聞いてきてって」
「うん、親父に聞いとく。そこのメモ帳に書いといて」
 メモ帳に花火大会の日時と車の絵を書いて、トイレに行って、私のイメージするダルビッシュさんの似顔絵を描いて、その二枚目の髭面に吹き出しを付けて「ダルビッシュか」と言わせて、麦茶を飲んで、杏奈にメールをして、暑くて疲れた。
 誰かがホームランを打った。
「ねえ」
「何」
「私たちって、ロハスだよね」
「まあ、ロペスというよりはロハス寄りだな」
 哲治の右手がそろそろと近付いて、私の髪をそれは大儀そうに撫でた。
 生きているだけで前髪は伸びる。扇風機は向こうに行ったが、私はもう目を開けないことにした。試合の様子はアナウンサーが丁寧に伝えてくれる。その声がなかなかセクシーだと思っていることは、哲治には秘密にしている。


#6

今はただ静かに眠れ

 午前1時。嬌声が住宅街の眠りを切り裂く。向かいの家の犬が吠える。続けて隣町の犬も吠え出す。
「もお!のめないっていってるじゃなあいいー!」
ろれつの回らない大声に、私はカーテンの隙間から様子を伺った。
 若い女の子が道路で大の字になっている。他にも何人かの男女が場違いな大声で笑いあっていた。
 どんなに飲んでも、私はもう、あんなふうに酔わないだろうなと思う。いや、酔えないだろう。世界の中心が自分だった頃はもう遠いのだ。
 カーテンを押して、夜風がまだ淡い娘の髪を揺らす。おぼつかない小さな手が私を不器用に探す。そっとその手に触れると、思いがけず強い力で握り返された。
 瞬きする時間で君は成長していく。いつか、あんなふうに酔っ払って道路で寝たりするんだろうか。そして私はしっかり親の顔をして、叱ったりするんだろうか。あんな時代が自分にあったことなんて、すっかり忘れて。
 外の嬌声はやがて静まる。男の子の一人が、女の子を背負って、近くのアパートへ引き上げていった。何人かは駅の方に向かう。「じゃあねー、ゆみー!」「またねー!」その声にまた、犬が吠え出した。あちらで、こちらで。
 やがて夜は、面白おかしく君を誘い出すだろう。眠っていたらもったいないと。けれど今はただ、今はただ静かに眠れ。


#7

私の宝もの

 独身女の私には妹があるきりです。それはそれは美しい子です、妹が十七になり私は心尽くしのお祝いの夕食を作りました私は三十四です、妹とは父親が違います。妹は生まれつき四肢が不自由なためにひがな蛇のように寝そべっております。いちいち小分けした煮魚やらご飯つぶやらを蓮華で口元まで運んでやると全身をくねらせてそれを口にくわえます、どうやらただ口だけを動かすというわけにいかぬようです。
 私は掃除婦として働いております、その家のご主人はとても立派な大学の博士の先生でご著書もたくさんおありになってテレビのなんとかの解説にお出になったこともあります。先生のお父さまは実業家でその会社の顧問としてお父さまに報いてらっしゃいます。
 先生は奥様と別居しておられまして一人暮らしで本棚と本が詰まりきった部屋に掃除のために入ることのできるのは私一人です先生は私の妹のことをよくお聞きになります、私はそのたびに妹の輝く黒髪やら豆腐のように白い肌やらそれらをお風呂場で洗ったりやら下の世話やらの話をしてしまいます。お仕事の邪魔にならぬようにと思いつつもただただ宝石のように美しい妹の話をし始めるときりがなくそんな私を先生はとても温かく話を話を聞いてくださり続けたのです。それが原因です。
 先生はとうとう私の妹に会いたいとおっしゃいました。私はそれが嫌だったのです。本当に嫌だったのです。けれども仕事を失えば妹を介護することもできなくなるのです。私は妹に聞きました、
「よろしいわよお姉さま」妹はいつも必ずそう言ってくれるのでした、妹は私を愛してくれているのでしたそれだから幸福でした。
 先生は輝く妹を見て深く心を打たれたご様子でした、直後に妻と別れて私と結婚したいとおっしゃいました、私の悪い予感が当たったのです。あの日先生の帰りが遅くなると知って、自宅に帰ることなく玄関前で待ち伏せていたのです。ナイフを持った私を見て、先生は驚かれた様子でした。
「私は君の妹の父親なのだよ。それを隠していたのは間違っていた。君と結婚したい、そして娘と共に三人で暮らしたい」
「えいやーー!」私は叫んでナイフをまっすぐ持って突撃して、先生の胸を一突きにしました。刑事さん、私はただただ妹を守るためやったのです、けれども翌日新聞に先生の記事が載って、あの先生は良くない先生だったと妹に言うと、
「違うわ、お姉さま」と妹が生まれて初めて言ったのです。


#8

モノトーンメランコリ

 電柱の脇に影みたいな男が寝転んでいた。
 そんなところで何をしているのか尋ねると、男は電柱の影をしているのだと言う。隣の電柱と比べてみると、確かに本来影があるべきところに男がいて、太陽に対する角度もばっちり正確だった。聞けば、太陽の動きに合わせて男も移動するらしい。伸びたり縮んだり、薄くなったり濃くなったりするらしい。こうしている間にも、男は少しずつゆっくりと回転・伸縮し続けているのだ。
 なぜこんなことになったのか男にもわからないと言う。気付いたときには男は電柱の影になっていたそうだ。
 私は自分の影を確認してみた。それは多少デフォルメされているにしても、しっかりと私の形そのままであるように見えた。影のような誰かじゃなくて安心した。と同時に、わけもわからず電柱なんかの影をやらなければならない男に同情し、ポケットに入っているだけの小銭を男の傍に置いてやった。
「小銭やるからがんばれよ」と私は言った。
「なんだかすみませんね、影なんかのために」男はちらりと小銭を一瞥して言った。
「影だって立派な仕事じゃないか」
「そうは言ってもね、夜には消えちゃうんです。曇りの日も」
「それに」私は男の言葉を遮って続けた。「隣の電柱よりもずっと影らしい。今まで見た影の中ではかなりいい線いってると思うよ。影は太陽の身分証明書みたいなものだからね。素晴らしいサインが書けたと太陽もきっと喜んでる」
「あなたは優しい人ですね」その時、心なしか男の表情が緩んだ気がした。「あなたみたいな人の影だったらよかった。電柱なんかじゃなく」
 男の言葉もまた影だった。みじめで陰鬱でか弱い、残りかすみたいなものだった。しかしそれは影ではない私の耳に届いていた。確かに届いていた。
 通りの向こうから犬がやってきて電柱に小便をした。小便は男にかかり、小便の影も男にかかった。小便の染みが電柱と地面に広がり、まるでそれ自体もひとつの影であるように見えた。
 8月の太陽がじりじりと偽の影を灼いた。私は去っていく犬の尻の穴をただ眺めていた。

 陽が落ちてから再びその電柱の前を通りかかると男は消えていた。10円玉が3枚と1円玉が6枚、昼に私が置いた場所にそのままあった。男は小銭なんて欲しくなかったのだろうか。それとも、小銭の影だけ持ち去っていったのだろうか。それは明日の朝にならなければわからない。もちろん、明日も太陽が昇ると仮定しての話である。


#9

燃える家

 36年ローンの一戸建ての家が燃える。
 凄まじい火力がリビングのガラス戸を吹き飛ばす。
 夜空へ煌々と火柱が立つ。
 それだというのに妻はシステムキッチンで炎に囲まれながら涼しい顔で食事の仕度を始めている。
 何してるんだ、逃げなくてどうする。
 慌てて叫ぶと妻は口が裂けるほどの笑みを浮かべ、まあ、みてらっしゃいな、と叫び返す。その右手にはさしみ庖丁がしっかりと握られ、まな板の上には生きた鮭が踊っている。
 妻は鮭の目をずぶりと刺して、それから痙攣している鮭の腹を思い切りよく割いている。
 ぴしゃりと尾を打ってのたうつ鮭の有様はまるで女の腰がうねるような錯覚を与える。
 燃え上がる炎に囲まれて、妻は、あら、あなた、子供が沢山、と鮭の腹から子宮膜に包まれた卵をぞろぞろと掻き出す。いつの間にか妻の顔が愛人になり、これでいいんでしょう?と、げらげら笑いながら血塗れの両手で子宮膜に包まれた魚卵をぐしゃりぐしゃりと握り潰している。

 翌朝、私はぐったりとして目を覚ます。酷い夢を見たなと顔を洗って会社へ向かう。
 夜になって家に帰るとテーブルの上には山盛りのすじこが並んでいる。私の顔を見ると妻は静かに1枚の紙をテーブルに置く。
 傍に行くとその紙が○○レディースクリニックの領収証だと判る。宛名が愛人の名前になっている。
「わたくしが話をつけてまいりましたわ」と妻が微笑する。
 
 情念の炎が家を覆う。


#10

青暗い夢

 ベートーヴェン「エリーゼのために」

  たららららららららぁ〜ん
  たらららぁ〜ん
  たらららぁ〜ん

  たららららららららぁ〜ん   ・・・・・・

 夕日色に染まった音楽室。ピアノの前で、オレはなぜか前に一度聞いただけの「エリーゼのために」がピアノで弾けている。
 その音楽室には、女の音楽の先生と、僕と同じ、学生服を着た女の子がいる。二人とも顔に見覚えない。
 オレは右手だけの演奏だけど、エリーゼのためにのメロディを、つたないながらも弾いている。

  たららららららららぁ〜ん
  たらららぁ〜ん
  たらららぁ〜ん

  たららららららららぁ〜ん   ・・・・・・

 女の先生は、ピアノの前に座るオレを見て、それは霊を呼んでしまうメロディだと、弾いてはいけないと言う。夕日色に染まっていた教室が急に青暗くなっていく。でもオレはなぜか右手を止めようとしない。エリーゼのためにを、もっともっと上手く弾けるようにと、メロディを奏で続ける――――――

 ふと目が覚めて、興奮で頭の血がゴロゴロざわついてる。むくりと起きて、頭が冷えるのを待ちながら、
 「エリーゼのためにって、悲しい曲だったっけ」と考える。
 時計はまだ朝五時前。もう落ち着いたかと、枕に頭を乗せるけど、まだゴロゴロ鳴っている。その音は、オレの頭の中からなのか。外なのか。
 どうやら頭の外らしい。もしやドロボウかと、電気を点けて耳をそば立てる。
 しかし、ゴロゴロは家の外からのようだった。廊下の電気を点けて、階段へ行き、窓から外を見た。

 外は青暗い。夢の中を思い出す。するとピカッと1回光った。音の原因はどうやら、雷雲らしい。まだ遠くの方だ。
 ゴロゴロゴロゴロ、いつまで経っても止めようとせずに鳴り続けるこの音は、地球がどうかしてしまったのかと、不安になる。
 階段を下りて、愛犬のカルトが怖がってないかと思って見に行ったら、案の定、ゲージのとなりに大人しく座って、ぶるぶる震えていた。
 大丈夫だよと、抱きかかえてあげるけど、ぶるぶるぶるぶる震えが止まらない。抱きかかえてるオレの体も、痙攣してるのかと勘違いするくらいに。

 カルトは、外の音を聞いて、今にもどうかなってしまいそうに震えている。

 雷鳴は今もまだ続いている。

 バラバラバラバラ、急に夕立のような雨が降ってきた。


#11

全力疾走

来る日も来る日も同じような毎日。同じ靴を履き同じスーツを身にまとい同じ瓶牛乳と同じあんぱんを食べながら同じ電車を待つ日々。飽きただとかそんな殊勲な感情すら浮かばない社会人6年目の夏。6年前と同じように俺は町中の薄着ブタ女たちの無駄に柔らかい肌をみて自分の無駄な時間を使うのだろう。ブタ女に感謝。ブタ女たちには感謝だ。俺に柔らかい胸の谷間や太ももを見せてくれるのだからな。

俺のように毎年同じことを繰り返すオタクたちが東京に集うお盆まで、残り一週間あまりの朝、薄着ブタ女たちとハゲ眼鏡スーツたちがごった返す電車内で気になる女性を見つけた。彼女は40度に迫ろうかとする猛暑の中一人長袖のブラウスを着ていた。体臭に対して愚鈍な男と性に対して未熟な女がひしめき合う中、彼女は涼しい顔で座っていた。白髪の彼女はコクトーの詩集を読みながら同じ電車内なのに違う場所にいた。目が奪われた。彼女は末広町駅で下車した。僕は次の神田駅で降りなきゃいけないのに、直感で一緒に降りてしまった。明日からお盆休みだ。もしかしたら最初で最後の出会いになる気がした。

彼女は詩集を鞄にしまい、とことこと秋葉原の街を突き進む。暑さに負けず、爽やかな風を受け彼女は前に進む。10分ほど歩くと彼女は一軒のお店に入っていった。黄色く描かれた店舗名が記載されている大きな看板に目をやると、そこには「牛丼専門店 サンボ」と書かれていた。

魔法が解けた僕は携帯電話をみる。「08:18」ここから会社までは全力で12分。遅刻しないように
初めての全力疾走をした。


#12

揶揄よ

 東日本最大の遊園地『アミューズメントジャパン』のお化け屋敷は入場料として金やチケットを取らず、代わりに入場者が自覚しているコンプレックスやトラウマを一つ記帳するということが求められたので、私はジャイアンツの高橋由伸がホームランを打ったのを見て大はしゃぎしていたら父に「その由伸は偽者だよ。本当は由伸のぬいぐるみを着た種田仁なんだ」と言われて以来、野球が大嫌いになってしまったことを書いた。ユミと恵子は「あはは、意味わかんなーい」と言いながら観覧車の方に行ってしまった。その「意味わかんなーい」が私の事件の内容を指しているのかお化け屋敷のシステムについて言っているのかは分からなかったが、断りなく別行動をすることなど私たちの間では日常茶飯事だったので、私は気にしなかった。
 それよりも私が気にしたのは隆志が記帳した内容だった。その内容によれば、彼は毎晩9時から9時30分まで柔道着の上を着せたぶっとい丸太をバットで滅多打ちする日課を持っているらしかった。ストレス解消のためではなくて、服が憎くて仕方がないから服を痛めつけているらしい。なぜ服の中でも柔道着が選ばれているのかと訊くと、破れにくく長持ちするからだと答えた。なぜ丸太に着せるのかと訊くと、殴りやすいからだと答えた。
「なぜ服が憎いの」
「俺を不幸にするからだ」



 服がこの世になければみんな服を着ずに生活するから、みんな身体や性器を晒して歩くことになる。『身体を覆い隠す』ということが当たり前ではなくなるために、羞恥心もなくなる。「あいつ眉毛太いな〜」とか「眉毛繋がってるな〜」とか言うのと同等の語気で陰毛が批評され、性器が観察される。体育の時間などには女子が汗と共に股間から愛液を流し、グランドはムッとする性臭に包まれ、男子はそれを嗅いで陰茎を勃起させて100メートル走で射精する。なるほど、それが競馬であれば陰茎の長さも勝敗に関わってくる。「写真判定では陰茎をじっくりと観察しただろうに!」と呻いて隆志は受付の机をドンと叩いた。しかし人間の競走は競馬のように判定しないし陰茎も勃起させない。私がその旨を伝えると、隆志はもう一度机に握り拳を打ちつけた。


#13

スプーン曲げ

 グルグルと鳴る腹を抱えてそこいら中をグルグルとうろつき回り、何とか見つけ出したのが、グルグルめまいがするくらい不味い洋食屋だったりなんかしたときには必ず思う。
 スプーン曲げが、できたら。
 他の華々しい超能力なんかひとつも要らない。念動力も、テレパシーも、千里眼も、予知能力も。ただ、スプーンを曲げることさえできたなら。そうすれば僕は、目の前にあるこのステンレスのスプーンやフォークをひとつ残らずくねくねに曲げてやれるのに。
 僕はステンレスのスプーンやフォークをひとつ残らずくねくねに曲げて、満足する。しなびたいいかげんなサラダや伸びきった臭いパスタや沼から汲んできた泥水みたいなコーヒーを無理やり胃袋に押し込めなければならなかった、その果てしない苦痛のうさを、ものの見事に晴らすことができる。
 そうしてもし、僕がくねくねに曲げたステンレスのスプーンやフォークを店員が見つけて、ぼくがステンレスのスプーンやフォークをくねくねに曲げてしまったことをくどくどと咎めるなら、僕はそのくねくねに曲がったステンレスのスプーンやフォークを哀しげに見やって、やれやれ、僕が少し目をつぶっている間に、世界中のあらゆる所で、あらゆる良い物やあらゆる正しい事が、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまうんだ。僕はそういう事を非常に遺憾に思うけれど、残念なことに僕個人としては、物事がこのステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまうことに対して、何ひとつ手の打ちようもない。何せこの世界自身が、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていくことを望んでいるんだから。僕はただ黙って、このステンレスのスプーンやフォークや、この店のパスタやコーヒー(ここで店員をさり気なくちらとにらみ付けるのも良いかもしれない)のようにくねくねに曲がってしまった現実を、痛みと哀しみの内に受け入れることしかできはしないんだ。何もかもが、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまった。これからも全てが、僕の愛した世界のあらゆるものが、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまうのだろう。
 というような事をつぶやいて、寂しそうに、肩を落とした風なんかして、キイと鳴る扉を開けて、吹きすさぶ寒風の中に立ち去るんだ。


#14

擬装☆少女 千字一時物語4

「俺、もう女装はやめるから」
 お喋りの合間、笑いながら奴は突然に宣言した。当然、俺は驚いた。

 あの日、俺たちは彼女がほしいなとか言いながら街をぶらついていた。可愛いと思える女がなかなか見つけられなくて、俺たちの周りにはこの程度の女しかいないのかと毒づいたりしていた。
「お前が女装したほうが、よっぽど可愛いんじゃないのか?」
 この一言から、奴の女装計画が始まった。
 服を買って、靴を買って、障害者用の広いトイレを借りて奴は着替えた。
「うわ、結構イケてるじゃん」
「まだまだ、これじゃダメだな」
 奴の感想は俺のはるか上を行っていた。
 それから奴の女装計画は進化していった。冗談で言っただけであった俺は、たちまち置いていかれた。
 髪形を変えて、化粧をして、奴は何度も俺の前にその姿を現した。もはや、結構イケてると言って済まされる程度のものではない。こんな女がいたら良いなと、俺は奴と周りを見比べるようになっていた。否、それも今となっては正しくない。俺は周りよりも奴にばかり目がいってしまっている。
 奴が突然の宣言をしたのは、そんなときだった。

「そんなに驚くほどのことか?」
 奴は俺の顔を覗きこんだ。お前、今日も可愛いよ。
「おい、何か言えよ」
 両手を俺の肩にかけて、奴が俺を揺さぶる。実際は揺さぶっていなかったのかもしれない。しかし確かに、俺の心は揺さぶられていた。メリハリのある化粧、綺麗だよ。
「ここが限界だって思ったから、やめるんだ」
 俺から手を放して半歩間を取って、笑顔も収めて奴は言った。きょとんとした俺に奴は、理由、と付け加えた。誘いに乗って初めて女装をしたときの自分の姿が思いのほか良く思えて、どこまでやれるか挑戦したくなった。それで女装を繰り返していろいろと試していたが、いよいよ努力では超えられないところまで来たと感じたからここで打ち切りとすると言うのである。
「それだけ可愛ければ、良いだろう」
 つい、俺は未練がましいことを言ってしまった。
「おいおい。まさか俺に夢中になっちまったんじゃないだろうな。俺だって男だぜ。付き合うなら女にしたいな」
 怒るのではなく、笑顔を戻して奴は答えた。それは明るくて魅力的な、他人を惹きつける笑顔なのであった。その笑顔を前にして、俺の醜い妄想など、言えるはずもなかった。

 それ以来、俺は可愛いと思える女を見つけられていない。
 これは失恋と言っても良いのだろうか。


#15

スザンヌ・ヴェガ

 男が目を覚ましたのはもう正午を過ぎたころだった。アルコールがまだ残っていてやたらに口の中が粘ついた。隣には女が眠っている。男は女の手を取り爪を眺める。何も塗っていないその爪はとても健康的で綺麗な形をしていた。男は自分の爪を見てみる。爪先はぼろぼろでささくれだっていてそれは実に醜い代物だと思う。それが彼自身の姿だ。
 男の安アパートに入ると男はすぐにベッドに沈み込んだ。やがて規則的な寝息が聞こえてくる。女は書棚の多くもなく少なくもない本を眺めて男がどんな人間なのかを推察しようと試みるがすぐに止めた。ベランダには名前の知らない数種のハーブが植えられている。それらの葉末に指を添わせて爽やかな芳香を嗅ぐ。ベッドに入り男に背中を向ける形で横になる。ぼんやりしているうちにやがて眠りが訪れた。
 薄麻のような意識の中で身体は鈍重な鉛のように気だるかったが女に回した両腕の感触はとても柔らかくて心地が良かった。背中に鼻先を押し付けて匂いを嗅ぐと何故だか男はとにかく泣きたい気持ちに駆られた。そしてこの十年で自分は何を得て何を失ったのかを何とはなしに考える。日常の沢山のことが二十歳の頃とはまるで違う意味合いを帯びて男に問いかける。〈お前はこの十年で一体何をしたというのだ?〉と。一瞬不安に囚われると男はまた女の背中に身体を摺り寄せる。そこには生きている体温があってそして世界は男の意識とは関係なく充足していた。その匂いはかつてどこかで嗅いだことのある香りだと男は考えたがそれが一体いつどこでなのかを判別することは出来なかった。数週間後に男はその香りが母の匂いに似ていたと気付くことになる。
 男の気配を背中に感じながら女はうっすら現実の世界に覚醒していく、が眠っている振りをする。薄目を開けて男の回した手を見る。どちらかというとふっくらとした手だ。肉体労働をしている手ではないと思う。深爪で皮膚感は何となく幼くて成熟した男の手には見えない。手を見れば大体その人について分かると誰かが言っていたのを思い出す。目は訓練すればいくらでも嘘をつける。でも手は別物だ。それはその人物を確かに語る。女は父親のゴツゴツした手がとても好きだったことを思い出す。頬に触れられると硬くて痛いくらいのそのゴツゴツした手の感触。そこで女は突然思考を中断させきつく目を閉じる。
 変化が近くまでやって来ている。
「おはよう。君は誰なんだ?」


#16

女友達Sへ。

あのー、俺のこと安全パイとか、思ってる?
いやー、それは心外やねんけど。

だって俺、今はフリーなんやで?
襲おうと思えば、襲えるねんで?

そんな勇気は、これっぽっちもないけどな。
もう、ややこしい関係はやめようよ。
一線越えたら、あとあとしんどいやん?

だって、前はベンチに一緒に座るとき
間(ま)があったやん、微妙な間(あいだ)も。
あの付き合い始めた高校生たちが
「えぇー……うそぉ……何これ……」
とか言うぐらいの、恥らいの空間が。

今は、ピタッとくっついてない?
同時に座るし。
俺が心の中で「うおっ」とか言うぐらい
くっついてない?

横に移動したら、ヘタレと思われるから
このままの位置を必死にキープするねんけどな。

俺に、気ぃーなんかないやろ?
ヤバイでそれは。
かなりヤバイで。

気ぃー付けや。
何もせんけど。

俺は自他共に認める
やさしいだけがトリエの男やけど
やるときはやるで。

多分、やらんけど。
うん、それだけ。
おやすみ。


#17

深海魚

 驚くほど透明感がある。差し込む光は、海底まで一直線に届いている。クレパスを放り投げたような、色とりどりの魚たちは、自由に、それでも何かの法則にあやつられるように、列をなしてゆっくりと泳いでいく。物音ひとつしない世界。
 ここは、間違いなく『海』の中だ。神秘以外の言葉がみつからない。それでも僕は呼吸をしている。
 昔、大昔、人間は魚だったときいたことがある。だとすれば僕は、時空を超えて急速に退化したのだろうか? 呼吸はとまることはなく、どこまでも、どこまでも深いところまでいける。
 そうだ、マーメイドがいるはずだ。
 僕は岩影や、海藻のまわりをまわって、マーメイドを探しはじめた。黄色と黒のまだらな魚たちの群れが過ぎ去ると、目の前には、美しすぎるマーメイドの姿があらわれた。
 僕はマーメイドに手招きされるがまま、あとをついていく。もうどれくらい、深いところまできたのだろう。海底まで届いていた光の直線は、放つ光が弱くなってきている。けれどもおかまいなしに深く、さらに深くマーメイドはもぐっていく。
ついに真っ暗になるところまできてしまった。もうマーメイドの姿は見えない。声をだそうとしても海の中では意味がない。
あてもなく真っ暗なところを、マーメイドを探しながら泳いだ。かなり深くまでいったとき、ビー玉くらいの大きさでキラキラ光るものを見つけた。
 なんだろう? 僕は、ドキドキしながら光に近づく。光は大きさを増し、やがてトンネルくらいの大きさにまでなった。
 僕はトンネルに入り込みさらに奥へと進む。距離にして、結構な長さのトンネルを抜けたとき、急に呼吸ができなくなり、あともどりしようとしたが、振り返るとトンネルはもう消えている。後戻りできないのだ。僕は、苦しくてもがき続けたが、どうやら限界に達したようだ。
 そこからの記憶はない。できることならば、もう少し魚でいたかった。
 できることなら……。


#18

奇矯

 家に帰ったら空き巣さんがいた。
「誰ですか、あなた」
「見ての通り空き巣です」
 唐草模様のほっかむりに濃い髭。背負っている大きな風呂敷は、私の家から持ち出そうとしている荷物でぱんぱんだ。空き巣さんの表情は平静で、随分慣れているようだった。私はお茶を用意しようと台所へ向った。
「奥さん、お構いなく」
「いえいえ、折角来ていただいたわけですし」
「そうですか」
 空き巣さんは慎み深い。そういえば部屋を見渡してみても、物色された感があまりないように思える。プロってことかしら。が、私は奥さんではないのだ。
「奥さん、ねぇ奥さん」
「はい?」
「お茶いただいたらですね、私逃げようと思うんです」
「はぁ、そうですか」
 空き巣さんはなぜか服を脱ぎはじめた。荷物をよっこらせっと重たげに脇に置いて、首をこきこきと鳴らしている。
「逃げようと思うんですが、その前に奥さんの処女をいただきます」
 奥さんって言ってるくせに。
「確かに私は処女ですけど、そんなもの持ち帰れませんよ」
「まぁそうなんですがね、一応奪うって言うでしょう」
「でもそれなら私まで空き巣さんになっちゃいますよ」
「え?」
「私も空き巣さんの童貞を奪うことになるじゃないですか」
「いや、私は童貞じゃないのでその心配は無用です」
「あら、そうですか」
 食器棚の奥に煎餅を隠していたことを思い出した。以前、懇意にしている花屋さんからいただいた南部煎餅だ。ちょっと待っててくださいねと空き巣さんに言って、私はぱたぱたと煎餅を取りに行ったが、恥ずかしながら足がもつれて転んでしまった。その私の後ろに空き巣さんが迫ってくる。ああ、もうちょっと待ってほしいんですが。
「どこですか、私煎餅に目が無いもので」
「えっと、そこの食器棚の奥ですね」
「ああ、ありました。これですね」
 空き巣さんは嬉しそうに煎餅を取り出した。それを見た私も煎餅が食べたくなってきて、嬉しくなった。
「これね、ゴマがまたいいんですよ」
「空き巣さんなのに詳しそうですね」
「空き巣だからって煎餅に明るくないなんて、そりゃおかしいですよ」
「でも、空き巣さんだからって煎餅に詳しいなんて思いませんもの」
「そうですね」
「そうですよ」
「奥さん」
「はい」
「煎餅美味しいですね」
「ええ、本当に」
「湿気てなくてよかった」
「あ、ちょっとそれ私も心配だったんですよ」
 ゴマをたっぷり含んだ南部煎餅のぱりっと乾いた音が、静かな部屋によく響いた。


#19

Night Marchers

 神が『約束の場所』を空にこしらえてからもう三百年になる。
 その間に人類は背中に括り付ける小型ロケットを発明し、皆して空へと舞い上がった。ロケットが普及した頃といったらそれはひどい有り様で、昼夜を問わず人の迷惑かえりみず誰もが『約束の場所』を探して飛び回っていたという。当然のように事故や諍いが多発した。それを憂えた政府はロケットの使用時間を夜の九時から十一時までに制限する法律を施行した。すると、事故の数は減ったものの人々は指定された二時間を使い切らねばとやっきになった。
 僕達は町を見下ろす丘の中腹に寝転んで、ロケットがひっきりなしに飛び交う夜空を見上げている。今日も昼から雲一つない晴天で、群青色のスクリーンは無数の星に彩られてとても綺麗だ。
「ねえ、睦月」如月が言う。
「うん?」
「あそこの明るい星、見える?」如月は夜空の真ん中辺りを指差した。
「うん」
「あれとその真下と隣の二つを合わせると横向きの台形ができるでしょ」
「出来るね」
「それでね、反対側の二つも合わせると台形が頭くっつけたような形になるの。『青い蝶』っていう星座よ」
「それ、誰が考えたの」
「私」如月は得意げに微笑んだ。
「よくやるよ。大体青って」
「あの形を見つけた時ね、まだ日が暮れたくらいの時間で、空が暗くなりきってなかった。それで青く見えたから『青い蝶』って名付けたのよ」
「そっか」少し感心した。「如月はちょっとすごいね」
「ありがとう。まだ休んで行く?」
「うん、十一時まで寝てから飛ぶ」
 しばしの沈黙。世界はエンジン音で騒々しいけど、ここだけは静謐な空気になる。
 星の煌めきをバックにロケット同士がかち合っている。心底馬鹿らしく思った。今や空は空よりも人の占める割合の方が大きいくらいだ。『約束の場所』を探して燃料と時間の無駄遣いを繰り返す。そんな生き方って楽しいんだろうか。少なくとも僕の頭では理解できない。
「如月」
「はい」如月は丁寧に僕の目を見つめ返してくる。
「僕はさ、神とか約束の場所とか、そういうのってどうでもいいんだ」
 ただ好きなように空を飛びたいだけ。最後の部分は口に出さないでおいた。
「分かってる。ほら、もう寝ていいよ。みんながいなくなったら起こしてあげる」
「うん」
 頷いて目を閉じると、如月はいつものように口笛を吹き始める。口笛のメロディは心地良いうねりとなって僕を包み、ロケットの喧騒を別世界へと追いやってゆく。


#20

西瓜の迷産地

 仕事から帰ると身に覚えのない西瓜がいた。
 梅雨明けの蒸し暑い部屋に耐えられず窓を開けて扇風機をつける。学生時代から住んでいる部屋は今時風呂共同の六畳一間でクーラーも入れていない。当時から付き合っている彼女にそろそろ引っ越そうよと言われているが、さほど不便を感じないのでなかなか思い切れなかった。
 西瓜を前に胡坐してじっと眺めていると、濃緑ストライプの果実が二つに割れて、妙な生き物が現れた。白っぽいがま蛙に子どもの手足をつけたようなそいつは不吉そうな藪睨みで僕を見上げた。僕は西瓜をぽたんと閉じた。中で暴れる気配がするが僕は力を緩めず、頼むから消えてくれと祈り続ける。あなたってどうにもならなくなってもまだ誤魔化そうとするのよね、という最後の夜の彼女の言葉が耳の奥をこつんと叩いた。やがて動かなくなったので恐る恐る開けてみると、白いがま蛙は赤い果肉と黒い種にまみれてぐにゃりとしていた。さすがに気が咎め、抱き起こして身体を拭いてやるうちにそいつは息を吹き返し、青黒い顔色で僕を睨んだ。大した悪さのできそうにない風体に少し安心した僕は、背中をさすってやりながらごめんごめんと謝った。
 そいつも西瓜も気になったけれど、腹が空いていたのでコンビニのハンバーグ弁当を開けることにした。もそもそ食っているとそいつが口元の箸をじっと見るので、僕は弁当のふたに少し取り分けて押しやった。そいつは黙々と食べ始めた。あまりうまくはないけど我慢してやるかという表情だった。僕はビールを喉に流し込んだ。するとまた僕の口元を見るのでおちょこを出してビールを注いでやると、両手でくいっと開けて、甘い西瓜の匂いの大きなげっぷをした。テレビをつけると野球中継をしていた。僕はいつもどおり特に見るでもなく流したままビールを飲み、時々おちょこにも注ぐ。そいつはやはり大してうまくもなさそうにビールを空け、何度も甘いげっぷをした。青黒かった顔は赤紫色になっていた。
 トイレに立った隙に、そいつは部屋からいなくなった。割れたままの巨大な果実からうっすらとビールの匂いがする。野球中継はとうに終わって、扇風機の音がやけに響いていた。僕は急に彼女の手料理が食べたくなって携帯を取り出し、着信履歴の上の方に残っていた彼女の番号を押す。きっかり五コールで、二週間ぶりの不機嫌そうな彼女の声が、どう切り出そうか迷ったままの僕の耳をちくりと噛んだ。


#21

風に戦ぐ夏休み

 風が強い。
 公園のベンチに腰掛けた瞬(シュン)は、いたずらに揺れ踊る前髪をかきあげ、大通りを眺めた。カラオケボックス、レンタルショップに歯科クリニック…立ち並ぶいつもの店が、早い時間からシャッターを下ろしている。
“台風8号は依然、強い勢力のまま北東に進行中、住民の方は注意が必要です。以下の地域に警報が…”
 瞬はかすかに笑い、首からさげていたラジオの電源を切り、静かに目を閉じた。
 頬を撫でる風。遠くで何かが倒れる音。いつ降り出してもおかしくない雨の匂い。強い大きな力が段々と近づいて来る。
 世界が終末に向かっているような空気。
 湧き起こる焦燥感と緊張に、胸が高鳴る。
「そろそろ来るな、瞬」
 目を開くと、自転車に跨った達也がニヤリと笑っていた。夏期講習の帰りらしく、帆布鞄を肩からさげていた。
「遅い」
 瞬は不服そうに呟いた。達也が自転車から降り、肩を竦める。
「台風だから早めに終わって来てやったのに」
「武器は?」
「取りに帰ってる時間なんかない…オレの分も持ってるだろ?」
 達也がベンチの下を覗きこむと、瞬はかすかに頷いた。
 二本の金属バットを器用に足で引っ張り出し、一本を達也に手渡した。
「達也、その自転車は倒しといたほうがいい。一時間ぐらいで風がもっと強くなる」

 轟々と風が響き、木々が荒々しく揺れ、電線がうねる。
 瞬と達也は、転がってくるゴミ箱を蹴り、骨の折れたビニール傘を、バットで打ち落とした。駅前英会話のポスターが達也の顔に張り付こうとするのを、瞬が庇う。吹き溜まりのこの場所は、何が飛んでくるかわからない。酷いときだとペリカンの描かれた看板が大通りから、飛んでくる。
 台風が通り過ぎるまでの戦い。この場所で凌ぐ、ただそれだけ。
 通り過ぎるまで、そこにいられるなら、多少の擦り傷なんて気にならない。

 風が止みだした。
 瞬はゴミ箱を起こし、濡れた前髪をかきあげた。達也は自転車を立て、鞄をカゴに放りこんだ。
「最後に雨か」
「…問題集がずぶ濡れだ」
 二人ともシャツの裾を絞りながら、笑い出した。
 瞬が、ラジオのスイッチを入れる。
“台風8号は、先ほど日本海に抜けました。再上陸の恐れはなく…”
 台風一過。瞬は夜空を見上げた。
“次に、新しく発生した台風9号の情報です。大型の台風9号は、早い動きで現在、北上しており、明日にも本州に…”
 淡々としたアナウンサーの声に、二人は、ごくりと唾を呑みこんだ。


#22

作文貴公子

「それじゃあ次は、誰に作文を読んでもらおうかしら。」
 先生が教室内を見回す。こんなとき、普通の小学校4年生ならば、思わずうつむいたり、目をそらしたりしてしまうはず。しかしこの4年3組のみんなは、そんなことよりも、あいつの作文が、あいつの作文が聞きたくて聞きたくて優しくささやいてそしてkissして、であった。先生と、そして彼を交互にみつめる4年3組一同の表情は純粋である。
「じゃあ、次は、作文貴公子くん、読んでくれるかな。」
 今日も俺達の心の城を攻め落として。わずか2千の兵で攻め落として…。そんな目が今、作文貴公子に注がれた。作文貴公子はゆっくりと立ち上がり、静かに、教室から出ていった。これは作文貴公子が朗読をする前にフォーマルな服装に着替えるためである。その間じらされている聞き手たちの期待値、これをもしもスピードで現すとするならば、カーブを曲がりきれまい。やれるのか。読めるのか。おれたちの心揺さぶる作文、そんな作文を今日も放つことができるのか。できる。やってくれるはずだ。全身でできると語っている。ガララ… 今、戸が開き、作文貴公子が赤いシャツに黒いジャケット、そして胸元には400字詰め原稿用紙をさりげなく飾る、といったパリっ子御用達の服装で現れた。
 かさ、かささささ。 教室には、紙を広げる音しか聞こえない。そして、その中で、その中だけで、まるで広い大地にこだまする馬のいななきのように、作文貴公子の声が、TONIGHTこだました。
「『白と黒のラビリンス』4年3組 作文貴公子…。」
 斬新である。“将来の夢”という与えられたテーマが、どこか凡人には見えないスペースに収納された劇的タイトル。天才、と誰かがつぶやいた。
「僕の夢は、国宝を盗むことです。」
 しばらく、余韻だけが残された。

「大変だ! よく考えたら犯罪だ。」
「危ない、貴公子!」
 しかし、そんな心配は一切ご無用だった。このときすでに先生は耳栓をはめ、居眠りをしていたのである。もちろん、右手の親指はしっかりと垂直に立てられている。
「夢、つかみなさい。犯罪だけど。」
 泣いた。寝言に泣いた。
「今よ! 作文貴公子!」
「このぼくの国宝級の夢がもしも叶わなかったとしたら、それもまた国宝を盗むことになってしまう。そんな迷宮美術館に迷いこんでしまったよ。エンジェル。」
 涙を隠しながら、エンジェル関係ないけどな、と強がってみせた。


#23

メロン

 段ボール箱を抱え、男は電車を待っている。
 小雨がぱらぱらと降り続いている。
 電車を待っているのは男のほかにはいない。駅員が時折暇つぶしなのかホームへ出てホウキをばさばさと使い掃除をする。


「久しぶりだね」
 電車を乗り継ぎ、男は会いに行く。
 旧友は変わらず、男を迎えてくれた。
「見せておくれ」
 K・トモヂロウはそう言って男にその細い腕をすっと伸ばす。男は段ボールをがさごそやり出した。
「あなたは変わらないね」
 Kは言う。
「変わる気なんて無いのだろうね」
「あなたも、変わらない」
 男は段ボールから包みを取り出し、答える。
「そんなことない。僕は変わってしまったよ。みんな変わった。みんな変わっていく。君だけだね昔のままなのは。わあこれは良いね。凄く良い。こういうのはこの街では中々手に入らないんだ」
 二人は喫茶店を出る。ふらふらと街を彷徨い、ごみバケツを蹴飛ばしながら路地を抜け、二人は大きなデパートへ入る。
 エスカレータを二人並んで上っていく。
「さあ、これでどうだい」
 男は口ごもる。どう、って言われても。
「とても良いんじゃあないかと思うのだけれどね」
 書店に並んだ本の上に、男の作ったメロンが置かれている。
 Kが置いたのだ。
「悪くは無いね」
 男は辛うじてそれだけを答える。

「乾杯」
 レストランで二人は乾杯する。
「君という人間はいつまでたっても解らないね」
「何が」
「凄く、何ていうか、解らないよ」
 Kはそう言ってグラス越しに男を見つめた。
「君みたいな人が僕と付き合いを続けてくれて本当に有難く思う」
 儚げな首筋。細い手首。長い睫毛のついた瞼。それをゆっくりと動かして瞬きしながらKは男を見つめている。
「俺だって、お前が解らない。いや、解ることなんて他にもあまりない。俺はあまり頭が良くないから」
 手の触れられそうな位置にKが居た。
 触れたらどうなるのだろう。男は思う。
 きっと、壊れてしまう。太陽が砕け散るようにばらばらに、壊れてしまうんだ。男はそのように思う。
「乾杯」

 男はホームに降り立つ。帰り着いた時にはもう日が随分暮れてしまっていた。駅員に会釈をし、男は家へ帰る。
 帰ってからも僅かな光を頼りに男は畑に立った。鍬を持ち、大地へと打ち付ける。何度も何度も何度も。憎んでいるかのように男は鍬を打ち付け続ける。動けなくなるまで鍬を振るい続ける。
 そうしてそのまま、泥のような眠りの中へと男は落ちていく。


#24

停電ワルツ

「リパッティのショパン、最高なんだ」
勤めから帰った青年は、ビールを持ってスピーカーにかぶりつく。その部屋は木造でとても狭いアパートであったけれど、住人は彼だけなので真夜中でも音楽が聴けた。青年はリパッティのショパンを聴いていると心だけ湯船に浸かっているかのように和んで、その次に火照った心は今度は人肌を求めてなんだか物狂おしくなるのであったがその感情も含めて全体的な優雅さに聞き惚れた。できれば誰かと共感したかった。でも彼には友達も恋人もいなかったので、結局は一人心の中で、リパッティ最高だ、と思っては工場でくたくたな身体がやがて眠ろうと促してくるそのときまで黙って呑んでいた。



「あたしKの昇天が大好きなの」
「毛の笑点? なにそれ。マスター知ってる?」
「はい」
「なあ吉田、それ誰かいたん」
「梶井基次郎ってほら」
「ああ、変態レモンやな、あれか」
「Kって男がね、月の光に映る自分の影をみてるんだけどね、影が本物っぽく思えてきて、月に向って魂を飛ばそうとするの」「毛の笑点……やっぱ変態や」

ブックバーでは毎夜のごとく、この日も一組の男女が本を肴に飲んでいて、店主はシューベルトの「海辺にて」のレコードの後、ふとリパッティのショパンをかけた。



ショパンと聞く度に、K子の頭に思い浮かぶのは「奥様とショパン」「ショパン聞いてますの。おほほほほ」というフレーズで、それが彼女は好きではなくて、意識的にショパンは避けてきた。が、彼女にとってリパッティの弾くショパンは特別だった。ピアニストが自分の感傷ではなくショパンの詩を弾いてくれるのがK子には満足で、彼女のお気に入りはショパンが19歳でウブな若者で恋の告白すらできなかったころの作品69−2。これを聴きながらミルクティをいれて、この恋が叶わなかったのがいいわ、と思うのだった。



その晩、停電が都市を襲った。原因は操作ミスという他愛ないものでよかったけれど、数十分街が暗闇に包まれている間、青年・ブックバー・K子がそれぞれ聴いているリパッティの演奏は途絶えたのだった。

ブックバーでは蝋燭が灯されて、成り行きで客同士が蛍の光を歌いはじめ、酔払っていた吉田のツレが音頭をとった。K子は冷静にミルクティを飲みほしてソファに寝転んだ。青年は、窓を開け月を眺めた。光が青年を照らし、狭い部屋に大きな自分の影を映した。はは、はは、ははははは。笑い声は誰にも聞こえなかった。



#25

百万人の笑顔と僕

 「なあなあ、本貸してくれよう」
 そんな脱力を誘う声で僕に話し掛けてきたのは、学年一アホのお調子者と言われている青木だった。
 
 僕と青木とはそれまで話をしたこともなく、その上僕はトイレで用を足している最中だったので、ギョッと面食らってしまったが、青木はそんなことは構わず
「次国語じゃん。俺本忘れてきたんだよう」
などと言った。
 僕達の高校では国語の授業の始めに本を読んでいた。恐らく青木は、学年一読書家の僕なら多めに本を持っていると思ったのだろう。
「忘れてきたって……お前がいつも読んでるのは本に見せかけた漫画だろう」
僕は手を洗いながら皮肉を込めて言った。
「そうそう。その漫画を忘れてきたんだよ」
呆れ顔で僕は懐の文庫本を取り出した。【百万人の笑顔をつくる】が売り文句の、笑いを誘う小説だ。
「ほら、これならお前にも合うだろ」
僕は本を青木の胸元へグッと突き出した。
「これ……面白いのか?」
「ん……まあまあかな」
そうは言ったが、僕は実際この本を読み何度笑ったか知れない。まだ読みかけなので、できれば渡したくなかった。

 国語の授業が始まると、僕は斜め後ろに座っている青木がずっと気になっていた。というのも、もし授業が終わった後つまらなかったと言われて返されたら、と想像すると、不安で仕方がないのだ。自分自身が否定される気もする。だから僕は青木の反応に神経を集中させた。一応本は広げていたが、内容は全く頭に入っていなかった。

「くっ……」

その時、唐突に斜め後ろの青木は笑った! やはり僕の薦めた本は面白かったのだ。僕は何とも言えない不思議な気分になった。
 

 それ以来青木は本を読むようになり、僕にもよく「貸せ」と言った。そしていつの日か、僕がつい「作家を目指している」と口を滑らせたら、「読ませろ」としつこく言い寄ってきた。仕方なくひとつ読ませたところ、何故か続編をつけて返してきた。勝手に何をしとるんだと思いつつ読んだところ、僕のマジメな文章は最後の数行のために滑稽文章となっていた。そのあまりにエネルギッシュというか印象的というか、そんな青木の文章に僕は怒りを忘れてしまった。そして僕は「こいつには何か才能がある」とおぼろげながら感じた。
 あれから十年たった今、僕はエンジニアとして働き、青木は世間に大爆笑を巻き起こす作家になっている。どうやら僕は、勘だけは良かったらしい。

 しかし、僕もまだ諦めちゃいないぜ。


#26

 焼けぼっくいに火がついた、などというわけではない。もとよりそんないい仲ではなかった。恋人と別れたばかりの喪心とうらはらに、身体の裡に籠もった火照りを持て余した若い身体が、同じように疼きを消せぬ身体を探り当てたような、ただ互いの肉慾が融けあうだけの自棄糞じみた関係だった。倦くこと知らぬ色情に驚くでもなく、恋情とは無縁に、ただひたすらにまぐわい、貪り尽くせるだけ貪り合ったあの関係は、終わってしまえば、始めから何もなかったも同然で、互いに新しく得た恋人にそれを繰り返すことはなかった。
 数えてみればもう六年にもなる。お互い二十代も後半になり、そろそろ落ち着かなかれば、という時期に再びこうして身体を晒している。悪い男に抱かれた。魔が差した。そう自失した様子で口走る。もとからその気もなく、恋人との関係もうまくいっていたのに、何故身体を許したのかわからない。後味の悪さだけがただ残って、それがどんどん身体中に染み渡っていき、終いには何も感じなくなった。恋人との仲も駄目になってしまった。身体を撫で回す手を自由にさせながら女はそう云った。それなのに今何故こうしているのか。あの頃の心の裡とうらはらの尽きせぬ情欲を取り戻そうというのか。それとも自罰的な自棄なのか。
 されるがままに脚を開く女の股間に顔を埋めようとしたところで、こちらを見下ろすように見た女と目があった。
「あの男こそ悪魔よ、少なくともわたしにとっては」
 あるいはそうなのかもしれない。悪魔なんてものは誰に対しても悪魔らしく振る舞うのでなく、特定のある個人に対してのみ悪魔としての相貌を見せる。誰だって気づかぬうちに誰かの悪魔になっているのかもしれない。口に含んだ女の秘肉を、硬くした舌先で舐りながらそう思う。女は、感じない。何も感じない、と呪詛のように繰り返していたが、やがて濃く白濁させた粘液をトロリと溢れさせた。精液よりもなお濃いその粘液に女の云う魔を見た気がして、かんじない。なにもかんじない、という女の言葉がますます呪詛めいてくる。まるきりの自棄のようで、唇だけは避けていたと、見えていないはずの唇の動きが脳裡にこびりつき、その唇を封じてしまいたくて、片脚を持ち上げると、そこに首を突っ込むような妙な恰好で、女の陰唇にそっと唇を重ねた。
 それでもかんじない、と女の唇は確かにそう震えて、重ねた唇から深く身体の裡に染みわたっていった。


#27

教授とハローグッバイ

朝起きると君がいなくなっていた。
夜に汗をかいて下着がぬれていた。教授は一人でシャワーを浴びながら考えた。昨日まで確かにいたのに、どうしてだろうか。時計はとっくに11時をまわっていたがゆっくり朝食を食べる。時間には余裕がある。11:45の天気予報を見ながらシャツを着て、鏡の前でスーツを着、「よし。」といったのが教授の今日始めての発言だった。家を出る時にまた「行って来ます。」と独り言を言った。彼は青いサーブにのって大学にいく。着くまでずっと大きな音で90年代のテクノをかけ続ける。時々タバコを吸いながら。彼はパイプを愛用している。車を変えたばかりの頃、外車はひときわ目立つ気がして車から降りて構内を歩き出すと自分という人間存在が薄れていく様な気がしたことがある。今はもう慣れた。教授は気付いていないがそれは音楽のせいだったかもしれない。
「しないといけないところは全部終わりましたから。何をしましょうか。」
教授は美しい経済の話をする。美しい美しいと口癖のように言いながら。
何年か前の教え子が訪ねてきて話をする。京都には仕事で寄ったらしいが最近転職するかどうかとかで悩んでいるらしい。
「奥さんが亡くなられてから、何年でしたっけ。」妻が死んでからとっくに5年たっていた。「だいぶ前だよ。」「あ、雨が。」雨が楓並木を濡らしていく。アスファルトの道に染みができて、やがて道全体を覆うだろう。
「最近なんか見えちゃうんですよね。」教授は、妻の幽霊が?と聞き返しかけてやめる。「夢中になってるうちはいいんですけど、なんかふと我にかえるというか、客観的に見ちゃってるというか。あーあって。」ひときわ優秀だった彼の学生時代を思い出す。
「考えすぎでしょう。」
車が盗まれたので、教授は雨の中電車で誰もいない家へ帰る。


編集: 短編