# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | ある哲学者の余生 | 梗介 | 997 |
2 | 都内のうんこ | qbc | 1000 |
3 | 空き缶に満たされる君への想い | てふてふ | 983 |
4 | 魔法の言葉 | りうめい | 997 |
5 | TimeLine | 烏賊章魚 | 625 |
6 | ファニーゲーム | 公文力 | 1000 |
7 | 葬送 | 藤田揺転 | 1000 |
8 | ワクワクワールド | しけたおつまみ | 973 |
9 | 青春 | 奥村 修二 | 104 |
10 | ハーフムーンスライディングアタック | キリハラ | 822 |
11 | エスパーモノローグ | 笹帽子 | 1000 |
12 | 擬装☆少女 千字一時物語3 | 黒田皐月 | 1000 |
13 | 白い家から真っ赤なボートを見た | 三浦 | 929 |
14 | なるさわみなみというヒト | 心水 遼 | 1000 |
15 | あたためますか? | ゆたかめ | 989 |
16 | 象 | exexeb | 997 |
17 | シンポジウム | 小谷 | 506 |
18 | 墓標 | 紅 樹 | 423 |
19 | 電話 | 青いブリンク | 843 |
20 | クロメル・アルメル | (あ) | 1000 |
21 | 咲く手 | 宇枝 | 1000 |
22 | 足を揉む | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
23 | 道理が一つ。無理が二つ。 | 振子時計 | 1000 |
24 | 河童の顔 | 藤舟 | 1000 |
25 | 川辺 | ぼんより | 1000 |
26 | レモン | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
27 | またもやうんこの話 | 曠野反次郎 | 999 |
28 | 愉快なメタルフレーム | ハンニャ | 723 |
暑かった。
覆いかぶさるような陽光の中、目を覚まし、呻き声をあげた。太陽はすでに中天に達していた。妙にぼんやりしている頭はカーテンを閉め忘れていたからに違いない。ひとまず彼はそう思い、キッチンに行き、顔を洗い、コーヒーを淹れた。その後、家事を適当に済ませると、もう一度キッチンでコーヒーを淹れ、ベランダに出てそれを一口啜ると、そこで漸く人心地ついた。
ベランダの縁から身を乗り出し、思いに耽る様子で、ぼんやりと景色を眺めた。生活を決まった型に嵌めないことで、日々を長く退屈に過ごそうという彼の試みは成功しているようだった。グラスの中の氷を弄びながら、彼はまた思索を進めていった。
ふと、遠くから歓声が響き、彼の思索は中断された。球場の観客が六甲おろしを歌っているのだった。気付けばすでに空は緋色に染まり、歩道では学校や会社帰りの人間がまばらに行きかっていた。彼にはそれら全てが物憂げに感じられた。
この部屋に住むようになって十年たった今でも彼には、彼ら観客のことが理解できなかった。球場から歓声として届くいびつな狂気を、僅かに嫌悪してさえいた。
頼みもしないのにこの世界に産み落とされ、自らの意思に関係なく死んでいくこと。今、突然死んでしまうかもしれないこと。今、何の前触れもなく世界が終わってしまっても不思議ではないこと。あの観客達が人生で最も大事なことである全てのことから眼を背けながら、ただひたすら手の届かないものに熱中していることが不可解で、心の底から哀しかった。「お前たちはもうじき死んでしまうのだぞ!」と言ってやりたかった。彼は心底死を怖がっていたのだ。
そして、彼はまた考え始めた。この「私」が死んでしまうとは一体どういうことなのだろうか。死んで私は「無」になるのだろうか。永遠に「無」であり続けるのだろうか。いや、時間に空間的変化などありはしない、未来も時の流れも錯覚だ。……。
夜の帳が落ちる頃。彼は漸くベランダの縁から身を起こすと、それまで手に持っていたことを忘れていたのか、グラスをベランダの外へ落とした。宙に舞うグラスは闇の中で僅かな光を受けて煌くと、そのまま地面で砕け散った。
砕けたグラスの破片はただ「意味」でしかなかった。彼は歩道まで降りると散らばった破片を見詰め、「ああ、これが無なのだな」と思った。そして、その破片を残らず拾い集め、埋めてやることにした。
それで、彼は満足した。
君が死んでしまうなんて思ってもみなかった。
ただ丁度良く眠れない夜なんで君に布団の中で問いかけたことがあった。
男「あのさぁ・・・。」
女「なに?」
男「人って、死んだらどうなると思う。」
女「ええ!!何急に?・・・でも昔子供だった時に同じこと考えたことがある。死んでしまったらパパともママとももう二度と会えなくてもし生まれ変わりがあったとしてもパパとママとも他人になっちゃうんだぁなんて思っていたら眠れなくなくなっちゃってすごく寂しくて・・・。」
男「正解!!」(みのもんた風に)
女「なあに。何かのクイズだったの?」(笑いながら)
男「そんな時、どうして欲しかった?」
女は男の頭を両手で抑えて自分の胸元に黙って手繰り寄せた。
男は鼻をすすりながら嗚咽に耐えていた。
男「・・・正解・・・・」(言葉にならない声)
女「もうしゃべらなくていいよ。」
女も鼻をすすりながら優しく笑ってそう答えた。
優しい君の胸 温かい温もり。
男は熱海の海に数年ぶりに来ていた。女と出会って過ごした街だ。
寂れてしまったけど今思えばよくできた場所だ。
男は防波堤から海を眺め、一つの空き缶に執着していた。
雨が降ってだいぶ強く振って男は空き缶に聞こえるはずもない雨水がたまる音を聴いてそれを楽しんでいた。
いつか二人で熱海の花火大会を仕事をずる休みして観る計画を立てていたときにもああやって二人の間にジュースの缶が置かれていた。
空き缶に雨が満たされてゆく事は同時に自分の思い出も満たされていくようなそんな気持ちだったのかもしれない。
僕は馬鹿だ。君が死ぬことなんて知っていた。だってそういう病気だったんだもの。でも僕は君に卓越した人間なんだって思われたくてあんな失礼な質問をして君をもしかしたら傷つけた。
君との思い出が僕の中で先走ったら僕はこうするんだよ・・・。
男は立ち上がり今まで見ていた空き缶の方へと歩き出していた。
男は空き缶に満たされた雨水の重みを感じながら震える手でそれを口へと持っていった。
「こらぁ〜!!」
遠く後ろの方から声が聞こえた。
男はびっくりして空き缶を落としてしまった。
運命の何とか。遠く後ろの方では傘もささずに一人の女性が自分に向かって叫んでいた。
倒れた空き缶からは雨水に溶けたタバコのニコチンが毒々しくこぼれだしていた。
「正解!!」
男は声を枯らして精一杯の大きな声で女に叫んだ。
息子はプラスチックコップを両手で持って一生懸命ストローを吸っている。
あぶなっかしい手つきで今にもコップごとひっくり返してしまいそうだ。
私は温かい気持ちになって思わず息子の頭の匂いをかいだ。
ミルクの匂いがした。
一人でジュースが飲めるようになったのか。そうか。
息子の成長が見られるなら、元妻と月に1回顔を合わせることなんて大したことないと自分に言い聞かせた。
息子と来た初めてのディズニーランド。
ランチの予約までした自分がおかしかった。
息子はまだ小さいので、私は元妻の家まで迎えに行かなければならない。
『あなたは本当にお気楽よね。』と、いつも背中に突き刺さるような言葉を吐き出して私たちを送る。
私は短い時間を息子と一緒に、父親としてせいいっぱいの愛情で接しているつもりだ。
おいしいご飯、夢のひととき。
父親としてできることを一日に詰め込んでいるというのに。
先ほどのアトラクションは80分待ってようやく乗った。
その疲れのせいでぐずっていた息子だが、お子様ランチをペロリと平らげた。
さあ次は何に乗ろう?
人ごみの中を息子と手をつないで歩く。
歩くのもずいぶん速くなった。横顔は俺にそっくりだ。
「オジチャン、プーさんポップコーンが食べたい。」
オジチャン?
今、オジチャンって言ったか?
息子はじーっと見つめている。いや気のせいだ、とポップコーンワゴンに並び、プーさんの蜂蜜つぼの形をしたケースを買った。息子の首にかけてやると飛び跳ねて喜んだ。
短時間で乗れそうなアトラクションを探して歩いていると、通路脇に人々が席を取り始めているのが見えた。
パレードが始まるまではまだまだ時間があるようだったが、息子に目の前でパレードを見せてやりたい気持ちが先行し、待つことにした。
パレードがちょうどよく息子の前で停止し、クライマックスを迎えようとした。踊っていたキャストが最前列に座る子供たちに親しく話しかける。息子にも声がかけられた。
「ボクの願い事はなにかな?」
魔法をかけるダンスが終わると、ほーら魔法がかかったよと細い棒を鼻先で回した。
「まほう!まほう!ヨーイクシ、ヨーイクシ!」
息子はポップコーンケースを振って大喜びだった。周りの親たちも子供たちも楽しそうに笑っている。
「ヨーイクシ?ヨーイクシって何?魔法の言葉?」
「うん!ママがねいつもね、電話でね、ヨーイクシっていってるの。それがあればボクもママも幸せになれるんだって!」
彼は走っていた。
見慣れた町並みの中を、ただ無心に進んでいく。
東の海から8月の太陽が昇る。
彼は爽やかな朝露の匂いの中を走っていく。
誰かが彼に話しかける。
目の前を野良猫が横切る。
背後で妻に殴られた男が呻き声をあげる。
近くで電柱にバイクが衝突する。
そんなことは彼は気にしない。
公園を突っ切り、畑を跳び越し、気がつけば知らない道にいた。
けれど彼は止まらない。
風の呼ぶほうへ、ひたすら真っ直ぐ走り続けた。
蝉の声が響く。
気温が上がる。
彼はまだ走っていた。
真上には太陽が浮かんでいて、彼に蒸し暑い光を当てている。
焼けるアスファルトの上を、揺れる空気の中を、いつまでも彼は走る。
ビルの作る影の間を、都会の人間たちの僅かな隙間をすり抜けるように通り過ぎていく。
すでに彼の瞳には何も映っていない。
太陽が西に傾きつつあることも、彼は知らない。
主婦たちがその日の夕食を作り始める頃、
電車が部活帰りの学生たちでいっぱいになる頃、
彼は終わりの見えない一本道を走っていた。
雲が燃える。
茜色に染まった空が、少しずつ怪しげな紫に変色していく。
彼は疲れきって倒れこんだ。
広大な草原の真ん中、周りに人家はない。
彼が通ってきた道の向こうに、小さく街灯の明かりが見える。
風が、彼の熱を奪っていく。
・・・追いつけなかったか。
彼の呟きが、夜空に虚しく消えていった。
満天の星空の下で、彼は瞳を閉じた。
彼は、明日もまた風を追って走る。
僕とイオは6月の湿った部屋でピンチに吊るされた婦人用ソックスのように退屈していた。風呂を沸かしている間に二人とも眠っていたせいで気が付くと部屋の中には蒸気が立ちこめていた。慌てて風呂場を覗くと湯は沸騰せんばかりでグツグツと煮え立っていた。これだけ沸かせばいつものナメクジはもはや出てこないだろうな。乾燥麺を三袋分浴槽に放り込むと数分後には見事に麺が茹で上がった。粉末スープを流し込んだところでこんなに大量の湯に味が付くわけもなかろうとやめた。箸で長い時間をかけてざるに麺をあげると猫のスバルがもの欲しそうに僕を見つめているので麺をくれてやった。麺を咀嚼する彼女に気を利かせて先ほどの粉末スープを少しかけてあげると彼女は噎せてクシャミを繰り返した。
日が暮れかけた頃にミッチーとアイがやって来た。彼らも殺人的に退屈していた。イオはその頃には幾分意識を回復させつつあったのだが二人の登場を見て意識をニュートラルに保つことにしたようだった。全くいつものことだ。
冷凍庫一杯に入れておいたズブロッカを三本空けるとミッチーがゲームをしようと繰り出した。アイはへらへら涎を垂らしている。いつものゲームだ。僕はイオと二人で作った54枚のカードをミッチーに渡す。主語、述語、目的語別に18枚ごとに分けられたものだ。ミッチーとアイのを合わせて108枚。四人で公平にシャッフルするとゲームが始まる。割り箸での抽選の結果まずはアイからカードを選ぶことになる。
〈ミッチーが〉〈スバルを〉〈レンジでチンする〉
ごめん、家にはレンジはないんだ。僕は先日レンジを捨てていた。そうなんだ、良かったホントに。一瞬どうしようかと思ったよ、とミッチーはほっと胸を撫で下ろす。アイはそれを見てへらへら笑っている。
イオの番。
〈王貞治が〉〈北朝鮮を〉〈引退する〉
ミッチーとアイが舌打ちする。全然面白くねえと。3枚のカードとも偶然にも僕とイオが作ったものだ。僕とイオは無理して笑う。結構面白いじゃない、と。
僕の番。
〈アイが〉〈僕を〉〈平手で叩く〉
一枚目と二枚目のカードはミッチーとアイが作ったもので三枚目のカードは僕とイオが仕方なく作ったものだ。時々は叩くくらいは演出しておかないといけない。冗談ばかりでは彼らは認めてくれない。アイはへらへらしながら僕の頬を叩く。想像以上に脳が激しく揺れた。
さあ俺の番が来たな。ミッチーが鼻息を漏らす。フンガフンガと。
どす黒い感情が目の前で飛び交う。行き場のないあたしの心は、黒く、冷たく、沈んでゆく。
部屋に帰っても、逃げ場はない。過熱する怒号と、溢れる溜息に追いやられて、オーディオに救いを求める。
心を空っぽにして、イカレタみたいな音楽を注ぎ込んで、何も考えない。目を閉じて、何も見ない。息を吐いて、何も言わない。耳を開いて、でも、何も聴かない。まるで、死んでるみたいに。
死体には、葬式を。葬式には、葬送曲を。こんなチープなのはイヤ。もっと、夜の闇みたいに黒くて、鮮やかな死装束みたいに白くて、噴出す鮮血みたいに赤くて、死人そのものみたいに青くて、華やかに脳漿を咲かせてくれるようなやつが、良い。
CDを替えようとして、レンタルショップで借りたソレの返却日が今日までな事に気がついた。丁度良い。
凍たい心臓の言うとおりに、触った事も無いような、火花の様に過激で、どろりと陰鬱で、剥き出しの内蔵みたいに触感的で、ベットリ血糊のついたような、暴力の匂いのするジャケットのCDを一枚、手にとって、店を出た。
白い、白い太陽。青い空。白い雲。遠い青に浮かぶ、純白。
あったかい。ぬくもり。
ああ、あたしが逃げたかったのは、ここじゃない? 白い太陽、あなたはじっと、何を見ていたの?
あったかくて、やさしくて、おおきい。泣いちゃいたくなるような、大きいお布団みたいな、そんな陽光が胸に染みて、心の奥で凍っていた後悔と、少し、さびしさを、融かしだした。あたしは踵を返して店内に戻ろうとする。途端、鼻を突く、ヤニ色のにおい。出入り口の脇でタバコをふかす人。
最近嫌煙が流行り、だけど、あたしはこのにおい、キライじゃない。遠い記憶の中で抱きついた、父親の胸のにおい。懐かしいにおい。帰りたい家の、におい。彼はタバコを止めたけど、今あの家で、あたしの心は、昔の様に安らかには、眠れないの。
ああ、白い太陽。あたしを許して。
白い太陽。あたしはダメなの。
太陽、白い太陽。あたしには、逃げる所なんかないの。
白い太陽、白い太陽。だって風が、こんなに冷たいんだもの。
太陽、あなたは直ぐに沈んでしまうじゃない。
ねえ、あたしの夜には、一体誰が暖めてくれるの?
おねがい。焼いて。あたしを、この心を、さらけ出させるなら、いっそ全部灰にして。真っ白な灰に。
白い雲、あたしを閉ざすなら、おねがい、やさしくして。葬送曲は、準備したから。
ワクワクワールドの園内循環バスは三十分に一度動き出す。
ふと何か思いついたように突然動き出す。
ぐねぐねと曲がり道を行き、展望台のついている中腹部で少し休憩すると、あとは慣性にまかせながら、ゆっくりと降りてくるのだった。一周するのにだいたい十分もあれば事足りる。ワクワクワールドはとても小さい。
ワクワクワールドは山の上にあった。都会の中であまった土地というのはそんなところばかりだった。そこに小さな動物たちをはめこみ、すぐ横に小さなゴルフ場を作った。そしてその間に展望台が備え付けられた。
週末には中年の男性のグループが併設されているゴルフコースへと押しかけたが、ワクワクワールドのほうはがらんとしていて、動物たちの鳴き声と園内循環バスのエンジン音だけがひびいた。
ワクワクワールドは入園客が少なかった。動物達だけがただ毎日をぼうっとして暮らしていた。彼らは時折くる入園客を喜ばせたり楽しませることなど覚えなかった。ただ毎日飼育係に与えられたエサをむさぼるだけで、それしか知らなかった。
ある日、園内をけだるそうに巡回するバスが消えた。バスに親近感を覚えていたうさぎのさくらんぼはとても胸が苦しくなった。
またある日、園内が一斉にきれいになった。
係員がぼうぼうに伸びている草や木取り除き、そこらあたりに落ちている動物達の糞もかたづけてしまい、小屋はホースできれいに汚れが落とされた。そしてそれらの作業が終わると、係員は道具を車につめ、消えていった。
動物達は自分のにおいが消え、驚き、慌てふためいた。
ロバのケンキュウネッシンなどは糞尿をたらしながら歩き回っていた。
子豚のユキにいたっては小屋でしくしくと涙を流していた。
いたちのりんごは丘の芝生の上でじっと動かなくなった。
うさぎのさくらんぼはただ、神経質に小屋のはしからはしを行ったり来たりしていた。
そしてその次の日。
ワクワクワールドに初めて雪が降った。
うさぎ小屋からうっすらと深夜から降り積った。いたちのりんごは雪が降りだすと、あなぐらに戻り、それっきり出てこなかった。子豚のユキは降ってきた雪を見て泣くのをやめ、したを出して、雪がその上にのるのをじっと待った。
ロバのケンキュウネッシンの鼻の上にはらりと雪が舞い降りた。
けれど、ケンキュウネッシンはぴくりとも動かなかった。
「みんな消えてしまえばいいんだ」君はそう言ったが、実際にそうなると、君はもうどうすればいいのかわからなくなった。
「もう死んでしまいたい」その後、君はそう言ったが、君を殺してくれるものは何ひとつ残ってやしない。
月齢七.五、一月の終わりに校庭の門を乗り越え夜の学校へ侵入すると、君は屋上に立って何かを見上げていた。半月の光に照らされてすらりと伸びたその影を見て、ぼくは弾かれたように走り出す。君はぼくの動きに気付かないまま膝をすっと曲げて筋肉に意思を走らせるとそのまま夜空へ飛び込んで行く。
君との距離は高さ十五メートル幅十メートル。間もなく三角形の鋭角は臨界点に達する。放物線の頂点で一瞬静止した君はまるで絵の一部になったよう。けれどそのポートレートはすぐに消えて引力が君の身体と手を繋ぐ。始めはゆっくり、半秒もすると疾風になって、校庭の砂利に向かい君は降下して行く。ぼくは身体に鞭を入れて更に走るスピードを上げる。
四階から三階へ降りて行く君の姿が窓ガラスに投影されては消える。加速度のついた小さな身体に迷いは微塵も無い。顔は見えないけれどきっと穏やかなんだろう。ぼくは、その平穏を邪魔してでも受け止めてやろうと思う。三角形は二等辺に近くなり、ぼくの頂点が鋭角になり、平べったく潰れて君の身体を壊そうと企み始める。
君が二階に差し掛かった辺りで間に合う事を確信して軟着陸を成功させるため最後の仕上げに入る。左足を水平に差し出して半月型に回り込むようなスライディングを決めて、背中を砂で汚しながら君の真下にクッションをくれてやる。
衝撃が走って目の前に星が飛んだ。そして君がぼくの上に折り重なって倒れたことを知り安堵する。それと一緒に腕と足と肋骨とどこかが砕ける感触が全身に伝わって、痛みとカタルシスの合間に放られた自分が何者なのか見当識を失ってまた視界が星に覆われる。
一瞬君の顔が目に入った。呆気にとられた表情は愕然としたものに変わり、それでも慌てて携帯か何かを取り出そうとしながら僕に声をかけてくる。僕はその顔がすごく可愛いなんて思いながら気を失って、それからぼくと君はまだ出会ってもいないのに、夢の中で君に叱られている。起きたら何かあるのかな。
私は超能力者だ。読心術もできるし瞬間移動もできる。スプーンはいとも簡単に曲がる。
私は毎朝6時きっかりに清々しく目覚める。というのも、私は毎日寝る前に「私は明日の朝6時に清々しく目覚める」と予言しているからだ。私の予言は外れない。目を覚ますと、今日一日何が起こるかを予知する。私の予知能力を持ってすれば、24時間の間に何が起こるか、確実に知る事ができる。今日は客が18人と、雑誌の取材の申し込みがくるようだ。それ以外はいつもと変わらぬ一日のようである。取材は鬱陶しいので、記者の気が変わって取材を取りやめるようにしておく。他人の心を読んでそれを書き換えるなど、容易い事だ。
客というのは、私に占われに来る客の事だ。私は占い師をしているのである。もちろん、物体を出現させる能力を使えば、札束でも食べ物でもなんでも出せるから、仕事などする事なく生活できる。だが、それではつまらないのだ。かといって、例えばFBI超能力捜査官みたいな仕事をするのは、目立ちすぎて危険だ。テレビに出るのもいけない。超能力者が世界で私一人とは限らないし、他の超能力者にライバルとして狙われたら大変だ。だから、細々と占い師をしている。
私は、客たちの相談を聞いている間、客の心の中を覗き見て楽しむ。数奇な人生を覗くのは、まるで小説を読むかのようだ。犯罪者、不倫中の妻、大富豪、等々。それは空想的でかつ現実的な小説である。もちろん、そういう面白い人生を送っている客しか来ないようにしている。ありきたりな人生など見たくはない。
私は客の未来を予知してアドバイスする。あまり当たりすぎてもいけないので適当に嘘も言う。だがそれでも普通の占いよりは当たるようで、大々的な宣伝は阻止しているというのに口コミで客が少しずつ増える。今日は18人も相手するのは面倒なので、5人に減らしておこう。つまらない奴を選んで、気を変えさせるのだ。占いなんて、くだらない、と。
だが私は時々不安になる。いつか突然、この能力が消えてなくなったりしないだろうか、と。もしそうなったらどうやって生きていけば良いのだ。生まれてからずっとこの能力で生きてきたというのに。そんな恐怖を想像すると、焦燥感が足下から襲ってきて私の胸をつつく。そういうとき私は、「不安は消える」「私の能力は永遠に続く」と、能力が消えてしまわないうちに早口で予言する。私の予言は外れた事がない。
―――妖怪は、その正体を知られると力を失う。
それは、始めはほんのお遊びのつもりだった。ただちょっとだけ、そんな遊びをしてみたかっただけだった。すぐに終わることと思っていた。
バレたらやめる、そう決めて始めた女装だった。それなのに未だ誰にもバレずにいて、もう幾度目かのお披露目となっている。今日は白いTシャツの上に薄手のノースリーブのワンピースを着てみた。手入れを怠って外跳ねしてしまっている髪が、かえって飾り気の薄い服に合っているかもしれない。
かごバッグを提げて、ウィンドーショッピングと洒落込む。もっと面白そうなものを探して挑戦してみようかとも思う。しかしたった一度になるかもしれないと思うと、やはり買う気にはなれない。
こうしている今が、楽しい。いつバレるかもしれないというスリルもあるが、それだけではなくて、ファッションをいろいろ考えてみることが純粋に楽しい。女の子にはそういう楽しみがあって良いなと思うと、やはりバレるまでは続けてみたい。
「ちょっと、待って」
次の店へ行こうと一歩を出した瞬間、少年の声に呼び止められた。でも大丈夫。前にも声を掛けられたことがあったが、適当に切り抜けることができた。言葉を少なくしていれば、きっと今回もバレずに済む。
振り向くと、少年はいきなり身を乗り出して顔を近づけて、上目遣いに見てきた。まだ何も言わないうちに、いきなり何なのだろうか。
「可愛いじゃない、少年」
終わった。すぐに終わるはずだったことなのだが、こうなってみると残念でならない。調子に乗ってヒールのやや高いミュールを履いてきたことで、歩き方がおかしくなってしまっていたのだろうか。浮かぶのは後悔ばかりである。
「どうして、わかった?」
「どうしてって…、ただ何となく」
何となくで終わらせられることが悔しくて、表情が歪んだ。
「そんな顔するなよ」
少年は顔を離して、苦笑いをした。
「変だなんて思ってないからさ」
―――正体を知られてしまった妖怪の運命は、それを明かした者に委ねられる。
それから。少年に説得されて、今でも女装を続けている。他人の意思に従わされる屈辱。楽しみが続けられる嬉しさ。少年を巻き込んだことでより完璧を期さなければならないこと。それらがさらに女の子らしさに磨きをかけている。
それでもまたバレてしまったときは、どうなってしまうのだろうか。今はまだ、そのことは考えたくない。
入って行った白い家は、赤い床と白い壁でできていて、扉がなくて、やたらと部屋が多くて、一階建てで、そして何もなくて、けれど、誰かが住んでいる雰囲気があった。屋根はなくて、白く霞んだ空が切り取られ、視界の端に黒雲が忍び寄っているのが見えた。
「今夜は嵐になりますなあ」
と、私は言った。
「冷たくて気持ちいいですねここ」
と、赤い床に寝転がったまま、漁師が言った。
「そういえばむしむししますね」
「あれを見てください! あー、だめだ、間に合わなかった」
「何です」
「今ちょうど鯨の形に雲が」
「ほう」
「鯨は立派な生き物ですよ。食べたことあります、鯨?」
「いいえ、私はまだ」
「私だってありません!」
「おいしいんですかね」
「何が好きですか、食べ物では」
「フルーツ、ですかね」
「南国にはよく行かれるんですか」
「いいえ、一度も行ったことはありません」
「それじゃあ、林檎は好きですか」
「特にそれだというわけではありませんが、好きですよ」
「私は魚が嫌いなんです」
「漁師なのに」
「ええ漁師なのに」
「大変でしょう」
「ものは考えようです。嫌いだから、たくさん殺すのです」
「そういう考え方もありますね」
「林檎食べます?」
「いただきます。実はずっと喉が渇いていたんです」
「私、漁師に向いていないんです。本当は、教師になりたかったんです」
「(むしゃむしゃ)」
「食べることに夢中にならないで!」
「(むしゃむしゃ)すみません」
「あれは私が八つの時でした。学校の宿題をやってこなかった私は、若い担任の男の先生に強く叱られました」
「ほう(むしゃむしゃ)」
「私は宿題を終わらせ次の日に臨みましたが、担任の先生は学校に現れませんでした。同僚の女教師と駆け落ちしたのです。あなたがその先生ですね」
「(ごくん)ひさしぶり」
「お久しぶりです」
「彼女とは離婚したんだ」
「他に女ができたんですか」
「違う! むこうが男をつくったんだ!」
「その相手が私だったらどうします」
「え」
「その林檎が毒林檎だったらどうします」
「え」
「言ってみただけですよ」
「……」
「あら、嵐になりそうですね」
「確かに」
「それでは漁にゆく時間です」
「ここで待っています」
「では」
「また」
荒れだした海を、一艘のボートが進んでゆく。真っ赤なボートが。
成澤南は恋をしているらしい。恋にも色々な形があって、僕は否定も肯定もする気はない。
彼女は金曜の夜になると僕に電話をしてくる。
「あっ、アジロ! 今夜暇?」
「暇だけど・・・アジロって呼ぶのやめろって」
「いいじゃん! 大学時代からのニックネームなんだから」
「だってうちらもう35だぜー」
「ばっかだねー相変わらず。あだ名に年は関係ないっつーの」
網代晋平は親をうらむ。
「でさ、どこいきゃいいの?」
「いつもの店で待っててよ。たぶんあたしの方が遅くなるから」
「じゃー1階の奥にいるよ」
電話は一方的に切られた。
南の恋人には奥さんがいるらしいが、彼女はそんなことは気にしない。まぁもともと本人が奥さんだったことがあるのだから大人の情事を心得ているのだろう。つまり僕は彼女が暇になったときのスペアーということになる。
彼女にたった一度だけそんな恋はやめたほうがいいと、本気で怒ったことがあったが、彼女には犬の遠吠えくらいにしか聞こえなかったのだろう。
「なぁ、そんな奴を愛するのはやめたら」
「そうだよねー、うんうんわかるわかる、アジロが言ってることは」
「だったら・・・」
「まあまあ。アジロは人を本気で愛したことある?」
「・・・本気って?」
「本気は本気よ。他にいいようがないわ。ん〜つまりひたすら愛するマリア様ってとこかな」
「マリア様?」
「そっ、マリア様。何も求めず、何もひがまず、ただ与えるだけの愛。見返りなんかは気にしないの。愛している人を見るだけですべてが満たされるの」
「そんなのは一方的な愛っていうんじゃないの?」
「考え方次第よ。確かに一方的かもしれない。でもそのうちね、人を本気で愛するってこういうことかって気付く瞬間があるわ。そこまで行くにはかなりの信念と我慢や、相手への迷惑もあることはわかってる。でもね、相手のはにかんだ子供のような笑顔をみたときにすべてを許してしまう、許せてしまうんだな・・・まっ、アジロにはまだまだ先のことか」
それから僕は彼女の恋を否定することをやめた。確かに淋しそうな顔もよく見るが、うれしそうな顔をしているときはすべてが満たされている瞬間なのだろう。僕も本気で人を愛してみたいと思ったのは、南の話を聞いてからだった。
「へい! らっしゃ〜い」
南だ。今夜はうれしそうな顔をしている。何かいいことでもあったのだろう。
「まずは生ねー!」
彼女の横顔がマリア様に見えた瞬間だった。
「あたためますか?」
ボクの脚は関節に逆らうことなく折り曲げられる。
腕はその脚を抱えるように、そう小学校のグラウンドで見かける“体育座り”の格好になる。
“体育座り”のボクは、何かを温めるために作られた“箱”に入れられる。
スイッチが押されたのか、ターンテーブルが回り始める。
今までボクを表す単位は、センチメートルとキログラムだったが、この“箱”は、もっともっと小さなボクの単位を震わせだす。
ゆっくり震える。ブルブルではなく、フルフルと。
フルフル・・・フルフル・・・。
意識が遠くなる・・・。
フルフル・・・フルフル・・・。
眠い・・・。
フルフル・・・フルフル・・・。
声が聞こえる。
どこかで聞いたことのある声。
一人は女性で声が体全体に響いてくる。
もう一人は男性、少し遠くから聞こえてくる。
フルフル・・・フルフル・・・。
声と一緒に音楽が聴こえる。
どこか遠い昔に聴いたことのある音色。
フルフル・・・フルフル・・・。
声は、さらに響きつづける。
楽しそうに響きつづける。なにが楽しいのだろうか。
フルフル・・・フルフル・・・。
フルフル・・・フルフル・・・。
意識がさらに遠くなる・・・。
フルフル・・・フルフル・・・。
眠気も強くなる・・・。
フルフル・・・フルフル・・・・・・ブルブルブル・・・。
突然、回転のスピードが上がる。
聴こえてくる声が増える。
男女の区別もつかない。
直接響いていた声はうめき声に変わる。
ブルブルブルブル・・・。
苦しい。
“箱”の中が窮屈になる。
苦しい。
ブルブルブルブル・・・。
“箱”から“管”へ体が追いやられる。
今まで感じたことの無い力で体が外へ追いやられる。
苦しい。
ブルブルブルブル・・・。
外。なぜ外だと思うのだろう。
ブルブルブルブル・・・。
感覚が蘇る。覚えている。前にもこの力を感じたことがある。
ブルブルブルブル・・・。
そうだ、産まれるんだ。これからボクは産まれるんだ。
力がボクを押し出そうとする。
苦しい・・苦しい・・・光が近づく・・・光が大きくなる・・・同時に意識が戻ってくる。
「ドクン!」
一秒前に地面に叩き付けられた衝撃と同時に赤い水溜りがボクの目に映る。
体が震える。
ブルブルブルブル・・・。
赤い水溜りの中で、センチメートルとキログラムのボクに戻る。
“そうか、産まれるために逝くのか・・・”
そんなことを思いながら最後になるであろう言葉をしぼり出す。
「あたた・・めてく・・・ださい」
休日で特にすることはなく、天気がよかった。せっかくのいい天気を部屋でゴロゴロして終わらせるのも、もったいない。コンポにブランキージェットシティのCDを突っ込んで、ランダム再生。どこに行こうか考えていたら、「ガソリンの揺れ方」が流れてきたので、近所の公園に行くことに決めた。「ガソリンの揺れ方」にそういう力があるのかもしれない、偶然かもしれない。
その公園は住宅街の中に唐突に現れる、あのよくあるやつで、ブランコと砂場、水飲み場、どう遊ぶのかよく分からない動物のオブジェ(カバ、パンダ、ウサギ)があった。僕が子供のときから変わらずに、無機質な住宅街の中の誰もとどまることのないオアシスとして、公園はあった。ここにあった変化といえば、子供たちが遊んだからではなく、たんに雨風にさらされたせいで剥げた動物たちのペンキが何度か塗りなおされたことくらいだった(そのあいだに僕は、義務教育を終え、高校をでて大学へ行き、同年代の平均くらいの恋愛を経て、それなりの変化をした。と思う)。
公園について、驚いた。こんなに小さかったっけ。入り口の車止めポールの横に立ったまま、少しの間、公園全体を眺めていた。それから、向かい合って腹ばいになっている動物たちの横を通り過ぎ、ブランコに座って、ポケットからタバコを取り出した。そこまではすごくスムーズにいっていたのに、僕はここで致命的な失敗を犯した。ライターがなかった。
なんてことだ ライターが ない。
僕は片時もタバコを手放せないヘビースモーカーという訳ではない。ただ、時としてこういう些細な、しかし流れの中で確実にあるべきステップ、動物園に行ったら象を楽しみにするようなステップを踏み外すということは、あるべきではないのだ。それは流れの中に一瞬の間隙を生み、そこに無意味が入り込んでしまうのを許す。自分の意思の外の無意味ほど、最悪なものはない。
僕はとにかく、無意味を追い払わなければいけなくなってしまった。あぁ、こんなことなら部屋から出ずに寝てれば良かったんだ。赤毛のケリーと踊ってれば良かったんだ。砂場に入り、中で半分埋もれていた小さなスコップの砂を払った。砂場のだいたい真中をスコップで掘り始めた。洋ナシのゼリーに撫でられるような感触が背中に迫ってきていた。僕は穴を掘り続けた。あぁ、ちくしょう、赤毛のケリーと踊ってれば良かったんだ。僕は穴を掘り続けた。
司会「それではここにいる特許の専門家がみなさんの質問に答えます。」
宗教家「神様が世界を作ったとき、特許などは取らなかった。それなのに人間は蚤のような発明で特許を取る。これはどういうことなんですか?」
専門家「それは・・・あれですよ、人間は神様ほど偉大じゃないからですよ。人間に神様の真似はできませんよ。」
宗教家「まるでわかっていませんね。私は何も神様の真似をしなさいといっているのではないのです。特許から入る一部のお金を社会のために使ったらどうかといっているのです。」
天上
天人1「人間もああいっているんだ。我々にも人間のような生き物を作らせてもいいんじゃないか?」
神「だめです。」
天人2「それは納得ができない。なぜお前だけが神と呼ばれ、崇拝されるのか!我々にも神になる権利はある!」
神「神は一人だから神なのだ。もし、お前が神になり、その崇拝者が地球の人間に会ったらどうなるのだ。わしの権威が落ちるでないか。」
天人2「独占禁止だ!お前が先に崇拝者を作っただけじゃないか!特許はもう時効だ!」
悪魔1(欠伸をしながら)「まだあんなことをいっていますね。話がとんと進みませんよ。」
悪魔2「仕方ないさ。神は嫉妬深いからな。」
まるで墓標だわ。
ふと、そう思った。
灰色のコンクリートの壁。
四角い見上げるほどの大きさのビル。
デパートの一角。人気のない裏側。
よく見ると他の棟に比べて、少し新しい感じがする。
一年前に火事が起きた。この棟はほぼ全焼だった。
死傷者二十三人。その内、警備員を含む従業員三名が死亡。
原因は、客の残した煙草の不始末。
火災報知器もスプリンクラーも正常に作動し、従業員の避難誘導にも問題はなかった。
それでも、従業員三名が死亡。
すべては不幸な偶然の重なりだった。
それも、すっかり再建されて、今は覚えている人もいない。
その日、あの人は警備員をしていた。
「じゃ、行ってくるから」
そう言って家を出て行った。
2階であがった火の手は、またたくまに棟全部に燃え広がった。
あの人は、8人の買物客を誘導し、本人は帰ることはなかった。
その買物客からは、いまでも時々手紙が届く。
「大丈夫、元気だよ」
私は、そう囁いて、そっと抱えていた花束を置いた。
大学から帰宅しベッドに倒れこんだ。目的のない日々の繰り返し。無意味に疲れている。このまま眠ってしまおうか。それでも胃袋だけはせっせと動いているようだ。のっそりと起き上がり台所に向かう。
−トゥルルルルルルルルル!−
けたたましく電話が鳴った。
「もしもし」
「あっ、あんた!いるの!?いるならでなさいよ!」
母さんだ。
「母さん3分置きに電話してたのよ!なんででないのよ!3分間でけっこうなことやったわよ!」
「今帰ったんだよ」
「また始まった〜。すぐうそつくのはあんたの悪いくせ!母さんすぐわかる。」
「ほんとだよ。なに?」
「あんた、野菜とか食べてんの!?バカになるよ!」
「はいはい。食べてるよ。うるさいな」
「うるさいなってあんたは!母さん心配してあげてるのに!ほんとそういうとこかわいいわね。料理とかちゃんとしてるの?」
「してるよ」
「そうなの?母さんあんたに手料理つくってあげられない悔しさで歯ぐきから血がふきだしてるわよ!ほんとに。じゃあ気をつけてやりなさいよ!」
−ガチャ−
切れた。気をとりなおしてめしを食おうとしたその矢先
−トゥルルルルルルルルル!−
「もしもし」
「母さんだけど、ちゃんと勉強やりなさいよ!」
「わかったよ」
「ほんとあんたはやればできるから。ほんと尊敬するわ…。やりなさいよ!」
「あー、わかったよ!」
「これガチよ!」
「わかったよ。他に用は?」
「ないよ!じゃあきるわよ!ほんとそういう憎たらしい態度がまたたまらなくかわいいんだからこの子は!それじゃあね!愛してるわよ!」
−ガチャ−
ふー、と一息ついたその矢先
−トゥルルルルルルルルル!−
「もしもし?あんたを腹を痛めて産んだものですけれども?あんたね、ちゃんと自立して将来のこと考えなさいよ!母さんもう更年期障害になりましたからね!面倒みきれないわよ!」
「わかったよ」
「頼むわよ!じゃあ愛してるからね!あんたも愛してんの?母さんその沈黙は愛してるととるわよ!じゃあね!」
−ガチャ−
やっと終わった。ほんとしょうもなくかわいい親だ。
昔好きだったこともある畑から電話があって、久しぶりに会おうと誘われた。友人の森も来るらしい。よく目的がわからなかったが私は男達と会うことにした。でもまさか、フリルだらけの服を着た店員がいるカフェに連れて行かれるとは思いもしなかった。
周りの様子を窺いながら注文を済ませた。
「ねえ、本当にここに来るのが目的だったの?」
店員が去った後、私はテーブルの向こうに座る二人に尋ねた。畑は煙草を弄びつつ、
「実は森と組んでお笑いを始めたんだ」
と答えた。
「は?」
「後で俺の部屋かどこかでネタを見てもらおうと」
「じゃ、この店に来たのは?」
「これもネタになるかなって」
森が言う。
私は無性に腹が立ってきた。
「何それ。お笑いってもっと厳しいと思う」
実際のところは知らないが私は断言した。
「後でって何? 今できないわけ? 見なよ、店員だって一生懸命演技してるじゃん。本気ならここでやりなよ。芸人になるんでしょ」
遠くから眼鏡の男が私を睨んでいる。店員のことを演技と評したのはやばかったか。構わず続ける。
「名前は何? ユニットの。決めてないの?」
畑が答える。
「『サーモカップル』」
「何それ。まあ……はい! 次は『サーモカップル』です!」
私がそう促すと森は覚悟を決めたようで、立ち上がり、
「森クロメルです」
と言った。今のお笑いって名乗るんだったか?
「畑アルメルです」
「クロメル、アルメル、クロメル、アルメル……」
二人は唱和している。そして、
「サーモカップル!」
と叫ぶと、畑は手を上に伸ばし体をくの字に曲げた。森は反対向きのくの字。上部で二人の手が、下部で足がそれぞれ接した。
こんなことになるとは……私は悔いた。他人と目を合わせたくなく、やるせなく二人を見ていた。
やがてフリルの店員が注文を持って来た。男達は大人しく座る。
紅茶を並べる最中、突然彼女は、
「『サーモカップル』は熱電対のことでしたでしょうか?」
と言い出した。でも二人は無言で頷くだけ。もうだめだ。
「やっぱり色んな客が来るんですか?」
仕方なく私は聞いた。ねつでんつい、なんて知らないから答えられないし。
「ええ、いらっしゃいます。でも……」
フリルは言葉を切り、顔を上げて真直ぐこちらを見る。
「トリオで漫才された方は初めてですわ」
そして微笑んだのだ。
いや、三人でやるんだったら、もう一人はあんただよ。
もはや私はそう思わざるを得なかった。
僕はある日、庭の隅の方に手が生えているのを見つけた。
夏休みに入ってまだ間もない日の朝だった。それは赤ちゃんの手くらいの大きさで、草木の陰に隠れてひっそりと佇んでいた。まるで生まれたばかりのように瑞々しかった。お母さんに知らせるかどうか迷ったけど、結局言わなかった。僕だけの秘密だったんだ。
次の日から僕は観察日記をつけることにした。夏休みの課題として提出しようという思いもあったけれど、ただ純粋に興味が湧いていた。今までにこんな植物を見たことはなかった。これが本当に植物かどうかは怪しかったけれど。
よく見てみると手の表面に産毛のようなものが生えていた。本当に人の手みたい。天候によっても様子が変わって、晴れの日が続くと赤く日焼けしたようになった。いっぱい雨が降った後なんかはすっかりふやけてシワシワになってしまっていた。
その手は次第に大きくなり、一週間後には僕の手と同じくらいにまで成長した。僕は友達ができたような気がして嬉しくなった。僕は引っ越してきたばかりで、当然友達はいなかった。だからこんな長い夏休みの間でも遊ぶ予定はなかったんだ。
僕らは毎日一緒に遊んだ。
「じゃーんけーん、ぽんっ!」
遊ぶのは大体がじゃんけんだった。もちろんいつも僕が勝ってたけどね。
別の日には、近くに生えていた草で指輪を作った。それを指にはめてやると、なんとなく嬉しそうにしているように見えた。それは僕の気のせいだったのかも知れないけど。でも地味なあいつには、その指に飾られた花がとても似合っていて綺麗だった。
しかし、夏休みの終わりが後一週間ほどとなったある日、異変は起こった。手が目に見えて衰えてきたんだ。
刻まれる皺は増え続け、指も細くなっていった。僕はなんとかしようと思って、水も肥料もいっぱいやった。でも何の効果もなかった。その後も痩せ続け、僕はそれを見ていることしかできなかった。そんなあいつを見ているのは本当に辛かった。
そして、夏休み最後の日。
ついに手は枯れ果ててしまった。触れるとぼろぼろと崩れ始め、後には元「手」であったものだけが残った。それはまるで枯れ葉の屑のようだった。その日、僕は夜遅くまでひっそりと声を殺して泣き続けた。
それから毎年、夏休みになると僕は手を探し続けた。でも決して見つかることは無かった。
あれから十数年――今、僕の机の上には「手」の生えた鉢植えが置かれている。
足を揉む仕事を立ち上げて六年になる。狭い事務室にアルバイトの受付と僕の二人。料金は十分千円。男女問わず客がやってきて裸足になる。まず湯を張った桶で皮膚をほぐし、それからじっくり揉む。
足とひとくちにいっても一人一人がいろんな形の足を生きている。それは一枚の立体地図であって、外見は同じような女性も足の形に独自の生き様が彫られている、たとえば土踏まずだとか踵の滑らかさだとかを僕はよく観る。
他人の足の裏をつくづく眺める職業につくとは自分でも思っていなかった。仕事帰りの客の中には酷く臭気のこもっている人もいれば、初期の水虫の人もいる。油汗が滲んでいる同性の足を揉むときは一瞬抵抗が生まれたりする。ときどき、悪意の塊のような客も来て「どうしてお前はこんな仕事をするのだ」としつこく訊いてくる。
仕事初めの三年間は理想と比べてあまりに嫌なことしか見えてこなかったが、今は馴れてしまって、臭気は獣の匂いであり水虫は不運な病気であり、悪意の塊はそれはそれでかわいいものではないか、ここでしか発散できないのだ、と解釈するようになった。まあ、客に問題がある場合はなんとかなる。
しかし、自分に問題がある場合は簡単ではない。
今日の午後、あの人がくる。
彼女は足揉みに二時間指定してくる。僕が揉んでいる間、黙って本を読み続けているが、揉み方が単調だと溜息をもらす。部屋にかかっている流行ポップスに耳を傾けて露骨に怪訝な素振りを見せ、部屋の配置に不満そうな顔をする。置いてある雑誌には目もくれない。それは僕自身の品性に対しての不信感なのだと気づいた。
僕はそれ以来、大切なのはただ揉む技術でもなければ流行を用意することでもなくて、結局は僕の感性が試されているということに今さら思い至った。
実は今日、BGMはグレン・グールドの弾くバッハ「イギリス組曲」である。まずバッハを聴かねばならぬ、と思い立って乱聴した結果、これが一番よかった。気に入ってもらえるだろうか。壁紙や調度品のセンスは以前変わらぬままであるが店の千円札をピン札にした……。
時間通りに彼女がやってきた! 年齢不詳の、そこはかとない知性を裸足からも感じる。足の筋肉がやや張っている。歩いたのだろうか。グールドが流れはじめる。耳がぴくっと動いたような気がする! いつものように彼女は鞄からカバーのかかった本を取り出し、僕は仕事中は一切喋らない。僕はひたすら彼女の足を揉む。
イノウエが目を覚ますとそこは森の中だった。
ついさっきまで、大学の談話室でお昼を食べていたはずなのに。なぜ自分はこんなところで寝ているのだろう。第一ここはどこだ。どうみても大学の敷地ではない。かといってどこというアテもないが、およそ記憶にはない場所だ。
「少し、歩いてみよう」
考えて駄目なときはまず情報の収集だ。行動を起こさなければ何も始まらない。
すると一分も歩かないうちに人と出会った。
「あの、すみません」
「はい?」
「僕、あの、ここに来た記憶が無くて、それでどこなんでしょうか?ここは」
妙に小さな人だと思った。今の言葉で通じたのだろうか。
相手はしばらくイノウエの言葉を吟味するように沈黙し、そして応えた。
「あぁ、ここはププッカ王国のお城の庭さー」
イノウエはそこで初めて、話しかけた相手が巨大な卵の形をしていることに気づいた。
マリイはお城のテラスでお茶を飲んでいた。
「何か飲みまふ?」と聞かれたので「では紅茶を」と言ったら「コーチャーでひ」と出されたのが今飲んでいる、この水銀じみた妙な液体だった。
「味は、紅茶なんですけどねぇ……」
そんな感想を呟いていると。
「せんせ〜〜」
遠くの方から馴染みの声が聴こえてきた。無論、この異世界に来る前の馴染みである。
「マリイ先生!」
先生と呼ばれた女性は立ち上がってその客人を迎え入れた。といっても歓迎した者もまたここでは客人である。
「やあ、奇遇だねイノウエ君」
「数奇にも程がありますよ!どこなんですかここ」
「さあ、私にもさっぱり、ああでも多分」
マリイは振り返り、テラスから望む景色を眺めた。それはあらゆるものが黒い線で縁取られた、落書きのような世界だ。
「『こういう』世界なのでしょう」
イノウエが不満げな顔をしたが、マリイにもこれ以上のことは分からなかった。
手を叩けば山が震えるし、空を探れば雲が手に絡む。むしろ理解など必要が無い。
「あの〜、これからどうすれば?」
「どうって、帰るに決まっているでしょう。私の記憶では君のレポートだけまだ」
「帰れるんですか?」
「うん」
マリイはポケットから杖を取り出すとすぐに呪文を唱えた。
イノウエが目を覚ますとそこは森、ではなく見慣れた大学の談話室だった。
「そうか魔法で帰れたんだ!」
「ええ、『帰還呪文』今回のレポートのテーマです。幸運だね、君はこれで実体験を元にした考察が書ける」
「ええ〜」
「がんばりなさい、魔法大学は甘くないのですから」
河童の話を思い出そう。となるとそこにはまず祖母がいる。
いまだにそうかもしれないが、あの頃僕にとって祖母は随分異質な人物だった。いやむしろ、人というよりも春休みに見た映画に出てきた宇宙人と同じように感じていた気がする。
今思うとそれは単に老人の肉体の異質さからだったと思う。
汗だくになって外から帰ってきた僕と弟を祖母はいつも実家の薄暗闇の中に座ってむかえた。何もかもが白く見えるような外とのコントラストの極端さが、その暗闇に特別な意味を与えている気がした。
祖母は陰の中で眠っているかそうでなければ、眼鏡をかけて新聞を読んでいるのだった。
河童の話をしたのは祖母だ。
一体僕らを怖がらせたかったのか、いやたぶん何かで読んだ話を聞かせただけだったのだろう。しかし小学生の自由な想像力はたいしてディティールのないその話を膨らませ、十二分に僕を怖がらせた。
いつも僕らが遊んでいた川の淵にすむ、河の底と同じ暗い緑色をした河童。その顔は自然とどこか皺くちゃな祖母の顔に似ていた。
同じ夏、それから僕はその川で溺れた。
魚に夢中になってつい深追いしてしまったのか。突然流れが速くなり足を取られたと思うともう足がつかなかった。
自分を褒めていいだろうが、私は精一杯冷静だった。水をのんではいなかったし、それ程幅の広い川ではなかったから、普通に泳げばすぐに助かるはずだととっさに考えた。
だが同時に自分の想像を思い出した僕は心の底から小さく震えてもいたのだ。
そのとき、まるで恐怖の波に応えるようなタイミングで水の底から手が現われ、僕の小さな足を引いた。
僕は水で息を呑み、その足を蹴って蹴って、パニックに陥り、さらに蹴り、溺れながらまた蹴り、手から放れた事に狂喜し、水を飲んで気を失った…
何時助けられたのか分らない。気付くと僕は川の土手の上に座り込み、必死で水にむせ続けていた。
息をやっと整え、調度顔を上げたとき、何か不思議なタイミングでそこに母親の顔が在って、そして僕にこう叫んだ。
「ヨウジはっ、ヨウジは一緒じゃないの?」
弟は死体になって、翌日その川の下流で発見された。
僕の弟を河の底に引きずりこんだ河童。深緑色をしたそいつは、もう祖母の顔をしてはいなかった。幼い僕は彼の顔を記憶から消し去った。
弟と、弟と過ごした日々も一緒に。
今、僕が涙を流したいと思うのは、弟を好きだったことまでも忘れてしまった幼い自分のためだ。
そして弟のために。
川辺の砂利ところころと可愛い石ころを見つめて、クマのできた目をこすっていた。さらさらとはいかないけれど、健気に流れている川の匂いが微かに漂っている。私は今すぐにでも同化しそうなぐらいただ薄暗い夕暮れの川辺に佇んで、密かにまるく座っている。
虫がぶーんと飛んできた。ぶーんと私の周りをはしゃぎながら飛び去ると、興味は右上に見える石橋に向ったようだ。石橋には犬を連れてるだろうおじいさんが一人、のそのそと散歩をしている。おじいさんと犬なら、朝散歩すればいいのにと思うのは私だけだろうか。
おじいさんは立ち止まって川の流れを見ている。決して綺麗とはいえないけれど、この川を見ていたくなる気持ちは分かる気がする。昔からおとなしくてちょっぴり寂しい気持ちを抱いてきた。川の気持ちなんてわかるわけないくせに、そんなふうに思わせるのがこの川だ。それはきっとただ流れているだけの川だから。座禅を組んでいるような川だから、沿っている、そう思った。
中途半端に欠けた月が見え始めると、少し風が吹いてきた。私はますます縮こまって、より目立たなくなってしまった。少し寒い。肌寒いというのに、体は眠りたがっている。まずい。このまま寝たら逝ってしまうかもしれない。もう少し頑張って生きていたいので、私は目を見開いてみた。目の前にどんどん明るさを失っていく水面が映し出される。凹凸のない水面は緩くラップを張ったような感じだ。なんだか川に触れたくなった。
ゆっくりと立ち上がって川の流れを私の手で遮断してみる。冷たい。手の甲も平も違和感がたっぷりとしたが、それはちょっとした快感にも似ていた。川の水は特別なのかもしれない。
手の感覚が川の水に慣れてきて、調子に乗って手首まで浸からせたところでカップラーメンの容器が見えた。その瞬間一気に私の気持ちが萎えた。汚いよ。たんなる汚い水に変わってしまった。カップラーメンをここで食べるな。というよりゴミは持ち帰れ。
くぼんだ目がサインを出している。やっぱりここで寝てしまおうか。少し背中が痛いだろうけど、少なくとも私はこの川が好きだからなんとかなる。でもうつ伏せになってしまったらどうしよう、その前に仰向けに寝るつもりなのか。
さっきのおじいさんはやっぱり犬を連れて散歩していた。虫の音は何も聞こえなくなった。日暮れが刻々と進む中、川はそんなことなどどうでもよさそうに涼しげに流れている。
海岸を通ると、波打ち際に置かれたピアノの前に、男が座っていた。
呆然と遠くを見ている。
彼女が前に付き合っていた男で、偉い作曲家なんだそうだ。
「どうも」
会釈をして通り過ぎる。
「いらない」
彼女の誕生日に人形をプレゼントしたが返されてしまった。女の子はみんな人形とかそういうものが好きなのだろうと思っていたから人形を選んだのだが駄目だった。金色の髪の毛をふわりとカールさせた可愛い人形なのだが駄目なのだった。
デパートは今日も混雑していた。人形売り場が見つからない。まず人形を返品しないと。返品して、そのお金でなにかまたプレゼントを買わなければ。
「人形売り場はどちらですか」
「あちらです」
人形を抱えなおし、歩き続ける。インテリアコーナーを抜け、ケーキショップを通り過ぎ、そして本屋の脇を通りぬける。色とりどりの本の上には幾つかのレモンが置かれていた。
時計売り場のちきちきという秒針の音が遠くから聞こえる中、それは静かに佇んでいる。
人形売り場は見つからなかった。階段を昇るとそこは屋上だった。
間違って屋上へ出てきてしまった。
ごお。ごおお。
強く風が吹いている。そしてちかちかと瞬く黄色いネオン。いつの間にかもう夜だった。
人形を抱え、フェンスにもたれかかる。
ふと目をやった先に、古びたピアノが置いてあった。
鍵盤に触れる。音が鳴らない。何度打鍵しても音が鳴らない。
ピアノを思いっきり押した。そして屋上から突き落とす。
ピアノは大きな音を立てながら落ちていった。ついでに人形も。
「ははははははははははははははは」
がしゃーん。きん、がーん、がらーん、がーん、がしゃーん。
「はははははははは、予想以上に良い音がするじゃないか」
それは、本当に良い音だった。とても、良い曲だった。
気がつくと隣に男が立っていた。彼女の昔の彼氏だ。
「どうですか」
男に笑いかける。
「これから一杯、どうでしょう。おごりますよ」
金も無いのにそんなことを言い、男の肩を掴む。男はこちらを見ず、下をずっと覗き込んでいる。
「お願いしますよ。ね、付き合って下さい。良いでしょう」
男の体に身を寄せた。男はこちらを見ない。さらに身を寄せる。男の太ももに手を伸ばし、耳元で囁きかける。
がーん、きん、がん。ちき。ちき。かーん。
ピアノは落下し続けている。瞬くネオン。音はどんどん重なっていき、まだまだ鳴り止む気配を見せない。
先日、梅田の街を高みから眺める機会があって、この街をうんこまみれにした小説を書いたことを思い出したりした。あの話のなかの地下の公衆トイレというのは、紀伊国屋梅田本店から地下に入った阪急三番街のトイレのことで、そこで正体不明の巨大うんこを見たというのは本当の話なのだが、そこから先のことは当然作り話で、梅田の街がうんこまれになって流れていくということは実際にありはしなかった。それはもう当たり前過ぎるくらいに当たり前のことなのだけれど、この時見下ろした街に、うんこが流れ去ったあとの、一面白磁の野原と化した街が不意に重なって、その自ら幻視に驚くよりうっとりしてしまいそうになるほどだった。
そもそも便器というものは日常のなかにあって、とびきりの美しさを持っているのではないか。おしっこの飛沫やらなんやらですっかり黄ばんだ便器を懸命にこすって綺麗にしたことがある人ならわかると思うが、便器というものは、日頃うんこやなにやらを好きなだけ垂れ流しているというのに、手入れを怠らないでいれば、いつまでも白く輝いているもので、その白磁の美しさは、「永遠」という言葉が思わず頭を過ぎるほどであり、あの柔らかな、ほとんど女性を思わせる優美な曲線と相まって、神聖ともいうべき空間を日常のなかに与えてくれている。小説のアイディアなるものはしばしば排便中に思い浮かぶし、もっとも集中して読書できるのもトイレのなかである。これは便器のあの柔和な美しさと無関係であるはずはなく、人の体で最も丸みを帯びている尻をすっぽり納めるように出来ているのにも、機能美を超越した神憑り的な何かを感じてしまう。
マルセル・デュシャンが、便器に「泉」と名づけ、一箇の芸術品としたが、「泉」などと名づけるまでもなく、端から便器はそれ自体芸術であったのだし、なによりデュシャン最大の過ちは、大便器ではなくて小便器を持ってしたことである。うんこもおしっこも区分しない大便器こそ、便器のなかでもっとも美しい。デュシャンの便器におしっこをひっかけ、ハンマーで一撃した男がいたが、あの男はおしっこではなくうんここそ、そこにすべきだった。あるいはその男は、いざ実行の段になって、自らの下痢便うんこを恥じ、小便にしたとしたならば、もし、そうだとしたならば、あるいはその男は僕の魂の双生児であったかもしれない。
うんこの話のはずが、便器の話になってしまった。
夏休み前、体育教師は、筋肉の力でポータブルラジオを没収した。
力を合わせるということは、全員が同じポーズをとることではない。おれたちはそのことを知らなかった。南方からの太陽をズバリ浴びる形で35人全員が右斜め45度に顔の向きをそろえたとき、肩幅まで足を開いて左が下になるように腕を組み、平成生まれ総勢35人はこう言った。
「夏休み明け、必ずおまえに、」
「勝つ。」
おれたちは行動を開始した。
まずは教室の机をグラウンドに運び出し、机15個による奇跡の4段ピラミッドを構築する。そしててっぺんの机の上にさらに椅子をひとつ乗せ、その上にクラス一勉強ができる岸本を座らせた。このとき、おれたちの頭の中にはわっしょい、わっしょい的な気持ちしかなかったが、今思えばあれは確実にスペクトラルアートだった。さあ、苦しいのはここからだ。岸本のメガネのフレームは非常に電波を受信しやすい金属でできているとおれたちは信じていた。おれたちの計算どおりならば、お昼のラジオを受信した岸本は、腹話術の人形のようにラジオパーソナリティのセリフを一語一句違わずにしゃべりはじめるはずなのだ。止まらねえ。もう止まらねえよ。岸本のしゃべりが、止まらねえ。おれたちは少しでも電波を受信しやすくなるようにと、でかいうちわで岸本をあおぎはじめた。その間、岸本にエネルゲンを供給することも忘れない。
「くそ、ちっとも電波を受信しない。だめなのか。クラス一勉強ができる岸本でもだめなのか。」
「弱音を吐くな。」
「大丈夫、岸本はまだまだこれから伸びる子だといわれている。やってくれるさ。おれは確信している。」
ほんとうはおれたちが確信していたのは、力を合わせれば愉快にやれるさ、ということだった。