第58期 #10

例えば千字で刹那を

 振り返ってみると、俺が子供の頃に思っていたことは、もっと速くということだった。通学に要する時間をどこまで縮められるか、足腰を鍛えたし、通り道を検討したし、そこでの走り方も工夫した。それは朝に弱くて遅刻しそうだったからではなく、学校が嫌いで少しでも早く逃げたかったのでもなく、もっと速くと、ただそう思っていたからだった。
 同じ距離に対してより速くということの結果は、時間となって表れる。速度など計りようもなかったし、距離も調べたことはないのだが、今でも俺はその最短の時間を忘れずにいる。だから俺が求めていたのは、より高い速度ではなく、実はより短い時間だったのだろう。短い時間、いつしか俺はそれを追い求めるようになっていた。
 人間の目は十分の一秒程度のことしか見分けられないと言う。だから、ミルククラウンを観察するためには、時間分解能の高いビデオカメラで撮影してそれをスロー再生させなければならない。その映像は、訳もなく否応もなく俺を魅了した。この瞬間が、俺が純粋に短い時間に興味を持つようになった分岐点だっただろうと思う。ストップウォッチは百分の一秒単位の表示がされるし、陸上の短距離走の記録では千分の一秒単位まで計測されている。そんなことを俺は次々と調べていった。そしてもっと短い時間を、俺は探し続けた。
 今俺が研究しているのは、電磁波を用いての超短時間の計測である。電磁波はごく短い時間の周期で電磁場が変化する波であり、装置によって安定した信号を作ることができるものである。波であるのでその変化は連続であるのだが、これを仮にスイッチのONとOFFの繰り返しと見立てて、計測対象をONのタイミングごとに撮影したとすると、それは非常に時間分解能の高いビデオカメラとなる。必要なのはそのごく短い時間で撮影をし、記録する技術である。
 たったそれだけの間で何が起こるのか、と思うときもある。しかしたったそれだけの間で、例えば電気信号が世界中に情報を伝達していることは、起こっているのである。今俺が知っている時間よりももっと短い時間で起きている現象は確かにそこに存在しており、今俺の手が届かないもっと短い時間が、確かにそこに存在する。そのことが、堪らなくもどかしい。
 どれほど短い時間を、刹那と呼ぶのだろうか。どんな現象でも見ることのできるその刹那という時間に到達するまで、俺の研究が終わることはないだろう。



Copyright © 2007 黒田皐月 / 編集: 短編